誰のものにもならないで

文字数 3,182文字

 月明かりが眩しいくらいの夜だ。鏡子(きょうこ)は自室の出窓に身を乗り出し、天高く昇る満月を眺めている。袖の膨らんだ五分丈の寝巻きから覗く腕は月光を浴びるとマネキンのように見えた。

 鏡子はときおり視線を手元に落とすと、作り物めいた自身の肌を観察する。しかしそれもすぐさま飽きてしまい、再び目線を月に戻すのだった。

この一連の動きが何度繰り返されたのだろう。隣の部屋の扉が開く音を耳にした鏡子は勢いよく自室の出入り口を振り返った。すると間もなくドアノブが傾き、細く扉が開かれる。そちらを見ていなければ開いたことに気が付かないくらい、繊細な動きだ。

「まだ起きてたのかよ…」

研人(けんと)が薄く開いたドアの隙間を覗くと、ベッドに腰掛けた鏡子がこちらに向かって微笑んでいた。

「わたし、お兄ちゃんの宿題終わるまで待ってるって言ったでしょ」

ベッド脇の出窓はカーテンが開かれ、部屋全体に月光が差している。鏡子の部屋は桃色や白の小物が多くなんとも可愛らしいのだが、月明かりのせいか昼間とは違って寒々しく見えた。研人は溜息をつきながら部屋に入り、扉を閉める。

「ちょっと前はそう言って寝てたくせに」

「もう中学生だもん、平気だよ」

からかい半分に言うと鏡子はほんの少し眉を吊り上げた。

「無理してないから、心配しないで。でもちょっとだけお話したい」

言いながら鏡子はベッドに寝転び、いそいそ布団を掛けはじめる。中学に上がっても俺の寝かしつけはいるのか、研人は喉まで込み上げた言葉をひとまず飲み込むことにした。妹の様子がいつもと違うことを、なんとなく感じ取っていたのだ。

 鏡子が肩まで掛布を被ったのを確認すると、研人はベッド脇にしゃがみ込む。しかし鏡子は何か気に入らない様子で兄を見つめた。素知らぬ振りでその目を見つめ返す研人だが、じきにしびれを切らした鏡子がぼふぼふ音を立てながらマットレスを叩きだす。隣に寝ろという意味だ。なおも研人は動かない。

「ベッド壊れるぞ」

「壊れないよ。お兄ちゃん太ったの?」

「いや、お前が重くなってる」

「わたし太ってないよ。4月の身体測定、6年生のときと体重変わってなかったもん」

鏡子は理路整然とした調子で告げた。同時に、痛いくらいの力強さで真っ直ぐ兄を見つめる。

普段は大人しく目立たない少女だというのに、一体どうしてこのような目力を発揮できるのか研人は不思議でならない。ただ、願わくば自分たち兄妹の間以外でもこの意志の強さを見せてくれないものかと本気で思う。

「お前はもうちょい肉つけたほうがいいぞ」

こうなると鏡子はてこでも動かない。それを知る研人は諦めて隣に寝転がることにした。シングルサイズのベッドフレームが2人分の体重に悲鳴を上げる。鏡子はそんなことお構いなしにきゃらきゃら明るい笑い声を漏らしていた。

 中学に上がったとはいえ、妹は研人からすれば小さな子供同然である。女子の体格などこの年頃からはそう変わらないし、研人は5つ年上で男だ。この認識は鏡子が高校生になろうが成人しようが、恐らくずっと変わらない。どんなに時が経とうと、研人にとって妹は妹だ。

 研人はベッドに寝転ぶと右手で自分の頭を支え、反対の手で彼女の腹部を優しく叩いた。すると鏡子は「赤ちゃんじゃないんだから」と困ったような素振りを見せる。それでも不機嫌そうな様子ではなかったので、研人は無視してこれを続けた。しばらくそうしていると、鏡子は天井に視線を向けたまま小さな声で呟く。


「ねえ、お兄ちゃん」

鏡子の声は早くも眠気をまとって低く掠れていた。見ればその目を半ば閉じかけている。まぶたを縁取るまつ毛が月明かりを受け、濡れたように光っていた。そういえばカーテンを開けたままだ。研人はぼんやり窓を見る。

「ん?」

「お兄ちゃんて彼女いる?」

瞬間、研人の手が止まった。鏡子が顔を動かしてそちらを見ると、隣で寝そべる兄はなんとも滑稽な表情をしていた。
鳩が豆鉄砲を食ったようとはまさにこの顔を指すのだろう。目も口も開いたまま、呼吸すら忘れてしまったかのように固まっている。

「お」

しかしそれもほんの数秒、兄は段々表情に落ち着きを取り戻した。

「お前、どこでそんなこと覚えた」

内心動揺したままなのか、研人の声はやや震えていた。鏡子はそんな彼の様子を面白いとすら思った。

「学校だよ。中学になった途端みんな言ってる、だからわたしもわかる。で、お兄ちゃんは彼女いる?」

「いやいないけど」

「じゃあ彼氏は?」

「彼氏もいない…」

 鏡子がこうした言葉を覚えるのはごく自然なことだ。研人は自分が中学生の頃を思い返す。同級生の多くが突然、色恋に走り出す時期。恋愛が使命と言わんばかりの勢いに当時は嫌悪感すら抱いたものの、あれはある種の通過儀礼なのだと後から思えた。

それをわかってはいるものの、いざ妹から恋愛絡みの話題が挙げられると面食らう自分がいる。
誰かにちょっかいをかけられてるんじゃないか、はたまた痴話喧嘩に巻き込まれたのでは?研人は冷静さを装うのに必死だった。手始めに先程から気になってたカーテンを閉め、意味もなく妹の掛布を正す。

「そっか、よかったあ」

すると兄の心境とは真逆の調子で鏡子が言った。薄明かりの中見えるその表情はとても優しく穏やかだった。研人は自身を落ち着かせるべく妹の瞳をじっと見つめる。

「お兄ちゃん…私のことを一番可愛がってね、誰のものにもならないで」

そう言うと鏡子は掛け布団から腕を出し、研人の肩に触れてきた。どうやら妹自身が厄介な目にあっているわけではないらしい。彼女の表情や声色からそれを察した研人はひとまず安堵し、鏡子の小さな手を握ってやる。

「俺はお前一人で手一杯だよ」

すると鏡子は目をつむりながらニコニコ笑った。研人にとって妹はいつまでも妹なのだ。世界で一番可愛い、小さな女の子。
たとえ鏡子がそれを望まなくとも。

「それで俺、鏡子に彼氏できたらぶん殴るかもしれない」

「相変わらず過激だな」

 屋上に続く踊り場で悲壮感ありありに項垂れる研人を唯月(いつき)は冷めた目で見つめた。

「彼女ならどうにか我慢できるか…?いややっぱ無理…」

「お前のそれは間違いなく危険思想だと思う」

「んなこたわかってるよ、わかってるから頭抱えてんの」

研人は顔を両手で覆い、その隙間から唯月を見る。しかし、彼はたいして興味なさげに屋上扉の向こうに視線を向けていた。

「けど頭抱える一番の理由はそれじゃない」

 唯月は目線をそのままにパックジュースを一口啜ると、深く息を吐きながら言った。そして同意を促すように首をかしげて研人を見る。

研人はというと、顔を覆ったままの状態で押し黙っていた。大部分は隠れているものの、その表情は図星を突かれた人間そのものだ。研人のこうしたわかりやすさを唯月は昔から愛していた。

「俺はたしかに鏡子を愛してるけど…どうしたってあいつは妹なんだ」

「そうだな。つまり俺の方が望みはある」

「ハイハイそうですね」

研人は唯月から目線を外し、ぶっきらぼうに吐き捨てる。

「けど鏡子は違う。前から勘付いてたことだけど、最近確たること言われやしないか冷や冷やすんだよ。いいやむしろ、言ってもらえたほうがいいのかもな」

外は晴れてるのか、屋上扉を見上げるとうっすら眩しい。白い光に目を細めていると昨晩の光景が目に浮かぶようだ。

「そのときちゃんと納得させられんのかな、鏡子を。鏡子が手に入れられるはずの幸せを、俺一人のために犠牲にするなんて死んでも嫌だ」

 一番厄介な目に合っているのは自分だというのに、この男はまだこんなことを言うか。

唯月からすると彼はずいぶん強欲に思えた。だからこそいじらしく、どうしようもなく可愛い。これはまごうことなき惚れた者の弱みだ。

「好きだ研人」

「うるせえ、お前もう少しタイミング考えろ」

再び項垂れる研人の白い項を、唯月はそれきり無言で見つめていた。
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