S・ストールン①

文字数 2,172文字


 むかしむかしあるところに、金剛樹の森に隠れるA・アップルパイ氏がいました。
 25名のアルファベット諸氏に追われ、逃げてきたのです。
 氏が周囲を警戒していると、樹の上から泣き声が聞こえてきます。
 赤子の元気な声です。
 氏が恐る恐る近づいていくと、金剛樹の枝に引っ掛かっていたのは、パイ生地でした。

 ゴムベラでよく混ぜられていたのでしょう。
 薄力粉の白片一片見えず、多彩な材料が調和しています。
 なんて素敵な色艶でしょうか!
 丁寧に卵黄を塗ったように黄色いです。
 枝に引っ掛かっているなんて、あの悪名高きSに盗まれたに違いありません。
 生地を襲うのはAtoZ協定違反なのに。
 XYZ監査官に訴えないと!
 氏は憤りを覚えながら、慎重に生地を手に取りました。

 太陽光を一杯浴びて、ぽかぽかです。

「これは大切に育てなくては。娘のマリー同様、素晴らしいアップルパイに焼き上げよう」

 氏は生地を家に持ち帰りました。
 生地はマリーと共にすくすくと育ち、Sに盗まれたことから、S・ストールンと呼ばれるようになりました。
 二人はいつも一緒でした。
 隣り同士で綿棒に伸ばされ、型に敷き込まれます。
 網目状の腕でカスタードクリーム、アップルフィリングを抱き締めています。
 オーブンに焼かれれば、もう生地なんて呼ばせません。
 二人は立派なA・アップルパイ・マリーと、A・アップルパイ・S・ストールンでした。

「大人の仲間入りしたからといって、浮かれてはいけないよ」

 A・アップルパイ氏が子ども達を諭します。

「これから先は協定の外だ。
 アルファベット諸氏が君達を齧ろうと、盗もうと、欲しがろうと、追いかけてくる。
 自分たちの身は、自分たちで護るんだよ」

 子ども達は父親の助言に従い、日々注意深く過ごしました。

 さて、そんな子ども達の家の近くに、Qが現れます。
 Qはアップルパイを四つに分けたくて仕方ありません。
 ガラス芦原に身を潜め、子ども達を待ち伏せします。
 そんなこと夢にも思わず、子ども達は遊びに出掛けました。
 蜂蜜河での水遊びは甘くとろとろです。

 Qがガラス芦原から跳び出しました。

「きゅぅうう!」

 子栗鼠みたいな鳴き声です。

 子ども達は慌てて転がりました。
 回っても回っても、Qは追跡をやめません。
 互いの距離は縮まる一方です。
 このままではすぐに掴まり、四分割にされてご家庭に配られてしまいます。
 せめて八分割なら、兄弟喧嘩を防げたのに!

 父親の助言がフィリングを過ります。
 自分たちの身は、自分たちで護るんだよ。
 休む冷蔵庫も、温まるオーブンも過ぎ去ったのです。
 子ども達は網目を見合わせました。

「わたしが薔薇の花になるから、」
「僕は薔薇の生垣になるよ」

 Qは足を止めました。
 丸い字体から飛び出た波模様で、器用にブレーキを掛けます。
 生垣は直線的で、箱みたいです。
 薔薇の花が緑の葉っぱに埋もれ、気恥ずかしそうに赤くしていました。
 アップルパイの欠片一つ、落ちていません。

「きゅきゅきゅ?」

 Qが困惑しているうちに、子ども達は再び転がり始めます。

 回っても回っても、Qは追跡をやめません。
 しつこい性格のようです。
 このままではすぐに掴まり、四分割にされて鳥の餌になってしまいます。
 小鳥が集まってきたら、四分割では済みません、ばらばら殺パイ事件です。

 父親の助言がパイ皮を駆け抜けます。
 自分たちの身は、自分たちで護るんだよ。
 クリームやフィリングを待つ暇はありません。
 子ども達は網目を見合わせました。

「わたしがシャンデリアになるから、」
「僕は教会になるよ」

 Qは足を止めました。
 波模様を地面に突き刺すと、走るだけ伸びていきます。
 教会の漆喰は黒ずんでいました。
 荘厳な扉の向こうに、シャンデリアが重々しく吊り下がっています。
 アップルパイの欠片一つ、落ちていません。

「きゅきゅ?」

 Qが真実を探っているうちに、子ども達は三度転がり始めました。
 回っても回っても、Qは追跡をやめません。
 上手にあしらわれた屈辱に燃えています。
 このままではすぐに掴まり、四分割にされて銀杏になってしまいます。
 秋を彩る落ち葉として、踏み潰されるのです。

 父親の助言がクリームを引き締めます。
 自分たちの身は、自分たちで護るんだよ。
 無力な生地ではもうないのです。
 子ども達は網目を見合わせました。

「わたしがカモになるから、」
「僕は池になるよ」

 Qは足を止めました。
 波模様を使うほど、速度を出していなかったようです。
 池の水面は鏡のように青空を映していました。
 カモが一羽、ゆらゆらと浮かんでいます。
 アップルパイの欠片一つ、落ちていません。

「きゅ……」

 Qが子ども達の策略に気づきます。
 池を飲み干そうと、波模様を池に突き刺しました。
 S・ストールンは大ピンチです。
 マリーは慌てませんでした。
 カモの嘴でQの先っぽをくわえ、泉の中に引き摺り込みます。
 Qは泳ぎ方を知りません、水の中で生き抜く術を心得ていないのです。

 それはどうしようもないことでした。

 Qは溺死しました。

 子ども達は大喜びです。

 そのまま子ども達は遊びに出掛けました。
 蜂蜜河がパイ生地に絡みつき、子ども達は益々甘くなります。
 誰にも四分割にされていなければ、子ども達もまだそこにいるでしょう。
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