第1話 痛いの、痛いの、飛んでけ

文字数 2,925文字

「痛いの、痛いの、飛んでけー!って言われた後、その『痛いの』はどこに行くのかしら?」
 真顔で聞かれたので、私は思わず考え込んでしまった。
 京香ちゃんは、少女のようなキラキラした目で私をジッと見ている。

 今、私の指にはバンドエイドが巻かれている。
 ついさっき洗い物をしていた時、うっかり手を滑らせ、割れた茶碗で指まで切ってしまったのだ。プロとしてあるまじきミス。
 だが顧客である京香ちゃんは私を責めもせず、キティちゃんのシールが貼られた救急箱の中から「これ、新しいやつよ」と自慢気にバンドエイドを取り出した。
 それは最近流行りの数日間貼りっぱなしでいられるハイテクなバンドエイド…ではなく、バンドエイドとして機能を果たすのか?と不安になるような年代物だった。薬箱の色褪せたキティちゃんのシールからは、七十年代の香りがする。

 京香ちゃんは八十歳になるおばあさんだ。認知症が進行しつつあるが一人暮らしを続けていて、私は毎日、掃除や料理など身の回りのお手伝いに来る。
 依頼してきたのは息子の和夫さんだ。どんなに施設への入居を勧めても、気楽な一人暮らしを固守する母に困り果てていたが、海外勤務なので今のところは同居もできず、私が所属するヘルパーの組織に依頼してこられた。

 京香ちゃんは私が来ることにも最初はシブシブ…という感じであったが、通い始めてみると、なんとなくウマが合うというのか、サバサバしたところが似ていて少しずつ親しみをもってくれるようになった。
 今では「京香ちゃん」「ゆみちゃん」(私の名前は由美子と言う)と呼び合う仲である。

 京香ちゃんは、かつて中学校の音楽教師だった。まだ三十代の頃に夫に先立たれたが、一人息子を大学進学のために上京させると、あとは気楽に一人暮らしを楽しみながら定年まで勤め上げ、その後は合唱や朗読のサークル活動を楽しんでいたそうだ。
 認知症が発覚したのは二年前。
 ある日、ふと帰り道が思い出せなくなり、スーパーの袋を持ったまま、横断歩道の前で立ち尽くしていたらしい…。

 それでも、時に認知症であることを忘れさせるほど冴えたことを言うことがあり、一方でとぼけたことを言うこともある。わざととぼけたフリをすることさえある。
 だから、さっき私の指に年代物のバンドエイドを貼りながら「痛いの、痛いの、飛んでけー」と唱えた後の京香ちゃんの質問が、どの状態からの質問なのかわからなかった。

「痛いの、痛いの、飛んでけー!って言われた後、その『痛いの』はどこに行くのかしら?」

 そう聞かれた私は、キラキラした視線を受け止めながら、
「痛いの…は、うん、消えちゃうんじゃないの?」
 と、曖昧に答えた。
 京香ちゃんは納得しかねる顔で首をひねっている。
「じゃあ、ゆみちゃんの指、もう痛くないの?」
「え?うーん、さっきより少しは痛くない、かも」
 私はまたもや曖昧に答えた。
「そっか、じゃあ、痛いのはいくつかに分かれて飛んでいくのかしら…。深いわね」
 なにが深いのかよくわからなかったが、『痛いの』が五分の一とか五分の二とかに分かれてピューンと空の彼方に飛び去って行く様子を思い浮かべているうちに、私の指は本当にあまり痛くなくなっていた。

「京香ちゃん、さっきよりも痛くなくなってる!」
 私はうれしくなって京香ちゃんに言った。
「ねぇ、カズオは何時に帰ってくるって言った?」
 あぁ、私の『痛いの』と共に、京香ちゃんの意識も飛んで行ってしまったようだ。

「和夫さんは今日は遅くなるそうです」
 海の向こうにいます、とも言えない。
「そうなの。じゃ、お夕飯先に済ませてしまいましょ。あら、ところであなたはどちらさまでした?」
「お手伝いの由美子です。私がお夕飯作りますからお部屋で待っていてくださいね」
「はいはい」
 京香ちゃんはおとなしく自室に戻っていった。

 京香ちゃんが遠くに飛んで行ってしまうと、私は少しさみしくなる。
 さっき飛んでいった『痛いの』が、胸のところに戻ってきたようだ。私は割れた茶碗の後片付けをして、夕飯の下ごしらえを始めた。
 ほうれん草を茹でていたら、京香ちゃんの部屋から歌声が聞こえてきた。京香ちゃんの好きな、『翼をください』だ。京香ちゃんは八十歳だけれど高音が比較的きれいに出る。合唱サークルでもずっとソプラノだったらしい。

 いまわたしのねがいごとがかなうならばつばさがほしい…

 歌声を聞いていると、私の胸にまたさっきの『痛いの』が少し戻ってくる。
 認知症になると、タイプによっては暴力的になる人もいる。京香ちゃんはそうではないのだが、その分自分の中に悲しみや痛みを溜めているのではないかと感じる時がある。
「私はずっと気楽に生きてきたのよ」
 と京香ちゃんは笑う。それはその通りなのかもしれない、でも…

 私は一度だけ聞いたのだ。
 洗い物をしている時、後ろに立っていた京香ちゃんがこう言うのを。

「私ね、もう、うんとイヤになっちゃったの。一緒に死んでくれる?」

 洗い物をしていた私は、驚いて振り返った。京香ちゃんはぼんやりと私を見ていた。目に光がない。
 その京香ちゃんが『今』の京香ちゃんなのか『昔』の京香ちゃんなのかわからなかった。
 私は声も出せず、京香ちゃんの視線を受け止めたままじっとしていた。

 と、京香ちゃんの目から涙が溢れ出してきた。
 ぼろぼろと溢れ続けて止まらない。口元がゆがんで何か言おうとしている。でも言葉にはならず、ゆがんだまま固まっている。
 いったい何分経っただろうか…。私は視線を外すこともできず、石鹸の泡でいっぱいのスポンジを握ったまま身動きできずにいた。石鹸水がスポンジから床に滴る。
 ぽた…ぽた…ぽた。
 しばらくすると、私をじっと見ていた京香ちゃんの目に少しずつ光が戻ってきた。
 そして私から目を逸らして俯くと、目元をごしごしと擦り、濡れた袖口を不思議そうに見ながら掠れた声で言った。

「ねぇ、ゆみちゃん…今日のおやつはなぁに?」
 あぁ、京香ちゃんが戻ってきた。私はホッとして、でも恐る恐る答えた。
「今日はホットケーキを焼こうかと…」
「わぁ、うれしい」
 京香ちゃんは顔を上げてにっこり微笑むと、自室に戻って行った。
 いつもの、京香ちゃんだった。

 京香ちゃんが立っていた床の上には、小さな涙の雫がおはじきみたいに落ちていて、窓からの光がきらきらと反射していた。
 どんな小さな所にも、光はちゃんと届くのだな…、そんなことを思った。

 あの時、京香ちゃんは誰に向かって言ったのだろうか。
 いつも明るい声の京香ちゃんの、重くじっとりとした声、絡みついてくるような暗い視線を、私は忘れることができない。
 あれは、京香ちゃんが心の奥に押し込めていたもの…


 京香ちゃんの部屋から聞こえていた歌が消えた。お昼寝したのかもしれない。
 さて。今夜は京香ちゃんの好きなものを作ってあげよう。
 翼はあっても飛ぶことのできない鶏のから揚げ。なんだか皮肉な気もするが、八十歳の京香ちゃんはいまだに揚げ物が大好きなのだ。

「痛いの、痛いの、飛んでけ」
 私は京香ちゃんの心の奥にあるものに向かって、ちいさく、唱えた。


第一話 了

© 2024/2/18 松本育枝


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