第1話 苦しまず、食べる。

文字数 10,042文字

 「檻」から抜け出せない、あなたへ。






 それって虐待って言うんじゃないの──って。

 なにそれ、大袈裟すぎ。むしろ、そんな気が滅入るような言葉をわざわざ口にするほうがひどくない? こっちは、ただ楽しみたいだけなのに。最悪。人が盛り上がっているときに、虐待とかそういう言葉を使ってくるって無神経だよね。気分が台無し。相手が苦しんでいるとか、そんな話聞きたくもない。なんで相手のことなんて考えなくちゃいけないの? 考えさせて、気分悪させておいて、そのうえこっちに我慢を強いるの? よくそんなこと平気でさせられるよね。

──これ、毒親とかの台詞じゃなくて、家畜の環境を人に説明したときに返ってきた言葉ね。
 あ、やっぱり。顔を顰めてくるよね。
 もちろん、全ての人が自分が食べたものの過程を知るべきだ、とは思っていない。それはちょっと横暴だとすら思っている。
 例えば、あなたは痛みに敏感な人だとして──好きになった相手から「今晩泊まっていかない?」と誘われたとする。当然、二人の体は一つになることだけを求めている。拒む理由なんてない。欲望の赴くまま、熱く湿った息を漏らしながら互いの舌を絡め、服を脱ぎ捨て相手のベッドへ流れていく。するとそこには無数の釘が……。
「修行のために釘のベッドで寝ているんだ、キミもおいでよ」なんてアルカイックスマイルの彼を前に、さて、このあとどうする? 私なら、宇宙からの電波を受け取ったふりをして「メッセージよ、あなた! 母星からの箴言を聞き逃してはならないわ」とか言いながら、全裸でもダッシュで逃げるわ。
 って、かなりおかしな方向にいってしまったけど、自分がいいと思っていることを相手にすすめるのは、ときにそれは暴力的になってしまうって話。なので、どうしても肉を食べたい人には、家畜の話はできるだけ避けるように心がけてはいるつもりだ。ただ、あなたが執拗に、私に対して、ダイエットでしょとか、ほんとうはお肉を食べたいんでしょなんて嬉嬉として言ってくるから、だからこんな話をすることになったんじゃない──。

「これだけ我慢して野菜ばっかり食べても痩せないんだから、ほんと、かわいそう。わたしって優しいから、同情しちゃう」 
 会社の食堂にて、お弁当箱を厚みのある腕と体で覆い隠すように食べていると、猪田さんがまた例のごとく背中越しに声をあげてきた。先程から彼女の言葉に、私は忙しなく反撃を試みているが、それは私の頭の中だけで起きていること。実際は猪田さんの独擅場だ。
「全然痩せないけど、もしかして妊娠した? あ、これ、皆川さんには禁句だっけ」 
 一七二センチ、七四キロの私が痩せていないことぐらいは分かっている。でも、あとたった一キロ痩せれば、私も平均体重の仲間入りだ。ただ、その一キロがなかなかしぶとく居座っていて消えてなくならないのだけど。でも、猪田さんだって決して痩せているわけではない。身長が低いぶん私より体の大きさが目立たないだけで、同じ身長になれば私と大差が無いはずだ。それなのに、彼女は平然と人の体型を嘲笑する。
「やっぱりその年齢だとなかなか痩せないよね。私はまだ平気だけど、そのうち皆川さんみたいに痩せなくなっちゃうのかなー、こわー」
 またこれか。二歳しか違わないのに、彼女は年齢のことも揶揄してくる。そもそも、彼女から攻撃されるようになったのも、この年齢問題からだった。
 私がこの会社に入社したのは二年前。中途だろうが、新卒だろうが、この工場で働く人間は猪田さんのテストを受ける、というルールがあるのだ。当然、漏れなく私も受けることとなった。テストの内容は簡単だ。猪田さんが「私、いくつに見える?」と質問してくるので、彼女の気に入る年齢を言ってあげればいい。いや、前言撤回。答えを知った今では簡単だが、入社初日からそんな質問をされたら難問すぎるし、苦痛すぎる。こういうテストをする人は、自己顕示欲が強く、お世辞が大好きだ。だが、そのお世辞というものは厄介で、どれくらいの加減が相手の好みなのか、ある程度情報がないと相手を怒らせる要因にもなる。なので、可能な限り入社当日は、こう言った会話は避けたかった。だが、なんとか逃げようとしてみたものの、猪田さんは「何でもいいから言ってみてよ」と苛立った声を出してきた。仕方なく、あまり若く言いすぎるのも失礼なのだろうかなどと懊悩しつつ、見た目よりも少し下の年齢を言ってみた。が、それが大きな間違いだった。若く言ったつもりが、猪田さんの実年齢より一歳上だったのだ。その後の惨劇は、想像に難くないだろう。彼女の目は瞬く間に火を吹き、ほとんど絶叫にも近い声で私を罵った。周囲の社員が猪田さんを宥めてなんとか落ち着いたが、以後、私は猪田さんにとって「見る目がない失礼で無神経な女」であり、いじめの対象となった。そして、周囲からは「猪田さんをキレさせる面倒くさいやつ」と、ヒエラルキー最下層ポジションに落とされた。これは、たった一日のできごとだった。
「なんか最近、自称ヴィーガンって人たちが問題を起こしているじゃん。あれ、皆川さんの仲間なんでしょ。肉食べない人ってやっぱりどこかおかしいのよね」 
 あの日以来、ねちねちと何かにつけて私に嫌味を言わなければ済まないらしい。最初の数ヶ月はストレスで胃腸炎になり、見た目でもわかるほど胃が腫れあがったりもした。あれから二年をかけて、やっと脳内で反撃することで平静を保つ術を身につけてきたが、今日はそうもいかなった。痛いところを猪田さんが──彼女はまったく気付いていないが──突いてきたからだ。
──ヴィーガン。
 残念ながら私は、ヴィーガンではない。一緒にしたら、ヴィーガンの人たちから怒られるだろう。
 ヴィーガンとは、動物性食品を一切口にせず、動物性の衣類や鞄なども購入しない。彼らの信念は一切の妥協も許さず、どれだけ愛情を注ぎ育てた鶏の卵だったとしても決して口にしたりはしない。その精神を尊崇はするが、中途半端な私はそこまでやりきれない。
 そう、私は中途半端な人間だ。
 なにせ、肉を食べることは嫌いではないし、肉を食べないわけでもない。しかも、今の食生活を選んだのは、信仰心でも、高尚な志あってのことでもなく、単に『アースリングス』──と、今まさにこの言葉を検索しようとした人に伝えたいことがある。動物に関する痛ましい映像があるので繊細な方は注意して欲しい──という食の問題について取り上げたドキュメンタリー映画を見て、感化されただけだ。その後、食農倫理に関する書籍を読んだり、ネットで調べたりしたが、それでもヴィーガンにはなれずにいる。彼らからしたら、許し難い存在だろう。
 一時期は、フレキシタリアンだなんて自称していたこともあったが、その域にも達していないとやっと最近分かってきた。私が実行できているのは、動物性のものを口にする回数を減らすため、できるだけ自炊をするということくらいだ。しかも、工場式畜産場での動物性食品の購入をゼロにはできていない。多いときだと、週に一回はこれらの肉を口にしている。平飼い卵──完全なる放牧だとあまりに高額なので、エイビアリーといった休息エリアと砂浴び場のある鶏舎のものであることが多い──や、放牧されて育った豚や牛の肉は二ヶ月に一度くらいのペースで購入している。妊婦ストール──子豚に授乳させるため、母豚を身動きがとれないようにする檻──を使用していない豚肉はかなり高額なので、こちらは一年に一度程度。あとは、出汁に厚削りの鰹節を使う頻度は二、三週間に一回。チーズや牛乳は月に一、二度ほど購入している。工場式のものを購入するのをやめたらいいだけでは、と思うかもしれないが、わたしの月収──手取りにすると一六万円以下──では、そういった商品を完全に断つのは難しい。結局、私は肉を口にしてしまうのだ。情けない。
 ただ、基本的には穀物や野菜が中心の食事を心掛けている。だが、ここでまた問題が出てくる。植物だって生き物じゃないか、食べていいのか、と言われると閉口するしかない。言い訳としては、最小限の量を購入し、野菜はすぐに下茹でするかレンチンして、冷凍保存し、無駄を減らそうとはしている。他には、私の家の近所には規格外で売れなかった野菜の直売所や、コインロッカー式の販売所もあるのでそれらを利用している。少し遠いが、小規模農家の商品を扱う八百屋もある。品数はその日によって大きくムラがあり──先週の日曜日なんて、お昼に行ったにもかかわらずキャベツ一玉とズッキーニ数本しかなかった──、気に入った野菜があっても二度と買えない場合もあるが。それでも、手頃な価格だったり、ブロッコリーとケールを掛け合わせたアレッタなんていう珍しい野菜を食べれることもあるのでありがたい。なんて、値段の話ばかりすると、フェアトレードやエシカルについてももっと考えるべきだと言われるだろう。言われたら、確かに……としか返事ができない。
 つまり、ものすごく中途半端なことしか実践できていないのだ。誰かから指摘されたらすぐに窮してしまう。なんでそんな人からツッコミを入れられたら困るような生き方しか選べないのよと言われたら、自分が苦にならない(、、、、、、、、、)程度に家畜が虐げられているものを控えたいから、としか答えられない。こんなぼんやりとした考えだから、確固たるものがないから、猪田さんに言われっぱなしになってしまう。
「でもさ、他のヴィーガンみたいに皆川さんが暴れたら、地震が起きたかと思って地震警報が鳴っちゃうから、やめてよね」
「猪田さーん、コーヒー行きませんか」少し離れたところから、後輩の東雲さんが声をあげた。
「あ、春乃ちゃん。行こう行こう」私に対するあの苦々しい声はなんだったのか、すぐに弾むような口調で猪田さんが答えた。
 程なくして、私の頭や肩を押し潰すような空気がふっと消え去った。猪田さんは、もう東雲さんと一階のコーヒースペースに行ったらしい。
「はあ、終わった」解放された心の声がぶしゅーっと外に吐き出された。
 そういえば、コーヒーマシーンが新しくなったと朝礼で言っていた。さっそく今朝使用した人たちが、コンビニのものよりクオリティーが高い、なんて話しているのを耳にした。
「どうせ、わたしは使えないけど」
 うちの会社は、ミールコインというものが毎月二〇枚配布される。配布といっても実際に手渡されるわけではなく、食堂のカウンターには升目状に区切られた箱に充填される。それぞれの区切りには、社員の名前が細いテプラで貼られており、そこから各自使用する分だけを持っていく。このコインは、一ヶ月千円を給料から天引きされて配られるものだ。会社の食堂のメニューや、コーヒースペースで使用でき、パスタランチなら三枚、コーヒーやスナック菓子なら一枚で購入できる。本来ならそんな金額では購入できないため、残りの額は会社負担となっている。ただ、この二〇枚のコインは「使用しない」という選択もある。一ヶ月以内で使用しなかったコインは、カップラーメンやスナック菓子などにかえられ、フードバンクへ寄付されるのだ。寄付を目的に使用しない人もいるが、大抵の人たちは二〇枚を使い切ってしまう。私は寄付を目的というより、使用できないので手付かずで終わることが多い。
「コーヒー、好きなんだけどな」
 コーヒースペースは女子社員の溜まり場になっているため、私は近付けない。以前、通りかかっただけで猪田さんから「みんな見て見て、珍しい人が来たわよ。もしかして、自分もまぜてもらえるとでも思っているんじゃない」と大きな声で嫌味を言われたことがあった。ああ、思い出しただけで、胃がキリキリしてくる。だったら、食堂でコインを使用すればいいのだが、これに関しては、私の食の問題になってくる。肉が入っていないメニューがないのだ。それでも、金銭的に苦しいときは利用してしまうが。
(これ、この弱さ。情けない。全額寄付する気持ちで決して使わない人と、使えないから結果として寄付している私では、意味が大きく違ってくる)
 そんなことを考えながら食べていたら、味がしないことに気が付いた。朝から作った、豆腐ハンバーグ入りラタトゥイユ、ジャガイモとかぼちゃのオリーブオイル炒め、それから日曜日にまとめて焼いたフォカッチャも。食べているのに、何を食べているのか分からない。ただ、猪田さんの言葉から生まれた自己嫌悪を咀嚼している気分だ。
「そういえば、また最近ヴィーガンの人が騒ぎを起こしたってニュースでやっていましたね」
「野菜ばっかり食べているとストレスが溜まるんだろ。ネットかなにかに書いてあったぞ。肉を食べない人は幸福度が低く、コミュニケーション能力が低下するって。やっぱり人間は肉を食うべきなんだよ」 
 どこかの席から男性二人の声が聞こえてきた。この声はおそらく、桜庭さんとチームリーダーの森野さんだろう。二人は、なにひとつ根拠がない話を、実際にあった事件と合わせることでそれっぽく「正しい」ことのように話す。
「あいつも野菜ばっか食べているからだよ。あの歳で結婚もできないし」
「森野さん、皆川さんに聞こえますよ」
 聞こえているのは分かっているだろうし、むしろ聞かせているんだろう。お前は欠陥がある人間なのだ、と。
「人の話なんて聞いちゃないだろ。あいつ、俺が指示した仕事もろくにできないんだから」
「それは……そうですね」
「な、無能な部下を持った俺の苦労もわかるだろ?」
「いろんな人がいますからね。リーダーは大変だと思います」
「だろ。桜庭だって、皆川とコンビを組まされたら嫌だろ」
「えっと……」
「そう思うとだな、猪田は文句は多いが女子たちをうまくまとめているからな。今の女子社員は扱いにくいから、助かるよ。女は黙って男の言うことを聞いてりゃいいのに。若い奴はすぐセクハラだ、なんだ言うだろ」森野さんは今この時代では考えられないような発言を堂々と人前でする。かれを五〇代のおじさん代表としたくないが、うちの会社にいると錯覚してしまいそうだ。
「そうですね。でもまあ、猪田さんはかなり強烈な性格ですけどね」
「あいつ、キレたらうるせーからな。口挟む隙もない。それを誰も自分に勝てないって勲章みたいに誇っているし。確かにすごいわ」
 弾き飛んだ二人の笑い声が私の背中にいくつもぶつかり、いつの間にか遠ざかっていく。食堂内の冷房が急に効きはじめ、私はぶるりと体を震わせた。
 どうしてだろう。リーダーの言葉より、桜庭さんの「そうですね」という一言の方が鋭利だった。桜庭さんも中途採用で、しかも私の半年後に入ってきた。だが、私と違い、すっかりこの会社に馴染んでいる。彼の言葉がショックだったのは、すこしだけ仕事の説明をさせてもらった時があったからかもしれない。桜庭さんが入社したての頃。工場での作業は彼も人生初だったらしく、全ての工程に対して人に聞かなければいけない状態だった。私が入りたての頃、作業に関して質問すると「そこから説明させるのかよ」とさも面倒くさそうに言われたので、彼に専門用語や仕事の仕方などを少しでも教えてあげられたら、とお節介にも声をかけてしまった。すると、猪田さんが目敏く見つけ、目尻をつり上げて私を責め立ててきた。
「あんた、なに桜庭くんに話しかけてるのよ。桜庭くんの教育係を任されたのは私よ。あんたなんて工場長からなんにも任されないくせに」
 って、この台詞。もう二年も前のことか。今でも鮮明に思い出される。彼女は私に対して何を言ったかなんていちいち憶えていないだろうけど、私は常に思い出され、彼女の言葉に頭を握り潰されている思いだ。
「駄目だ、もう、無理だ」
 静かにタッパーの蓋を閉じる。気がつけば、食堂は私一人になっていた。よろよろと立ち上がると、食堂のパートさんである藤原さんが声をかけてきた。
「皆川さん」こっちに来てと、藤原さんが細い手を揺らす。
「え」彼女から声をかけられたのは初めてだったため、意味が分からぬままカウンターへと向かった。「私、何かしましたか?」
「あ、いえいえ」藤原さんは、いつも通りの柔和な笑みを浮かべていた。彼女は今年三〇歳になったばかりだが、私とは違い、結婚もし、子供もいる。
「今月ももう終わりですけど」そう言いながら、藤原さんは視線をミールコインが入った箱へ流す。コインが高く積まれているのは、私と、小松くんだけだった。小松くんはお昼ご飯を食べている姿を見たことがない。いつも、食事もせずに熱心に何かの本を読んでいた。
「ああ、フードバンクへ寄付させてもらいます」へへっと無意味な笑顔をつくる。
「食堂のごはん、嫌いですか? 一階のコーヒースペースなら、カップ麺とかスナック菓子もありますよ」笑顔のまま、少し声のトーンを落とし、藤原さんが言う。
 しまった。そうか。彼女は私が食堂のごはんがまずいと不満に思っていると感じていたのか。きっとずっと言いたくて、我慢していたのだろう。
「ごめんなさい。食堂に不満があるとかではないんです。私、お肉を食べないようにしていて。それで。食堂のメニューはどれもお肉が入っているから。あと、カップ麺とかも」
 あなたに非はなにもないですよ、だからどうか気を揉まないでくださいね、そういうつもりで私は必死に弁明した。だが、藤原さんは笑顔を崩し、口角を下げてしまった。
「藤原さんはなんにも悪くなくて……」
「そうでなくて」私の言葉を遮り、彼女はいつになく早口で続けてきた。「ずっと我慢していたんですけど」誰一人食堂からいなくなったから、と言わんばかりに彼女はぐるりと大きな瞳を回した。「自分が食べたくないものを人に食べさせるんですか。フードバンクを利用する人はなんでも食べ物をあげれば満足だろ、彼らには選ぶ権利はないって、そういう態度ですか」
「えっ……」
「不遜ですね。だから、猪田さんにいつも言われるんですよ」
 私は、あまりにも甘い考えで、そして途方に暮れるほどの愚かだった。あなたに非はないですよ、なんて必死で説明しようとしていた数分前の自分の口を塞ぎ、全力で連れ去りたい。
「別に寄付は自由なんで、いいんですけど」そうとだけ言って彼女は背を向け、荒々しく冷蔵庫を開け、調味料などを片付けはじめた。

 猪田さんだけでなく、チームリーダーも、桜庭さんも、そして一緒に仕事をしているでもない食堂の藤原さんまで。みんな、私が嫌いだったんだ。気がついていないだけで、私は世界中の誰からも嫌われる人間なんだ。
 胃がぐちゃぐちゃと音をたて胃酸を大量に吐き出し、粘膜を引っ掻くように溶かしていく。一歩、また一歩と足を踏み出すが、地面が揺れて真っ直ぐ歩くことすらできない。そのうち目眩がしてきて、思わず壁にもたれかかった。
「新刊」
 突然、後ろから低い声が聞こえ、思わず私は猫のようにその場で飛び上がってしまった。
「ヒッ」
「今月出版される小説って、文庫だけで一〇〇冊もありますね」
 振り向くと、そこには小柄で痩躯な男性がいた。小松くんだ。小松くんは、私より八つ年下の二八歳。彼は、私と同じ一重瞼なはずなのに腫れぼったくなく、すうっと筆を通したように美しい瞳をしていた。歯並びもよく、鼻筋も通っており、顔全体のバランスが綺麗に整っている。小さいものは美しく、愛すべきだと言ったのは、哲学者のエドマンド・バーグだった、だろうか。小松くんの顔をまじまじと見つめていたらふとそんな言葉が頭を過った。小松くんは、私に話しかけてはいるが、私の顔は見ていないような、少し視線を外していた。
「一〇〇冊」ぼんやりと彼が言った言葉を繰り返したあと、慌てて私は視線を落とした。彼のように綺麗な人たちが、私のような人間から必要以上に見られるのは嫌だろう。人から好意を持ってもらうことのない人生を長く生きていると、人に対して興味を持たないことが最低限の嫌われない条件だということは分かっている。
 私の返事が悪かったのか、そこから少しの沈黙があった。もともと小松くんは口数が少なく、コミュニケーション能力が高いタイプではないが。ただ、この容姿ならコミュニケーションを取らなくても、嫌われることもない。なにより彼は私と違って器用で仕事の要領もよく、うちの会社のようなもの作りの仕事には向いている。
「毎日これだけの新刊が出ているんです。でも、それらのどれも、まったく同じ作品はないんだよね」
 彼の手には文庫本が。しかし、なんの本なのかはブックカバーに覆われていて分からない。
「休憩、もうすぐ終わりますね」
それだけ言って、目を合わせることなく彼は私を抜き去って、女子トイレの先にある男子トイレへと入って行った。
──これだけ日々新しい本が世に出されているのに、まったく同じ作品はない。
 当たり前のことだが、改めて考えると、正直驚いてしまった。
 胃のあたりを撫でながら、落ち着けと心の中で唱える。落ち着いて考えてみるんだ、私。
 この会社の人間は、日本の人口のいったい何%なんだ。それなのに私は……いや、他の会社に行っても同じかもしれない。日本中で、私を雇ってくれる会社すべてに行っても、まったく同じ現状かもしれない。

──でも、まだそれを確かめたことはない。

「世界中どこに行ってもお前みたいなやつは同じだよ。その体型とコミュニケーション能力は、からかいの的になる」
 子供の頃からどれだけこの台詞を聞かされたことだろう。だが、この地球に七八億人もの人々が生活をし、それぞれの母語があり、信仰があり、そして食がある。
 日本やアメリカでは肥満は自己管理能力が低いとされ、差別の対象となる一方で、ニジェール共和国では太った女性は美しいとされている。そういえば、ガストロノームで有名なブリヤ=サヴァランは「痩せている女は、少しでも太りたいと願うものだ」と言ったとか。ある場所で当たり前のように言われていることが、別の場所では正反対の評価をされることもある。
 当たり前といえば、健聴者も聾者も手話で会話をしていた島もあったらしい。喋れるなら喋る、これは当たり前ではないのだ。
 七八億の違いは私も他の人も分かっているはずなのに、特定の場所で生活する特定の人たちが「駄目」だと烙印(スティグマ)を押したものは、なぜか世界共通の意見のように思えてしまう。そんな彼らの言葉を鵜呑みにする私が悪いのだろうけど。
 声はかけてくれたが、小松くんは私のことなどまったく評価はしていないだろう。それくらいは分かる。ただ、あまりにも視野が狭くなりすぎている惨めな人間に、なにかアドバイスをくれてやろうという気持ちはあったに違いない。だが、これ以上は、彼について考えるのはやめよう。彼は私に興味を持って欲しいなんて、これっぽっちも思っていないだろうから。
 すべての人の思想を知ることはできない。でも、今よりもう少し多くの人と接して、さまざまな考え方があるといことを「理解する」必要はあるのではないだろうか。
 お前なんて消えろ、駄目な人間だ、そんなことは誰にでも言える。ただ、そんな言葉に従う必要が果たしてあるのか否か、私は判断する材料をあまりにも持っていない。
 食べることも、思想も、すべて中途半端だから不安になり、閉じこもり、最終的に自分で自分を傷つけてしまっている。
「本か」
 一時期、食農倫理関連の書籍を読むため、よく図書館へ足を運んでいた。久しぶりに、今週末は図書館に行ってみるのも悪くないかもしれない。
「あっ」
 そんなことを考えていたら、胃の中に針を無数にばら撒かれたような痛みが、わずかに和らいでいた。
「とりあえず、今週末まで耐え抜いてみるんだ、私」
 中途半端な人間なだけに、こういう時に案外簡単に人の言葉で気持ちが変化するのはよかったと思っている。
 いや、思っていた。
 その晩、前の職場の人からメールが来るまでは。





【今回の参考書籍、参考動画(映画)】
『EARTHLINGS-10YEAR ANNIVERSARY EDITION』※YouTubeにて無料で配信しているが、かなりセンシティブな内容のため、繊細な方にはおすすめしない
『肉食の終わり 非動物性食品システム実現へのロードマップ』ジェイシー・リース 著 井上 太一訳(原書房)
『ヴィーガン探訪 肉も魚もハチミツも食べない生き方』森 映子 著(角川新書)
『「ファット」の民族誌現代アメリカにおける肥満問題と生の多様性』 碇 陽子 著(明石書店)
『愛の林檎と燻製の猿と 禁じられた食べものたち』スチュワート・アレン 著 渡辺 葉 訳(集英社)
『みんなが手話で話した島』ノーラ・エレン・グロース 著 佐野 正信 訳(ハヤカワノンフィクション文庫)
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