据え膳くわぬは

文字数 2,905文字

 唯月が中学からの付き合いである同級生、研人に告白したのはおおよそ1年前。
研人から実の妹、鏡子に家族以上の感情を向けられている気がするとの相談を受けたことがきっかけだ。

近親者、しかも当人があれほど大切に思っている妹からの恋心。第三者に話すにはかなり勇気がいる内容だったろう。しかし研人は他でもない、自分を信じて胸の内を明かしてくれた。

 だから唯月も隠し立てするのはやめたのだ。自分だけ秘密を持つのはフェアじゃない。ただ、告白するならせめて翌日にしてやればよかったと今でも反省している。あのときの研人の困惑ぶりといったらない。

 唯月は自身の想いが研人に受け入れられるなどとは考えなかった。むしろ告白したが最後、距離を置かれるものだと高を括っていた。しかしこの考えは杞憂に終わる。翌日、唯月は登校中に研人から声をかけられ安堵の涙すら浮かべたものだ。それはそうと彼には後日しっかり振られた。

 こうして佐治唯月(さじいつき)の初恋は儚くも散った。しかし恋心まで失われたわけではない。唯月は振られてもなお研人が好きだった。

そのため、今でも研人へのアプローチは続けられている。唯月にとってもはや相手から恋愛対象とされるか否かは関係ない。
氷見研人(ひみけんと)という一人の男を愛している、その事実こそが自身を支える原動力となっていた。研人へのアピールはつまるところ、心の平穏を保つ儀式の一環なのである。

悲しきかなそれは『研人が自分に振り向くことはない』という確証の表れだった。しかし彼を愛する限り唯月に止まる手立てはない。どこまでも突っ走った先で、一人静かに燃え尽きるのだ。

「お前俺とキスできんの」

などと思っていたのに、そんなことを言われては困る。ひょっとしたら脈アリなのでは、そんなありもしない可能性に心躍らせてしまうじゃないか!俺はそう叫びそうになるのをぐっと堪えた。

「むしろしたい」

大声はなんとか抑えたものの、高鳴る胸の勢いそのまま身を乗り出す。ローテーブルを挟んで向かい側に座った研人がそれに合わせて身を引いた。

「ごめん」

瞬間、我に返って姿勢を正す。恥ずかしい。そもそも研人はしようなどとは言ってないじゃないか、それをこんな風にがっついて…。赤面しているのを誤魔化すべく俺はそっぽを向いた。

「いや、なんつうか俺も悪かった…。そりゃそうだよな、お前俺のこと好きなんだし」

言いながら研人はノートに当てた下敷きを取ってこちらを仰ぐ。ぬるく優しい風が火照った顔と首筋を撫でた。すぐに礼を述べるも、俺はしばらく目線を戻すことができなかった。

「好きな奴とはしたいもんなんだなあ…」

明後日の方向を向いたままの俺を気にも留めず、研人はどこか間の抜けた声で呟いた。

 研人は恋を知らない。先ほどの発言は恋してる側からすれば挑発とも取れる内容だが、研人にとっては単なる疑問に過ぎないのだろう。誰かに恋をし、その相手とキスしたい、手を繋ぎたい、抱擁したい…そうした衝動がイコールになる感覚を彼は味わったことがないのだ。そんな研人に惚れてる側の気持ちを考慮しろなどと無茶は望まない。

「もしや、その理由を説明しろと?」

少し調子を取り戻すと俺は研人に向き直り、顔の前で揺れている下敷きをつまんだ。そのまま下に引くと、研人は自身の腕ごとぱたりとテーブルに倒す。

「え?いや別に。説明できるもんなのか」

「できない。理屈を超えた衝動なんだ」

「そうだよな、俺が無性に鏡子のこと撫でたくなるようなもんだ」

彼が引き合いに出せる愛といえば、実の妹に抱く家族愛のみ。それとこれとは決定的に違う気がしたが、愛しい存在に触れたいという点は同じなのでひとまず黙って聞いた。

「俺、お前とならキスできるかも」

真剣な面持ちで研人がそう言ったとき、俺は世界で一番のアホ面を晒していた自信がある。

「だからさ、する?」

「いやしないだろ、一旦」

俺はタイムの意味を込め右手をあげた。先ほど引いたはずの汗がまた噴き出してくる。おまけになんだか頭痛までしそうだ。

「お前は俺とキスしたいわけじゃないよな、研人」

なんとか冷静さを保ちつつ俺は尋ねる。

「キスしたいのは唯月だろ」

「そう、その通り。ならキスしたところでお前にメリットはない」

「損得の話かよ、これ」

研人は呆れたような表情で言った。そして俺の焦燥をよそにゆっくり思案する素振りを見せる。

「俺はさ、唯月。お前に感謝してる。鏡子のこと相談しても軽口叩いたりしなかったよな。それどころかすげー真剣に聞いてくれた。お前ならそうしてくれるって信じてたけど、やっぱ怖かったよ。…まあそのあと即告られて色んな感情吹っ飛んだけど」

そこで一度言葉を切ると研人はこちらを見た。いまだ動揺したままの俺だが、ひとまず視線を合わせる。研人は言葉を続けた。

「あんときお前のことキッパリ振ったのに、それでも一番の友達でいてくれた。悩みも変わらず聞いてくれるし、けどそれじゃあ俺ばっかいい思いしてる気がする」

一体何を考えているのかと思えば、まさかそんなくだらないことを。研人の言葉を聞き終えた俺は無意識にため息をついた。なんだか自らを軽んじられたかのような気持ちだ。同時に、研人を自責の念に駆らせてしまった自分に腹が立つ。

「研人お前、鏡子ちゃんにも同じこと提案するのか?結ばれなくていいからキスしてほしいと言われれば黙って応じる?」

「鏡子にそんな不誠実なことするわけねえだろ」

「それでいい。そして俺にもそんな情けをかけるな。俺は見返りを求めてお前のそばにいるわけじゃない」

「でも世の中そういう関係あるよな?恋人じゃないけどセックスするとか」

「お前ここは大人しく頷いておけ、ちょっとカッコイイこと言ったんだから!」

俺が声を荒げると何がおかしいのか研人は笑いだした。こんなこと言っておきながらキスの話題にあれだけ食いついたから?…それについては言い訳できない。

「お前って硬派なんだな。さっきのは本音だけどさ、お前とのことそこまで深刻に捉えてないよ。我慢してまで唯月になんか返そうなんて思ってねえから」

「そうか…悪い、大げさに受け取ってたかもしれん」

「うん。だからさ、キスしてもいいよ」

どうしてこの流れで話が振り出しに戻るんだ。俺はもう課題など放っといて研人の部屋を出たほうがいいのかもしれない。

「お前俺にキスするのは不誠実だと思わないのか」

「鏡子は血の繋がった家族だ。いくら可愛くてもあいつの気持ちは許容できないし、しちゃいけないと思う。それを甘やかしたらあいつのためにならない。けど唯月は友達で、そうなると少し違うかな」

「もう一度聞くが俺とキスしたい?」

「いいや。けど唯月が相手なら嫌ではない」

 俺は愕然として自分の額に手をやる。額から出たのか手汗なのかよくわからないが、とにかく変な汗をかいていた。俺の頭の中はもうめちゃくちゃだ。一番の得意科目である数学の予習プリントだって、今は一問も解ける気がしない。だがこの状況で断る人間などそうそういないというだけはわかる。俺はゆっくり口を開いた。

「勃つから駄目だ…」

「そうか。そりゃ駄目だな」

研人は真面目な顔で頷くと、汗で濡れた俺の顔を下敷きで仰ぎだした。
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