一話完結

文字数 1,994文字

 深夜のマンションに音が響かないよう、自宅のドアをそっと閉めた。「だだいま」と言っても、返事はない。
 リビングに入ると、テーブルに伏せてうたた寝をしていた妻の綾子が目を擦りながら顔を上げた。
「お帰りなさい。今日も残業なのね、食事はどうする?」
「いい」
「ちゃんと食べなきゃダメよ。三十代になったんだから、体のことを考えなきゃ」
「じゃ、お茶漬けをくれ」
 妻が準備している間に、子供部屋の戸を開ける。一人娘の智美が布団をはだけて寝ていた。起こさないように布団を直していると、智美の手のひらに星が描かれているのに気付いた。何だろうかと思ったが、起こして訊いてみる訳にもいかない。そっと部屋を出る。
 リビングに戻ると、テーブルにお茶漬けが置かれていた。箸を手に取り、向かいに座っている妻に尋ねる。
「智美の手に、星が描いてあったんだが」
「ああ、あれね。アニメの真似をして、智美が自分で描いたのよ。そのアニメは念力を使って人を思い通りに操る物語なんだけど、主人公の手に星の形が現れると、念力が使える設定になってるの」
「ということは、智美は念力で誰かに何かをさせたいと思っているか。もしかして、幼稚園でいじめられているんじゃ」
「いじめられてなんかいないわよ。幼稚園の友達がペンギンを見に行ったっていう話しを羨ましそうに話した後に描いていたから、たぶん智美もペンギンを見たいんじゃないかしら。水族館に連れてって念じてるのかもね」
「このところ忙しくて、どこにも連れて行ってないからな。よし、今度の日曜に水族館へ行くか」
「無理しなくていいわよ。残業続きで疲れているんだから、日曜くらいゆっくり休まないと体を壊すわよ。もし、智美が駄々をこねるようだったら、私が連れて行くから」
 朝早くに出勤し、深夜に帰宅するという生活が三カ月ほど続いている。娘と触れ合うことができるのは休日だけなのだが、疲れていて遊んでやっていない。最近、娘は遊んで欲しいと言わなくなった。ゆっくりできるのはありがたいが、娘の心が俺から離れて行っているようにも感じていて、寂しくもあった。
「一日くらい大丈夫だ。俺の気分転換にもなるし」
 妻は心配そうな表情を浮かべたが、行くことに決めた。

 日曜日ということもあり、水族館は子供連れの家族やカップルで混雑していた。
「はぐれたらいけないから、ママと手をつないで」
 妻が手を差し出すと、娘は俺にしがみ付いた。
「パパ、おんぶ」
「パパは疲れてるんだからダメよ。もう、赤ちゃんじゃないでしょ」
 妻に言われても、娘は俺から離れない。
「おんぶぐらい、どうってことないさ」
 俺は久しぶりに娘を背負った。娘は以前よりずっと重くなっていた。
「大丈夫?」
「大丈夫だ」
 心配そうに見つめる妻に答え、建物の奥に向かって歩くと、壁一面が透明になっている巨大水槽が現れた。青い水の中を、小さな魚の大群が渦を巻くように泳いでいる。
「パパ、キラキラ光って奇麗だね。何というお魚?」
「あれはイワシだ」
「こっちのヒラヒラ泳いでるのは?」
「エイだよ」
「あっ、大きな亀さんが来た」
 水槽のガラスに映る娘の目が輝いている。隣で水槽の中を指差している妻も楽しそうだ。来て良かったと思った。
 しばらく見た後、更に奥へと進むと、大きな窓から光が射し込んでいた。ガラスの向こうは屋外で、岩場とプールが造られている。
「ほら、ペンギンがいるよ」
 妻が指差した岩場には、数羽のペンギンが顔を上げて日向ぼっこをしていた。
「本当だ」
「智ちゃん、見たかったんでしょう」
「うん。あっ、ペンギンさんが水に落ちちゃった」
 プールに飛び込んだペンギンはスーッと水の中を潜っている。
「パパ、ママ見て。ペンギンさんって泳げるんだね」
「ペンギンは鳥の仲間だけど、飛べないんだよ。その代わり、泳ぎが上手なんだ」
「そーなんだ。パパは物知りだね」
「水の中からも見られるみたいだから、行ってみるか」
 俺は娘をおぶったまま階段を下り、プールの底に設けられた透明なトンネルの中に入った。
「パパ、上を見て。ペンギンさんがお空を飛んでる」
 まさかと思いながら視線を上げた。泳いでいるペンギンが真っ青な空と重なり、本当に空を飛んでいるようだった。立ち止まって見ていたかったが、後ろから大勢の人が迫って来ている。足を止めずにトンネルを抜けた。
「あなた、疲れたでしょう。あそこのフードコートで休んでて。私、飲み物を買ってくるから」
 妻は売り場の方に行き、俺と娘はテーブル席に座った。
「智美、ペンギンはどうだった?」
「面白かった」
「満足したかい?」
「うん」
 智美の手には、まだ星が描かれている。
「だったら、もう星を消してもいいよね」
「ダメ、まだ叶ってないもん」
「えっ、ペンギンを見たかったんじゃなかったの? じゃ、何を念じたんだい?」
「パパが早く帰って来るようにって」
 俺は娘を抱きしめた。

<終わり>
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