第3話 壊れた街
文字数 5,154文字
期末テスト二日目が終わった夜、憂鬱な英語のテストを乗り越えた安心感から、真織はつい動画サイトのアニメを見てしまった。一話だけ、三話まで、五話くらいなら、とうとう十二話全部。
気が付けば午前三時半、今から寝ても六時半に起きるのが辛い。真織は濃いめのコーヒーを淹れて徹夜することにした。
静かにドアを開けて自分の部屋を出ると、廊下を挟んだ寝室から母の甲高いいびきが聞こえた。書斎の電気は消えていて、玄関にも父の靴はなく安心する。父の存在は、家にいないと寂しいが、家にいれば鬱陶しい。
キッチンの電気を点けて、コーヒーメイカーのスイッチを入れる。エスプレッソに泡立てたミルクを入れて、ハチミツをたっぷり加えて混ぜる。甘さと苦さで目が覚めた。
ふと思いつくと、カップを持って部屋にもどらず、父の書斎に入る。
カーペット敷きの十二畳に、机と飾り棚とオーディオセットにマッサージチェア。このマッサージチェアは特注で、十分間横たわれば三時間の睡眠に匹敵する疲れがとれるらしい。
勝手に使ったら叱られるけれど、父がいないのだからかまわない。真織はカップを机に置き、マッサージチェアに横たわった。父より十センチ身長が低いから、リモコンで高さを調節して「お疲れモード十分」にセットする。
耳元に心地よいヒーリング音楽が流れ、足が浮き、背中が倒れていく。まるで宙に浮いているようだ。十分のマッサージの間に、真織はぐっすりと寝入ってしまった。
目が覚めたとき、父に「こらっ」とたたき起こされたと思った。
真織はマッサージチェアの上で背中が二回バウンドして、床に転がり落ちた。ガチャン、と机に置いたマグカップが倒れる。コーヒーが机からカーペットに滴り落ちる。
「パパにしかられる」
だがマグカップを起こそうにも、真織は立ち上がれなかった。
なにが起こったのか、床がトランポリンのように波打って、体が跳ね飛ばされる。信じられないことに、重いマッサージチェアがガタンガタンと浮いている。なんとかつかまろうと爪を立てたカーペットが、波のように頼りない。
「なんなの!」
床のトランポリンが収まると、今度は壁が自分に倒れてきそうに揺れている。棚に飾っていた小物が次々落ちてくる。ひどい耳鳴りがして、立ち上がれない。
パジャマのポケットに入れた携帯電話から、けたたましい警告音が鳴り響いた。続いて、マンションのセキュリティーサイレンが鳴り響く。
「真織ちゃん!」
悲鳴のような母の声がサイレンに重なる。
「真織ちゃん! どこ!」
「パパの部屋!」
母が書斎に飛び込んできた。床に倒れた真織を引っ張り、父の机の下にもぐり込んだ。とたんに目の前にオーディオセットの大きなスピーカーが配線を引きちぎって落ちてくる。危ないところだった。
「なにこれ。東京にミサイル落ちた」
「地震。相当でかいわ。どこか怪我はない」
「大丈夫」
言われてから気づいた。母は靴下に血が滲んでいる。棚から落ちた小物を踏んだのだろう。床の上は足の踏み場もない。
ものすごい揺れが一時間も続いたように感じたが、時間の感覚が鋭敏になったせいで、ほんの数分の出来事だったのかもしれない。一旦、揺れが引くと、母が「そこにいなさい」と言い残し、走って書斎を出る。
すぐに真織の着替えと靴とヘルメットまで持ってきた。
「急いで着替えて、絶対にこれだけは必要なものだけリュックに入れなさい。あれだけの地震だと、余震もこれから相当続くはず。避難所に行くわよ」
「なんで避難。家にいればいいよ。このマンションは免震設計ってパパが言ってた」
「揺れの少ない最新式の免震マンションで、これだけ揺れたのよ。外がどうなってると思う」
母がカーテンを開くと、東の空が薄く明るくなりかけているのがわかった。
しかし不自然だ。三十階のこの部屋からは、都内不夜城の夜景が一面に見えるはず。飛行機から目立つように赤いチカチカしたランプもたくさん見えるはずなのに、目の前にはただの薄闇しかない。
見下ろすように額を窓ガラスにくっつけると、外にあるのは一面グレーがかった街と、その闇を割いて上がるおびただしい数の白煙だった。
どれだけ広く停電して、どれほどの火事が起こっているのか。
真織は足ががくがくと震えた。また揺れが始まり、母は「窓の近くは危ない」とカーテンを閉めて、一緒に机の下に隠れた。
「パパは。パパは大丈夫?」
「タワーマンションより、十階建ての会社のビルの方が頑丈にできてるわよ。今は電話が全然繋がらないけど、ラインで私たちが無事なのは連絡してあるから、お父さんも落ち着いたら連絡くれるはず」
母に促されて、揺れの中でパジャマからセーターとデニムに着替え、先の固い安全靴を履きヘルメットをかぶった。父の入れ知恵か、真織に「ダサいから着ない」と文句を言わせないよう、登山風のジャケットに、靴もヘルメットもリュックサックもナチュラル系ブランドを揃えてある。
余震が収まると、すでに水と下着やタオルなどが詰められていたリュックに、真織は充電器とバッテリー、財布と交通カード、化粧ポーチ、一番気に入ってる黒のゴシック風ワンピースと、生まれた日に作成されたバースデイ・テディベアを入れた。
絶対にこれだけは必要、と思いつくものは案外少なかった。最後に、通学カバンからいつも持ち歩いているナイフを取り出し、ポケットに入れた。
「じゃあ行くわよ、真織ちゃん。一階まで階段で降りるから頑張ってね。余震がきたらすぐに座ること」
真織より背の低い母の方が、はちきれんばかりに詰まった重そうなリュックサックを背負っているが、よろめくこともなく足の運びは確かだった。
「さっき、足から血が出てたけど」
「ああ。テーピングしたから大丈夫。こう見えて、中学高校とバレーボール部だったから、体力は自信ある」
「ふぅん」
暗い廊下で、母はトンネル工事の人のような、ヘルメットのライトを点けた。
最上階の三十階は部屋の造りが広く四軒しかないが、同じ階の住人がどんな人か、真織は知らない。廊下には誰もいなかった。
「やっぱり誰も避難なんかしてないし」
「避難準備に時間かかってるだけ、いずれ出てくるわよ。タワーマンションは停電になるとアウト。水も出ないから、家にいたってトイレもできないのに」
暗い階段をライトで照らしながら降りる母のうしろを、真織はつかず離れず降りていく。母の言うとおり、三階ほど降りると下から声が聞こえてきて、避難者たちの背中が見えてきた。
「大変な地震でしたね。下の方はどうなってますか」
母が両手を頬に当てて声を張ると、返事とともに情報が断片に返ってきた。
マグニチュード八、
震源は東京湾、
湾岸地域には津波の恐れ、
非難命令が発令中。
湾岸近くのテレビ局やレインボーブリッジが倒壊したらしい。ほかの避難者たちから悲嘆にくれた声が漏れ、階段にこだまする。
徐々に、各階からの避難者が増えて、二か所しかない階段は渋滞し始める。母は二十階から避難してきた老夫婦の荷物を持ってやり、余震の中で階段を降りるのを励ましていた。
真織は老夫婦に話しかけられて、会釈程度の返事をする。
「うちの孫も高校三年生なんですよ」
「陸上部で、大学に入ったら箱根駅伝に出たいって言ってますよ。その前に受験があるのにね」
返事のしようがない一方通行な年寄りの会話に、真織はいらついた。母は、
「お孫さんと連絡はとれたんですか」と尋ね、会話を続けている。余計なことをしやがって。
「息子一家がこの近所のマンションに住んでいるので、電話も繋がらないし、直接様子を見に行こうと思ってね」
足腰が弱っているのに、暗い二十階の階段を降りて息子一家の様子を見に行こうとするのが、真織には愚かなことに思われた。停電が解除されるのを部屋で待つか、息子たちの迎えを待てばいいのに。階段の途中で怪我でもしたら目も当てられない。
幸い、その息子と孫が階段を駆け上がってきたので、母は荷物と老夫婦をバトンタッチした。
「お世話になり、ありがとうございました」
息子と孫は息も絶え絶えの中、母と真織に一礼して、老夫婦をひとりずつ背負った。
「ほらな。俺じいちゃんたち階段降りて来るんじゃないかと思ったんだよ。迎えに行こうって俺が言ったんだ」
「親父。余震があるのに部屋を出たら逆に危ないじゃないか。お袋は足が悪いのに無理させるなよ」
「だっておまえ、電話が繋がらないんだから」
「私が頼んだのよ。どうせ死ぬならタワーマンションの中に閉じ込められるより、地面の上がいいって」
「馬鹿だなあ。免震構造だから簡単に倒れたりしないし、こんなときのために部屋に山ほど食料備蓄してるくせに」
「なにはともあれ、あなたたちが無事でよかった」
洟をすする音が聞こえて、真織は肩をすくめてさっさと階段を降りた。母が真織を追ってくる。
「離れないで、真織ちゃん」
「階段の真ん中で立ち止まったら迷惑だよ」
あの一家が自分にとって迷惑だと言ったつもりだが、母は違うように受け取ったらしい。
「今は誰もそんなこと気にしないから大丈夫。一軒でもご家族の無事が確認できてよかったわ」
「早くパパから連絡来ないかな」
携帯電話は不通の状態が続いている。インターネットのニュースがぽつぽつと被害状況を伝えているが、なにせ記者の圧倒的多数が被災した都民なのだから、停電も続いているはずで、記事を書いている場合ではない。
また大きな揺れが十秒ほど続いて、階段に悲鳴が響く。
壁が崩れそうにビシビシと鳴り続け、母は呆然とする真織を腕の中に囲って座らせた。人々はその場でうずくまり、揺れが収まるのを待った。
「階段から誰か落ちたぞ!」
「大丈夫か」
「わからない。下は見えない」
子どもの泣く声が上がる。伝染したようにあちこちで子どもが泣き始める。狭い階段に人々がひしめき合って、壁は今にも崩れそうな音を立てている。真織は、叫び出したい衝動を必死にこらえた。
余震の度に足を止め、一時間かけて階段を降りマンションの外に出たら、真織は再び衝撃を受けた。
道路のあちこちが盛り上がり地割れしていて、倒れた信号の下敷きになっている車が、すぐ目の前に見えた。見渡せば、ガラスが散って朝の光を浴びているせいか地面がきらきら輝いている。倒壊した建物、斜めに傾いた建物が、道路の上に高いアーチを作っていた。
まるでゲームの中のディストピア世界のようだ。
避難所に指定されている小学校の運動場は、最初は不安げな住民たちがぽつぽつと現れ小さなグループを作って情報交換していたが、周辺のタワーマンションから続々と人がやって来ると、たちまちいっぱいになった。
「炊き出し始めます。手の空いてる人は手伝ってください。男性は避難者を町会ごとに分けるお手伝いをお願いします」
ハンドスピーカーの声を聞いた母は「行こう」と真織の手を引いたが、
「やだ。いつパパから連絡入るかわかんないのに」
と答えたら、真織を炊き出し場の近くに座らせて、荷物番をさせる。母が背負っていたリュックは、持ち上げようとしてもビクともしなかったので、その上に座った。
父に何度もメッセージを送っているが、既読にすらならない。
「凛香は無事だったかな」
これまで全く考えなかったのが不思議だ。真織は慌ててラインで凛香の安否を問うた。凛香の家は湾岸部の団地だ。震源地に近いのではないか。
凛香からも、返事がなかった。目の横がぴくりと引きつり、耳鳴り、いやな感覚。
やがて美味しそうな匂いが漂ってきて、母がおにぎりとカップに入った味噌汁を運んできてくれた。
「荷物番ありがとう。お父さんから連絡あった?」
「ない。凛香からもこない」
「お父さんは会社が大変なのかも。社員の安否確認とか、いろいろあるでしょう。お友達もきっと家の中が大変なことになってるのよ」
真織はさっきから何度も叫びたくなるのを必死にこらえているのに、諭すような口調で言われて、思わず食べかけのおにぎりを母に投げつけた。母は驚いた顔をしたが、すぐに地面に落ちたおにぎりを拾ってティッシュで包んだ。
「大丈夫よ、真織ちゃん。大丈夫」
とうとう頬がひくひくと動き出したのに気づいて、慌てて手のひらで押さえた。チック症状が止まらない。
「あとでもう一個もらってくるからね。お味噌汁だけ冷めないうちに食べて」
「もういらない」
「わかった」
真織の差し出した味噌汁を母は飲み干し、また炊き出しをする女たちの中に戻っていった。何人かの女たちと話して作業を手分けしている。初対面の人ばかりの中にいて、早くも居場所を作っている。
野外ライブのように運動場にひしめく避難者の中で、真織は独りぼっちだった。
気が付けば午前三時半、今から寝ても六時半に起きるのが辛い。真織は濃いめのコーヒーを淹れて徹夜することにした。
静かにドアを開けて自分の部屋を出ると、廊下を挟んだ寝室から母の甲高いいびきが聞こえた。書斎の電気は消えていて、玄関にも父の靴はなく安心する。父の存在は、家にいないと寂しいが、家にいれば鬱陶しい。
キッチンの電気を点けて、コーヒーメイカーのスイッチを入れる。エスプレッソに泡立てたミルクを入れて、ハチミツをたっぷり加えて混ぜる。甘さと苦さで目が覚めた。
ふと思いつくと、カップを持って部屋にもどらず、父の書斎に入る。
カーペット敷きの十二畳に、机と飾り棚とオーディオセットにマッサージチェア。このマッサージチェアは特注で、十分間横たわれば三時間の睡眠に匹敵する疲れがとれるらしい。
勝手に使ったら叱られるけれど、父がいないのだからかまわない。真織はカップを机に置き、マッサージチェアに横たわった。父より十センチ身長が低いから、リモコンで高さを調節して「お疲れモード十分」にセットする。
耳元に心地よいヒーリング音楽が流れ、足が浮き、背中が倒れていく。まるで宙に浮いているようだ。十分のマッサージの間に、真織はぐっすりと寝入ってしまった。
目が覚めたとき、父に「こらっ」とたたき起こされたと思った。
真織はマッサージチェアの上で背中が二回バウンドして、床に転がり落ちた。ガチャン、と机に置いたマグカップが倒れる。コーヒーが机からカーペットに滴り落ちる。
「パパにしかられる」
だがマグカップを起こそうにも、真織は立ち上がれなかった。
なにが起こったのか、床がトランポリンのように波打って、体が跳ね飛ばされる。信じられないことに、重いマッサージチェアがガタンガタンと浮いている。なんとかつかまろうと爪を立てたカーペットが、波のように頼りない。
「なんなの!」
床のトランポリンが収まると、今度は壁が自分に倒れてきそうに揺れている。棚に飾っていた小物が次々落ちてくる。ひどい耳鳴りがして、立ち上がれない。
パジャマのポケットに入れた携帯電話から、けたたましい警告音が鳴り響いた。続いて、マンションのセキュリティーサイレンが鳴り響く。
「真織ちゃん!」
悲鳴のような母の声がサイレンに重なる。
「真織ちゃん! どこ!」
「パパの部屋!」
母が書斎に飛び込んできた。床に倒れた真織を引っ張り、父の机の下にもぐり込んだ。とたんに目の前にオーディオセットの大きなスピーカーが配線を引きちぎって落ちてくる。危ないところだった。
「なにこれ。東京にミサイル落ちた」
「地震。相当でかいわ。どこか怪我はない」
「大丈夫」
言われてから気づいた。母は靴下に血が滲んでいる。棚から落ちた小物を踏んだのだろう。床の上は足の踏み場もない。
ものすごい揺れが一時間も続いたように感じたが、時間の感覚が鋭敏になったせいで、ほんの数分の出来事だったのかもしれない。一旦、揺れが引くと、母が「そこにいなさい」と言い残し、走って書斎を出る。
すぐに真織の着替えと靴とヘルメットまで持ってきた。
「急いで着替えて、絶対にこれだけは必要なものだけリュックに入れなさい。あれだけの地震だと、余震もこれから相当続くはず。避難所に行くわよ」
「なんで避難。家にいればいいよ。このマンションは免震設計ってパパが言ってた」
「揺れの少ない最新式の免震マンションで、これだけ揺れたのよ。外がどうなってると思う」
母がカーテンを開くと、東の空が薄く明るくなりかけているのがわかった。
しかし不自然だ。三十階のこの部屋からは、都内不夜城の夜景が一面に見えるはず。飛行機から目立つように赤いチカチカしたランプもたくさん見えるはずなのに、目の前にはただの薄闇しかない。
見下ろすように額を窓ガラスにくっつけると、外にあるのは一面グレーがかった街と、その闇を割いて上がるおびただしい数の白煙だった。
どれだけ広く停電して、どれほどの火事が起こっているのか。
真織は足ががくがくと震えた。また揺れが始まり、母は「窓の近くは危ない」とカーテンを閉めて、一緒に机の下に隠れた。
「パパは。パパは大丈夫?」
「タワーマンションより、十階建ての会社のビルの方が頑丈にできてるわよ。今は電話が全然繋がらないけど、ラインで私たちが無事なのは連絡してあるから、お父さんも落ち着いたら連絡くれるはず」
母に促されて、揺れの中でパジャマからセーターとデニムに着替え、先の固い安全靴を履きヘルメットをかぶった。父の入れ知恵か、真織に「ダサいから着ない」と文句を言わせないよう、登山風のジャケットに、靴もヘルメットもリュックサックもナチュラル系ブランドを揃えてある。
余震が収まると、すでに水と下着やタオルなどが詰められていたリュックに、真織は充電器とバッテリー、財布と交通カード、化粧ポーチ、一番気に入ってる黒のゴシック風ワンピースと、生まれた日に作成されたバースデイ・テディベアを入れた。
絶対にこれだけは必要、と思いつくものは案外少なかった。最後に、通学カバンからいつも持ち歩いているナイフを取り出し、ポケットに入れた。
「じゃあ行くわよ、真織ちゃん。一階まで階段で降りるから頑張ってね。余震がきたらすぐに座ること」
真織より背の低い母の方が、はちきれんばかりに詰まった重そうなリュックサックを背負っているが、よろめくこともなく足の運びは確かだった。
「さっき、足から血が出てたけど」
「ああ。テーピングしたから大丈夫。こう見えて、中学高校とバレーボール部だったから、体力は自信ある」
「ふぅん」
暗い廊下で、母はトンネル工事の人のような、ヘルメットのライトを点けた。
最上階の三十階は部屋の造りが広く四軒しかないが、同じ階の住人がどんな人か、真織は知らない。廊下には誰もいなかった。
「やっぱり誰も避難なんかしてないし」
「避難準備に時間かかってるだけ、いずれ出てくるわよ。タワーマンションは停電になるとアウト。水も出ないから、家にいたってトイレもできないのに」
暗い階段をライトで照らしながら降りる母のうしろを、真織はつかず離れず降りていく。母の言うとおり、三階ほど降りると下から声が聞こえてきて、避難者たちの背中が見えてきた。
「大変な地震でしたね。下の方はどうなってますか」
母が両手を頬に当てて声を張ると、返事とともに情報が断片に返ってきた。
マグニチュード八、
震源は東京湾、
湾岸地域には津波の恐れ、
非難命令が発令中。
湾岸近くのテレビ局やレインボーブリッジが倒壊したらしい。ほかの避難者たちから悲嘆にくれた声が漏れ、階段にこだまする。
徐々に、各階からの避難者が増えて、二か所しかない階段は渋滞し始める。母は二十階から避難してきた老夫婦の荷物を持ってやり、余震の中で階段を降りるのを励ましていた。
真織は老夫婦に話しかけられて、会釈程度の返事をする。
「うちの孫も高校三年生なんですよ」
「陸上部で、大学に入ったら箱根駅伝に出たいって言ってますよ。その前に受験があるのにね」
返事のしようがない一方通行な年寄りの会話に、真織はいらついた。母は、
「お孫さんと連絡はとれたんですか」と尋ね、会話を続けている。余計なことをしやがって。
「息子一家がこの近所のマンションに住んでいるので、電話も繋がらないし、直接様子を見に行こうと思ってね」
足腰が弱っているのに、暗い二十階の階段を降りて息子一家の様子を見に行こうとするのが、真織には愚かなことに思われた。停電が解除されるのを部屋で待つか、息子たちの迎えを待てばいいのに。階段の途中で怪我でもしたら目も当てられない。
幸い、その息子と孫が階段を駆け上がってきたので、母は荷物と老夫婦をバトンタッチした。
「お世話になり、ありがとうございました」
息子と孫は息も絶え絶えの中、母と真織に一礼して、老夫婦をひとりずつ背負った。
「ほらな。俺じいちゃんたち階段降りて来るんじゃないかと思ったんだよ。迎えに行こうって俺が言ったんだ」
「親父。余震があるのに部屋を出たら逆に危ないじゃないか。お袋は足が悪いのに無理させるなよ」
「だっておまえ、電話が繋がらないんだから」
「私が頼んだのよ。どうせ死ぬならタワーマンションの中に閉じ込められるより、地面の上がいいって」
「馬鹿だなあ。免震構造だから簡単に倒れたりしないし、こんなときのために部屋に山ほど食料備蓄してるくせに」
「なにはともあれ、あなたたちが無事でよかった」
洟をすする音が聞こえて、真織は肩をすくめてさっさと階段を降りた。母が真織を追ってくる。
「離れないで、真織ちゃん」
「階段の真ん中で立ち止まったら迷惑だよ」
あの一家が自分にとって迷惑だと言ったつもりだが、母は違うように受け取ったらしい。
「今は誰もそんなこと気にしないから大丈夫。一軒でもご家族の無事が確認できてよかったわ」
「早くパパから連絡来ないかな」
携帯電話は不通の状態が続いている。インターネットのニュースがぽつぽつと被害状況を伝えているが、なにせ記者の圧倒的多数が被災した都民なのだから、停電も続いているはずで、記事を書いている場合ではない。
また大きな揺れが十秒ほど続いて、階段に悲鳴が響く。
壁が崩れそうにビシビシと鳴り続け、母は呆然とする真織を腕の中に囲って座らせた。人々はその場でうずくまり、揺れが収まるのを待った。
「階段から誰か落ちたぞ!」
「大丈夫か」
「わからない。下は見えない」
子どもの泣く声が上がる。伝染したようにあちこちで子どもが泣き始める。狭い階段に人々がひしめき合って、壁は今にも崩れそうな音を立てている。真織は、叫び出したい衝動を必死にこらえた。
余震の度に足を止め、一時間かけて階段を降りマンションの外に出たら、真織は再び衝撃を受けた。
道路のあちこちが盛り上がり地割れしていて、倒れた信号の下敷きになっている車が、すぐ目の前に見えた。見渡せば、ガラスが散って朝の光を浴びているせいか地面がきらきら輝いている。倒壊した建物、斜めに傾いた建物が、道路の上に高いアーチを作っていた。
まるでゲームの中のディストピア世界のようだ。
避難所に指定されている小学校の運動場は、最初は不安げな住民たちがぽつぽつと現れ小さなグループを作って情報交換していたが、周辺のタワーマンションから続々と人がやって来ると、たちまちいっぱいになった。
「炊き出し始めます。手の空いてる人は手伝ってください。男性は避難者を町会ごとに分けるお手伝いをお願いします」
ハンドスピーカーの声を聞いた母は「行こう」と真織の手を引いたが、
「やだ。いつパパから連絡入るかわかんないのに」
と答えたら、真織を炊き出し場の近くに座らせて、荷物番をさせる。母が背負っていたリュックは、持ち上げようとしてもビクともしなかったので、その上に座った。
父に何度もメッセージを送っているが、既読にすらならない。
「凛香は無事だったかな」
これまで全く考えなかったのが不思議だ。真織は慌ててラインで凛香の安否を問うた。凛香の家は湾岸部の団地だ。震源地に近いのではないか。
凛香からも、返事がなかった。目の横がぴくりと引きつり、耳鳴り、いやな感覚。
やがて美味しそうな匂いが漂ってきて、母がおにぎりとカップに入った味噌汁を運んできてくれた。
「荷物番ありがとう。お父さんから連絡あった?」
「ない。凛香からもこない」
「お父さんは会社が大変なのかも。社員の安否確認とか、いろいろあるでしょう。お友達もきっと家の中が大変なことになってるのよ」
真織はさっきから何度も叫びたくなるのを必死にこらえているのに、諭すような口調で言われて、思わず食べかけのおにぎりを母に投げつけた。母は驚いた顔をしたが、すぐに地面に落ちたおにぎりを拾ってティッシュで包んだ。
「大丈夫よ、真織ちゃん。大丈夫」
とうとう頬がひくひくと動き出したのに気づいて、慌てて手のひらで押さえた。チック症状が止まらない。
「あとでもう一個もらってくるからね。お味噌汁だけ冷めないうちに食べて」
「もういらない」
「わかった」
真織の差し出した味噌汁を母は飲み干し、また炊き出しをする女たちの中に戻っていった。何人かの女たちと話して作業を手分けしている。初対面の人ばかりの中にいて、早くも居場所を作っている。
野外ライブのように運動場にひしめく避難者の中で、真織は独りぼっちだった。