十七

文字数 1,372文字

 その頃、ジュンは一人で部屋にいた。東京から持ってきた画材を横目にトウコの言葉を噛み締めていた。トウコに言われた言葉よりも、自分がついた嘘に対して嫌悪した。そんなつまらない嘘をつくくらいなら、本当に画材など捨ててしまえばよかった。未練がましく手元に置いておく方が余程自分を追い込んでしまう。警備員すら勤まらない自分が今更絵を描いたところで、何の意味があるのだろう。カーテンの隙間から陽光が漏れる。フローリングの床の一部だけ陽だまりができていた。斜めに射した光の中に無数の埃が舞っている。今度こそやり直したいという一心でこの街に戻って来たはずなのに、心がもうどこか異なる場所へと逃げ出そうとしている。他の土地に移り、やり直すことができれば、きっと人生は変わると囁く。しかし、そのような淡い期待を持つことの虚しさもわかっている。
 夜、トウコから携帯電話に連絡があった。
「この間はごめんね。無神経なこと言って」
「いや、気にしなくていいよ。本当のことだから」
「あれから連絡くれないから、怒ってるんじゃないかと思って」
「怒ってなんかないよ。あれから俺も自分なりに考えたよ。なあ、トウコ、どうして世の中ってこんなにも生き難いんだろ? 歳をとればとるほど生き難くなる。歳をとるってそんなにいけないことなのか? 仕事に就かないことがそんなに悪いことなのか?」
 トウコが受話器の向こうで黙っていた。
「俺、春になったらどこかへ引っ越すよ」
「え?」
「ここじゃ仕事見つかりそうもないし、いつまでも俺みたいな奴がここにいたら、お前にも迷惑がかかるだろうし」
「それ本気で言ってるの?」
 言葉に詰まった。
「あなたっていつもそうね。そうやって上手く行かなくなると、すぐにそこから逃げ出そうとする。上手く行かない人生をいつも環境のせいにして、自分と向き合おうとしない」
「説教はよせよ」
「いいえ、今日は言わせてもらうわ。あなた盛岡に一体何しに来たのよ。人生をやり直そうと思って、生まれ故郷での再起をかけたんでしょう? それが何よ。ちょっと仕事に失敗したくらいで意志が崩れて、一年も経たずにまた東京に帰るですって? 私に言わせれば今のあなたならどこへ引っ越したって一緒よ。また新しい土地に行ったって同じことの繰り返し」
「安定した生活をしているお前にはわからないよ」
「そうね、本当の意味ではあなたの気持ちなんてわからないのかもしれない。だけどそれが何だって言うの? 誰か他人に理解してもらうことを期待しているとでも言うのかしら? あなたが絵を描かなくなった理由がわかるような気がする。あなたは自分の絵が誰かに理解されると思ったんでしょう? でも現実はそうではなかった。だから認められない自分自身に向き合うのが怖くて絵を描かなくなったのよ。自分が何者でもなく、何者にもなれないことを知るのが怖かっただけ」
 しばらく沈黙が続いた。
「いいわよ。好きにすればいいじゃない。あなたの人生なんだからどうぞご自由に。またあの時みたいに私を置いて、どこかへ行ってしまいなさいよ」
 トウコが通話を切った。携帯電話を持ったまま唇を噛んだ。目の前に白い幕が降りたように何も見えなくなった。あの日のことを思い出した。まだ自分たちがほんの子供だった頃の記憶。忘れようとしても決して忘れることのないあの日の記憶。
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