第2話 かあさん

文字数 3,238文字

「あれぇっ?」
 私は思わず素っ頓狂な声を出してしまった。
 昨日はスーパーの特売日だったから、たくさん買い物して惣菜を作り置きしておいたのに、それがほとんどなくなっているのだ。
 まさか、夜のうちに京香ちゃんが全部食べてしまったのだろうか。とうとう例のあれが…?
「わしゃー、まだ夕飯たべてない」
 ひゃあ、どうしよう。

 京香ちゃんは認知症だが一人で暮らしている。私は海外赴任中の息子さんから依頼され、派遣会社からヘルパーとして通っていて、今では「京香ちゃん」「ゆみちゃん」と呼び合える親しい仲でもある。時々京香ちゃんの意識が遠くに飛んでしまうと「どちらさまでした?」と聞かれるけれど…。

 私はしばらく冷蔵庫の前で固まっていたが、ひとつ深呼吸してから、さり気なく京香ちゃんに声をかけてみた。
「ねぇ…京香ちゃん。昨日の夕ご飯、足りなかったのかしら?」
 京香ちゃんは、今日はことのほか朗らかで、鼻歌を歌いながら絵本を眺めている。
「昨日は何をいただいたかしらねぇ…忘れちゃったけど、お腹いっぱいだったわよ。ゆみちゃん帰ったらすぐ寝ちゃった」
「そう…」
 うぅむ、どうしたらいいんだろう。しばらく様子をみてから病院の先生に相談しようか。私は悩みながらも掃除をし始めた。

「あれぇっ?!」
 私はまた素っ頓狂な声を出してしまった。
「もーう、今日はゆみちゃんどうしたのぉ?」
 京香ちゃんの部屋まで聞こえてしまったらしい。
 しかし、どうしたもこうしたも窓ガラスが割れているのだ。ちょうど鍵のところに手がかかるような形で…。
 私の頭の中で、消えた惣菜と窓ガラスがつながった。泥棒だ。泥棒が入ったんだ!
 きょ、京香ちゃんは大丈夫か?! いやいや落ち着け私、京香ちゃんはのんびりと鼻歌を歌っている。無事だ。よかった。あぁ、よかった。
 でもでも、泥棒は?こっそり入り込んでこっそり盗んでこっそりご飯を食べてこっそり逃げたというのか?それともまだ家の中のどこかに?!まさか!

 警察に電話を…と思ったが、その前に私は京香ちゃんの部屋に行き、聞いてみた。
「ねぇ、昨日の夜、誰かこなかっ…た?」
 京香ちゃんの鼻歌が止まり、ゆっくりと顔を上げる。
「京香ちゃん?」
「…昨夜ね、そう。カズオが遅くに帰ってきたわ」
 京香ちゃんの声の調子が少し変わっている。
「え?和夫さん?」
 カズオというのは、海外赴任中の息子さんの名前である。
 カズオさんて…『今』の和夫さんだろうか、『昔』の和夫さんだろうか。
 京香ちゃんに近づいて顔をのぞき込むと、目がどこか遠くを見ている。あぁ、京香ちゃんは今、遠くに行っている。京香ちゃんの言う和夫さんは、きっと『昔』の方、子どもの頃のカズオさんだ。
 私は京香ちゃんの話を聴いてみることにして、隣にそっと座った。
 以下は京香ちゃんが語った昨夜の物語である。


「私ね、夜中にトイレに行きたくなって起きちゃったの。そしたら誰かが台所でゴソゴソしてる気配がして。あ、カズオが帰ってきてつまみ食いしてるって思って電気点けて声かけたのね。『カズオおかえり』って。そしたらカズオ飛び上がっちゃってね。人がびっくりするところって面白いわよねぇ。私、大笑いしちゃって。ふふふ、ほんとに飛び上がるんだもん」
 …私の心臓も飛び上がりそうになったが、京香ちゃんは遠くを見て微笑んだまま話を続けた。

「包丁持ってたから、なにか作るつもりなんだなって思って、かあさん作ってあげるよって言ったの。でもなんにも言わずに動かないから、座って待ってなさいって言ったの」
 …ほ、包丁!

「でも冷蔵庫見たらお惣菜がたくさんあって。いつの間にか作り置きしてたのねぇ。お櫃にご飯もあったからよそってあげて、がんもどき温めて、切り干し大根ときんぴらごぼうお皿に載せて。がんもどきの薄味煮、カズオの好物なのよね。でもまだ突っ立ってたから無理やり座らせて」
 …どうやって座らせたのやら。私は冷や汗が出てきた。

「はいっ食べなさいって言ったのに動かなくてねぇ。なんだか変な様子だったから、おなかすいてないの?学校でなにかあったの?って聞いたの。でもなんにも言わずに私とがんもどき見比べて。でもしばらくしてやっとお箸もって食べ始めたの」
 …食べたんだ。私は力が抜けた。

「前に座って食べるところ見てたんだけど、びっくりするほど食べるのよ。普段は食の細い子だから私うれしくなっちゃって。いっぱい食べなさい、全部食べちゃっていいのよ、おかわりする?って聞いたら、今度は急に泣き出したの」
 …私はドキリとした。

「私びっくりしちゃって。どうしたの?って聞いても、しばらく俯いたままウーウー泣いてて、それから『ごめんなさい、ごめんなさい』って言うのよ」
 …ごめんなさいって?

「なに謝ってるの?今日はたくさん食べてくれて、かあさんうれしいよ、って言ったら、またしばらくウーウー泣いて、それから小さい声で『うん、美味しい。すごく美味しい。おかわりしてもいいですか?』って言うから、なに敬語使ってんのよっておかしかったけど、おかわりよそってあげて。ホントにいっぱい食べたわねぇ。お櫃も空っぽになっちゃって」
 …ほ、ほんとに。

「食べ終わったからお茶淹れてあげたら、湯飲みをジィッと見て、また泣き出して謝るのよね。『ごめんなさい。もうしません。ごちそうさまでした』って。きっとまた学校で何かやらかしたのよ。でも、いいよいいよ、カズオはいい子だよ、かあさんカズオのこと大好きだから心配しなくていいよ、って言ったの」

「そしたらまた泣くのよねぇ。『俺はいい子じゃない。いい子じゃない』って言うから、いい子でもいい子じゃなくても、おまえはかあさんの大事な子だよ。だから泣かなくていいよ、大丈夫だよって抱きしめてやったら、なんだかガッシリしててねぇ、カズオ。いつの間にか大きくなったわ」
 …私はその様子を想像したけど、もう怖くはなかった。

「なかなか泣き止まないもんだから、ずーっと背中さすってやってねぇ。よしよし、って。そしたらだんだん落ち着いてきて『ありがとう、かあさん』って言うからびっくりしちゃった。ありがとうなんてなかなか言ってくれないのに。でもね、私ったら急に眠くなってきちゃって。明日また話そうね、心配しなくていいよ、カズオも寝なさいって言ったら、『うん、おやすみなさい』って言ったから私部屋に戻ったの」

 京香ちゃんの話は終わった。京香ちゃんは微笑みながら遠くを見ている。
 窓から差し込む日に照らされた京香ちゃんの白くてちいさい顔は、まるで観音様みたいだった。私はしばらく黙って観音様の顔を見つめていた。手を合わせそうになるのをこらえながら。

 少しして、京香ちゃんがつぶやいた。
「そうだわ。カズオ、学校に行ったのかしら」
「はい、元気に行かれましたよ…」
 私は答えた。
す ると京香ちゃんは安心したようにホゥッとため息をついて、視線を落とし再び絵本をめくり始めた。
 私もそっと立ち上がって掃除を再開した。

 私は事の顛末を本物の和夫さんに報告した。和夫さんからは、何も盗られていないなら警察に連絡する必要はないけれど、玄関や窓の防犯対策だけは強化してください、と指示を受けた。
 本物の和夫さんは電話の向こうで笑っていたけれど、少し涙声になっているようでもあった。そして「昔、そういうこと本当にありましたよ…」とつぶやいていた。


 一週間ほどして、警察から連絡があった。
 若い男が自首してきたという。
「先日お宅に泥棒に入ったが何も盗らず、ご飯を食べさせてもらったと言っているのですが、本当ですか?」と聞かれたので、はい本当です、と私は答えた。
 男は何度も「美味しかったと伝えてください。二度と泥棒はしません」と言っているという。

 私は受話器を置いて、隣の部屋にいる京香ちゃんをドアの隙間からそっと見た。
 観音様は今日も絵本をめくりながら鼻歌を歌っている。



第二話 了


© 2024/3/5 松本育枝
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