第3話

文字数 5,477文字

 朝、文雄が起きたてのまだはっきりしない頭で一階へ降りると、ちょうど玄関を出て行こうという、父の妹と鉢合わせた。普段からなにかと忙しない文雄の叔母は、挨拶もそこそこに、じゃあよろしくね。と、表へと駆け出して行った。こんな早くに来なくても、と愚痴を漏らす母と共にリビングに行ってみて、叔母が「よろしくね」と念を押した理由を文雄は知る事になった。
 テーブルの上には、茶色い台紙が一冊、恐らく叔母が置いて行ったのだ。この七年、口伝えにはそういう話もあったが、実物を見たのは文雄も初めてで、へぇ。とまるで他人事の様に感心した。
「写真と釣書、用意してって……」
 叔母に叩き起こされたのだろう、寝間着姿の母は大きな欠伸をする。近くに暮らしている事もあり、中瀬家の都合はお構いなしに、ずかずかと踏み込んでくる様なところが文雄の叔母にはあるのだ。叔母にしてみれば実家なのだが、祖父母はとうに他界しており、母は時々それが気に入らない様だった。
「なんでも、急なのよ……今日、加藤さんとこやってる? ……電話一本で済む話じゃないの、ほんと、誰に似たんだか……あんたスーツ持ってたわよね?」
 義妹への愚痴と、文雄への問いかけが交互に入り混じる様子に、文雄は女性のマルチタスクが得意だという話にも納得がいく。とはいえ、昨日「かもめ」であんな話をしたからかだろうか、突然降って沸いた見合いの話に納得したわけでもない。
「断ってよ、見合いなんかする気ないよ?」
「まぁ、一回ご覧なさいよ、綺麗なお嬢さんよ? ほら」
 開いた台紙の写真には、なる程、母が綺麗なお嬢さんだと言った通り、決して美人というわけでは無いが清潔感のある、薄化粧の女性の笑顔があった。黒い膝丈のワンピースが良く似合っている。釣書の名前は「工藤 恵理子」となっており、年齢は二つ下の二十八歳。
「とにかくね、一回……ああ、おはようございます、中瀬です」
 話が途切れ、よそ行きの声の母を見やると、いつの間に手にした子機でどこかへ電話を始めていた。文雄に言わせれば、叔母も母もそう変わらない。ソファに深く体を沈め、しばらく着ていないクローゼットの中のスーツは、まだ着られるだろうか? 文雄はそんなことを懸念した。
 なにか見えない力でも働いているはずだ、文雄はその写真店の前を通る度、あるいは訪れる度に考えた。そうでもなければ、繁盛しているようにも見えない、こんな片田舎の写真店が潰れずに今も営業し続けていることが不思議なのだ。今時、フィルムを現像に出す人間もいないだろうに、と文雄は店のカウンターに並んだ売り物のフィルムを眺めた。準備ができたら呼ぶから。そう言われ、先ほどからホーロー製のやかんを乗せたストーブの前で、店主が戻るのを待っている。細い口からはひっきりなしに蒸気が吹き出し、通りが見える店の窓は結露していた。水滴がツーっと流れ落ちた窓の外は灰色で、文雄の気分は、見合いの話も相まって少しばかり沈んでいる。一つだけ嬉しかったことと言えば、三年前に会合の為に買ったスーツが、まだ問題なく着られたというこだろうか。
 壁には沢山の写真が飾られており、文雄は今までじっくり見たこともなかった、写真一つ一つに目を通す。丸や四角に縁どられた家族の肖像は、この写真店ができて以来うん十年かけて撮影されてきたもので、しかし、新しそうなものは見当たらなかった。その中に文雄は自分の写真を見つけた。七五三の頃、撮影に来た記憶はある、ただ、写真を見た記憶はなかった。懐かしいな。と立ち上がり壁際へと歩み寄る。まだ三十代と思しき両親に挟まれ、小さな文雄は家族写真に相応しくない、トミカのミニカーを握って不機嫌にカメラを睨みつけていた。気に入らないことがあったのだろう、当の文雄は覚えてもいない。その隣には、やはり両親に挟まれて、こちらは何を考えてるいのか笑うでもなく、ただぼんやりした表情の五歳児がいた。誰かに似ている気もする。
 結局、隣の五歳児が一体誰なのか、文雄はわからないまま、同級生や見知った近所の顔の写真をしばらく眺めた後、文雄はスタジオで写真をいくつか撮影した。言われるままに写真を撮ってみたものの、結婚するつもりもないまま、見合いの話を受けるのは相手にも失礼だと、文雄は叔母や母にどう言い訳するのかを考えながら写真店を出た。タバコを口に咥えてネクタイを緩める。軽トラックの運転席に回り込み、脱いだジャケットを放り込むと、文雄は海風の冷たさに身をゆだねた。ストーブの熱ですっかり火照ってしまった文雄には、冷たい潮風が心地いい。吐き出した白い煙は強い風に煽られ瞬く間に、匂いだけを残して消えた。
 なんとか断る口実を見つけなければ。恋人の一人や二人いれば恰好もついたろうに、こんな田舎町では出会いなどあったものじゃない。ちっと舌打ちして、運転席に乗り込もうと体を屈めた文雄は、フロントガラスの向こうに、自転車を押してこちらに歩いて来る人影を認める。ブラックウォッチのピーコートだった。
「到流くん!」
 やや馴れ馴れしいかとも思ったが、田川君と呼ぶのは堅苦しい気がしたのだ。手を振ってやると、到流はぺこりと頭を下げた。買い物にでも出ていたらしい。自転車の前かごには、白いビニール袋が入っている。一番近いスーパーでも車で十分は走る。自転車ならその倍以上で、特に、今日のように風の強い日ともなると、その道のりは楽だとは言い難い。よほど寒かったのか、傍らまでやって来た到流の頬や鼻は、すっかり赤くなっていた。
「買い物?」
「ああ……」
「スーパー遠いでしょ?」
「すね……ここまで一時間もかかっちゃって……」
「そんなかかる? あそこのマックスバリュ?」
「いや、チャリンコ、途中でチェーン切れちゃったんですよ……」
 昨日見た時は、カラカラと耳障りな音を立てていた。伸び切ったチェーンがどこかに引っ掛かりでもしたのだろう。よく見れば、前かごは右にわずかに歪んでおり、到流の自転車は随分古い。
「送ってこうか?」
 到流の住む若宮町の漁協までは、歩けばまだ二十分はかかる距離だ。
「え、でも……」
「歩いて帰るの大変っしょ」
 それもあったが、見合いを断る言い訳をまだ思いついていない。文雄は到流の返事を待たず、自転車を抱え上げた。
 簡素な造りの平屋建ては、どの家も似たような作りをしており、どの家も一様に古い。強い海風から互いを守るためなのか、びっしり密集しており、一見すると長屋のようにも見える。その一角に到流の暮らす赤いトタン屋根の家はあった。玄関口に直接打ち付けられた、焼けたかまぼこ板のような表札には、うっすら「田川」の文字が見えた。文雄はその玄関先に、壊れた自転車を下ろしてやる。
「すんません……」
「いいのいいの、気にしないで」
 結局、六分ほどの短いドライブでは、見合いを断る言い訳は思いもつかなかった。かといって、車中で到流との会話が弾んだということも無い。文雄のちょっとしたくだらない問いかけには答えたが、到流から何か話かけてくるというようなことはなかった。到流はすっかり磨耗したシリンダー錠で、木枠の引き戸をガチャガチャと鳴らし始める。随分そっけないな。文雄はその背中を眺めながらそんなことを考えた。何を期待したわけでもない。しかし、もうこれで終わりなのかと思うと、なんとなく消化不良を起こしたような気持ちになる。こうしてじっとしているのは、見返りを求めているようでみっともないと、文雄は諦めた様に、ポケットから先ほど仕舞ったばかりのキーを取り出した。途端に「上がってきません?」と到流の声が呼び止める。
「コーヒーぐらいだったら、出せるんで」
「あ……でも、ほら……」
 なんだ、ちゃんとしてるんじゃないか。五つ年下の若い男の気遣いに、家に帰らずに済んだと、文雄は顔には出さずに喜んだ。シャツをめくり、安物の腕時計を確認したのには、あまり意味はない。すぐに飛びつくのは恰好がつかなかったからだ。
「いや、迷惑だったら……」
「あ! 大丈夫! 時間なら、まだ、あるから」
 家に帰っても、テレビを見て時間をつぶすだけなのだ。その本音は隠したまま、文雄は再び、車のキーをポケットに仕舞った。
 こちらに戻って来たばかりだからなのか、通された部屋の中はがらんとしていた。黄色く焼けた畳の上に、小さな折り畳み式のテーブルが一台ある以外、家具らしい家具は何もない。襖のない押し入れの中にハンガーにかけた洋服がぶら下がっており、それもそう多いわけでもなく、到流の質素な生活ぶりが伺えた。若い男が一人で暮らす家にしては、先程から微かに鼻をくすぐる匂いがあり、文雄はその匂いに大学へ進学するまで一緒に暮らした祖母を思い出す。祖母はいつもこんな匂いをさせていた。湿気た化粧品のような匂いだ。
「ミルクとか、用意ないんで……」
 言いながら不ぞろいのマグカップを二つ持って、到流が台所から戻って来る。手を伸ばし、文雄は片方のマグカップを受け取った。
「もしかして、お婆さんと暮らしてた?」
 部屋の中には年よりが暮らしているという痕跡は何もない。どちらかというと、そう言ったものを何もかも捨ててしまったという印象があった。焼けた壁のカレンダーと思しき跡や、畳に残された色の違う空白は、そこに何かがあったという証拠だった。
 到流は、なぜわかったのだ、と言いたげな表情で文雄を見下ろした。
「あ、いや、うちのばあちゃん、こんな匂いだったから」
「匂います?」
 微かに香るという程度で、気になるわけでもない。話の切っ掛けのつもりだったが、到流の反応はいまいちで、文雄は不味かったかと「そんなに気になるもんじゃないから」そう、笑ってごまかした。若い男が年寄りの匂いを喜ぶわけもないか。自分の振った話題が面白くもなかったことを文雄は反省し、話題を変える。
「東京、長かったの?」
「高校卒業してからなんで、七年くらいですかね?」
「あ、じゃあ俺が戻るのと入れ替わりなんだ? なんで戻っちゃったの?」
「なんでっすかね……」
 唇の端を歪ませて、到流は皮肉っぽい笑みを浮かべた。その表情に、文雄はまた話題を間違えたかと気を揉んだ。
「なんか……聞いてます?」
 到流の事で文雄が聞かされた事と言えば、足の悪い老人の「関わるな」という忠告だけで、それ以上は知らない。それだって、文雄は深く詮索する気もなかった。年寄り連中の様に、あるいは叔母や母の様に、他人のあれこれに首を突っ込むつもりが文雄には無い。
 到流の指がつるんとしたテーブルの上で、落ち着きなく遊び始めるのを眺めながら、「なんにも、聞いてないよ」と文雄は応え、マグカップのコーヒーに口を付けた。熱湯を注いだらしいコーヒーは、思いの外熱く、文雄の尖らせた唇の先端が、ジっと焼ける。
「熱っ!」
 短い悲鳴をあげた文雄の体はビクリと跳ねる。今日は朝からついてない。文雄は焼けた唇を舌先でペロっと舐めた。向かいで様子を見ていた到流が、乾いた様な咳をして、見ると文雄がよほど可笑しかったのか、今度は白い歯を覗かせて、あははと笑った。二十五歳の若者らしいその明るい表情に、文雄は少しホッとした。昨晩「かもめ」で別れた到流は、冷めてくたびれていた。何が到流をそうさせるのかは、文雄にもわかる。「やっぱ田舎だよ、こっちはさ」そう言った太田のセリフが思い返された。
「どっか行ってたんすか?」
 到流の目が文雄の、着なれないスーツに止まる。
「え? ああ、これ? 見合い写真撮ってた」
 写真は月曜日の夕方には仕上がるということだった。
「もう三十でいい歳だって。結婚結婚って、うるさくってさ……やりたいことやれないまんま、結婚なんかね……」
「なんか、あるんすか? やりたい事」
「かもめみたいな、飲み屋やりたかったの、俺」
 地元の先輩だった太田から、アルバイトにこないかと声を掛けられたのは大学一年の冬のことだった。ちょうど、太田が高円寺の空き物件を見つけた時期で、客ウケのよさそうな若いバイトを探していた。アルバイトはしなくても生活に困ることはなかったし、大学卒業後地元に帰ることが決まっている文雄は、社会経験を積む必要すらなく、何をしたいということもなかったのだが、面白そうだとは思った。二つ返事で入ることになった、太田の店での仕事を文雄はすぐに気に入った。店に来る客は年齢も性別も様々で、話をすれば文雄の知らない色んな世界を教えてくれた。一年、二年と働くうちにこれが天職だと思いはじめ、いつしか文雄の夢は「かもめ」のように、沢山の人が笑顔で集まる店を持つことになっていた。それなのに、家業を継がないことを、父はきっと許さないと、文雄は東京を離れる時、その夢を置いてきてしまったのだ。後悔ばかりが今も、影のように文雄の後を付きまとう。
「こんなとこ……戻って来るんじゃなかったな……」
 文雄の本音だった。
 古い家だ、隙間でもあるのか、吹き込む風がぴぃっと甲高い笛のような音を響かせ、カタカタカタと忙しなく窓ガラスが揺れていた。文雄はあはは。と静まり返った部屋の中で笑う。
「……なんてね。親が生きてるウチは、親孝行だと思って言うこと聞いてあげないとさ。いつか死んじゃうし」
「自分だって、いつか死んじゃいますよ」
 いつまで燻っている気だ。そう問われているような気がして、文雄は到流から目をそらした。窓ガラスの向こうには、絵の具で描いたような濃いグレーの雲があり、凪がまだ遠いことを教えている。
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