ハネムーンへGO! 後編

文字数 3,367文字

 そこまで小さくシャウトしてからハッと我に返り、「……あ、すみません!」と周りの乗客に頭をペコペコ下げてから、彼はトーンダウンして神妙な面持ちでわたしに訊ねた。

「……というか、ウチの会社に副社長なんてポストありましたっけ?」

「一応、あるにはあったの。ただ、実質機能してないポストだったから、最近までやる人がいなくて」

 副社長の役割は、三月まで専務でもあった人事部長の山崎(やまざき)さんが務めていたのだけれど。四月から人事が変わり、専務には別の人が就任したので、副社長のポストを復活させようということになったのだ。
 ちなみに村上(むらかみ)社長が兼務していた常務も人事が一新された。母が言っていた貢の直属の上司で秘書室長の広田妙子(たえこ)さんは留任しているけれど。

「でもね、『会長の配偶者が平社員なのはどうなのかしら?』ってママが言い出して……。『だったら何かポストに就いてもらった方がいいんじゃない?』ってことになって」

「それはつまり、グループや会社の体面のため……ってことですか?」

「……まぁ、そうとも言うわね。でも、貢にとっても悪い話じゃないと思うの。今もらってる月給とはまた別に、毎月役員報酬も入るから。そうね、副社長なら一千万円ってところかな」

「いいいい……一千万んん! 僕の月給が手取りで四十万だから……、二十五倍! うわぁ……」

 彼は途方もない金額を耳にして、思わず天を仰いだ。そりゃあ、年収五~六百万円のサラリーマンにとってはとんでもない大金だろう。

「ね? すごいでしょ。それだけの収入があれば、マイカーローンの返済だってあっという間に終わっちゃうし、お給料は貢の好きに使っていいんだから」

「……はあ、それはありがたいお話なんですけど。僕にはちょっと責任が重すぎるんじゃないかと……」

 ……そう来ると思った。彼は謙虚な性格のうえにお人好しで、断わり下手(ベタ)ときている。それが災いして、わたしと知り合った頃には当時いた部署で上司からひどいパワハラを受けていたのだ。

「貢、前に言ってたよね。わたしからのお願いは命令と同じようなものだ、って」

「……ああ、あれですか。まだ根に持ってたんですね」

「そ……っ、そんなことないもん!」

 痛いところを衝かれ、わたしはムキになって吠えた。咳払いしてからそれはともかく、と話を戻す。

「これはわたしだけじゃなくて、ママの希望でもあるの。もちろん貴方の性格も考慮して、お願いはしない。引き受けるかどうかは貴方の意思に委ねるわ。だから、貴方のタイミングで返事をくれればいい」

「分かりました。前向きに考えてみます。車って、ローンが完済しても維持費とか結構かかるんですよね。車検代とかガソリン代も。だから、月に一千万円の役員報酬はけっこう魅力的なんです」

 これでは、大金に釣られていかがわしいアルバイトに食いつく若者と変わらない気がする(そしてわたしもまだ〝若者〟のカテゴリーに入るんだった)。
 もちろんこれはそんな怪しい話ではないし、彼にとってはマイカーにかかるコストが現実的に頭の痛い問題だということも、わたしはちゃんと理解している。

「貢がそれを理由に引き受けるっていうなら、別にそれでも構わないんだけど……。お金で釣るつもりはないし、車にかかる経費なら、これからはわたしも負担するわ」

 彼の車は、彼が我が家に婿入りした時点ですでに篠沢家の所有、わたしたち夫婦の共有財産になっているのだ。彼一人で費用を負担する必要はなく、むしろわたしの方が全額負担したっていいくらいである。

「副社長の役割は主に村上さんのサポートで、あとは通常業務とほとんど変わらないから、あんまり重く受け止めないで、気楽に構えてくれてたらいいのよ」

 わたしにとって一番の心配は、この話が彼にとっての重圧にならないだろうか、ということだ。昨年秋まで、わたしとの結婚が重圧となって苦しんでいたように。

「はい、分かってます。この休暇が終わる頃までには結論出せると思うんですけど、それで大丈夫ですか?」

「うん、それで大丈夫。じゃあ、この十日間は思いっきり休暇をエンジョイしまくりましょう!」

「はい!」

 彼の元気な返事を聞き、満面の笑みを見たわたしは気持ちを休暇モードに切り替え、車内販売で缶入りのオレンジジュースを二本買って一本を貢にあげた。
 ジュースを飲みながら、手荷物のバッグから神戸や淡路島のガイドブックをどっさり引っぱり出してページを繰り始める。

「――そういえば、神戸に着く頃は夕食時ですよね。どこで食べるか決めてあるんですか?」

 貢に訊かれ、わたしはそこまで予定を決めていなかったことに気がついた。      
 元々行き当たりばったりというか、行先だけ決めておいてあとは現地に着いてから動く感じの旅行が好きなのだ。

「実は決めてないの。去年は出張で行ったから、ホテル内のレストランで済ませたけど……。今回は外で食べたいよね。でも、わたしも貴方も土地勘ないしなぁ……、あ」

「? どうしたんですか?」

 わたしには一人、神戸の市街地で美味しいお店を知っていそうな人物に心当たりがあった。

「そうだ! 川元さんに連絡とってみるわ。彼なら神戸に土地勘あるだろうし、食事もご一緒してくれるかも! ……ちょっとゴメンね」

 座席での電話はマナー違反なので、わたしはスマホを持つと席を立ち、デッキまで電話をかけに行った。

『――はい、川元(かわもと)です』

 わたしが電話をかけた相手は、篠沢商事・神戸支社の川元隆彦(たかひこ)支社長。
 彼には一年前に出張で開業前の神戸支社を視察に行った時、すごくお世話になった。オフィス内の案内もしてくれたし、二日目には観光の案内役も買って出てくれた人だ。まだ三十代半ばでお若いけど、もうすでに〝頼もしいリーダー〟という感じの人だと思ったのを覚えている。

「川元さん、会長の篠沢です。お久しぶりです。昨年の夏はお世話になりました」

『いえ、こちらこそ。――会長、ご結婚おめでとうございます。今日は式に出席できなくて申し訳ありませんでした』

「ありがとうございます。出席して頂けなかったのは残念ですけど、祝電嬉しかったです。神戸支社の業績も上々みたいで何よりです」

 実は川元さんにも招待状を送っていたのだけれど、まだ開業して一年も経っていない支社なので業務がパンパンに詰まっていて出席できないという返事をもらっていたのだ。
 でもその代わりに、彼は個人名でお祝いのメッセージをくれた。わたしにはそれだけで十分嬉しかった。

『式は無事に終わったんですよね? 会長は今どちらに?』

「実は今、新幹線の車内なんですけど。新婚旅行で神戸に向かってる途中なんです。今はえーっと……、名古屋(なごや)の辺りじゃないかと」

『名古屋ですか。では、まだ東海道線なんですね』

「ええ。新大阪で乗り換えないといけないから、新神戸に着く頃は夕食時じゃないかしら。――ところで川元さん。今晩のご予定は空いてらっしゃいますか?」

『はあ、大丈夫ですが……』

 わたしの唐突な質問に、彼は戸惑っているようだ。

「実は、夕食は外で摂ろうかって彼と話してたんだけど、わたしも彼も神戸に土地勘がないからお店を知らなくて。よかったら美味しいお店を紹介して頂くついでに、貴方もご一緒にお食事どうかな……と思って」

『えっ、僕もご一緒していいんですか? もちろん、ぜひ! では、新神戸駅に到着したらまたご連絡下さい。お二人をお迎えに上がりますので。お店はお会いした時に相談しましょう』

「ありがとう! 分かりました。じゃあ、また後ほど」

 ――通話を終えると、わたしはいそいそと座席へ戻った。

「川元さん、お食事にお誘いしたら『ぜひご一緒に』って! お店は会った時に相談しましょうって」

「そうですか」

 報告を聞いた貢も嬉しそう。彼もまた、川元さんに好印象を持っているみたいだ。お兄さまとお歳が近いからかしら?

「今日と明日は神戸に泊まるから、ついでに明日の市内観光にも付き合ってもらおうかな♪」

「……絢乃さん、お忘れのようですけど、明日は火曜日で平日ですよ?」

「あぁ~っ、そうだった……」

 貢から冷静にツッコまれたわたしは、ハッとした。平日の日中に、お勤め人を振り回すわけにはいかない。
 というわけで、明日の神戸観光は自分たちでルートを決めて回ることにした。
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登場人物紹介

篠沢絢乃(しのざわあやの)

大財閥〈篠沢グループ〉会長。私立茗桜女子学院高等部を卒業。四月三日生まれ、十九歳。O型。

秘書である8歳年上の桐島貢(きりしまみつぐ)と紆余曲折の末、めでたく結婚。

結婚式の日に彼から言われたことをきっかけに、「パティシエールを目指してみたい」と思うようになる。

篠沢貢(しのざわみつぐ)

篠沢グループ本社・篠沢商事・秘書室所属。会長付秘書。大卒。五月十日生まれ、二十七歳。A型。

旧姓は桐島。篠沢家の入り婿となる。

「生まれ育った境遇の違い」というコンプレックスを乗り越え、8歳年下の絢乃と結ばれた。

大のコーヒー好きが高じて、かつての「バリスタになる」という夢と再び向き合うことを決意した。

川元隆彦(かわもとたかひこ)

篠沢商事・神戸支社長。大卒。O型。

兵庫県南あわじ市出身。三十七歳独身・彼女アリ。

一年前の神戸支社視察の際、絢乃&桐島のカップルと知り合いになる。

今回、新婚旅行で神戸を訪れた絢乃たち夫婦を温かく出迎える。

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