第5話

文字数 1,905文字

嫌味なのかそれとも褒めているつもりなのか、母は「馬子にも衣装ってよくいったもんよね」とそう言っていたが、試着室の鏡の前に立った時も、家を出る前、玄関の姿見の前に立った時も文雄は、新しいスーツを着た自分を自賛していた。ネイビーのツヤのある生地のスーツも、薄いブルーのシャツも、それに合わせた青いネクタイも、先日の見合い写真とは比べ物にならない程しっくりきた。それに気分を良くした文雄は、買う予定もなかった革靴まで購入したのだ。レザーソールのシングルモンクストラップシューズは、この数年で一番高価な買い物になった。結婚を本気で考えているわけではなかったが、みっともないことができないのは、三十路男のプライドだった。
 普段着なれないスーツの所為か、文雄は先ほどから首元の締め付けが気になって仕方がない。人差し指を結び目に差し込み、もう何度目になるのか、無意識にまた少しネクタイを緩めた。
「今日は本当に良いお天気ですね」
 とあちらが言えば、
「ええ、本当に。近頃ずっと、お天気が悪かったでしょう? 今日は久しぶりにお布団干してきたんですよ」
 と饒舌な文雄の母は、その三倍近くの言葉でボールを投げ返す。昔からお喋りなのだ。ホテルのロビーで見合い相手と顔を合わせた途端に、父が不在の理由を「昨晩、酷い熱をだしまして。ご迷惑おかけするわけにもいかないからって、私が止めたんですよ」と告げた。取り繕うのが上手いと言えば聞こえはいいが、悪く言えば二枚舌で、臆面も無く嘘をついてしまう母に、文雄は女は怖いと舌を巻いた。実際、父は今朝、寝室から顔も出さなかった。それは明らかに文雄に対する憤懣からのことだ。父に打たれたあの日、自身の親子関係が希薄だからなのか到流には「早くお父さんと仲直りしてください」と、父子のくだらない不和を案じられていた。自分が先に頭を下げるべきだと思う一方で、文雄は排他的で古臭い田舎町の因習にとらわれ続ける父に、素直に謝罪する気にもなれず、未だしこりを残したままだった。
「本当にお綺麗なお嬢さんで。今日のお洋服もよくお似合いよぉ」
 母のおべっかに、文雄の向かいで恵理子が照れたように笑った。写真で見るより、実物の方が、やはり母の言うように綺麗ではある。それに、先ほどから、にこにこと母の話に相槌を打つ恵理子の姿に、文雄は好印象だった。地元の信用金庫に努めているという。父親が叔父の後輩だということもあり、とんとん拍子に話が進んだのだ。断る腹積もりの文雄も顔を合わせれば、多少の情も湧いた。
「中瀬さん……文雄さんは、普段、どんなお仕事されてるんですか?」
 思い惑ったように名前を呼ぶ、恵理子のその表情に文雄はかわいいな。などということを考えてしまう。
「電気工事の施工とか、ガス給湯器の設置とか、主人の手伝いをしておりましてね。見積もり書を作ったりっていう、簡単な事務仕事もやってくれてるんですよ。この子、愛想だけはいいから、ご近所さんからも評判でしてね。ゆくゆくは、主人の跡を継いて地域に貢献したいって。ねぇ?」
 嘘ではないが、本当でもない。やっていることは雑用ばかりで、地域に貢献したいという思いなど微塵もないのだ。割って入った母の強引さに、文雄は呆れて閉口した。その様子に恵理子は鈴を鳴らすようにカラカラと笑い、今度は文雄が照れる番だった。
「ちょっと、黙っててよ……すみません」
「面白いお母さんですね」
 面白いだけならよかったが。文雄は咎められたことに、なによ。とふてくされる母を横目でちらりと睨みつけた。
 最後に恋愛をしたのはいつだったか。文雄には大学卒業後、しばらく遠距離になった恋人がいたのだが、生活環境の違いもあり三年と続かなかった。四年も前に終わった最後の恋が、もうどんなものだったのか、文雄の中では曖昧になっている。高校時代初めて付き合うことになった同級生の、「かもめ」で知り合った客のOLの、最後に分かれた遠距離の恋人の、何に惹かれて、どう距離を詰めていったのか、そんなことすら文雄は思い出せない。恵理子は確かに、悪くはないのだ。ただ、長すぎた休息が、文雄を少しばかり臆病にしているようだった。それに、やはり、ここにこうして燻り続けるということが、文雄にはまだ解せない。いずれ、海底に沈んでしまうのだと思うと、到流のいつか死ぬだろう? という問いかけに文雄は逡巡する。酷くかさついた手だった。思わず握った到流の手は水仕事をするせいか、指先は凍てついたように冷たく、骨ばっており、表面を覆う皮膚はガサガサと硬かった。ささくれだった皮膚の感触が掌に蘇り、文雄はテーブルの下で両手をこすり合わせた。
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