S・ストールン③

文字数 1,965文字


 雀は金剛樹の根元を跳び出す。
 草原を駆け下り、ガラス芦原を通り抜ける。
 Sに突撃し、身振り手振りも交えてコミュニケーションを試みた。
 Sは驚いてびくりと体を伸ばし、踵を返して逃げ出す。
 ガラスの葦に弾かれて、ピンボールみたいにあちらこちらにぶつかっては音を立てる。

 青空によく響く高音だった。

「どうだった?」

 雀が小丘に戻ってくる。
 大喜びのパイたちにべったりつけられたフィリングに閉口してか、眉根を寄せていた。
 翼の乱れが気になるらしく、羽繕いを欠かさない。

「駄目だった。
 ……やっぱり、アルファベット諸氏とアップルパイが手を結ぶのは、無理がないかな?」

 僕は肩を竦める。正しさを証明したかったわけじゃない。

「かもしれないね」

 雀が得意顔を浮かべる前に、すかさず続けた。

「だけど、作中通りQが悪者だからといって、それを殺し、大喜びする態度はいかがなものかと思うよ」

 秋の枯れた風が西から吹き、夏の爽やかな風が東から吹く。
 小丘でぶつかっては二匹の龍の如く絡み合い、削り合い、喧嘩を始めた。
 混ざることはない、分け合うことはない。

「そこに疑問を抱かないように、絶対的な悪としてQを描いていることにこそ、お伽噺の危険性が象徴されている。
 悪でなければ、悪と思われなければ困るから、悪のように描いているだけで、描かれていない善はいくらでも想像できる。

 家族や友人とはよく笑うのかもしれない。
 見知らぬ誰かが困っていたら、手を差し伸べるQかもしれない。
 昔、理不尽なアップルパイに大切な人を惨殺されたのかもしれない。

 お伽噺に描かれたことだけで、その人となり、道徳性を語るのは危険だ。
 現実か否か、判定し警戒すべきなんだ。
 なぜなら、歪んでいるから。
 それを理解せず、盲目的にお伽噺を肯定してはならない。
 君は……、ワンダーランドの住民は、その辺の認識が甘い。

 溺死したQの痛みを想像して。
 自分にとって悪だからと救わなかった、子ども達の無邪気さに怯えて。

 でなければ、僕らと同じ轍を踏むことになる」

 夏風がたっぷり含んだ水蒸気で秋風を潤す。
 秋風は低温で水滴に変えていく。
 気温と湿度が均される……雀は両翼を広げ、一方で夏風を仰ぎ、もう一方で秋風を仰いだ。

 翼が断絶となる。

「アップルパイとQの和解は、死を挟む他ないよ。
 わたし達は、互いの心を交わし合えるほど、利口じゃない。
 悪と確信できなければ弱くなる……、
 ある視点から見れば残酷でも、勝利は不可欠だから、弱くはなれない。
 それが、生きるってことでしょ?

 お伽噺は一つの現実を体現している。
 完璧でなくとも、お伽噺から得られるものはたくさんある。

 危険と忌避すべきじゃないよ」

 秋風は西へ去り、夏風は東へ去る。
 小丘に残された空気は、雀が吹き寄せたものだ。
 罪のように苦く、罰のように鋭い。

 僕は果敢に飛び込んでいく。

「お伽噺は一つを全てと思い込ませる。
 読み返してみなよ、始めの印象とは異なるはずだ。
 気づかぬうちに誘導されていたと震えるはずだ」

「新しいお伽噺を読めばいい。
 誘導は解消される」

「底流を流れる価値観は変わらない。
 資本主義を唯一無二と思い込み、性悪説が是と幾度となく語られる。
 共感が自身の価値観をより強固にし、他の価値を一切認めない、偏屈な存在を生み出す」

「それこそ一種のお伽噺じゃない。
 仮にそうだとして、どうしろというの」

 金剛樹の影が伸びていく。
 その淡い色合いは、光と影が融け合っていた。
 睨み合う僕と雀の間を貫き、きらきらと瞬いていた。

 僕は答えた。

「現実判定するんだ。
 怯え、恐れ、最大限警戒し、迎え撃つんだよ」

 雀は抗った。

「わたしは戦わない。愛してるもの。
 ――それだけは、誰にも、お伽噺とは呼ばせない」

 陽が傾いていく。
 夕闇に水晶雲が赤く輝き出す。
 蜂蜜河に黒蜜が混ざり、ガラス芦原は突風に震えていた。
 物見櫓にアルファベット諸氏が集まり、LとかVとか話し合っている。
 宝石虫が光り出し、蜂蜜塗れのルビーフィッシュが口をパクパクさせながら追い回す。
 アップルパイの欠片一つ、見当たらない。

「今日の夕飯、どうしようか?」

 雀が小丘を降りていく。
 僕も追いかけて、すぐ横を歩く。

「蜂蜜に溺れたパンケーキ蓮は飽きたよ。
 この前降ってきた、ベヒーモスのベーコンを焼こうか。
 豆砂場とレタスポールに寄っていこう」

「ええー、甘いのがいいよー」

「甘いからって、四隅から飛び出た綿あめはもう食べないよ」

 夕日が顔に当たって眩しい。
 たまに掴まえると、パスタだから驚く。

 雀はしみじみと告げた。

「また引き分けだったね」
「君が頑固だから」
「次はいつできるかな? 楽しいお伽噺はまだまだたくさんあるから、覚悟しといてね」

 僕はぎこちなく笑った。

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