(二)

文字数 17,059文字

 連なる山々を空と地上とに分け隔てていた雲の海は既に干上がり、陽射しは地上を――山頂から中腹にかけてを――照らし出した。山肌を覆う大小様々な岩や石は、東の空から射し込む朝陽を受け、貴石に負けまいとするかのようにその姿を誇示したが、山々の麓は未だ夜の名残のような薄闇の中にあった。岩や石に覆われた地上を行くものの姿は見られず、動きを見せていたのは、山頂を下に見るほどの空の高みを、南へ向かって飛行を続ける飛竜の影のみだった。その影も、山から山へ、谷から谷へと、地を這うものからすれば瞬きするかしないかのうちに過ぎ去り、地上に何ら痕跡を残すことはなかった。
 リウェルは背の翼を左右に大きく広げたまま、四肢を体に触れるほどに曲げ、長い首と長い尾とを真っ直ぐに伸ばした姿勢で、空の上を進んでいた。広げられた翼は両親の前から飛び立ったときそのままだった。翼を羽ばたかせることもなく進むリウェルだったが、風に乗って進んでいるわけでもなかった。山々の間を吹き抜ける風は、気紛れとも思えるほどに向きを変え、小石を吹き飛ばすほどに荒々しく、そよ風のようにやさしく、山々の間を吹き抜けた。それは頂を越える空の上でも同様だった。時にはさらに強い風が吹き荒れ、雲を翻弄し、霧を蹴散らした。リウェルは、吹き渡る風を気にする様子もみせず、顔を南に向けていた。時折、興味を引く何かを目に留めたかのように左右を見回したり、下を向いたり背後を振り返ったりすることもあったが、長い首を器用に巡らせて周囲を見遣るも体は少しも揺らぐことはなく、大きく広げられた翼も真っ直ぐに伸ばされた長い尾もその形を崩すことはなかった。
 リウェルの眼下に広がる山々は、急流を流れ下る舟から覗き込んだ水底のように、後ろ後ろへと流れていった。聳える山々の一つひとつは、川の中に散らばる、藻や苔に覆われた岩や石であるかのように、まるで手を伸ばせば届くのではないかともみえた。山々は日々同じようにみえて、その(じつ)日々姿を変えた。大きな岩は時が経つにつれて幾つかのより小さな岩へと姿を変じ、山腹を転がり落ちながら別の岩にその身を打ち付けた。不意の攻撃に晒された岩はそれまでの持ち場を離れ、報復せんとするがごとく山肌を転がり落ち、後を追った。その後は、さらに別の岩を巻き込み、同じことの繰り返しだった。はじめに転がり落ちた岩は見る影もなく砕け散り、山肌にその身を飛び散らせた。そこに、追い打ちを掛けるかのように別の岩や石が降り注ぎ、さらに岩の雨は連鎖し、やがては谷の一つを埋めるまでに到ることもあった。多くの岩を受け止めた谷は、既に満腹だとばかりに小さな岩を下流へと押し出し、それが引き金となって岩の河を作り出すこともあった。その流れも唐突に始まり、唐突に終わった。後に残されたのは、幾分ほっそりとした山腹になりながらも、それまでと変わらず空に向かって聳える山々の姿だった。流れ落ちた岩や石は、時を経ずして周囲の岩に溶け込み、まるではじめからそこにあったかのように沈黙を保ち続けた。
 南に向かって飛行を続けるリウェルは、眼下に広がる岩山が突如として姿を変えたのを目にした。岩山は、壁のように聳え立つ岩肌を最後に背を屈め、荒々しい顔に緑を纏った。岩と石ばかりの山肌は鮮やかな緑へと変わり、空からの眺めはまるで敷物を一面に広げたかのようでもあった。山々は丸みを帯び、山肌の所々に白い点のようなものが幾つも浮かび上がることもあった。それらの白い点は、遥か上空を進む飛竜の姿に気づくこともなく草を()む四つ足の獣たちだった。リウェルは獣たちへと顔を向けるも、すぐに思い直したかのように前を向くと、小刻みに頭を左右に何度か振った。その間にも獣たちの姿はリウェルの後ろへと流れていき、やがて山の陰に消え去った。その後のリウェルは、地上のことなど気にするまいとでも決意したかのように、脇目も振らず、南の空を見遣った。
 リウェルが飛行を続けるほどに、眼下に広がる緑は次第に様相を変じていった。山肌を薄く覆っていた緑の草は次第にその丈を増し、風と雨とにも耐え、空の高みを目指す樹々の緑へと移り変わった。針のように天を突かんばかりの樹々は、空の上を進む飛竜の目から地上のもの全てを覆い隠した。樹々の聳える森は東の地にも西の地にも広がり、残されたのは遙か南の地のみだった。リウェルが進む南の方角の、遥か先で――碧い空と緑の地上との境も薄れ、溶け合うところで――、森はようやく終わりに達するかにみえた。リウェルは、はっとした様子で目を大きく見開いた。その後すぐに飛行の速度を落とすと、やがて、森の上空で静止した。リウェルは顔を下に向け、目を凝らすかのように森を見詰めた。リウェルの目に映るのは、空か落ちてくるものを串刺しにしようと待ち構えているかのような樹々の姿だった。首を巡らせ、周囲の森を見下ろしたリウェルは顔を上げると、再び南の方角へと目を遣った。森の終わりは空の終わりだった。リウェルは目を細めながら南を見詰めると、勢いよく後ろを振り返った。北の方角にも緑の森が続き、その森の先には草原が広がり、さらにその先には壁のような山々が空へと聳えているのがみえた。東の空を昇る朝陽が森を照らす中、樹々の間を吹き抜ける風が枝を揺らし、漣のようなざわめきを巻き起こした。リウェルは西に目を遣り、次いで、東に顔を向けた。陽の位置と北に聳える山々の壁とを交互に見遣り、溜め息をつくかのように顔を俯けた。それも束の間、リウェルは顔を上げると、北へと体の向きを変え、自身の居る場所を確かめるかのように首を巡らせて東を見、南を見、西を見、最後に北へと顔を向けた。東の空から届く陽の光に照らされたリウェルの体は貴石のような輝きを放った。雪のような煌めきを纏いながら、リウェルはその場からゆっくりと飛行を開始した。
 リウェルは周囲の様子に気を配るかのように前と左右とを見回しながら、森の上空を北に向かってゆっくりと進んでいった。森の樹々はリウェルの探し求めるものを隠すかのようにどこまでも同じような顔をみせていた。しかし、空に向かって聳える樹々の幹は、一本一本それぞれが別の顔を持っていた。或る樹は梢の葉を全て落とし、獣の骨を思い起こさせる枝を風に晒していた。或る樹は細い枝の先に到るまで緑の葉を茂らせ、森に降り注ぐ陽の光を少しでも多く受け止めようとしているようでもあった。また、別の或る樹は半分は葉のない枝ともう半分は緑の葉を纏った枝とを空へと向けていた。樹々はそれぞれ高さも異なり、或る樹はどの樹々よりも高く伸び、周囲を見下ろしていたが、別の或る樹は周囲の樹々に追いつき追い越そうと機会を窺うかのように細い幹を真っ直ぐに空へと伸ばしていた。互いによく似た、しかし、二本と同じ樹のない森の上空を、リウェルは進んでいった。
 森の上空を彷徨(さまよ)うかのように飛行すること暫し、リウェルは探し求めるものをようやく見つけ出したとばかりに目を大きく見開き、笑みを浮かべた。リウェルの視線の先にあったのは、樹々の海に空いた穴のような場所だった。生い茂る樹々の中、歪な円に()()かれたかのようなその穴は、樹々が朽ちた末にできあがったものではなく、何らかの力――何者かによる力――によって造られたことを暗に示していた。リウェルはすぐに飛行の速度を上げると、その穴を目指して進んでいった。すぐに穴の上空に達したリウェルはその場で停止し、穴の底を見下ろした。森の樹々を切り倒して造られたその空間にあったのは、外界からの侵入者の目から逃れるかのようにして建てられた一軒の小屋と、その小屋の前に広がる耕された土地だった。小屋は母屋とそれに続く離れ家とがあり、母屋の煙突からは細い筋を立ち上らせているのが上空からも見て取れた。煙突から立ち上る煙は樹々の梢を目指すほどに色を失い、風の中に溶け込んだが、それでも、薪を()べる臭いはリウェルの鼻まで届いた。その臭いを吸い込み、何度か鼻をひくつかせたリウェルはその後すぐに盛大なくしゃみをした。一度目を閉じ、潤んだ目を開いたリウェルは、見えない煙から逃れるかのようにその場から移動すると、穴の底に向かって降下を開始した。その間も、空を目指して立ち上る煙の筋を避けるように、リウェルはふらふらと左右に動きながら地上を目指して進んでいった。
 リウェルは、小屋から少し離れた、踏み固められた小径のような場所を目指した。両の翼を羽ばたかせることもなく、小屋の煙突から立ち上る煙を避けながら降下を続けたリウェルは、あと少しで地面に降り立つというところで降下を止め、空中に静止した。そこに浮かんだまま――自身の肩の高さほどのところに浮かんだまま――リウェルは首を巡らせ、周囲を見回した。森に空いた穴の底は、森の中の空地だった。空地の周囲には、空地と森とを隔てるように、加えて、小屋と離れ家と作物とを守るように、柵が設えられていた。その空地の中、北の端に小屋と離れ家とが建てられ、小屋の前からは小径が伸び、その両側には耕された土地が広がっていた。規則正しく耕された土地には、森の中に生える草とは明らかに異なる作物が葉を茂らせていた。小屋は(だんま)りを決め込んだかのように、そこに在った。煙突から立ち上る白い煙も、小屋そのものも、付き従うように建てられた離れ家も、上空からリウェルが目にしたものと変わらないかにみえた。柵に使われているのは空地を造ったときに切り倒されたとみられる樹だったが、時の流れに抗うことは叶わず、柵は所々で朽ち果て、さらには崩れ去り、既に柵としての用をなさない場所もみられた。
 リウェルは幾度か周囲を見渡すと顔を前に向け、意を決したかのように空を見上げた。その後すぐに、リウェルの体に変化が生じた。背から伸びる一対の翼が体に吸い込まれるようにしてその大きさを減じると、わずかな痕跡も残さずに消え去った。翼が伸びていた背の肌は、体の他の部分と同じく白銀色の鱗に覆われているばかりだった。翼の次は首と尾だった。長い首と長い尾はともに長さを減じていき、尾は翼と同じように体に吸い込まれた。首は、頭と体とを繋ぐまでになったところで長さが減じるのを止め、その長さのままに留まった。次いで、体の大きさそのものも減じていった。獣を容易に引き千切るほどの荒々しさは消え失せ、草を引き千切るのがせいぜいと思わせるほどのほっそりとした姿へと変じた。前に伸びた口吻が短くなるとともに丸みを帯び、頭を覆う鱗は髪へと変じた。最後に、四つ足の姿勢から二本の脚で立ち上がった。その頃には、リウェルの体はすっかりヒト族の姿へと変じていた。リウェルの背格好は、ヒト族の少年――十歳前後の少年――を思わせるものだったが、ヒト族とは明らかに異なる部分も備えていた。顔の造りはヒト族の少年のものだったが、肩口まで伸びた髪は元の姿を思い起こさせるほどに白く輝いた。両の瞳は元の姿のときと同じく金色の光を放ち、その瞳の形も元の姿のときと同じく――ヒト族のような丸いものではなく――縦型だった。目尻の下には三枚の白銀色の鱗が残り、そこだけをみれば装飾品の一つとも思わせるものだった。目尻の下を除いて顔の肌に鱗はなかったが、顎の下、喉の少し上あたりからは白銀色の鱗に覆われていた。その鱗も元の姿のものほどの荒々しさはなく、喉元から下、両腕や胴、そして両脚を覆う鱗も同様だった。両手の甲と掌は顔と同じく鱗に覆われていなかったが、指先からは鉤爪が伸びていた。その鉤爪も元の姿のものに比べれば大岩と小石ほどの違いがあったが、ヒト族の平爪に比べれば獣らしさを感じさせるものだった。鱗に覆われていない両手――爪を除いてヒト族と大差ない両手――に対して、両足は全てが鱗に覆われていた。足の甲はもちろんのこと足の裏まで鱗に覆われた様子は、両手以上に獣らしさを際立たせた。加えて、足指の爪は元の姿のそれを思い起こさせるほどの鋭い鉤爪だった。その鉤爪を以てすれば、ヒト族の喉を掻き切るくらいのことはたやすくやってのけるであろうことは想像に難くないものではあったが、体のほとんどを覆う鱗と相俟ってそこだけが目立つものではなかった。
 リウェルは、ヒト族の姿になった自身の体を見下ろした。胸から腹へ、そして、その下に続く腰から脚にかけて、鱗に覆われていることを確かめるかのように、リウェルは腰を曲げながら目を走らせた。足指の先に伸びる鉤爪までに達すると、上体を起こし、体を捻るようにして片足立ちになった。持ち上げた足の裏を見、次いで、もう片方の足で片足立ちになり、反対の足の裏を見た。両足の裏を確かめたリウェルは満足そうに微笑み、両の足で立つ姿勢をとった。そこでリウェルは両肘を曲げると、両手を顔の高さまで持ち上げた。ヒト族の手のような五本の指と鱗に覆われていない掌とを見詰めながら、何度か両手を握ったり開いたりを繰り返すと、次いで、五本の指それぞれを動かした。両手の十本の指を意のままに動かせることに満足したのか、リウェルはまたも笑みを浮かべた。
 笑みを収め、両腕を下ろしたリウェルは、宙に浮いたままの場所から地上まで続く階段を下りようとするかのように、一歩を踏み出そうと片足を持ち上げた。しかし、持ち上げた足は次の段へ進むこともなく、その位置に留まった。リウェルは持ち上げたままの片足をじっと見詰めた。鱗に覆われ、鉤爪の伸びた自身の足を見詰めること暫し、リウェルは足を下ろすと、もう片方の足を持ち上げ、再びじっと見詰めた。左右の違いはあれど、鱗に覆われた自身の足であることに変わりはなかった。リウェルはその姿勢のまま、首を傾げた。
 その後、探しものをようやく見つけたとばかりに、リウェルは持ち上げていた片足を下ろすと、虚空に手を伸ばした。瞬きするかしないかのうちにリウェルの手の中に現れたのは、村の子どもたち――男の子たち――が身につけるような簡素な服だった。リウェルは手の中に現れた服を両手で広げると、いそいそといった様子で袖を通し始めた。飛竜の姿からヒト族の姿へと変じたリウェルは――飛竜のときと同じく――服を身につけていなかった。喉元から下のほとんどを鱗に覆われているとはいえ、ヒト族からすれば裸であることに変わりはなかった。暫し後、服を着終えたリウェルの姿は、村で遊びに興じる男の子たちの姿そのままだった。
 リウェルは自身の体を見下ろした。体を覆う鱗は服の下に隠れ、遠目には目立たないかにみえた。肌が出ていたのは、袖からみえる手首から先と、裾からみえる足首から先だけだった。袖口には手首の鱗がわずかに覗いていたが、袖を捲らなければ目立つほどではなかった。ただ、裾からみえる足首から足指にかけては――足指の先からは元の姿を思い起こさせる鉤爪が伸びていた――遠目でもわかるほどの白銀色の鱗に覆われていた。
 リウェルは顔を上げると、再び虚空に手を伸ばした。数瞬の後、リウェルの手の中に現れたのは一足の靴だった。その靴は、見た目に関しては一切気にかけることなく、丈夫さだけを追求したかのような編上靴だった。リウェルはその場にしゃがみ込むと、片方を傍らに置き、もう片方を手に持ち、履き始めた。何度かの試行錯誤の後、ようやく両足の紐を結び終えたリウェルはその場に立ち上がると、具合を確かめるかのように二度三度と足踏みした。その後、リウェルは再び自身の体を見下ろした。靴を履き、服を着た自身の姿に満足そうに頷いたリウェルは、顔を上げ、地上に向かって足を踏み出した。
 階段を一段一段下りるかのようにして地上に降り立ったリウェルは、空地の中に伸びる小径を小走りに小屋へと向かった。程なくして小屋の前に到ったリウェルは扉の前で立ち止まり、小屋を見上げた。屋根の先には、煙突から吐き出された煙が上へ上へと向かう様子が見て取れた。白い煙はゆらゆらと揺れながら、樹々の梢のその先に広がる碧い空を目指し、やがては大気の中に溶け込んだ。顔を下ろしたリウェルは扉を見ながら一歩近づくと背筋を伸ばし、意を決したかのように口を引き結んだ。そのまま片手を持ち上げ、扉を叩いた。
 「はい、どちらさん?」小屋の中から声が訊ねた。声は女性のものだったが、どことなくしわがれたその声は、声の主がそれまでに過ごした長い時を感じさせるものだった。
 「おはようございます、リウェルです。」白銀竜の少年は扉越しにどことなく緊張した様子で、小屋の(あるじ)に向かって挨拶した。
 「おや、リウェルかい。おはよう。」小屋の中から届く声はしわがれてはいるものの明るさを感じさせた。「鍵は開いているよ。入っておいで。」
 「はい。」リウェルは小さく息をつくと扉を押し開き、小屋の中へと歩み入った。
 扉と向かい合う壁に設えられた暖炉には鍋が掛けられており、その鍋の底を赤赤とした炎が撫でていた。家主は暖炉の斜め前に置かれた椅子に腰を下ろし、手に持った杓子で鍋の中身をゆっくりとかき混ぜていた。しわがれた声に似合わず、家主の容貌は若々しくみえた。肩よりも長く伸ばした亜麻色の髪を頭の後ろで無造作に束ね、そのまま背中に流していた。頭には白い布を巻いており、暖炉の炎に照らされた家主の姿は、まるで炎そのものを纏っているかのようにもみえた。横顔から覗く瞳は空を思わせる碧さをみせ、肌の白さとも相俟って、冥府の者を思い起こさせた。髪と瞳と肌にも増して目を引くのは、ヒト族とは明らかに異なる形をした耳だった。ヒト族よりも幾分長く、然りとて獣人族ほどには長くも大きくもないその耳は、扉を入ってすぐのところに立つリウェルに向けられており、小さな訪問者の動きを絶えず見張っているかのようでもあった。
 「おはようございます、セリーヌさん。」リウェルは家主に挨拶すると後ろを向き、慎重な手つきで扉を閉めた。何度か扉を揺らし、しっかり閉まったことを確かめたリウェルは再び前を向き、暖炉の傍に腰を下ろしたセリーヌを見た。
 「おはよう、リウェル。」セリーヌは杓子で鍋をかき混ぜながら、目を離さずに答えた。
 リウェルは扉のすぐ内側に立ったまま小屋の中を見渡した。右側の壁には窓が開けられており、硝子ではないが外からの光を通す膜のようなものが張られているのが見て取れた。窓の両側の壁一面を覆い尽くすほどに設えられた棚のそれぞれの段には、薬草と思しき乾燥させた草の類が置かれていた。種類ごとに分けられた草はそれぞれ別の籠に入れられ、整然と並べられていた。窓の反対側の壁――入って左側の壁――にも一面に棚が聳え立ち、その棚の段にも仕分けられた籠が置かれており、加えて、幾つかの小鍋や鉢のようなものも置かれていた。
 「今日は少し遅かったじゃないか。」セリーヌは体を起こし、扉を背にしたまま小屋の中を見回すリウェルへと顔を向けた。「どうしたね。」
 「ええと、ですね……、」リウェルは問いに答えず、視線を彷徨(さまよ)わせた。一時(いっとき)セリーヌを捉えた視線はすぐにセリーヌから離れて窓に向かい、窓の横に設えられた棚を行ったり来たりし、次いで向かい側の棚へと移り、上の段から下の段までを走り回った。
 「大方(おおかた)、親父さんに何か言われたか何かしたんだろ?」セリーヌは合点がいったとばかりに口角を引き上げた。「おまえさんが出掛けようとしたら親父さんのお小言が始まった、ってところかい?」セリーヌは暖炉に向き直ると、杓子で鍋の中身をかき混ぜた。
 「それもあります。」リウェルは鍋の中を覗き込むセリーヌに顔を向けた。
 「『も』?」セリーヌはリウェルを振り返った。「他にもあったのかい?」
 「山を越えて、ここを目指して森の上を飛んでいたときに、この空地を通り過ぎてしまいました。」リウェルは決まり悪そうにセリーヌから目を逸らした。
 「おや、おまえさんにしては珍しい。」セリーヌは目を丸くした。「ここを通り過ぎちまうくらい、何か考えごとでもしていたのかい?」
 「飛んでいるときに、」リウェルはセリーヌを見た。「南の空を見ていたら、森が終わった先はどうなっているのだろうと思って……、それで、そのままここを通り過ぎてしまいました。」
 「ああ、そういうことかい。」セリーヌはゆっくりと首を縦に振ると、再び暖炉に向き直った。「おまえさんは、まだ親許(おやもと)に居なきゃならない歳なんだろ? 焦ることはないよ。今は親御さんのところでしっかり勉強しておきな。いずれ独り立ちしたら、そのときに頼れるのはおまえさん自身だけだからね。全部が全部を学ぶことなんてできやしないが、それでも、学べることは全て学んでおきな。すぐには役立つと思えないことでも、何かの折に役に立つなんてことはあるかもしれないからね。」セリーヌは杓子で鍋の中身を掬い取り、口元に近づけた。「もう、いいかな。」セリーヌは満足そうに頷くと、リウェルに向き直った。「ところで、朝食はもう済ませたのかい?」
 「昨日、狩りに行ったので、今日はまだ何も食べていません。」リウェルは首を横に振った。「今日一日くらいは食べなくても平気です。」
 「つくづく便利な連中だね、おまえさんたちの種族は。」セリーヌは感心半分呆れ半分といった様子で息をついた。「とはいえ、私だけが食べるのもつまらないね。特に、子どもの前で大のおとなが独り食べるなんざ。本当の歳はともかくとして。」セリーヌは皿を手に取り、鍋の中身を盛り付けると、リウェルに差し出した。「ほら、おまえさんも食べな。いらないと言ったって、食べられないわけでもないんだろ?」
 リウェルは小屋の隅に向かうと、そこに置かれていた椅子を手に取り、セリーヌに近づいた。暖炉の前、セリーヌに向かい合う位置に椅子を置き、そこに腰を下ろしたリウェルは、手を伸ばして皿を受け取った。「ありがとうございます。」
 「ほら、(さじ)だ。」セリーヌは、木で造られた匙をリウェルに手渡した。
 「はい。」リウェルは匙を受け取ると、セリーヌを見た。
 セリーヌは自身の分を皿に盛り付けると、匙を手に取った。「それじゃ、食べようかね。」
 二人は食事を始めた。セリーヌは時折笑みを浮かべながら匙を口に運んだが、リウェルは黙々と食べ続けた。セリーヌが作っていたのは、麦の中に野草や木の実――森で採れるようなもの――などを一緒に煮込んだ粥だった。
 「今のおまえさんの顔からすると、」セリーヌは悪戯っ子のような表情を浮かべ、リウェルを見た。「私の料理はあまりお気に召さなかったようだね。」
 「いえ、」リウェルは手を止めると顔を上げ、セリーヌを見た。「はい、ええと……、その……。」リウェルの視線は暖炉に向かうと壁沿いに窓へと進み、そのまま窓の横に設えられた棚を上から下まで行ったり来たりを繰り返し、再び暖炉に舞い戻るも、ついには床に落ちた。
 「忌憚(きたん)のない意見を言ってみな。」セリーヌは口角を引き上げ、目を細めた。
 「……お肉のほうがいいです。」リウェルは俯いたまま、視線を彷徨(さまよ)わせた。「セリーヌさんの作ったものも食べられないわけではないのですが――」
 「『おいしくもない』、だろ?」セリーヌは既にわかっているとばかりに笑みを深めた。
 「おいしくないです。」リウェルはさらに顔を伏せ、目を閉じた。
 「口に入れられるだけ()()ってこともあるからね。飛竜だって、そうだろ?」セリーヌは笑みを収めると、匙を口に運んだ。「食べられるときに食べておきな。」
 「はい。」リウェルは顔を上げ、セリーヌを見た。
 その後、二人は無言のまま食事を続けた。
 あと少しで食べ終わるという頃になって、セリーヌは顔を上げ、リウェルを見た。「そうだ、リウェル、さっき、くしゃみをしなかったかい?」
 「『くしゃみ』ですか?」リウェルは顔を上げ、セリーヌを見ると首を傾げた。
 「そうさ。盛大なくしゃみだったものだから驚いたのだけど、」セリーヌはリウェルの顔色を窺うかのように見詰めた。「風邪でも引いたのかい? そうは言っても、飛竜が風邪を引くなんて、今まで聞いたこともないんだがね。」
 「ああ、あれは、」リウェルは思い至ったとばかりに傾げていた首を元に戻した。「煙を吸い込んだからだと思います。鼻がちくちくして、それで、くしゃみが出ただけです。」
 「そうかい、」セリーヌはほっとした様子で大きく息をついた。「それならよかった。」
 二人は最後の一匙を口に運ぶと、暖炉の炎へと視線を向けた。
 暖炉に()べられた薪が()ぜる音が時折響く中、リウェルはセリーヌへと顔を向けた。「今日は何のお仕事をすればいいですか?」リウェルは食べ終えた皿を膝の上に置いたまま、セリーヌを見詰めた。
 「そうさね……、」セリーヌは小屋の中を見回した。セリーヌの視線は棚の段を彷徨(さまよ)い、やがて、中ほどに置かれた一つの籠に行き着いた。「朝の一仕事はもう終わっているから、薬草を粉にするのを頼もうかね。いつもやってもらっている仕事さ。」
 「はい。」リウェルは椅子から立ち上がると、セリーヌに近づき、手にしていた皿と匙とを手渡した。「粉にする薬草はどれですか?」
 「まずは、そっちが先だ。」セリーヌは皿と匙とを――自身のものとリウェルから受け取ったものとを――、暖炉の傍らに置かれた、水を張った桶に沈めると、その場に立ち上がった。「さて、と。」セリーヌはリウェルの横を過ぎ、窓と反対側の壁に設えられた棚に向かった。
 リウェルは、親鳥を追いかける雛鳥のように、セリーヌの後についていった。
 セリーヌは、傍らで棚を見上げるリウェルを気にする様子もみせず、棚の中ほどの段に――リウェルの背の高さほどの段に――置かれた一つの籠を手に取ると、ただの枯れ草ともみえる薬草が入れられたその籠をリウェルに手渡した。「まずは、これ。」セリーヌは、リウェルが両手で籠を受け止めたことを見届けると、その場にしゃがみ込んだ。「次は……、と。」セリーヌは棚の下の段から乳棒と一抱えもありそうな乳鉢とを取り出すと、小屋の中央付近に置いた。「これを使いな。」
 「はい、セリーヌさん。」リウェルは籠を抱えたまま、乳鉢の傍らまで進んだ。
 「今からは『師匠』とお呼び。」セリーヌは足を肩幅に開き、背筋を伸ばし、両手を腰に当て、リウェルを見下ろした。
 リウェルはその場で振り返り、セリーヌを見上げた。「はい、セリーヌ師匠。」リウェルは、唇を引き結ぶセリーヌの姿を前にしても、普段と変わらない調子で答えた。
 セリーヌはがっくりと肩を落とし、大きく息をついた。「飛竜の力を使うんじゃないよ。」セリーヌは気を取り直したかのように再び背筋を伸ばした。「いつも言っているけど、飛竜の力なしでやらないと意味がないからね。」
 「はい。」リウェルは乳鉢の傍らに腰を下ろすと籠を置いた。籠の中から選び取った薬草一束を乳鉢に入れると乳棒を手に取り、薬草を磨り潰し始めた。
 セリーヌはリウェルが作業を始めたのを見届けると満足そうに頷き、食器の片付けを開始した。程なくしてそれも終えると、セリーヌは棚に置かれた薬草の確認を始めた。
 小屋の中には、暖炉に()べられた薪が()ぜる音と、リウェルが薬草を磨り潰す音だけが響いた。時折、鳥たちの悲鳴のような鳴き声が森の中から届いたが、それもすぐに消え去り、小屋の中は再び元の静けさに包まれた。
 数束あった薬草のうち磨り潰されていないのは残り一束という頃になって、リウェルは手を止めると顔を上げ、虚空に目を遣った。リウェルはその場に居ない誰かと話しているかのような表情を浮かべ、なおもあらぬ方向を見遣った。
 「どうしたんだい?」セリーヌは確認の手を止めると、リウェルを振り返った。
 「フィオリナがもう少しで着くそうです。」リウェルは虚空を見上げ、どこか遠くを見遣るかのような表情を浮かべたまま、セリーヌを振り返ることもなく答えた。
 「『もう少し』って、どれくらいだい?」セリーヌはリウェルを見詰めた。
 「うん……、わかった……、気をつけてね。」リウェルはセリーヌに答えることもなく、その場に居ないフィオリナに向かって独り言つと、セリーヌを振り返った。「今、小屋の上に着いたそうです。」リウェルは笑顔で答えた。
 「ということは、下に降りて、もうすぐ入ってくるかね。」セリーヌは扉を見遣った。
 リウェルのセリーヌにつられるようにして、扉へと顔を向けた。
 二人は揃って――セリーヌは棚の前に立ったまま、リウェルは乳鉢の傍らに腰を下ろしたまま――扉を見詰めた。小屋の外から、息を殺して扉を見詰める二人の耳に届いたのは、裸足で土の上を歩くような、しかし、規則正しいしっかりとした足音だった。
 「出迎えてあげな。」セリーヌは顎でリウェルに示した。
 「はい、セリーヌさん。」リウェルは乳棒を置くとその場に立ち上がり、扉へと向かった。
 「『師匠』とお呼び。」セリーヌはリウェルの背に鋭い声を投げかけた。
 「はい、セリーヌ師匠。」リウェルは歩みを止めることもなく、セリーヌを振り返ることもなく、悪びれる様子もみせず、普段と変わらない調子で答えた。
 リウェルが扉の前に辿り着いたとき、外から扉が叩かれた。
 「はい、どちらさん?」セリーヌが扉に向かって訊ねた。
 「おはようございます、フィオリナです。」扉の外から少女の声が答えた。
 「おはよう、フィオリナ。」セリーヌは扉越しに挨拶を返した。「リウェル、入れてやりな。」セリーヌは扉の前に立つリウェルに声を掛けた。
 「はい。」リウェルはセリーヌをちらりと見るとすぐに前を向き、扉を開けた。
 扉の外に立っていたのは、リウェルとほとんど変わらない背格好の少女だった。肩まで伸びた白銀色の髪が陽の光に煌めき、金色に輝く瞳は悪戯好きの子どもを思わせた。髪の色に勝るとも劣らない顔の肌には鱗はみられなかったが、目尻の下に残る三枚の鱗と顎から下を覆う白銀色の鱗は、少女がヒト族でも獣人族でもないことを示していた。
 「おはようございます、セリーヌさん。」フィオリナは挨拶すると小屋の中に歩み入った。
 「ああ、おはよう。」セリーヌは苦苦しさを感じさせる口調で挨拶を返した。
 「おはよう、リウェル。」フィオリナは後ろ手に扉を閉めると、リウェルの顔を見詰めた。
 「おはよう、フィオリナ。」リウェルも少女を見詰め返し、挨拶した。
 リウェルとフィオリナはゆっくりと互いに歩み寄ると、鼻先を触れ合わせた。幾度か繰り返した二人は、その後、互いに頬を擦りつけ合った。左右の頬を擦りつけ合う二人の仕草は、リウェルと両親とが朝の挨拶を交わしたときと同じだった。ただ、ヒト族の姿であることが唯一の違いだった。一頻り頬を擦りつけ合った二人は、互いの息もかからんばかりの距離で見詰め合った。二人の金色の瞳に映っていたのは、姿見の内と外ともみえるよく似た姿だった。
 〈どうしたの?〉リウェルはフィオリナの瞳を覗き込んだままわずかに顔を離すと、眉根を寄せ、念話で語りかけた。〈何かあったの?〉リウェルは気遣うように訊ねた。
 〈聞いてよ、リウェル。とうさまったら、ひどいのよ。〉フィオリナは堰を切ったかのように念話で話し始めた。〈とうさまったら、私がセリーヌさんのところに行こうとするといつも反対するのよ。『一頭だけで出掛けるなんて危険だ』とか、『途中で迷ったらたいへんだ』とか、『縄張りの外に出るのはまだ早い』とか、同じことばかり。私だって、生まれたばかりの子竜ではないのよ。もう、狩りだって独りでできるんだから。飛竜の魔法だって、教わったものは全部できるようになったもの。私独りだけで狩りの獲物を探すのは少し不安だけど、魔法だって失敗するときもあるけど、それだって失敗するのはほんの少しだけよ。いつもではないの。飛ぶのもやっとだった子竜ではないの。それに、あと三十年も経てば、とうさまとかあさまの縄張りを離れて、旅に出られるくらいに大きくなったの。それなのに、それなのに、とうさまは私のことを何もできない子竜だと思っているのよ、きっと。私が独りだけで何か新しいことを試そうとすると、とうさまったら、すぐに横から口を出してくるの。やれ、『前肢の位置がなっていない』だの、『翼の構えがよろしくない』だの、『後肢の踏ん張りが足りない』だの、『尾が曲がっている』だの、細かいことをあれこれあれこれ、もう、うっとうしいったらないわ。はじめの頃は私だってとうさまに言われたとおりにしていたけど、いつまでたっても、『まだ、だめだ』、『まだ、足りない』、こればかり。この頃は、私がとうさまの言うことをあまり聞かなくなって、かあさまの言うことばかり聞くようになったものだから、かあさまも呆れてしまって、とうさまにいろいろ言ってくださるようになったわ。同じことでも、とうさまよりかあさまに言われたほうが、きちんと聞こうと思うようになるもの。でも、怒ったときはかあさまのほうが怖いのだけどね。とうさまも口喧嘩ではかあさまに敵わないものだから、かあさまが一睨みすると首を(すく)めるのよ。それで、今日の朝も口喧嘩になったの。私がセリーヌさんのところでリウェルに会うって言ったら、とうさまも知っているはずなのに、いつもよりもうるさく言うから、私、とうさまに向かって牙を剥き出してしまったわ。だって、とうさまったら、リウェルがカレルおじさまの息子だから気に入らない、なんてこと言うのよ。これもいつものことなのだけど、今日は本当に頭にきて、だから、とうさまに牙を剥き出してしまったの。とうさま、びっくりしていたわ。まさか、自分の娘が自分に向かって牙を剥くなんて思ってもみなかったみたい。でも、とうさまの言うことも少しは正しいとは思うのよ。もちろん、リウェルのことを悪く言うのは許せないわ。それ以外のことだったら、とうさまの言うことは、私もそのとおりだと思うの。でも、とうさまの言い方だと、正しいことはわかっているのだけど、絶対聞くものか、って思ってしまって。本当に、どうしたらいいかし……ら……。〉フィオリナはわずかに視線を上に向けると、目を大きく見開いた。
 リウェルは眉根を寄せながらフィオリナの顔を怪訝そうに見詰めると、フィオリナの視線を追うようにして後ろを振り返った。リウェルが目にしたのは、足を肩幅に開いて立ち、体の前で腕を組みながら、苛立たしげに指で腕を叩くセリーヌの姿だった。首をわずかに傾けたセリーヌは片方の口角を引き上げ、挑むかのような視線を二人に向けていた。リウェルはその場で体の向きを変えるとフィオリナを庇うようにして立ち、小屋の主を見据えた。
 「話は終わったかい?」セリーヌは冷ややかな声を投げかけた。
 暖炉の薪の爆ぜる音が小屋を満たし、時折、周囲の森から届く鳥の声が加わった。フィオリナはリウェルの背に隠れるようにして身を寄せると、リウェルの肩から覗き込むようにしてセリーヌを見た。リウェルはフィオリナをさらに庇うかのように、わずかに上体を引いた。
 セリーヌと、リウェルとフィオリナとの睨み合いは暫し続いたが、先に目を逸らしたのはセリーヌだった。セリーヌは少年少女から小屋の中央付近に置かれた乳鉢へ目を遣ると、続いて肩の力を抜くようにして大きく息をついた。
 「惚れた女を守ろうとする根性は見上げたものだが、」セリーヌは呆れた様子でリウェルを見た。「牙を剥き出すのはもっと別のときのためにとっておきな。私なんざに使うのはもったいない。そんなに安売りするもんじゃないよ。」セリーヌは大袈裟に肩を竦めてみせた。
 リウェルはゆっくりと口を閉じるとセリーヌから目を逸らし、決まり悪そうに視線を彷徨(さまよ)わせた。その後、恐る恐るといった様子で肩越しに後ろを振り返ると、触れんばかりの距離にあるフィオリナの顔に自身の顔を寄せた。
 フィオリナはリウェルの肩に手をかけると、鼻先でリウェルの頬に触れた。〈怖かった……。〉フィオリナは独り言のように呟くと、自身の鼻先を何度もリウェルの頬に擦りつけた。〈かあさまよりも怖かったかもしれないわ……。〉
 〈大丈夫だよ。〉リウェルは(なだ)めるかのように顔を近づけた。〈セリーヌさんは怖いけど、言うことはだいたい正しいから。〉リウェルはフィオリナの目を見た。〈僕らがセリーヌさんの言うことをきちんを聞いていれば平気だよ。〉
 「また、内緒話かい?」セリーヌの声が二人を射貫いた。
 リウェルとフィオリナはびくりと体を震わせると、怖ず怖ずとセリーヌを振り返った。
 「まったく……。私のところに居る間は念話を使わないという約束だったはずじゃないのかい?」セリーヌはリウェルとフィオリナを交互に見た。「私には、おまえさんたちが何を話しているのかはわからないが、おおよその見当はつくさ。おおかた、フィオリナの、親父さんへの愚痴か何かだろ? これまでのおまえさんたちのことを思い返してみれば、すぐにわかりそうなことさ。話を聞かれたくないから念話を使っていたんだろうが、まるで意味がない。あとは……、そうだね……、私のことをお袋さんよりも怖いとでも思っていたんだろ? ……図星かい。隠すんだったら、もう少しうまく隠すんだね。」
 リウェルはセリーヌから目を逸らすと顔を俯けた。フィオリナもあらぬ方向に顔を向けた。
 「それと、フィオリナ。」セリーヌは睨むかのようにフィオリナを見た。
 「はい。」フィオリナはセリーヌに向き直ると背筋を伸ばし、幾分引き攣った声で答えた。
 「おまえさんは、まあた、服も着ないままで……。あれほど、その姿のときは服を着ろ、靴を履け、と言っているだろうが。」セリーヌは今にも噛みつかんばかりだった。
 フィオリナは自身の体を見下ろした。起伏のない胸、その下へと続く腹、そして、腰から両足にかけては一面、白銀色の鱗に覆われていた。足指の先には鉤爪が伸び、それらが元の姿を思い起こさせた。両腕も同じ鱗に覆われていたが、手の甲と掌とに鱗はなく、ヒト族の手と同じような肌をみせていた。しかし、指先の爪はヒト族のような平爪ではなく、獣人族とも異なる鉤爪だった。フィオリナは顔を上げると、悪びれる様子もみせずにセリーヌを見た。
 「ここに居るのはセリーヌさんとリウェルだけだから……。」フィオリナは首を傾げた。肩まで伸びた白銀色の髪がさらさらと揺れた。
 「村の学び舎に通うときは、ちゃんと服を着ているんだろ? だったら、横着しないで、ここでもちゃんと服を着ること。」セリーヌは聞き分けの悪い子どもに言い聞かせるかのように捲し立てた。「だいたい、いくら飛竜だからって、いくら体が鱗に覆われているからって、フィオリナ、おまえさんは女の子なんだよ。女の子が――元の姿でなくてその姿でいるのなら――そんなに気安く肌をみせるもんじゃないよ。もう少し、恥じらいというものをだね――」
 「フィオリナは、『女の子』というより『雌』ですけどね。」リウェルはぼそりと指摘した。
 「何だい?」セリーヌはぎろりとリウェルを睨みつけた。
 「いえ、何でもありません。」リウェルは目を逸らし、何度も勢いよく首を横に振った。
 「とにかく、フィオリナ、」セリーヌはリウェルの後ろに隠れるようにして立つフィオリナを見据えた。「服を着な。あと、靴も履く、今すぐ。その姿でいるなら、女の子だろうが雌だろうが、男の子だろうが雄だろうが。」
 「はあい。」フィオリナは気の抜けた声で返事をすると、(おもむろ)に虚空へと手を伸ばした。何かを探すかのように何度か動かしたフィオリナの手に、リウェルが身につけているような服が現れた。フィオリナは慌てる様子もなくその服を着込むと、再び虚空に片手を伸ばした。数瞬の後、その手には一足の編上靴が握られていた。フィオリナは靴を手にしたままその場にしゃがみ込むと、鉤爪の伸びた足にその靴を履いた。鉤爪の伸びる指で靴紐を結び、すっかり身支度を調(ととの)えたフィオリナはその場に立ち上がると、自身の体を見下ろした。「変なところ、ない?」フィオリナは顔を上げ、リウェルを見ると、その場で一回転してみせた。
 「大丈夫。」リウェルはフィオリナの姿を上から下まで眺めると自信たっぷりに頷いた。
 「セリーヌさん、着ました。」フィオリナは両腕を体の横で軽く持ち上げ、胸を張った。「それに、履きました。」次いで、片足ずつ持ち上げてみせた。「これでいいですよね。」フィオリナは上目遣いにセリーヌの顔を覗き込んだ。
 「ああ。」セリーヌは諦め顔で息をついた。「遠目には男の子にみえるだろうがね。まあ、おまえさんたちにはその格好のほうが似合っているよ。」
 リウェルとフィオリナは顔を見合わせた。二人の姿は顔つきと体つきとが似通っていることと、二人とも村の少年が着るような服であることも相俟って、双子かと見紛うばかりだった。二人は互いの瞳を覗き込むとそのまま歩み寄り、互いの肘に触れながら鼻先を触れ合わせた。幾度かそうしていた二人は、揃ってセリーヌへと向き直った。
 「さあて、リウェルは仕事に戻りな。フィオリナはリウェルを手伝うこと。」セリーヌは二人に指示を出した。「ああ、あと、いつも言っているが、飛竜の力を使うんじゃないよ。」セリーヌは棚に向き直り、薬草の確認を再開した。
 「フィオリナが来るまで薬草を磨り潰していたのだけど、」リウェルは床に置かれた乳鉢を見、次いで、傍らの籠に視線を向けた。籠の中には乾燥させた薬草が一束だけ残されていた。「最後の一つはフィオリナがやる?」
 「やるわ。」フィオリナは元気いっぱいといった様子で答えた。
 「それじゃ、お願い。」リウェルは乳鉢の傍らに腰を下ろすと、縁に手を添えた。
 フィオリナはリウェルの向かい側に腰を下ろし、少し前までリウェルが手にしていた乳棒を手に取った。「始めるわね。」フィオリナは籠から薬草の束を手に取り、乳鉢に入れた。
 「いいよ。」リウェルは乳鉢に添えた手に力を込めた。
 その後しばらくの間、薬草を磨り潰す音が小屋の中に響いた。

    ◇
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