第1話

文字数 7,929文字

熱っぽい風がゆるりと網戸の隙間から侵入して、床にへばりついている男の髪を揺らした。
汗でじっとりと湿った背中をぬるい温度が撫で、世川はゆっくりと瞬きをして取り戻した視力で無数の埃が空気中を舞っているのをぼうっと見つめる。目の奥が酷く痛み、目を開けていても閉じていても世界がぐるぐると回っているような浮遊感とそれに伴う悪心に襲われ、なす術もなくただじっと耐えている。もしかすると、回っているのは自分の方なのかもしれない。意識が散らかっている頭でそう考えるが、そうすると自分が今横たわっている床も、このこじんまりしたアパートも回っていることになんじゃないかと想像し、余計に嘔気が強まってえずいた。
カーテンレールが小さな音を立てる。タイヤがコンクリートを踏み潰して何処かへ向かっていく。世川の身体は頭の天辺から足の指先まで重たく、動かせそうもなかった。床と、床に接している自分の腹の境目がなくなりそうだ。眼球を動かして境目を確認しようとすると、白いシャツが赤を吸って変色していて、大きな血溜まりができていることに気がついた。
「一ノ瀬!」
世川が弾かれたように声を上げると、何やら寝言のようなものが聞こえて、暫くしてからギシギシと床を踏みしめながら骨っぽい足が近づいてくる。
「うわぁ。すごいことになってるな、お前」
「バケツを持ってきてくれないか」
一ノ瀬が寝起きらしい掠れた声で面白がっている調子で言うので、それには反応せずに吐き気と頭痛を抑えながらそう絞り出した。
「自分で持ってこいよ」
「動けないんだよ」
「そりゃ、貧血だろ」
けたけた笑い出した一ノ瀬は居間から引っ込み、やがて銀色のバケツをブラブラと揺さぶりながら戻ってくる。世川の目の前に底に赤い液体が溜まっているバケツが置かれ、持ち手と本体がぶつかりカランと安っぽい音が響く。礼を言って起き上がろうとしたがやはり身体は動いてくれなかったので、指先で一ノ瀬の足に触れると、面倒くさそうに眉を寄せてから肩を貸してくれる。伝わってくる体温に安堵しつつのそりと上体を起こして、バケツの中に左腕を突っ込んだ。パックリと裂けて、白くて柔らかそうな脂肪が覗いている手首から、とろとろした血液が線になって流れ落ちていく。赤黒くなったバケツの中の血と、まだ鮮やかに発色している血が混ざり合って一つの液体になるのを見ていると、心の底から震え上がるような歓喜が沸き起こった。
「そんなにしんどいなら、やらなけりゃあいいのに」
一ノ瀬の声が耳のすぐ上から降ってきた。顔を上げると、彼は目を細めながら世川の腕をじっと見つめていた。その声音からも表情からも、心配しているのではなく純粋に疑問に思っているだけというのが見て取れたので、世川は一ノ瀬の腕の中がどうしようもなく心地の良いものに思えた。
薄っぺらい胸に頭を預けていると、ふと、一ノ瀬の着ている黒いシャツの腹部が世川の血で濡れているのが目に入った。
「あ、ごめん、服が」
慌てて言うと、一ノ瀬は今度は自身の服をじっと見つめてから「黒いからわからねえよ」とのんびりと言い、大きく欠伸をした。そんな訳あるかと言葉を続けようとするとそれを遮り、
「なぁ、これはどうするんだよ」と床に広がっている血を指差した。
赤が密集し巨大な一個の塊となった血溜まりは、世川の目には、この世界のどんな色よりも綺麗で扇情的に映り、腹の奥から熱がこみ上げてくる。
「もったいないから、あとで拾うよ」
痛みと不快感と熱気に冒されながらもつれる舌を動かしてそう伝えると、一ノ瀬がまた笑い出したので、おかしな奴だなと思った。
湿ったシャツを風が通り抜けて、頬をゆるりと撫でる。その風が吹き込んでくる網戸の方に視線をやった世川は、そこで初めて眩しいほどの日の光が部屋に差し込んでいることに気がつき、一ノ瀬の腕の中でじっとりと汗をかき悪寒に襲われながらも窓の外へ意識を向けた。カラカラに乾きくすんでいた芝が光を浴びて黄金に輝いているように見えて、踊り出したいような気持ちになる。バケツの中にポタポタと音を立てて落ちていっていた体液はいつの間にか動きを止めていて、傷口には溶け残った絵具のように粘度を増した血がへばりついていたため、のろのろと生白い腕を持ち上げて光の元に晒してみると、色を濃くし黒々としていたヘドロのようなそれも日差しを取り込み瑞々しく透き通る可憐な赤色を取り戻したのだ。
「いい天気だね」
感動を声に出せば、ぼうっと世川に視線を落としていた一ノ瀬も顔をあげ四角く切り取られた世界を細めた目で眺めていて、毛先があちこちに広がっている髪を揺らめかせながら大袈裟に空気を吸い込んで「そうだなぁ」とうっとりと陶酔し切っている表情で感嘆した。一ノ瀬は同性の世川から見ても酷い男であり、粗悪であり、低劣であり、あまり感情と言うものを持っていなさそうな奴のくせに、自然を感じては一々本気で喜んだりもする。
唾液を飲み込むたびに脈打つ一ノ瀬の喉仏に影が落ち、その上を透明な滴が滑り落ちて、骨張った鎖骨をゆっくりと這ってシャツの襟首に吸い込まれていった。飽きずに外の天気を眺めている男の輪郭は焼けるような陽を受けて彼の端正な顔立ちをより一層引き立たせており、その肌に直に触れて形を確かめたくなったが、世川は自身の手のひらまで血で濡れていたため、また、シャツ越しに触れている胸や腕から伝わる体温で昨晩の一ノ瀬の温度が徐々に蘇ってきて気恥ずかしくなったため、指先はただ宙を掻いた。
一ノ瀬がくあと大きな口を開けて、大きくゆっくりと息を吸い込んで吐いた。昨日は世川の方が先に寝入ってしまったため彼が何時ごろに寝たのかは知らないが、放っておけば何時間でも何日間でも寝続けていられるらしい一ノ瀬はあと二秒もすれば眠ってしまいそうに目を細めて、しかし視線は相変わらず外に向けられている。
世川はその様子を見て、昔家に住みついていた猫がじっと外界を見つめていた愛くるしい横顔を思い出した。そうしてはたと、自分の腕にしたたる血に視線を移して、彼を起こして呼び寄せた目的を思い出して声をあげた。
「外に行かなくちゃ」
「はぁ?」
おだやかな表情を崩した一ノ瀬はすっとんきょうな声を出して世川を見た。
「そんな調子でか、どうして」
「せっかく天気が良いんだから、これを……」
バケツに手を伸ばすと、一ノ瀬は一度細い目を丸くしてから笑い始めた。
「本当にわけのわからない奴だな」
言いながら世川の身体を起こしてやった一ノ瀬はぺたぺたと素足で床を歩き台所に立ち、換気扇のスイッチを入れてガスコンロの脇に置いてあった赤い箱を手に取る。そこから一本の煙草を抜き取って火をつけた。世川は煙草を吸わないので、これは一ノ瀬専用のキャビンのボックスだ。世川の家の食器棚の奥で埃をかぶっていたガラスのコップのふちでトントンと叩かれ、コップの中に落ちていく灰を見つめながらぐらつく頭で立ち上がる。
身体が地面に引っ張られているようなだるさと、血管を流れる血液が全て足元に落ちていくような感覚に目を閉じてとにかく足を踏ん張って耐える。足の裏も手のひらも汗でぬるついた。猛烈な睡魔と今にも胃がひっくり返って内容物を全てぶちまけてしまいそうな吐き気に襲われる。窓から差し込む陽が、行く手を阻むようにも外界へと歓迎しているようにもとれて、目が眩む眩しさと対峙しながらじっと悪感が去るのを待ち、バケツに手を伸ばした。
全体の三分の一ほど血液が溜まっているバケツはなかなかに重たく、少しでも力もうものならば意識を飛ばしてしまいそうな世川が外へ持ち出すのは無理があるように思えた。
「おい、大人しくしていた方がいいんじゃないか」
一ノ瀬はその言葉と一緒にぷかぷかと煙を排出し、換気扇に吸い込ませた。
「今がいいんだ。陽が落ちてしまったら……」
「七月だぜ?そんなすぐに暮れやしない」
「でも」
季節は真夏であるし、今何時ごろかは時計のないこの部屋では確認のしようもなかったが大方昼過ぎだろう。もう少し経ってからでも問題はないということはわかってはいたが、世川は今すぐにバケツを手に外に行きたくて仕方がなかったのだ。世川は、一度思い立ってしまったらそれをすぐにでも実行したくてたまらなくなるのだ。他の物事なんて手もつかなくなるほどに。
短くなった煙草を水道水にあてている一ノ瀬を見ていたら、そういえば彼と共に昼の屋外に出たことがないということに気がついた。彼と出会ってもう数ヶ月は経つが、大抵顔を合わせるのは夜の街か連絡もなく世川の家に訪ねてくる時くらいで、翌日もさっさと一人で帰っていってしまうため自然光の元にいる一ノ瀬というものを世川はたったの一度も見たことがなかった。
「一ノ瀬も、一緒に行かないか」
思い切って誘ってみると彼はきょとんとした間抜けな面で世川を見、それからバケツに視線を移した。そうして無表情に「遠慮しておく」と言って、再び換気扇のスイッチを推した。ごーごーという音が止んで部屋が静まり返り、聞こえてくるのはさっきからずうっと続いている耳鳴りだけとなった。大学の友人である愛美が「セフレがデートしてくれない」と嘆いていたことを思い出し、その話を聞いた当時はセックスフレンドなんだからそりゃそうだろうと思っていたが、なるほどこんな気持ちなのかもしれないと冗談半分にだが思えた。
もしかすると、荷物持ちをしてくれという意味に捉えられたのかもしれない。そう気づいて弁解しようとしたがどうにも女々しくて情けない気がしたので、窓辺に腰を下ろしてまどろんでいる一ノ瀬を横目に、汚れたシャツを隠すため薄手のパーカーを引っ掴んで羽織り、卒倒しそうな思いでバケツを持ち上げ、あまり存在意義の無さそうな木製のドアを押して部屋を出る。先ほどよりも調子が良くなったのか、それとも気分の悪さに慣れてしまったのか世川には判断がつかなかったが、熱光線に突き刺されながらもつれる足を必死に動かした。
時折、視界がぼんやりと白らんでどわっと汗が噴き出した。たった五百メートルほどの距離が、一生たどり着けないのではないかと思えるほどいやに遠くに感じられた。途中ですれ違った男が不思議そうに世川を見ていた気がするが、気にしていられる余裕も持ち合わせてはおらず、ぐらぐらと揺れる身体をなんとかコントロールして、歩いて歩いてひたすらに歩いて、やっと目的の公園に足を踏み入れることができた。
公園とは言っても、老朽化して「危険」と書かれた紙が貼り付けてある崩れかけのベンチと、錆び付いて全体が赤黒くなっている鉄棒と、水が出るのかわからない水道と小さな砂場があるのみで休日の昼だというのに人の気配は微塵もなかった。世川が幼い頃はまだ近くに駄菓子屋があったため子供たちのたまり場となり栄えていたのだが、廃業してからは段々と人の足も遠のいていき、ついには人々に忘れ去られたかのようにひっそりと衰退の一途を辿っている。一方で、公園の一角にある小さな花壇だけは今でも誰かが熱心に手入れをしているようで、黄色、赤、桃色、白など色とりどりの花たちが生き生きと花弁を広げていた。マリーゴールドくらいしか名前はわからないが、数種類の可愛らしい花が各々気持ち良さそうに風に揺られ、生を全うしている。
世川はその綺麗な花びらを汚さないように十分な注意を払って、柔らかそうな土の上でバケツを傾け、数日かけて溜めた自分の血をゆっくりと花壇に注いでやった。血は、土と緑色の茎を赤黒く染めたのちに、じわりじわりと乾いた茶色の中に染み込んでいった。世川は気分の悪さなんてものをすっかり忘れて、三つの列に別れて植えられている花たちに満遍なく血液を撒いた。全列の土が色を濃くし、かつては世川の身体の中を巡っていた体液をみるみる吸収していく様は自然界が何者も拒まずに全てをありのまま受け入れていくように見えて、空になったバケツを手にしばらくの間恍惚として立ち尽くしていた。
自傷した際に溜めた血液をこの公園の花壇に撒くのはもう十年以上続いており、世川にとっては習慣のようなものになっていた。それはこの花壇から植物の姿が消える冬でも秋でも季節に関係なく行うのだが、やはり春と夏は太陽の光が血の色を一層鮮やかに見せてくれるため、また、自分の血を養分にして咲いた花の色が発色の良い特別なものに思えて、自分の肉を切ってはバケツに血を溜めてせっせと公園まで運び血を撒くという行為を繰り返しているのだ。
ふと視線を感じて顔を上げ、花壇とは対の方向にある崩れかけたベンチの方に目を向けると、その後ろにあるフェンス越しに中年の女が青いホースを片手にこちらを見ていて、目が合った途端に慌ててそっぽを向き自宅の庭に水を撒く作業を再開した。あるいは、再開するふりをした。世川は、この女のことをずっと昔から知っていた。
世川がまだ母親と暮らしていた頃から、この女はここに住んでいた。近所の同年代の主婦らと近隣住民の噂話を好んでするような下品でくだらないおばさんだと、幼い世川の目には映っていた。母のことを股の緩い女だの、息子に暴力をふるって自分は男を男を漁り放題しているだの、若い頃に子供を作ったはいいが男に捨てられ育児放棄をしているだの、母がこの近辺に馴染めていない(馴染む気もなかったと思うが)のをいいことに好き勝手に言いふらしていたグループの一人である。それらの話は全て紛れもない事実だったが、世川はたった一人の肉親であり大好きな母を悪く言われるのが非常に腹立たしく、幼心に彼女達を軽蔑していたのだ。
「こんにちは」
空っぽになったバケツを腕にぶら下げながら少し距離のある彼女の方へ声をかけると、さも今気づいたかのように顔をこちらへ向けて自然な笑顔を浮かべながら挨拶を返した。世川もうっすらと笑顔を作って(少なくとも作る努力はして)湿った花壇を一瞥し、一ノ瀬を置いてきた家に帰るために歩き始めた。その間も女の視線が背中に突き刺さっているような気がして、今頃になって心臓がとくとくと騒ぎ始めた。もしかすると、血を撒いているところを見られてしまったのかもしれない。どうしようもない衝動と興奮が落ち着き冷静になってくると、世川はいつも後悔の念に駆られる。誰かに見られていたのではないか、母のように自分も噂されているのではないか、頭のおかしな奴だと思われているんじゃないかなど、思いつく限りの恐ろしい可能性が自分を責め、「普通の人間」の枠から追い出される想像をしては恐ろしくて恐ろしくて堪らなくなるのだ。
どうしてこんなことをしてしまうのだろうか。もうやめなくては。すっかり冷えた頭でそう考える。帰り道に急速に心が萎えてくるのはいつものことで、その度に自分は犬や猫なんかよりも学習能力が低く、理性がないのだと絶望する。
早まる心音に追い立てられながら小走りで自宅まで引き返しドアを開けると、もわっとした熱気と、ほこりっぽい匂いに混ざったキャビンの香りが広がり、ドアの外までこぼれた。
玄関にはまだ世川よりもサイズの大きなスニーカーが転がっていたので、なんとなく安心した。バケツを持って部屋へ上がると一ノ瀬が窓辺で胎児のように丸くなって寝そべっていたので、物音を立てないようにそおっと流し台に近づいて蛇口を捻り、バケツの底にうっすらと残っている赤を水道水で洗い流した。
今度こそこんなことをしないようにと、水気の残っているバケツをそのまま部屋の隅にあるタンスの奥に突っ込んだ。タンスの中には、母が住んでいた時に無造作に入れていたらしい壊れた掃除機やお菓子が入っていた缶などが埃を被っていて、瀬川は毎回毎回洗ったバケツをその奥に詰め込んで二度と取り出さないと誓うのだが、結局何日かすると我慢が出来なくなりタンスの中を漁って使い古したバケツを引っ張り出してしまうのだった。
自分は、どこかおかしいのだろうか。一瞬だけ見えたフェンス越しの女の厭な視線を思い出しながら、腕にこびり付いたままだった乾いた血を落とすためにもう一度蛇口に手をかけると、後ろから「気は済んだかい」と声。振り向くと、仰向けになってこちらを見ている一ノ瀬と目が合ったため、手を止めた。
「うん、ごめんね」
「いいよ、もう慣れたさ」
猫のように手の先から足の先までをぐんと伸ばしながら、一ノ瀬はのんびりと愉快そうに言って、赤く染まったタオルをぽいと投げて寄越した。
「床、拭いといた。どれ使えばいいかわかんなかったからテキトーに洗面所から持ってきたけど」
「ああ、ありがとう」
確か、隣の家に住む夫婦が越して来た時に持ってきたなんだか値が張りそうなタオルだったが、まぁ気にするほどでもない。床に寝転んでいる一ノ瀬の元へ近づき、血をたっぷり吸収して重たくなっている真っ赤な布を拾おうとしゃがむと、一ノ瀬の冷たい指が世川の手に触れた。
「痛くないのか?」
人差し指が、まだ血が固まり切っておらず赤が潤んでいる手首の傷をそろそろとなぞった。ぴりっとした鋭い痛みを感じて、それをキッカケにひりつくような滲むような痛みを思い出した。自傷行為に慣れてしまったためか、痛みを感じていること自体を忘れてしまっていた。
「痛いよ、もちろん」
「痛くて具合も悪くなるのにな」
一ノ瀬が顔をしかめて世川の傷跡だらけの腕を見る。皮膚がくっついたそばからまた切ってを繰り返しているため、肉がぼこぼこと盛り上がっていて、何度も縫い合わせた人形のように醜い。自分の汚らしい部分を一ノ瀬に直視されていると思うと急に羞恥が湧いてきて、タオルに吸われた血液が全部戻ってきたのではないかと思うほど顔が熱くなり、腕を引っ込めるか今すぐ消えてしまいたくなった。
「いつもバケツどっかに隠してるけど、意味ないだろ」
世川の気なんて知りもしない一ノ瀬がくすくすと笑う。全く持ってその通りで、心臓がぎゅうっと縮み上がって手のひらが嫌な汗で湿るのがわかった。恥ずかしい。こんな気持ちの悪い習慣を、そしてその習慣を辞めたくとも辞めることができずにいる世川を一ノ瀬も軽蔑しているのだと思ったが、彼の表情を見るにこの言葉に何か含みがあったわけではなく、ただ事実を述べただけらしかった。
「貧血にはレバーとほうれん草がいいらしいぜ」
一ノ瀬はそう言って世川の体温が伝染して少しぬくもっていた手を離し、一度外に目を向けてからのっそりと立ち上がった。からかわれたのか本気なのかはわからなかったが有益な情報であることには変わりないので、頭の中に「レバー」と「ほうれん草」をメモしておく。
それから先ほどまでの自分の目的を思い出して、流し台で腕にこびりついた血を洗い流した。熱を持った皮膚の上を、ぬるい水が滑り落ちていく。治っていた傷口の裂かれるような痛みが再び現れて、じくじくと脈を打つように広がる。びしょ濡れになった腕を手近にあった布巾で軽く抑えて水分を吸い取っている間に一ノ瀬は帰り支度(と言っても、ほとんど中身の入っていない軽そうな財布ぐらいしか持ち歩いていないが)をしていたようで、
「じゃあまた」
と言って底のすり減ったスニーカーに足を突っ込んだ。彼がこのあとどこへ行くのか、誰に会うのか、何をするのか、そもそも普段は何をしている人間なのか、瀬川は何一つ知らない。ただ、近いうちにまた会うということだけが確かであった。世川は特に引き止める理由も権利も持ち合わせていなかったため「じゃあ」と痛みの強く重たい腕を持ち上げて、刺すような日差しの元へと出て行ってしまう一ノ瀬の厚みのない背中を見送った。





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