第4話

文字数 5,721文字

 月曜日は朝から三軒の家を周り、電球を変えたり、換気扇の掃除をしたり、スーパーへの買い出しに出かけたりと文雄は、忙しく車を走らせた。今朝、わかったことだが、写真と釣書は形だけで、見合いの話は決まっているということだった。土曜日には、市街のホテルでの会食がセッティングされており、文雄の週末の予定はすでに埋まっていた。さんざんっぱら悩んだ断りの理由だったが、ただの徒労に終わってしまい、文雄はあほらしいと、母の作った昼食のうどんを啜りながら、昼のワイドショーをぼんやり眺めた。午後からはまた別の二軒の家を周り、雑用を済ませた後、ようやく、写真店へと写真を受け取りに向かったのは、四時を過ぎたころだった。
「恰好よく撮れてるよ」
 そう言って広げられた台紙の中で、野暮ったいスーツを着たぱっとしない男を眺め、文雄ははぁと呆れたようなため息を吐いた。店主の言うように格好いいとは、お世辞にも言い難い。スーツはショッピングモールの紳士服売り場の店員に、勧められるままに買ったもので、こうして見てみれば、色も形もいまいちだった。身長が高い分、着れば様になるかとも思っていたが、まるで、三流企業のくたびれた営業マンだ。
「スーツ、新調するか……」
 当日は、もう少しマシな格好ができるだろう。文雄はこれから出て行く出費について、今度は頭を悩ませることになった。
 写真を持って店に戻ると、母は夕食の準備中なのか自宅の方から、出汁と醤油のいい匂いがしていた。父の姿は見当たらない。いつもなら、閉店の十八時までは必ず店番をしているのだ。
 店舗スペースは八畳ほどで、家電製品の展示はない。店に二台ならんだラックには、照明器具とガス湯沸かし器のサンプル品がいくつかと、交換の多い電球や蛍光灯、電池類などが並べてあるばかりだ。そのラックの裏側には簡単な事務作業スペースがあり、さらに奥に自宅に続く戸口があった。文雄は机の上のメモパッドに目を落とす。父宛ての電気工事の見積もり依頼が、一件入ったことが記されていた。
「ただいま」
 戸口の向こうへ向かって文雄が声を掛けると、台所から母が顔を覗かせた。文雄の顔を見るや否や、何やら血相を変えた様子で駆け寄って来る。
「あんた、何したの?」
 顔を合わすなり、そう言われても、文雄には一体何のことだかわらない。
「なに?」
「お父さん、これよ」
 母は頭の上に人差し指を二本立てた。父を怒らせるようなことをしたという記憶が文雄にはない。
「写真、貰って来た?」 
「ああ……親父、なんで怒ってんの?」
 しらないわよ。と、母はスリッパからつっかけに履き替える。それから文雄の手から写真をひったくり、お母さん、聡子ちゃんとこ行ってくるから。と告げ、さっさと店を出て行ってしまった。普段は文句ばかりの母も、こういう時だけは、叔母を頼るのだ。どっちもどっちだと、文雄は店を出て行く母親を見送った。文雄は母親が先ほどやって来た戸口へ上がり、父がいると思しきリビングへと向かう。通りがかったキッチンでは、ネギがまな板の上に切りかけたまま、放ってあった。
「ただいま」
 リビングの戸を開けると、父はちらりと文雄を一瞥する。母の言うように、何事かに腹を立てているのだ。眉間の中心の深い皺は、より深く刻まれていた。
「ちょっと座れ」
 言われるままに、文雄は父親の向かいのソファに腰掛けた。ストーブは煌々と赤い火を燃やしており、室内は少し乾燥しているようにも思える。
「お前、最近、東京から戻った若いのと、親しくしてるのか?」
 どこから聞いたのか、到流のことなど、父は知るはずもない。
「到流くん?」
 親しくしているというほど、良く知った仲でもない。家に送り届け、少し話しをしただけだ。
「名前なんてどうでもいい。何を考えとるんだ」
「何って……」
「ウチは客商売なんだぞ。お前が盗人の息子と付き合いがあると知れたら、良い顔をせんもんもいるんだ。世間体を考えろ」
 盗人の息子。到流をそう呼んだ父を、文雄はどこか不思議な気持ちで見ていた。到流の父親が何をしたのかは、文雄には分らなかったが、父親の犯した罪の咎を、息子の到流が背負わなければいけない道理などどこにもないと思う。良くも悪くもやはり田舎なのだ。あちらからもこちらからも、自分の行動を監視され、時には、それを咎められ、文雄を押し潰そうという空は、そんな周囲の重圧を吸い上げたようにいつも鈍色なのだ。
「世間体、世間体って……」
「なんだって?」
「とっくに沈みかけた船だろ……それに媚び売って、縋り付くことが、世間体かよ?」
 父の拳がテーブルの天板を強く叩き、ガシャン、と、灰皿や湯飲みがわずかに跳ねた。ストーブの熱で温まった空気が、文雄の皮膚をひりひりと乾燥させていくような感じがした。
「俺は……親父みたいに、こんなとこで燻ったりしな……」
 言葉をすべて吐き出す前に、文雄の左頬に衝撃が走り、視界がフラッシュライトの様にチカチカと点滅した。耳の奥から聞こえるキーンという耳鳴りが、鼓膜を内側から突き破ろうとしているようだ。文雄は左頬に手を添える。ただ、驚いた。今まで一度だって、父が文雄に手を挙げたことなどなかったからだ。しばしの沈黙がリビングに横たわり、文雄を打った父は立ち上がったまま、文雄を睨みつけていた。握られた拳は小さく震えている。怒りや呆れでなく、父の目が灯す色は悲哀だった。責められるなら、まだ良かった。そうでないから、文雄は父の寄越す視線に耐えられずに立ち上がる。不意に眼窩に見下ろした父は、随分小さく見えた。親父はいつの間にこんなに小さくなったのだろうか。子供の頃はもっとずっと大きく見えたのだ。文雄を抱き上げた逞しかった父の腕が、もう文雄を抱き上げることができないのはわかっていたが、改めて文雄は父の衰えを左頬に痛感する。父が打った頬に、痛みはない。老いて衰える父に掛ける言葉はなく、文雄はその場に立ち尽くす父を置き去りにリビングを飛び出した。
 行く宛もなく訪れた「かもめ」には相変わらず、客の姿がない。商売が成り立っているのかと、文雄は不思議に思ったが、聞けば、東京にいるころに始めた株式投資が上手く行き、店は趣味のようなものだと太田は笑った。ちらほら同級生や知人が、文雄のように尋ねて来る。親戚から譲り受けたこの建屋は家賃もいらない。そんな店で到流を雇い入れたのは、太田なりの到流の境遇に対する気遣いらしかった。
「反抗期、遅すぎない?」
 左頬が赤く腫れていることの理由について、太田は率直な感想を述べた。言われてみれば、確かにそうなのだ。三十路にもなって反抗期がやって来るとは、文雄自身も驚きだった。思えば文雄は十代の頃、親に反発したという記憶がない。文雄の両親は口うるさくはあったが、大学卒業までは自由にやらせてくれた。十代で反抗期を経験しなかった文雄は、二十代になり芽生え、鬱積してきた反抗心を三十歳の今日、爆発させた。やはり、それは太田の言うように遅すぎる。
「俺なんか、中学の時にそんなの終わってるよ? 拗らせてんねぇ、ブンちゃん」
 ピーナッツを口に放り込み、太田が笑う。太田にしてみれば笑い事だが、当の本人の文雄にしてみれば人生で初めて、親に打たれたのだ。情けない事この上ない。
 グラスに注いだもう四杯目になる、濃い焼酎の水割りを文雄はぐいっとあおる。割合を間違えたのか、喉が一瞬カッと焼けた。
「飲みすぎないでよ?……俺面倒見れないよ」
「大丈夫だって……一人でできるから」
「なんだよ、一人でできるって……」
 呆れた太田をよそに、文雄はさらにグラスに焼酎を注ぎ入れる。飲んで忘れられるような脳みそでないことは文雄自身も知ってはいたが、それでも飲まずにいられなかった。いつの間に自分は父の身長を追い抜き、いつの間に父はあんなに小さくなったのか。店の玄関を出る際、振り返った父はまだじっとリビングに立ち尽くしていた。その背中の哀愁を、自分の罪悪感が見せた幻想だと、文雄は言い訳した。どちらにしても、早く忘れてしまいたい。文雄は再び、グラスの水割りを一息に飲み干した。
 文雄が目を覚ましたのは、暗い部屋の硬い畳の上でのことだった。最初にはっきりしたのは嗅覚で、他人の家の匂いを嗅いだ、それから次に耳がゴウゴウと表を吹き付ける風の音を聞き、最後に少しづつはっきりしていく視界に、部屋の隅っこで横になる誰かの背中が見えた。刹那、文雄は寒さに体をぶるっと震わせる。抜けてしまったアルコールは、文雄の体温を一緒に奪っていったようだ。それに、体が筋肉痛のように痛む。酒を飲みすぎた日はいつもこうだった。文雄は痛む体を無理矢理持ち上げ、辺りを見渡す。表の街路灯の明かりが差し込む、カーテンのない六畳ほどの小さな和室は見慣れなかった。向こうの人影が寝苦しそうにもぞもぞと寝返りを打ち、薄明かりの中に、到流の顔がぼんやりと浮かぶ。寒いのだろうか、到流は体を小さく丸めた。文雄は自分が被っていた毛布を、到流の上へとかけてやる。そのわずかな重みに、到流が瞼を持ち上げた。他人の家の硬い畳の上だ、よく寝付けなかったのだろう。
「あ……ごめん…起こした」
「や……大丈夫ス……」  
 そう言って起き上がった到流は首をぐるりと回した後、両手を大きく伸ばしあくびをした。
「ここ……」
「店の二階……文雄さん、一人で帰れないから、泊めてやってって太田さんが」
 文雄さんと呼ばれたことに、文雄はなんとなく気恥ずかしさを覚える。他人にそうやって名前を呼ばれるのは、久しぶりのことだった。
「太田さん、怒って帰っちゃった?」
「奥さんが、出血したらしくて……病院行きました」
「え? 嘘? 大丈夫なの?」
 太田のスマホに妻から連絡があったのは、文雄がカウンターに突っ伏していびきをかいてる最中のことだった。
「なんか入院することになったみたいで」
「あぁ……最悪……」
 最悪のタイミングだ。文雄は酔いつぶれたことを酷く後悔する。予定日は来月だといっていた。妊娠後期のこの時期の出血がどれほどの影響なのか、文雄にはわかりようもなかったが、入院と聞けば、それがただ事でないことは理解もできた。それに加えて、到流にまで迷惑をかけている。何を考えているのだと、文雄は両手で頭を抱えた。
「なにやってんだろ……ごめん、ほんと」
「親父さんと、揉めたんですか?」
「揉めたっていうか……」
 到流が原因だとは言えず、文雄は言葉を濁した。
「古い人間だから……頭が固いっていうか……親父ってみんなそんなでしょ?」
「そんな感じなんすかね? 十年以上会ってないんで、わかんないですけど……」
 到流の父親がなにがしか問題を抱えているということを、忘れてしまっていた。ついうっかり零した自分の失言に、文雄は苦い顔をする。
「いや、そういうつもりじゃなくって……なんていうか……一般的な話っていうか……ウチはっていうか……到流君のところが、その、どうって話じゃなくて……」
 文雄はうわごとのように言い訳を繰り返すのだが、口を開けば開くほど、深みにはまる。
「密漁したんすよ、ウチの親父」
 街灯の明かりにぼんやりと浮かぶ到流の表情は変わらない。どこか、冷めたようなその口ぶりに、文雄は拍子抜けさせられた。
「ギャンブル好きで、借金つくっちゃって、首回んなくなったんですよ。夜中……誰もいない内に舟出して禁漁区で、魚採ってて。なんか、ちょいちょいやってたみたいで」
 これが知りたかったんだろう? 到流の、口ぶりと同様に冷めた視線にそう言われているような気がして、文雄は俯いた。そんなことを聞きたいわけではなかったのだ。もしかすると、自分でも気づかなかった好奇心が、到流には透けて見えていたのかも知れない。
「マスト灯……あ、舟についてるライトなんすけど、それ点けないで、舟出すの見たことあって……変だなって……わかるんすよ悪い事してるのって。桟橋あるじゃないですか? あの一番端っこで、親父戻って来るの、ずっと待ったんですよ」
 海と空の境目が見えないほどに、夜中の海はただただ暗い。海がそこにあることさへわからない、その暗闇に向かって伸びるコンクリートの桟橋の先端に立ち、父親が戻るのを待った幼い到流の気持ちを考えると、文雄はいたたまれない。
「俺戻って来た親父に何にも聞けなかったんですよね……」
 聞いたら、ホントのことになるような気がした。
 到流はそう言った。
 それからしばらくして、到流は父と離別することになる。密漁の最中現行犯での拿捕だった。禁漁区への侵入やその頻度が問題視され、到流の父親には三か月の実刑判決が下り、到流は祖母と二人、この町に取り残された。
「マジで、しんどかったです」
 地域の村社会は到流の父親を許すことはなかった。十年以上経過した今もまだ、到流に向けられる世間の目が、優しいものでないことを文雄は知っている。
 到流の父は、刑期を終えた三ヶ月後、結局、この町には戻らなかった。
 磯の小さな潮溜まりに捉われた小魚の様に逃げ所の無かった到流を、海へ放ったのは祖母だった。苦しいながらも、少しづつ貯めた僅かばかりの貯金を、高校を卒業したその日、到流に手渡し町を出る様に告げた。
「二か月前、ばあちゃんが入院したんですよ。ばあちゃんは戻って来んなって、言ってたけど、心配だったし、ちょうど仕事切れたっていうのもあって、こっち戻ったんすけど……家戻ったら、なんも無くなってて、びっくりしました」
 入院前に祖母が全て処分したらしく、到流が戻ると、家の中は空っぽだった。文雄は、がらんとした到流の部屋を思い浮かべる。
「おばあさん……大丈夫なの?」
「先月、病院で死にました。分かってたんですかね? 自分が死ぬの……」
 表情の無かった到流の顔は、見る間にくしゃっと潰れた。暗く冷たい部屋に、到流のこらえきれずに吐き出した、掠れる吐息の様な嗚咽が拡散し溶けて行く。辛かっただろう、と思うと文雄はいてもたってもいられず、到流の手を取り握った。なにを言っても慰めにはならない。文雄はただその手を強く握った。
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