(八)

文字数 5,752文字

 連なる山々の上空を進んだリウェルが両親の許に帰り着いたのは、最後の紅い陽の光が西の山々の背後に姿を消したのと同じ頃だった。岩山の中腹の塒で待つ両親の前に降り立ったリウェルは、或る種の覚悟を決めたかのような表情を浮かべると、背の翼をきれいに畳み込み、長い尾を真っ直ぐに伸ばし、四肢を揃え、居住まいを正し、両親を見上げた。
 〈ただいま戻りました。ちちうえ、ははうえ。〉リウェルは両親に向かって告げた。
 〈おかえり、リウェル。無事であったか。〉〈おかえりなさい。〉カレルとリラは普段と変わらない言葉を投げかけると、笑みを浮かべながらリウェルを見下ろした。
 リウェルは両親の前に進み出ると鼻先を触れ合わせ、次いで頬を擦りつけ合わせ、再び元の場所に戻ると姿勢を正した。そのまま両親を見上げたリウェルは、わずかに首を傾げた。〈ちちうえも、ははうえも、何かあったのですか?〉リウェルはカレルを見、次いでリラを見た。
 〈何もないであるぞ。〉カレルはリウェルから目を逸らし、同時にリラからも顔を逸らした。
 リウェルは訳がわからないとばかりに父カレルを見、その答えを求めるかのように父の傍らの母リラを見た。リウェルが目にしたのは、カレルを横目で見ながらも口角を引き、わずかに白い歯を見せ、笑いを堪えるかのような表情を浮かべるリラの姿だった。
 〈そんなに横を向いて、何もないわけがないでしょうに、カレルったら。〉リラは堰を切ったように笑い出すと、呆れた様子も見せつつ窘めるかのように言った。
 カレルは顔を逸らしたまま鼻から勢いよく息を吐き出した。そのままゆっくりと息を吸い込むと再びゆっくりと息を吐き出し、リウェルに顔を向けた。〈我のことよりも、〉カレルは視線を漂わせるもすぐにリウェルを見詰めた。〈リウェルこそ何かあったのではないのか? ここ数日、普段よりも落ち着かない様子であったが。〉
 〈ええと……、〉リウェルはカレルの視線を正面から受け止めるも、戸惑いの表情を浮かべると目を逸らし、顔色を窺うかのように、あるいは、助けを求めるかのようにリラを見た。
 〈何か嬉しいことがあったのでしょう?〉リラは笑みを柔和な笑みを浮かべた。〈見ていればわかるわ。〉リラは促すかのようにリウェルを見た。
 〈はい。〉リウェルは元気いっぱいに返事をすると胸を張って両親を見上げた。〈実は、新しい魔法式を作りました。〉リウェルは目を輝かせ、得意気な表情を浮かべた。〈でも、僕だけではなくてフィオリナと一緒に作ったのですけど。〉リウェルは幾分顔を俯けた。
 〈ほう。『新しい魔法式』とな。〉〈それは、どんな魔法式なの?〉カレルとリラは正面に向き直ると、身を乗り出さんばかりにリウェルを見た。
 リウェルは顔を上げ、カレルとリラとを交互に見た。〈念話でご説明するよりも、ご覧に入れたほうが早いですね。〉言うが早いか、リウェルはヒト族の姿へと変じた。現れたのは、麓の村の学び舎に通うときやセリーヌの許を訪れるときの服と編上靴とを既に身につけた姿だった。〈服も後ろ前ではないですよね。〉リウェルは腕を肩の高さまで持ち上げ、その場で一回転した。〈靴も左右きちんと履いています。〉リウェルは両腕を下ろすと、両親に見せるように片足ずつ持ち上げた。〈いかがでしょうか。〉リウェルは両親に向き直り、元の姿へと変じた。〈変化(へんげ)の魔法に組み込む、新しい魔法式です。一緒に服も脱ぎ着できますし、靴も脱ぎ履きできます。〉リウェルは再びヒト族の姿へと変じた。先ほどと同じく、服を纏い、両足に編上靴を履いた姿だった。〈魔法式としてはこれだけですけど、これでしたら、ヒト族の姿になってから服を着たり、元の姿に戻る前に服を脱いだりせずに済みます。〉リウェルは元の姿へと変じた。
 〈すばらしい。実にすばらしい。〉カレルは頻りに頷いた。〈リウェルが新しい魔法式を構築するとは。〉カレルは感慨深げに息を吐き出した。〈フィオリナちゃんと一緒だったとはいえ、その歳で新しい魔法式を構築するとは……。(われ)がリウェルの歳の頃には考えたこともなかった。〉カレルは傍らに寄り添うリラを見た。〈これから先が楽しみであるな。のう、リラ?〉
 〈ええ。本当に。〉リラは傍らのカレルに頷いてみせると前を向き、リウェルを見た。〈カレルも私も、今まで作ろうともしなかったわね。いちいち服を着たり脱いだりするのは面倒だと思っていたけど、ヒト族の姿に変じる機会は今まであまり多くなかったから、魔法式を作ろうなんて考えもしなかったわ。リウェル、その新しい魔法式を私たちにも教えてくれるかしら?〉リラはリウェルに顔を近づけ、頬を擦りつけた。
 〈リラと我にも教えてほしいものだ、フィオリナちゃんとリウェルが共に構築した新しい魔法式を。〉カレルもリウェルに顔を近づけると、リラとは反対側の頬を擦りつけた。
 〈はい。〉リウェルは念話を通してカレルとリラに魔法式を伝えた。〈ヒト族の姿に変化するときに起動するようにしておけば、服を着て、靴を履いた姿になれます。あとは、ヒト族の姿から元の姿に変化するときにも起動するようにしておけば、服も靴も破らずに済みます。〉
 〈我らも試すかの。〉〈ええ、試しましょう。〉カレルとリラはリウェルに頬を擦りつけるのを止めると顔を上げ、変化の魔法を起動した。
 カレルとリラはヒト族の姿へと変じた。白銀色の髪に色白の肌と、目尻の下に残った三枚の鱗が宵闇の中に薄らと浮かび上がり、元の姿を思わせる金色の瞳が鋭い光を放った。カレルもリラも、麓の村の男たちが着るような服を身に纏い、両足には編上靴を履いた姿だった。
 〈どうかの、リウェル?〉〈変じゃないかしら?〉カレルとリラは腕を半ばまで持ち上げると、その場で一回転してみせた。
 〈大丈夫です。〉リウェルはヒト族の姿をとった両親を見下ろした。〈でも、念のため、元の姿に戻ってから、もう一度、ヒト族の姿に変化してみてください。〉
 〈(あい)わかった。〉〈試すわね。〉カレルとリラは元の姿へと変じた。
 白銀竜の姿へと変じた二頭は再びヒト族の姿へと変じると、お互いの姿を見詰めた。
 〈問題は……、なさそうであるな?〉〈ええ、そのようね。〉二人は互いの体を見、自身の体を見下ろすと、白銀竜の姿のリウェルを見た。
 〈リウェルも今一度、ヒト族の姿に変化してみてはくれぬか?〉カレルが言った。
 カレルとリラは互いに歩み寄ると、互いの腕が触れ合うほどに寄り添った。
 〈わかりました。〉リウェルはヒト族の姿へと変じると両親の許に歩み寄り、自身の倍ほども背丈のあるカレルと、そのカレルよりも頭半分ほど背丈の低いリラを見上げた。
 〈今はまだまだ小さいが、〉カレルは、すぐ前に立つリウェルの肩に手を置いた。〈いずれは、我らよりも大きくなるのであろうな。〉
 〈僕がおとなになっても、〉リウェルは首を傾げた。〈ちちうえと同じくらいの大きさだと思います。おとなになった僕はちちうえよりも大きいかもしれないということですか?〉
 〈体の大きさは我とそう変わらぬであろうが、そういうことではない。〉カレルは目を細めた。〈言葉の(あや)であるぞ。そなたは、いずれ、我らが考えもしなかったようなものを作り出すかもしれぬ。我らが成そうとしなかったようなことを成し遂げるかもしれぬ。そなたたちが作り上げた新しい魔法式も然り。その魔法式は、ヒト族や獣人族に交わって暮らすのであれば重宝するであろう。遠くない将来、我らの許を離れ、旅に出たときも、その魔法式を使うことがあるやもしれぬ。〉カレルはリラを見た。〈そなたもそう思わぬか?〉
 〈ええ、そうね。カレルの言うとおり。〉リラは膝を折って腰を落とし、リウェルに目を合わせた。〈リウェル、あなたは、あなた自身の目で、この世界を見るのよ。私たちが見るのも叶わなかった世界も、もちろん、目にすることになるでしょう。あなたが私たちの許から旅立つのはまだまだ先のことだけど、今だって、あなたは、私たちが目にしなかった世界を前にしているのよ。気にしたこともないでしょうけどね。〉リラは笑みを浮かべた。
 〈そうなのですか?〉リウェルは首を傾げ、目の前に輝くリラの瞳を見詰めると、首を傾げたまま、リラの傍らに立つカレルの顔を見上げた。
 〈リラの言うとおりであるぞ。〉カレルはゆっくりと首を縦に振った。〈それが何であるかは、そなた自身が見つけるがよいぞ。我らが教えてしまっては、そなたの楽しみを奪ってしまうことになるのでな。〉カレルはリラを見下ろした。
 〈ええ、そうね。〉リラは首を巡らせ、傍らに立つカレルを見上げた。〈私たちが教えてしまっては、リウェルのためにもならないわ。〉リラは再びリウェルに目を合わせた。〈今日のところは元の姿に戻りましょう。でも、眠る前に、フィオリナちゃんと一緒に新しい魔法式を作るまでのことを話してくれると嬉しいわ。〉
 リウェルはリラを見、カレルを見、再びリラを見た。〈はい。〉リウェルは満面の笑みを浮かべ、元気いっぱいの声で返事をした。
 三人は互いに距離を取り、それぞれ元の姿へと変じた。三頭の白銀竜たちは内緒話でもするかのように寄り添い、その場にうずくまった。カレルとリラが横に並び、リウェルは両親の前で首を伸ばした。
 〈なぜ、新しい魔法式を作ることになったか、ですが――〉リウェルは語り始めた。

    ◇

 空に紅みが残る頃に地平線に姿を現した星々は天頂に到り、その数を増した。星々が空一面を覆い尽くし、零れ落ちんばかりになった頃になると、リウェルの話も終わりに近づいた。リウェル自身は既に夢の世界に沈みつつあった。頭はふらふらと左右に揺れ、両の瞼は金色の瞳を覆い、カレルとリラに伝える念話も途切れ途切れとなり、次第に要領を得ないものへと変じた。それでもカレルとリラはリウェルの話を遮ることもなく、じっと耳を傾けた。
 〈――本物の服で……試して……成功したので……、フィオリナも喜んで……、陽が沈む前に……急いで……帰――〉瞼が金色の輝きをすっかり覆ってしまうと、リウェルは長い首と長い尾とを体に巻き付け、規則正しい寝息を立て始めた。
 カレルとリラは、丸くなって胸を上下させるリウェルをいとおしそうに見下ろした。
 〈眠ってしまったか。〉カレルは笑みを浮かべた。〈ずいぶんと、はしゃいでおったの。〉
 〈そうね。よく眠っているわね。〉リラも笑みを浮かべた。〈あんなに楽しそうにしているリウェルを見るのは、久しぶりな気がするわ。〉
 〈セリーヌ殿には、いずれ、きちんとお礼を申し上げる必要があるの。〉カレルはリラを見た。〈フィオリナちゃんとリウェルが新しい魔法式を構築する、その切っ掛けになったのが、セリーヌ殿の何気ない一言だったとは、思いも寄らなんだ。〉
 〈私たち以外でリウェルが会うのは、ここ最近はセリーヌさんだけだったものね。学び舎にはあまり通っていなかったから。〉リラもカレルを見た。〈種族が異なれば、見えるものも異なるわ。私だって、変化の魔法はそういうものだと思っていましたもの。それに、野に棲む獣は服を纏わないわ。だからかしらね、わざわざ考えようともしなかったのは。ヒト族の姿に変じるようになったのは、あなたと一緒にこの地を縄張りに定めてからのことだったけど、それでも、百年は過ぎているのにね。〉
 〈確かに。〉カレルはゆっくりと息を吐きながら目を閉じると、再び目を開いた。〈今あるものに満足して、新しいものを作ろうとは思いもせなんだ。そなたと共に空を駆け回った、あの輝かしい日々を過ごした頃には、魔法式に限らずいろいろ作ったものだが。〉
 〈今でも、あの頃に構築した魔法式は使えるはずよ。〉リラは、かすかな寝息を立てるリウェルを見た。〈あなたと私とでこれまでに作った魔法式を、リウェルに教えましょうか。〉
 〈はて、どうしたものか……。〉カレルも、規則正しく旨を上下させるリウェルを見た。〈我らが構築した魔法式を教えたとあれば、リウェルにしてみれば労せずして得られるわけだが、それだけ、新しい魔法式を作り出す楽しみや苦しみを得る機会をリウェルから奪うことになる。しかし、我らと同じものを苦労して作り出すのも、それはそれでどうかとも思うのだ。どの道、苦労するのであれば、リウェルには我らが作り出さなかったものを作り出してほしい……。でれば、我らが作り出した魔法式を全て教えるべき、か。はてさて……。〉
 〈そんなに悩むのでしたら、〉リラは顔を上げ、傍らにうずくまるカレルを見た。〈全部リウェルに教えてしまいましょう。〉リラは決然として言った。〈新しく作り出すにしても、覚えている魔法式の数が多いほうがすぐに作り出せると思うわ。それに、今あるものの組み合わせにしても、私たちが思いもつかなかったような組み合わせを思いつくかもしれないわよ。リウェルが旅に出るまでまだずいぶんあるもの。それまでに少しずつ教えていけばいいわ。〉
 〈そうだの……、そうであるの。〉カレルは傍らのリラを見、目の前の地面で丸くなったリウェルを見下ろした。〈ヒト族や獣人族の職人ではないが、手元に多くの道具があれば、それだけ多くのものを作り出せるであろうし。今は使えずとも、いずれ使えるようになるであろう。〉
 〈ええ。〉リラはカレルに微笑みかけると、リウェルに目を遣った。〈リウェルのこれからが楽しみね。私たちの許から離れて、どこに行くのか、何を見るのか、何を作り出すのか。〉リラは片方の翼を持ち上げた。〈私の翼の中で眠るのも、いつまでかしらね。〉
 リラの見詰める先、リウェルの体は音も無く浮き上がり、リラの翼の陰まで漂うようにして宙を進むと、リラの翼の付け根に落ち着いた。リラは、眠りを妨げないようにとばかりにゆっくりと翼を下ろし、丸くなったままのリウェルの体を包み込んだ。
 〈私たちも休みましょう。〉リラは首を巡らせ、カレルの鼻先を触れた。
 〈ああ、そうしよう。〉カレルはリラと鼻先を触れ合わせると、次いで、頬を擦りつけた。
 二頭は長い首と長い尾とを体に巻き付け、眠りに就いた。

    ◇
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