文字数 3,083文字

 一月の後半、ジュンが引っ越してきた。東京から荷物を送った後、新幹線に乗った。翌日、盛岡のアパートの部屋で受け取ることになっていた。手荷物は僅かだった。数日分の服と文庫本、そして携帯端末。引越し当日は一人だった。トウコは仕事が忙しく、夜どこかで引っ越し祝いでもしようとメールを入れたが返信が無かった。一人暮らしの荷物などたいした量ではなかったが、ダンボール箱がワンルームに積み上がっているのを見て、片付ける気を無くした。本と衣類と画材。他には寝具と本棚と一人分の食器。冷蔵庫と暖房機器は現地で買うつもりだった。昔からテレビは観ない。テレビをつけるくらいなら本を読む。カーテンすら無い。硝子窓に自分の顔が映る。備え付けの蛍光灯がチカチカしていた。まだ完全には陽が沈んでいないが、闇が降りれば一気に気温が下がる。ポケットから携帯電話を取り出した。トウコからまだ返信が無い。腹が減ってきた。再びメールを入れダウンジャケットを着て外に出た。昔、二人でよく行った喫茶店が肴町にある。あそこならトウコの部屋からも近いし、仕事終わりに顔を出してくれるかもしれない。ジュンの部屋からは距離があるが、何しろやることが無いし、久々に盛岡の街でも見物しようと路線バスに乗った。
 盛岡バスセンター行きに乗り、だらだらと四十分ほど窓の外を見ていた。車内は暖房が効き過ぎて頬が熟れた。うとうとし始める。バス特有の臭い。夕方になって少し混みはじめた車内の喧騒が心地良い。エンジンの振動が揺籠のようだった。気だるさが肩に圧し掛かった。疲れているのだろうか。だとすれば自分は一体何に疲れているのだろう? 四十年という年月に。うっすらと先が見えてしまうこの憂鬱を何と表現したらよいのだろうか。仕事も無く、ただふらふらとして陽の光を浴びることも無い。心を身ぐるみ剥がして行った最後に残った感情。そんな気持ちに疲れていた。
 バスが中央通りから市役所前を通過した。終点を告げるアナウンスが入る。同時に携帯電話にトウコからメールが届いた。
「八時過ぎなら行けるけど」
「いつもの店で待ってる」
 その店には高校生の頃よく通った。紅茶専門の店だが、まだそこにあるだろうか。当時は互いに自転車通学で、部活の終わりもまちまちだった。いつも決まってその店で待ち合わせた。ジュンは高校三年の冬になっても受験勉強をした記憶が無い。美大への進学を希望していたが、学校の成績は赤点ギリギリで、その先のことなど考えなかった。それに対してトウコは二年生だったが、成績を落とすこともなく、恋にのめり込むこともなかった。彼女に言わせれば元々頭のつくりが違うのよと言うかもしれないが、ジュンと会った日の夜でも独り机に向かっていたことは知っている。当時、熱を上げ過ぎていたのはジュンの方で、トウコは冷静に二人の関係を見ていたのかもしれない。
 店は当時とそれ程変わっていなかった。店に立つのはアルバイトらしき若い女性だった。サリーやストール、ジュートなどの雑貨が目に入る。旅行好きのオーナーがインドや東南アジアで仕入れてきたものだろう。二階のいつもの席に座る。ダージリンティーを注文した。紅茶の香りが漂っている。
 トウコが姿を見せたのはすでに八時をまわっていた。元々化粧などせずとも端整な顔立ちだが、年齢と共に多少紅が濃くなった。
「ごめん、待った?」
「いいよ、どうせ俺は暇なんだから」
「もうお腹ぺこぺこ、ちょっと何か食べさせてよ」
 キノコの和風パスタと紅茶のセットを頼んだ。
「たまに来るの?」
「いいえ、本当に久しぶりよ、以前とあまり変わってないようね」
「中学の先生って、そんなに忙しいのか?」
「受験シーズンですからね、担任持つと大変なのよ」
「夜中にパスタなんか食べて平気なのか?」
「平気よ、私、昔から太らないの。それに、それ以上のカロリー消費してますから心配には及びません」
「それは頼もしい限りだね、世の中の女性が皆、君みたいだったらよかったのにね」
「何、それ、ちょっとした皮肉かしら?」
 ジュンが苦笑する。
「ところで引越しは上手く行ったの?」
「ああ完璧だ。東京には何一つ残っちゃいない」
「どうせ部屋は散らかったままなんでしょう? 私、あなたの部屋ならだいたい想像がつくの」
「参ったね、透視できるようになったとは」
「私はあなたのお母さんじゃないんですからね、片付けになんて行かないわよ」
「わかってるよ、そんなこと思っちゃいないさ。それに片付けるほどの荷物もない。簡素なものさ。シンプルと言い換えてもいい」
「ものは言い様ね。あなた昔から綺麗な絵を描く割に、字が汚かったり、部屋も乱雑だったわよね」
「それもこれも以前と変わっちゃいない」
 トウコが弱々しい笑みを浮かべる。
「懐かしいわね、この店」
「ああ本当に。昔は二人で自転車で乗り付けて、閉店まで紅茶一杯で粘ったよな。随分と話したような気がするけど、あの頃、一体何を話していたんだっけ?」
「さあ、何だったかしら。昔過ぎて覚えていないわ」
「この歳になったから言うけど、僕はあの頃、君の自転車の一高ステッカーを見て嫉妬していたんだ。僕の学歴コンプレックスはその頃生まれたような気がする」
「学歴コンプレックス? 意外よね、あなたがそんな風に思っていたなんて。まるで学歴なんて気にしてないように見えたもの」
「人は見かけによらないのさ。大学にも行けなかったし」
「そんなことどうでもいいじゃない? 学歴の差なんて大人になってしまえば些細なことだもの」
「君のように生きられたらね、そう思えるのかもしれない。だけど僕はまだ、あの頃を引きずったままさ。一体どこから人生間違ったのかなって」
「つまらない人ね」
「そうはっきり言うなよ。自分が一番わかってるんだから」
「後悔してるってこと?」
「かもね、結局どんな道歩んでも、後悔したのかもしれないけど」
「困った人ね、私、将来ある子供たちに何て言ったらよいのかしら? 人生は後悔の連続ですなんて、とても言えないもの」
「君にも後悔のようなものがあるんだ?」
「そりゃ、あるわよ。私だって人間ですもの。後悔の一つや二つあって当然でしょう?」
「君の後悔とやらを聞いてみたいもんだね」
「趣味の悪い人ね。昔とちっとも変わってない。後悔なんていうものはね、それこそ一人でぎゅっと噛み締めて、他人になんて話すものじゃないのよ」
「君らしいね、そうやって一人で堪えてきたということか」
 ジュンを見つめた。
「何か飲む?」
「悪いけど、お酒はやめてとくわ。明日も仕事ですもの」
「そうだね、ごめん。引っ越しのお祝いは部屋に戻って一人で盛大に行うとするよ」
「あなたがまた戻って来るなんてね、変な気持ちだわ」
「違和感?」
「そう言われればそうかもしれない。これまで無かったものが急に目の前に現れたんですもの。何か、ずるいわ」
「もう少し喜んでもらえるかと思ったんだけどね、やっぱり十五年は十五年なんだな」
「そりゃそうよ。私を何だと思っているの? あなたのお母さんじゃないのよ。いつでもあなたを優しく迎え入れてくれるだなんてね、思わない方がいいわ」
「わかってる」
 ジュンが視線を逸らした。
「でも、まあ昔のよしみで良い親友でいてくれよ。俺はこれからこっちで仕事も探さなければならないし、相談に乗ってくれそうなやつ、実は一人もいないんだ」
「全くしょうがない人ね、いいわ、友だちでいてあげる。だけど、これだけは言っておくけど、それ以上の関係になろうだなんて思わないでよね。私、もう傷つきたくないの」
 ジュンが小さく頷いた。
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