第1話  四人目の母

文字数 4,875文字

 新しい母は、毎朝オムレツを焼いてくれる。
 フォークで割ると、バターの香りとともに中からスパイシーな挽肉とマッシュポテトが現れた。昨日はベーコンと玉ねぎのソテー、一昨日はツナとチーズ。ここに来て一か月毎日違うオムレツを作ってくれている。皿には温野菜が添えられて、自家製の焼きたてパンに、茶葉を牛乳で煮たロイヤルミルクティーが並ぶ。
 十七年生きてきたけれど、漫画や小説の世界にしかないと思っていた朝食メニューだ。
 継母の愛情が嬉しいと思うより、新しいグループに入ったばかりの子が必死にSNSのレスを返している様子に近く見えて、真織(まお)には痛痒く感じられた。
「ごちそうさまでした。行ってまいります」
「はい、お弁当とタンブラー。行ってらっしゃい」
 最初の朝は「歯磨きはしないの?」と言われたが、三回無視したら、言わなくなった。

 真織は駅のトイレで薄いオレンジのリップクリームを塗りながら、歯に何か詰まってないかチェックした。広い化粧直しコーナーでは、髪にブラシを入れたりアイラインを描いている制服姿が数人いるが、みんな感情のない顔で黙々と作業している。女子高生と言うプログラムを組まれたロボットのようだ。
 真織自身も、彼女たちより少し背が高いだけのロボットだ。顔が小さく緑がかった透明度の濃い眼も人間離れしていて、起きてから学校に着くまでまったく表情を変えない。
 教室に入る前は必ず、チック症状が出ないよう手のひらで頬を軽くなでる。
 朝の教室は騒がしい。真織は頭の中央を意識して音を遮断し、誰にも話しかけずまっすぐ席に着き、タンブラーのお茶を口に含んだ。温かいアップルティーだ。ノンシュガーなのに甘いリンゴの香りに、顔の緊張がゆっくりと解けていく。
 必死すぎてキモいんだよ、ババア。
「おはよ。今日のオムレツなんだった」
 週に一度のミサの時間、凛香(りんか)に小声の早口で話しかけられて、ようやく表情筋が笑顔を作り始める。
「バターと黒胡椒で味付けした挽肉とマッシュポテト」
「うまそー。期末終わったら泊まりたい真織んち。オムレツ食べたい」
「いいよ。おばさん張り切りそう」
「んー、そろそろママって呼んであげなよ。本当の親でも朝から毎日そんな手のかかる料理作ってくれないよ」
「ママってタイプじゃないし、『おばさん』が似合うんだよ。いや、『おばちゃん』て感じかな」
 先生ににらまれて、ふたりは口を閉じてうつむく。ミサの時間は、どうしてこんなに退屈なのだろう。講堂の前にあるマリア像に向かい、手を重ね合わせて頭を垂れる。マリア様が悪いわけじゃないけれど、祈るという行動の意義がわからない。

 真織はこれまで家に来た母たちのことを考えて退屈を紛らわす。
 今の母は、父より十も若い四十四歳だが、父より年上に見える。丸顔にナチュラルメイクで、中肉中背から一歩ふっくらめのスタイルは購買部のおばちゃんという雰囲気だ。昭和のドラマの再放送や、時代劇チャンネルが好きだから、趣味も年齢より老けている。父が行きつけていたランチカフェの店長だったそうで、明るくて気の利くところがよかったのだろう。家事は本当にてきぱきしている。
 真織が小学校五年から中学生だった間の母は、モデルをやっていて抜群に格好よかったけれど、片付けられない人だった。
 散らかりが父の許容量を超えるたび引っ越しをした。真織は汚部屋は気にならなかったけれど、食事は苦痛だった。見た目優先でちっとも美味しくない豆と根菜のサラダを朝昼晩出してきて、夕食のメインは魚か豆腐のどちらか。不満を訴えると栄養講座でネチネチ返され、うんざりだった。真織はなかなか体重が四十キロに届かず、初潮が中学二年の終わりまでこなかったのは、この母のせいだ。太りにくい体質になったのは不幸中の幸いだけれど、離婚して三年経った今も、マスコミのインタビューを受けると過去の結婚話を美談にして持ち出すのが鬱陶しい。

 その前の母は、三歳から小学三年生までの間だった。キャビンアテンダントで美人だったけれど、勤務時間が不規則なため、家事はほとんど家政婦さんに頼んでいた。家政婦さんは午後から来るので、父がいない日の朝、真織はいつも自分でトースターに食パンを入れてジャムを塗って食べていた。家の鍵をかけて、キッズ携帯とともに通園リュックに入れ、マンションのロビーで幼稚園バスを待っていた。どこの家でもそうだと思っていたから平気だった。
 しかし母への不満がなかったわけではない。
 機嫌のいいときは「ハーイ、スゥイート」怒ったときは「××××」と英語になるのが怖かった。真織が高学年になるまで日常的にチック症状があったのも、英語だけが極端に苦手なのも、この母のせいだ。

 父はおそらく、真織を産んですぐ死んだ最初の妻を一番愛していて、それ以上の女性はいくらさがしてもこの世にいないことを、わかっていないのだ。
 最愛の妻を失ったあまりの辛さに、父は写真や思い出の品を全て処分したと、生前の祖母に聞いたことがある。真織にとっては母の写真一枚も残してくれなかったのはひどい仕打ちだが、母に対する父の愛の深さは感じられた。
 それでも再婚を選んだのは、真織を育てるためだっただろうし、もっと子どもがほしかったのかもしれない。運命の人がもうひとり現れる奇跡を願ったのかもしれない。ともあれ、若い女と二回の結婚を二回とも失敗して慰謝料も搾り取られているのに、懲りずに四回目の結婚をした。
 だが父には進歩もあった。五十四歳になって初めて、妻に派手な容姿や経歴、若さを望まず、家事能力があって家庭に入る人を選んだのだ。少なくとも家政婦さんは必要なくなったし、食事は大きく改善された。兄弟ができる可能性がほとんどなくなったのも、真織は内心ほっとしている。
「けどさ、遊びに行ったとき、おばさん、て気軽に呼べる人の方が楽だよ。ほら、前の人、おばさんなんて絶対言えない雰囲気だったよな」
 ミサが終わると、さっきの話の続きを凛香がそのまま持ち出した。
「わかる。『無理にママって呼ばなくてもいいの。ユカリンって呼んでね』って。おまえ三十過ぎてユカリンて」
「きっとそういう名前の新種の生き物なんだよ」
「首と手足が長ぁい、顔の小さぁい、豆が好きな動物。巣はクソきったねーの。そこらじゅうに唾はいたりする」
「ユカリン、ユカリンって鳴くんだね」
 凛香は、真織が机に出した数学のノートにダチョウとアルパカを足したような不思議な動物の絵を描いた。その顔が前の母とそっくりで、真織は笑った。半日分固まっていた表情筋がいっきにほぐれて、顔が痛くなるほど笑った。クラスメートが遠巻きに馬鹿笑いするふたりを見ては、すぐに視線を逸らす。
 この学校に、無視やいじめはない。早口言葉のように聞こえるらしい二人の会話や「ぎゃーはっは」という笑い声を、異次元の人のように不思議そうに見るだけ。
 中高一貫の照愛女学院にいるのは、ほとんどがお受験ママに育てられた秀才系ロボットお嬢様だ。真面目で性格がよくて、勉強だけじゃなくピアノやらバイオリンやらバレエやら、小さいころから芸術性も仕込まれている。
 なにも習ってこなかったのは、キャビンアテンダントに放置されていた真織と、貧乏だった凛香だけだ。毎年のクラス対抗合奏会では、ふたりとも舞台の一番うしろで小太鼓やトライアングルを叩いている。

 凛香は、幼いころに両親が離婚して母親に引き取られ、パン屋さんでパンの耳をもらって朝ごはんにしたほどの激貧家庭だったという。しかしそのままでは、頭のいい凛香を自分と同じ中卒にしかねないことに気づいた母親が一念発起し、婚活を始めたのだ。
 デートには小学四年生だった凛香も同行し。そこで必ずなにかおねだりやワガママを言うよう母親に言い含められていた。そのときの相手の反応を見て、経済観念はあるか、暴力的ではないか、ロリコンではないか、判断したのだ。
 凛香も子どもながら、母の婚活に自分の将来がかかっていることを理解し、良き父親になれそうな人を真剣に見定めた。
 母子の努力は実り、何人目かの出会いの末に、水道局に勤める公務員と再婚ができた。生活は豊かになり、可愛い弟妹もでき、私立の進学校に特待生で入学したのだ。
「ところでまおちん、昨日スマホに新しいゲーム入れたんだけど、見る」
「まおちん言うな。テスト前のこの時期に、どんな」
「『青流高校イケメン生徒会』」
「バカバカバカ。Pが適当につけたタイトルがダメさを表してる。絶対見ない」
「でもでも、真織が好きそうなキャラもいるよ。ほら、書記の早坂皇也くん、髪長くて剣道やってる森蘭丸系。見てみ、ほらほら」
「あ、それはありだな。それだけスクショちょーだい。そして、期末終わりまでこの話題厳禁な」
「テスト終わったらダウンロードしてみ」 
凛香はセミロングの髪に百五十七センチの普通体型。少しオタク、興味がないとすぐ寝て、好きな話題だけ早口でテンションが高い、どこにでもいる平凡な女子高生だ。ぼんやりして見えるし、実際ほとんど勉強していないけれど、入学してから六年間、学年一番の成績を保っている。
 真織は、ギフテッドという一見ポジティブに聞こえながら疾患的な意味を含む単語を、これまで何度も口の中で転がしては、言わなかった。
 凛香に続く学年二番目の自分も、小学校時代には天才児扱いされていて、同級生の母にギフテッドと言われたことがあった。意味を調べたあと少し傷ついた。

 放課後にカフェで宿題をしていると、ふたたび表情筋が固まってきた。
「家、帰りたくないなぁ」
 凛香が言った。さっきからカーディガンの袖を折ったり引っ張ったりして、真織より古文のプリントが二枚遅れている。奥のテーブルに光星高校の男子グループが座ったせいで、集中力が切れてしまったようだ。無意識に可愛く見えるポーズをとっている。
「真織は、彼氏とかどうなん。早く結婚したくない?」
「彼氏などあぢきなしこと。結婚はさらなり」
「そっかぁ。私は早く独立したいからな。将来性ありそうな男見つけたら、コミュ上手で可愛い肉食女にとられないうちに、さっさと結婚に持ち込むんだ」
 さすが十歳で母の婚活を手伝った者の意見だ、と真織は感心しながら残っていたマロンラテを口に含んで味わった。
「けど独立は、結婚しなくてもできるんじゃね。働くようになったら私も家を出て一人暮らししたいよ」
「そうじゃなくて。結婚して苗字変わりたい」
「ああ」
 中学一年の入学式で、目から輝きを放つ新入生の中、ひとり死んだ目をしていた凛香のことを思い出す。その目は鏡で見る自分の目と同じだった。
 貧乏から逃れた今の生活を感謝しつつ、凛香は継父を一生父親と認めることはないと言う。住居と苗字が一度に変わり、継父をお父さんと呼んだ瞬間、売られているペットと同じだと悟ったのだ。自分の父はどんなろくでなしでも前の父であり、母と二人でパンの耳をかじる生活は、自分が自分らしくあった人生だったのだと。
 反抗期のような甘えは見せないし、表面上は穏やかに家族のふりをするけれど、内面にはなにかが沈んでいる。
 真織は、ギフテッドと言われて以来、自分は心の大切な部分が壊れているのではないかと思いつめていたが、凛香と会って、凛香がいろんな葛藤を隠して普通に暮らしているのを見て、自分も苦しむ必要はないのだと知った。
「なんかで見たんだけど、作家とか芸能人とかで芸名使ってる期間が長くて、そっちが有名になると、芸名を本名にできるらしいよ」
「そうなんだ。でも長期間、有名にならなきゃかあ」
「だから紫式部凛香とか、清少納言凛香とか、今からアピっとく」
「なんで平安調」
「じゃアッシリア凛香、バビロニア凛香、マケドニア凛香」
「ひでえ」
 凛香は爆笑しながらカプチーノを飲み、咳き込んだ。
「やばい、シナモン気管に入った」
「うわ。水とってくるわ」
 真織も笑いをこらえながら紙コップに水を入れて、凛香に渡す。
 携帯電話がテーブルで鳴った。
 母からだ。
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登場人物紹介

真織(まお)

中高一貫の女子高に通う高校三年生。

ギフテッドと言われるほど知能は高く、人間離れした美形、でも口は悪い、態度も悪い。

父と、四人目の母と暮らす。生まれた日に亡くした実母の姿を知らない。

緊張するとチック症状が出る。

凛香(りんか)

真織の同級生で、たったひとりの親友。

激貧の家庭に育つも、母の婚活が成功し、進学できるようになる。

そのせいか、早く結婚して家から独立したいと思っている。

恭太郎(きょうたろう)

真織のお見合い相手。父親同士が友人。

28歳ながら、浪人したり留年したり修士留学したりで、社会人2年目。

彼の方は真織に好印象を持ってるようだが、振られている。

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