幸せの冬の予感
文字数 2,256文字
「ありがと……遠田君?」
引き戸に手をかけたまま、呆然と僕を見つめているのは井原だった。床にぺたんと座った奏野が、白々しく言い訳する。
「あ、あの、床にコンタクト落としちゃって」
「弓ちゃん、いつもメガネでしょ?」
矛盾を的確に突いてくるのは、いかにも井原らしい。ここでごまかすのは、かえって不誠実だという気がした。僕は、きわどいところを見られた気まずさもあって、自分の失態を潔く謝ることにした。
「ごめん、井原……」
いささかヤケクソ気味のところもあったけど、許してもらえなくても仕方がないと腹をくくっていた。
だが、井原の口から出たのは、意外な一言だった。
「間に合った」
あまりのことに、返す言葉がなかった。僕たちは、レポートの代返に失敗したのだ。それなのに、現物が井原の手元にあるわけがない。
その疑問は、奏野が代弁してくれた。
「どうして?」
井原が答える前に、後ろからのそりと現れた影があった。
てっきり巡回の教師かと思って、隠せるはずもないパソコンの前に立ちはだかる。両脇を見れば、多賀も奏野も同じ大の字のポーズをしていた。
「何やってんだ、お前ら?」
間延びしたその声は、タイムリミットが来ても姿を現さなかった風間のものだった。
「何で今ごろ……」
詰め寄った奏野は急に立ち止まったが、その理由は、僕にもすぐ分かった。「大男総身に知恵が回りかね」というが如く、ムダにデカいその手の中にあるのは、空になった井原のクリアケースだった。
僕は窓際に駆け寄った。見下ろしてみると、クリアケースのあった辺りの屋根には、教師が1人立っている。そこから怒鳴り散らされてうろたえているのは、新島だった。
「何で……?」
気が付くと、多賀も僕の隣にいた。どれだけ冷静でも、説明のつかないことにはさすがに動揺するらしい。
風間はいつもの通り、のそっと答えた。
「ずっと外のトイレに閉じ込められてた、ごめん」
こいつの言うことには、しばしば主語がない。僕は待たされた怒りもあって、少しイラつきながら尋ねた。
「誰に?」
「たぶん、新島……尾行されてさ」
僕と風間の話が、昨日の人混みの中で聞かれていたのだろう。新島は俺たちの作業場所を確かめようとして、いちばんトロい風間を追っていたのだ。
奏野が呆れたように確かめる。
「で、外のトイレに隠れたんだな?」
そこで察しがついた。あのロッカーをバリケードにしたのは、新島だったのだ。なんて執念だろうか、井原ひとりを陥れるためにそこまでするとは。
くびをかしげながら、間を開けずに奏野が聞いた。
「新島と、他に誰?」
ちょっと考えて、風間は答えた
「……新島だけ」
大きなロッカーを、えっちらおっちら1人で引きずって歩いている性悪美少女の姿を想像すると、可笑しくもあり、バカバカしくもあった。
僕は思わずつぶやいた。
「そこまでやるか……」
「新島真由って、そういう女」
皮肉たっぷりに奏野が答えた。
「だから言ったろ、肝心なことは自分だけでやるって」
井原が哀し気に微笑んだ。そこまで徹底的に嫉妬され、憎まれるくらいに可愛いのだ、この子は。
風間はどう思っているのか気になって、その表情をうかがう。だが、わずかに早く、多賀が興味深そうに尋ねていた。
「何で分かったんだ?」
外のトイレにいたのに、なぜ分かったのか。それは、僕も疑問だった。
だが、それには井原が答えてくれた。
「私が……先生に相談したの。ノートを隠されました、って」
これも意外だった。今まで逃げるしかなかった井原が、どんな形であれ、行動を起こしたのだから。僕はその先を聞かないではいられなかったが、その一方で、心のどこかに一抹の不安が引っかかっていた。
「それと……風間とどういう関係が?」
なぜ、風間がノートの入っていないクリアケースを持っているのか。
その答えは、ぼそっと返ってきた。
「先生がしゃべってるの聞いた」
その言葉を、奏野が継いだ。
「新島が自習室から体育倉庫の上に、クリアケースを落とした、と」
窓際でのゴタゴタとのつながりがやっと分かったのか、多賀がグラウンドの彼方を眺めながら鼻で笑った。
「奏野に追い払われて予防線を張ったんだろう。自分の持ち物だってことにするために」
英雄扱いを避けるかのように、奏野が風間を労った。
「で、そこで先生に出してもらったわけか」
「事情はよくわかんなかったけど、それが井原さんのだって知ってたから、自分で拾いに」
確かに、風間の図体だったら体育倉庫の上にも軽く登れるだろう。僕は再び、窓の下を眺めた。
「その結果が、これか」
体育倉庫の屋根から下りた教師に、新島が問い詰められている。落としたと断言したものがないことについて、追及を受けているのだ。
それを知らない井原は、ただ申し訳なさそうに微笑んだ。
「ありがと、奏野さん……ノートは出してきたから」
さかのぼれば、新島との対決がハッピーエンドに流れを変えたのだ。
奏野は肩をすくめて、流し目を僕に送った。
「それなら遠田に」
井原には悪いけど、結構、色っぽいと思った……意外にも。もちろん、そんなことが他人に分かるはずもない。井原の微笑は、満面の笑顔に変わった。
「ありがと。バイトがんばろ!」
「ああ!」
ちょっと照れ臭かったけど、それは押し隠して、僕もガッツポーズなんかしてみせる。
冬は、これから始まるのだ。
引き戸に手をかけたまま、呆然と僕を見つめているのは井原だった。床にぺたんと座った奏野が、白々しく言い訳する。
「あ、あの、床にコンタクト落としちゃって」
「弓ちゃん、いつもメガネでしょ?」
矛盾を的確に突いてくるのは、いかにも井原らしい。ここでごまかすのは、かえって不誠実だという気がした。僕は、きわどいところを見られた気まずさもあって、自分の失態を潔く謝ることにした。
「ごめん、井原……」
いささかヤケクソ気味のところもあったけど、許してもらえなくても仕方がないと腹をくくっていた。
だが、井原の口から出たのは、意外な一言だった。
「間に合った」
あまりのことに、返す言葉がなかった。僕たちは、レポートの代返に失敗したのだ。それなのに、現物が井原の手元にあるわけがない。
その疑問は、奏野が代弁してくれた。
「どうして?」
井原が答える前に、後ろからのそりと現れた影があった。
てっきり巡回の教師かと思って、隠せるはずもないパソコンの前に立ちはだかる。両脇を見れば、多賀も奏野も同じ大の字のポーズをしていた。
「何やってんだ、お前ら?」
間延びしたその声は、タイムリミットが来ても姿を現さなかった風間のものだった。
「何で今ごろ……」
詰め寄った奏野は急に立ち止まったが、その理由は、僕にもすぐ分かった。「大男総身に知恵が回りかね」というが如く、ムダにデカいその手の中にあるのは、空になった井原のクリアケースだった。
僕は窓際に駆け寄った。見下ろしてみると、クリアケースのあった辺りの屋根には、教師が1人立っている。そこから怒鳴り散らされてうろたえているのは、新島だった。
「何で……?」
気が付くと、多賀も僕の隣にいた。どれだけ冷静でも、説明のつかないことにはさすがに動揺するらしい。
風間はいつもの通り、のそっと答えた。
「ずっと外のトイレに閉じ込められてた、ごめん」
こいつの言うことには、しばしば主語がない。僕は待たされた怒りもあって、少しイラつきながら尋ねた。
「誰に?」
「たぶん、新島……尾行されてさ」
僕と風間の話が、昨日の人混みの中で聞かれていたのだろう。新島は俺たちの作業場所を確かめようとして、いちばんトロい風間を追っていたのだ。
奏野が呆れたように確かめる。
「で、外のトイレに隠れたんだな?」
そこで察しがついた。あのロッカーをバリケードにしたのは、新島だったのだ。なんて執念だろうか、井原ひとりを陥れるためにそこまでするとは。
くびをかしげながら、間を開けずに奏野が聞いた。
「新島と、他に誰?」
ちょっと考えて、風間は答えた
「……新島だけ」
大きなロッカーを、えっちらおっちら1人で引きずって歩いている性悪美少女の姿を想像すると、可笑しくもあり、バカバカしくもあった。
僕は思わずつぶやいた。
「そこまでやるか……」
「新島真由って、そういう女」
皮肉たっぷりに奏野が答えた。
「だから言ったろ、肝心なことは自分だけでやるって」
井原が哀し気に微笑んだ。そこまで徹底的に嫉妬され、憎まれるくらいに可愛いのだ、この子は。
風間はどう思っているのか気になって、その表情をうかがう。だが、わずかに早く、多賀が興味深そうに尋ねていた。
「何で分かったんだ?」
外のトイレにいたのに、なぜ分かったのか。それは、僕も疑問だった。
だが、それには井原が答えてくれた。
「私が……先生に相談したの。ノートを隠されました、って」
これも意外だった。今まで逃げるしかなかった井原が、どんな形であれ、行動を起こしたのだから。僕はその先を聞かないではいられなかったが、その一方で、心のどこかに一抹の不安が引っかかっていた。
「それと……風間とどういう関係が?」
なぜ、風間がノートの入っていないクリアケースを持っているのか。
その答えは、ぼそっと返ってきた。
「先生がしゃべってるの聞いた」
その言葉を、奏野が継いだ。
「新島が自習室から体育倉庫の上に、クリアケースを落とした、と」
窓際でのゴタゴタとのつながりがやっと分かったのか、多賀がグラウンドの彼方を眺めながら鼻で笑った。
「奏野に追い払われて予防線を張ったんだろう。自分の持ち物だってことにするために」
英雄扱いを避けるかのように、奏野が風間を労った。
「で、そこで先生に出してもらったわけか」
「事情はよくわかんなかったけど、それが井原さんのだって知ってたから、自分で拾いに」
確かに、風間の図体だったら体育倉庫の上にも軽く登れるだろう。僕は再び、窓の下を眺めた。
「その結果が、これか」
体育倉庫の屋根から下りた教師に、新島が問い詰められている。落としたと断言したものがないことについて、追及を受けているのだ。
それを知らない井原は、ただ申し訳なさそうに微笑んだ。
「ありがと、奏野さん……ノートは出してきたから」
さかのぼれば、新島との対決がハッピーエンドに流れを変えたのだ。
奏野は肩をすくめて、流し目を僕に送った。
「それなら遠田に」
井原には悪いけど、結構、色っぽいと思った……意外にも。もちろん、そんなことが他人に分かるはずもない。井原の微笑は、満面の笑顔に変わった。
「ありがと。バイトがんばろ!」
「ああ!」
ちょっと照れ臭かったけど、それは押し隠して、僕もガッツポーズなんかしてみせる。
冬は、これから始まるのだ。