第2話

文字数 6,074文字

黒地に白いラインが入っている面白みのないスニーカーで階段を上る。トントンという単調な音といくつかの話し声が両の耳から侵入し、少しだけ息が上がった。踊り場の窓から差し込む光がやけに眩しくて、世川は目を細める。一限が始まるまでまだいくらか時間があるためか、校内にはまばらにしか人がおらず、生徒でごった返している時の喧騒を思い返すと同じ建物とは思えないほどひっそりとしている。まだ活気に満ちていない、朝のまどろみのなかにいるような校舎が、世川は好きだった。ゆっくり呼吸をしても誰にも責められない。足並みを揃えたり、上手く笑ったり頷いたりしなくても存在を許される。そんな気がするからだ。以前、それを一ノ瀬に伝えてみたら、「お前の言うことは難しいよ、人間だものの人みたい」と眉を八の字にしていた。相田みつをのことらしかった。詩人みたいだと言いたかったのだと思う。
髪を無意味に撫でつけてから講義室に入ると、既に何人かが点々と散らばって座っていたため、その誰とも近づきすぎないよう後ろの方に席を取る。室内では空調と自分の呼吸音くらいしか音が発生しておらず、余計な物音を立てないようにじっとしていなければならなかったが、最後列に突っ伏した女がいびきをかき始めたことによりあまり気にしなくても良くなった。
始業の数十分も前から講義室に来る生徒なんていうのは、世川のように地味で生真面目そうな見た目の悪く言えば野暮ったい感じの人種か、夜通し遊んだついでに単位を取りに来た人種かに分かれる。後者の鼻を鳴らして眠っている彼女が連れてきた甘ったるい酒の香りがふわりと鼻の辺りを漂う。なんとなく、静謐な朝を汚されたような気分になったが、名前も知らない彼女の身軽さに憧れる気持ちと、前日の十一時には教材などの準備を終えて眠りについた自分を恥ずかしく思う気持ちも湧いて来るのを感じた。
机の上に置いた青白く不健康的な手の爪の先をぼうっと眺めていると、シャツの袖口のボタンが止まっていないことに気づき、慌てて、しかし出来るだけそれを表に出さないよう自然な動作で左右のボタンを二つずつとめた。無数の傷を隠蔽した世川は、講義の始まる時間が近づいて人口密度の増した部屋の中で、自分がそれらの中になんら問題なく溶け込んでいくのをかんじ、小さく息を吐いた。教授がのそのそと教材を抱えて入室し、かったるそうに教卓に荷物を置いて室内を一瞥したあと、マイクの電源を入れて態度とはちぐはぐな滑らかな声で喋り始める。音大の声楽科で教鞭を執っていそうな低くて心地の良い声音だが、彼の受け持つ科目は日本国憲法だ。
全く興味のない政治の仕組みを説明する彼の声が、世川のまぶたをとろりとろりと重くしていく。後列の女のいびきはまだ聞こえていた。自分の意思に反して降りてくるまぶたと格闘していると、廊下からぱたぱたと慌ただしい足音が近づいてきて、それが室内に侵入し、すぐ近くで止まった。誰なのかは顔を上げて姿を確認する必要もなくわかった。
「おはよ」
息を切らした細身の青年が声を抑えて言い、世川の隣に座る。まぶたが持ち上がった世川も、小さく返事をする。
「おはよう、寝坊?」
「寝坊。起きて五秒で家出てきた」
全力で駆けてきたのだろう宮田という名の男は、呼吸を整えながらそう返す。人懐こい笑みとはぁはぁと忙しなく漏れる呼吸音、それから脱色した栗色の頭髪が人馴れした大型犬を想起させた。
「お前が一限に間に合ったの見たことないんだけど」
前の席の短髪の男が宮田の方を振り向いて、茶化すような調子で言った。世川は彼と面識がないため名前はわからなかったが、宮田は親交が深いのか「それは言い過ぎだろ、一回くらいある」と間髪入れずに返した。周囲から微かに笑い声が聞こえて、だれていた室内の空気がふっと軽くなったような気がした。
「そこねえ、お話ししたいのなら食堂といううってつけの場所があるよ」
独特な言い回しがマイクを通して響き渡って、短髪の男は慌てて前へと向き直った。教授の細くて白目の比率が高い目と視線が合いびくりと肩が跳ねたが、ことの発端である宮田は悪びれる様子もなく「すみません」と気の抜けた形だけの謝罪を口にして寝癖を手ぐしで直している。
教授が再び政治のあれこれを解説し始めると、彼は「怒られちゃったよ」と世川に耳打ちをした。
「しぃ」
世川が唇の前で人差し指を立てると、宮田は日光で見た三匹の猿の右端の奴みたいに大袈裟に口元を手で抑えてようやく静かになった。彼と仲良くなったのは、全くの偶然であり、そして幸運であった。入学式の日にたまたま隣り合わせて座っていた世川に彼が話しかけてきた、ただそれだけのことだった。あの日もし全く別の場所に座っていたら、自分は宮田のような人種とは一生関わりを持つことがなかったのではないか。世川は、同級生からだけでなく先生や保護者達からも冷たい目を向けられていた小中学生の頃や、上手く周りに溶け込むことが出来ずに宙ぶらりんのまま終わった高校時代を思い出すと、宮田やその周囲の人間が自分を受け入れてくれていることを奇跡だと思うのだった。
そう、奇跡だ。宮田のような誰とでも仲良くなれる、生きることを当たり前のように肯定されているであろう人間が、自分と行動を共にしてくれていることが。顔を合わせると挨拶をし、何でもない雑談を交わせる友人が複数人いることが。多分これが普通の学生の普通の学校生活なのだ。近隣住民や小学校の先生が幼い自分に向けた、あの嫌な目つきを思い出す。
「世川さ、暑くないの?これ」
宮田が声を潜めて言い、世川のシャツの袖をつまむ。色素の薄い澄んだ瞳がこちらを見つめていた。
この室内で未だ長袖を着ているのは、世川と、それから教授だけであった。
「ちょうどいいよ、大学の空調きついからさ」
「ええ、俺見てるだけでも暑いのに」
用意していた答えを返すと、宮田は特に不審には思わなかったようで手のひらで自身をぱたぱたと煽ぎながら前方へ向き直った。彼に知られるわけにはいかないのだ、この袖の中身も、おかしな習慣も、家庭環境も、全て。せっかく起こった奇跡を自らぶち壊すなんてことは絶対にあってはならない。世川は誰にも聞こえないように薄く薄く深呼吸をして、湿った手のひらを強く握りしめた。女のいびきはいつの間にか止まっていた。

二限の真っ最中の食堂には、思ったよりも人がいなかった。喉が乾いていたためメロンソーダを買って紙コップに口をつけながら確保した席へと戻ると、宮田ともう一人山形という男がそれぞれペットボトルのお茶をテーブルの上に置いて喋っていた。月曜日の一限が終わると三限まで時間を持て余す三人は、校内か学校近辺で時間を潰すのがお決まりとなっていた。今日は宮田があまり動く気がなさそうだったため、一限の講義室から最も近い食堂が憩いの場として選ばれたのだ。
世川が対面に座ると山形は紙コップの中身を見て、「何それ?」と言う。
「メロンソーダ」
しゅわしゅわと炭酸の玉が弾ける緑色を見ながら答える。
「子供かよ」
「なんで?」
「女子供が飲むものだろ」
そうだったのか。と、世川は驚いた。確かに、周りの男子生徒はお茶とか水ばかりを飲んでいる気がする。一緒にいる時間の長い宮田や一ノ瀬には言われたことがないため、気づかなかった。
「そんなことないって。お前は自分が炭酸飲めないだけだろ」
宮田がそう指摘すると、山形はずるずるともたれ掛かっていた椅子の背もたれから身を起こして座り直し、生き生きとした顔つきになった。
「じゃあさ、飲み会でカシスオレンジしか飲まない男がいたらどう思うよ」
「別に、なんとも」
「嘘つけよ。女々しい男だなって思われるぜ。女だって絶対トイレで馬鹿にするね。『あいつカシオレばっか飲んでんだけど~オカマなんじゃないの~』とか言って」
「好きなもん飲んでいいじゃん。あとお前、女への偏見がすごいよ」
二人がポンポンと会話を広げていく。世川が「そもそも僕らはまだお酒を飲んじゃいけない歳だよ」と口を挟んでみると、山形に「今そういう話してない」と言われてしまったため、黙って女子供の飲み物とやらを飲む。わざとらしい甘さと炭酸の刺激が口の中に広がる。美味しい。
「宮田は皆にいい顔しすぎだろ。よそ行きの意見って感じ」
「お前がめんどくさすぎるんだって。人が何飲んでるかとかどうでもいいじゃん」
「空気があるだろ、その場の空気がさ。サークルの飲み会でカシオレとかカルーアミルク飲んでる男がいたら、変じゃん。『うわ』ってなるじゃん。空気読めてないんだよ」
「女だったらいいわけ?」
「女だったら可愛いだろ。全然あり」
「なんだそれ」
宮田が疲れたようにため息をついた。
「何を飲んでいたら普通ってことになるの?」
結露でふやけた紙コップを握った世川が尋ねると、山形は日に焼けた腕を組み視線を斜め上にやってわかりやすく考えるポーズをとった。
「そりゃあ、ビールとかハイボールとか、焼酎割りとかだろ」
「それを飲んでたら、普通?変じゃない?」
「全然変じゃねえよ」
「そうなんだ」
世川は大人数での飲み会というものにほとんど参加したことがなかったが、今後機会があったならば山形の言うどれかを頼もうと心に決めた。それから、カシスオレンジとカルーアミルクだけは絶対に頼まないようにしよう。メロンソーダも今後は飲まない方がいいかもしれない。
頬杖をついて世川と山形を眺めていた宮田が、ふと視線をあげた。視線の先は世川の背後に向けられていたため何事かと振り返ろうとすると、それよりも早く後ろから声が降ってきた。
「何、変な話してるの」
高い、女の声だった。
「新島さんじゃん」
山形の声が一オクターブほど上がるのがわかった。今度こそ首を捻って確認すると、色が白く目の大きいフランス人形の髪を黒く染めたような容姿の女が立っていた。面識はないが、目立つ容姿をしているため名前は知っている。
「山形くんだっけ?あと……」
新島は山形に笑いかけた後、世川に目線を移して口を噤んだ。それが名乗ることを促されているのだと気づくまでにだいぶ時間がかかってしまったため、先に宮田が「そっちは世川」と答えてくれた。「世川くんか」と呟く彼女は、どうやら宮田と仲が良いようだった。同年代の女性との会話にあまり慣れていない世川は、彼女が真っ直ぐに向けてくる大きな目から逃れるように紙コップを凝視した。
「なんだか盛り上がってたみたいだけど」
「新島さんは、飲み会でカシスオレンジ飲む男ってどう思う?」
山形が食い気味に言う。先程の話題に対する彼女の意見を知りたいようだった。
「カシオレ?」
「そう。他の奴が生とか飲んでるのに、カシオレとかカルーアとか飲んじゃってる男」
新島は一度まばたきをした。盗み見るようにその様子を見上げていた世川は、彼女の上向きにカールしている黒々としたまつ毛に目を奪われた。真っ白い肌によく映えていて、綺麗だった。
「どうって……、なんとも。甘いの好きなのかなーって」
彼女は柔らかい笑みを絶やすことなく、甘党な男の人って珍しいよねえと続けた。その返答は山形の予想したものとは全く違ったようで、彼は眉を寄せて口をへの字に結んだ。世川は、この中で一番思ったことが顔に出るのは山形だろうなと思った。
「ださくねえ?カクテルばっか飲む奴」
つまり山形は、最初からこれを言いたいらしかった。それを聞いた新島は破顔する。
「そうかな?ださいとかださくないとか気にして飲んでる人の方がださいと思うけど」
にこにこと可愛らしい笑顔を浮かべた彼女の口から出た言葉はその顔に似合わず辛辣で、山形と世川はただ黙って彼女を見上げることしかできなかった。
「二対一だな」
それまで静観していた宮田が口を開く。
この話をこれで終いにしようとしているのが世川にもわかったため、何か次の話題でも提供しようと考えを巡らせていると、山形が「じゃあ」と言って世川の持っている紙コップを指差した。
「メロンソーダ飲む大学生ってどうよ」
世川はまたもや驚いた。ここでその話題を蒸し返されるとは思ってもいなかったのだ。初対面の女子、しかも新島に大学生にもなってメロンソーダを好んで飲む男だと思われるのが無性に恥ずかしく思えた。
「山形」
宮田が声を尖らせる。山形は意地になっているようだった。拗ねた子供のような顔をしていた。この三人で話していると度々起こることなのだが、宮田と山形はあまり相性が良くないらしく、険悪な雰囲気になることがよくあった。その度に世川はただ一人であわあわと慌てるだけで何もできないのだ。今回も、空気がひりひりしてくるのを感じて何か言おう何か言おうと思うが、やはり何も出てこない。
「メロンソーダって、全然メロンの味しないよね」
調子はずれなことを言ったのは新島だった。真剣な顔をして紙コップの中を見つめている。
「確かに、そうですね」
そう答えたのは世川だ。
「変だよねえ」
彼女が笑ったので、世川もぎこちなく笑った。言われてみれば、メロンソーダにメロンの要素を感じたことなんてない。強いて言えば緑色な点くらいだ。小さい頃に「これがメロンソーダだよ」と言われて、「なるほど、これはメロンソーダなのか」と馬鹿正直に受け入れて、何の疑念も抱かずに二十年近く生きてきたことになる。刷り込みとは恐ろしいな、と世川は思った。
「イチゴシロップとかもそうだよな、かき氷の」
宮田が言う。確かに、あれもいちごの味を感じたことは一度もなかった。世川はだんだんと混乱してきた。世の中にはそういう疑問に思うことを忘れてしまった事柄があといくつくらいあるのだろう。
「あ、さっきのお酒の話だけど」
すっかり弛緩した空気の中で、新島が手を引っ込めて黙りこくっていた山形の顔を覗き込んで言う。
「私は強いお酒が好きだから、飲むとしたら甘党の人より山形くんとのが楽しいだろうな」
「え、そうなの?」
「うん。見かけによらずでしょ」
山形はわかりやすく嬉しそうな顔になった。彼が犬だったら尻尾をぶんぶん振っていたに違いない。そう考えると、宮田よりも山形の方が犬っぽいのかもしれない。感情が読みやすい分、宮田よりも犬に近い気がする。
山形と一言二言交わした新島は、「じゃあ、またね」と手を振って食堂を後にした。去り際に世川に「メロンソーダ美味しいよね」と耳打ちすることも忘れなかった。柑橘系の香りが彼女の居た場所に残る。
「すっげえ可愛いよな、新島さん」
山形が、今までの会話なんて全部忘れてしまったかのような溌剌とした笑顔で言った。
「しかもすごい良い奴」
「お前さ、新島さんと付き合ってたりしないよな」
「は?俺が?無い無い」
「新島さんがお前を好きとかいうパターンは?」
「無いって。何言ってんのお前」
宮田が心底おかしいというふうに笑ったが、山形は極めて真剣な様子だった。それがさらに面白かったのか、宮田は一人で笑い続けた。世川は二人の会話を聞きながら、熱の抜けない耳たぶを人差し指と親指でずっと抑えていた。

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