第3話

文字数 10,162文字

 石川家は、戦国の世から続く家柄だ。
 足軽兵として功を上げて武士となり、今はこの地より少し北にある国の殿に、仕える身の上となった。
 誉という、風変わりな式を持つ事になった経緯は、簡潔に伝わっている。
 大木のような男が、百姓だった初代に、頼みごとをして来たのがきっかけだ。
 ある山に閉じこもってしまった大事な人を、説得する手伝いをして欲しいと、大きな体を小さく縮めて頼んで来た。
 近づいて来た男の大きさに、取って食われると逃げ腰になっていた初代は、よく分からないままその話に乗り、この辺りにある山に出かけた。
「当時は、まだ戦で村の者の数など、一々気にしていない時であったからな、村を抜け出すのは容易であったよ」
 その後、戻ることができなくなってしまい、仕方なく足軽兵に志願したのだが。
 結局、男の願いはかなえられなかった。
 目的の山は不穏なものが漂い、人が入るのは命とりの場所だったのだ。
 無駄骨を責めるでもなく、初代は丁寧に謝罪した後、その場を後にしたのだが、男はついて来た。
 聞くと、あの不穏なものを感じられた者は、初代が初めてだったらしい。
 これまで、何人かに頼みごとをし、報酬に飛びついた彼らは、誰も山から下りて来なかったのだという。
「あんたは、それなりに力がある呪いができると見た。オレを、傍においてくれ」
 平然とそう言う男に、初代は震えあがった。
 幾度か振り切ろうとしたが、どうしても逃げきれず、足軽として戦に出た時、とうとう男を伴って功を上げてしまった。
 それまでで誉は、
「ある群れの、恐ろしい三人組の画策で滝登りに成功した、変わり種の生き物だ」
 と自分で説明していたが、異様な生き物だというのは、初代もひしひしと感じていた。
 旅をしている中で、その感覚も消えてしまっていたが。
 その後所帯を持ってその子も繫栄し、男兄弟四人と女兄弟二人の現当主の代は、平穏な物になりそうだったのだが、それが脆くも崩れ落ちたのは、次男坊の縁談が原因だった。
 相手は、崩落してしまった家の、長女。
 崩落前に組まれた縁組で、その家が散り散りに離散する前に、娘だけは嫁に貰おうと呼びかけた矢先、影も形もなく消え去ってしまった。
 養子縁組の話と共に出たその縁談を、次男坊はとても喜んでいた。
 幼い頃、一緒に野山を駆けまわった幼馴染で、年上の憧れの人でもあったのだ。
 罪人一家を追うお国の者の目を掻い潜り、次男は懐いていた式神に、人探しを頼んだ。
 ある土地に秘かに住み着いたという旨を聞くとすぐ、家出を敢行したのだった。
 行先は、少し前に知り合った、老練の狸の集落だ。
 未だ廃れ気味のそこを、狸の孫と共に守るのと引き換えに、身を隠させてもらったのだ。
 その上で、元許嫁が住み着いた集落の様子も、ずっと伺っていた。
 幸せになったのだと、そう自分が割り切って思えるようになったら、きっぱりと諦めて、家に戻るつもりでいたのだが……。
 雲行きが怪しくなったのは、数日前だ。
 狼の群れが訪ねて来て、ある集落に住み着いたという賊の話を持って来た。
 その場所がどう考えても、自分達が見守っていた集落の場所と同じだった。
「……あの家も、廃れたとはいえ術師の端くれだ。こちらが寄れない壁を作る位、造作がないだろうと思って、中の様子への欲は、慎んでいたんだが……」
「躊躇しているところ悪いんだが、気になる女がいるからと言って、近くで見つめ続ける所業は、相当欲深いぞ。今更、中の様子を見ないくらいでは、その気持ち悪さは消えない」
 真顔で切り出した浪人を、落ち着いた声音の男が散々こき下ろす。
 主の一人に歯に衣着せぬ物言いをしたのは、同じくらい小さい男だった。
 頭を抱え込んでしまった浪人を、可哀そうなものを見る目で見つめつつ、続ける。
「良い言い訳が見つかって、良かったな。ようやく少し、事が動く。ミノ」
「何だ?」
「ようやく、二の主が、乱心する気になったらしい。行ってやれ」
 大きく丸い赤目で笑いかけられ、細身の背高な男も微笑み返し、頷いた。
「分かった。ようやく、本腰を入れていいんだな?」
「おい、ウノ」
 主が焦って呼びかけるのは無視し、ウノと呼びかけられた男は頷いた。
「何処から入れば、あの姫の元に秘かに忍べるか、探り終えるまでは戻ってこなくていいぞ」
「こら、オレは、お前たちの邪魔をする気は……」
 止める主の口を、ウノは力強く塞いだ。
「それに関しても、文句を言わせてもらうぞ。誰と誰の駆け落ちを、手伝っただって? ここに一緒に来た式神は全員、オスだろうが。こっちの好みを捻じ曲げて話をまき散らして家を出て置いて、今更、目的を前に怖気づく気か? そうは問屋が卸さんぞ」
「主は、ウノを怒らせるのが、相変わらず上手いな。足蹴にされるなら、もっと羨ましい」
「お前もさっさと、言われたことをやらんかっ。頭踏みつけて更に引き伸ばすぞっ」
 口をふさがれたまま、何とか宥める浪人を見つめ、ミノがぽつりと言ったのを聞き咎め、ウノはその愛らしい目にあるまじき剣を込めて、大きな男を睨んだ。
 連れて来た式神の中で古株のウノは、草木や木の実を餌にしている獣だが、本来その獣を餌にしているはずのミノに、迫力勝ちしていた。
 慌てて頷いて動き出すミノが、軽い足取りで去っていき、意外に早く戻って来た。
 出て行ったその日の夜に戻って来たミノは、顔を強張らせていた。
 一働きした後の一服をしていた浪人に、真顔で告げる。
「……弟君たちが、お役目で、近くに来ております」
「へえ」
 気のない受け答えの主に、男は更に言った。
「誉殿も、案内してまいりました」
 口に含んだ白湯を全て噴き出してしまった主に、こちらはゆっくりと器を傾けていたウノが、目だけを上げて見つめる。
「行儀が悪い。所作は何処に行った? いずれ家に戻るなら、忘れてはいかんものだろう?」
 咳込みながら、そんな言葉を聞いた浪人は、前で正座して座る男を睨み、ついで戸口に立つミノを睨んだ。
「何で、案内して来たんだよっ。その前に、知らせに来るのが道理だろうっ?」
「無茶は言わないでいただきたい。年若いオレに、誉殿を振り切れると? 天地がひっくり返っても、無理です」
 きっぱり言った男の後ろで、そこまでの成り行きを見守った誉は、否応なく浪人者の次男坊を引きづり出したのだった。
 相手が相手なだけあり、正攻法での接近は難しいとは思っていたが、術師としてではなく、お国の使いとしての役目であったため、石川家も式神たちを使う気はなかった。
 武家のお役目として動いていた三男と四男は、数度の失敗で役不足を実感し、一旦家に繋ぎを取った。
 近くの村や集落を調べ集まった話は、どうも武士としての矜持を持っていては、到底お役目を果たせないと判断が下ったのだった。
 どうせやり遂げるならば、徹底的にやろう。
 当主の一声で、誉は家出していた二の主を引っ張り出した。
 やり過ぎかとも思ったが、どうやら足りなかったようだ。
「……これ以上の人手は、うちでは望めないから、致し方ない事だが……」
 束縛する術を、あっさりと抜けていった二人の男を追いながら、誉が慰めるように呟いた。
 見えて来た光景に、あんぐりと口を開け放つ主の兄弟たちに、頭を掻きながら続ける。
「まあ、気にするな。上には上が、限りなくいるものだ」
「……ようやくあそこまで、罠の有無を確かめながら、登って来ていたのに」
 力なく呟いた浪人者の目の先で、その罠の一つが動き、飛んできた矢をエンと名乗った男が、宙で攫んだ。
 そのまま握りつぶすようにへし折るその前で、オキと名乗った男が、目的の男と早くも対峙していた。
 誉と同じくらいの大きさの、中肉の男だ。
 目は怒りに染まり、周りが見えていないようにも見えた。
 睨み合っているようにも見えたが、どうやら既に一戦交えた後だったらしい。
 こん棒が手から滑り落ち、膝も笑って震えている。
 それなのに、目の鋭さは消えていなかった。
「……話を聞いてやってもいいが、頭を冷やす方が先だ。待っててやるから、顔でも洗ってこい」
「そんな、悠長な事を言ってる場合じゃ、ねえんだよっ」
「言ってる場合じゃないなら、なぜ、訳の分からない、悠長なことをしているんだ?」
 言葉遣いが、崩れていると目を見開くオキの後ろで、エンが穏やかに尋ねると、戒と呼ばれていた男はようやく、その男に気付いた。
「お前、今更、何で……」
 呆然と呟き、再び顔を険しくする。
 前に立つオキを通り過ぎ、男はエンに掴みかかった。
「お前、今まで何やってたんだっっ。お前が、ミヤを捨てたからっ、あんなことになったんじゃねえかっっ」
「……」
 胸倉を攫んで喚く男を見返し、エンはそれでも穏やかに笑っていた。
「色々と、誤解があるようだが」
「はあっ? どの辺が誤解だっ? お前が、ミヤをここに帰らせて、捨てたんだろうがっっ」
「やはり、頭を冷やせ」
 攫んだ胸倉を乱暴に揺すられ、頭が大きく揺れていたが、それに構わず、自分よりも大きなその襟元を攫み上げる。
 息が詰まったのか、すぐに手を離した戒を、エンはあっさりと引き剥がし、掛け声とともに放り投げた。
 前に立つオキを軽く飛び越え、戒の体は木々の合間を縫って消え去って行った。
 と、すぐに水が大きく跳ねる音が響く。
「……岩場がない事を、祈るか」
 川のせせらぎは聞こえていたが、どう言う足場なのかは知らないオキは、話を聞かなければならない戒が、そのまま頭を割ってしまっていない事を祈る。
「……血の匂いは、ない」
 浪人者の隣にひっそりと立った男が、短く告げる。
「だが、近場は浅い。水音の後に、水底の岩で頭が割れてるかもしれない」
「それもなさそうだが、中身だけ割れる打ち方なら、余り血は流れないな」
 誉が一抹の希望を打ち砕き、更に割り込んだ男が、助け舟のつもりで返して、更に不安を上乗せする。
「……人死には、行き倒れ以外は、御免なんだが。というか、まだこの人たちに用があるか?」
 正直、これ以上ややこしい話からは逃げたいと、浪人者は尋ねるが、それには弟たちが異を唱えた。
「兄者。我々が、誰に会うためにここまで来たのか、お忘れですか?」
 すぐ下の弟は、武骨な顔を顰めて言った。
「先程の話だけで察するに、あの者は、この山を守っていただけなのでは? 我々は、縄張りに入った不届き者とされて、襲われていただけかと。頭を冷やしたあの者とならば、話も出来るのでは?」
「お前、固い割に、本当に前向きな捉え方をするよな。オレには、単に女に見向きもされなくて、八つ当たりしていたようにしか、感じなかったんだが」
 武骨な弟の意に首を振った兄に、一番下の弟は深く何度も頷いて見せた。
「成程、兄上と同じなのですね。女子に見向きもされないから、八つ当たりも致し方ないと」
「オレは、関係ない」
「私が固いのではなく、兄上のようにうがった見方が、出来ぬだけです」
 主の兄弟たちが仲良く言いつのる間に、率先して二人の男を追った者が戻って来て、言った。
「思いのほか深い水辺の様で、浮かんでこないと。仕方なく、エンという男が水に入った所です」
「……せせらぎと混じって、水が落ちる音もするな。意外に滝が近い。まあ、この山なら、ごく小さい滝だろうが……壺に落ちてたら、難儀だな」
 いくら小さい滝つぼでも、沈んだ物を拾うのは、骨がいるだろう。
 小さく細い男が、疲れたように溜息を吐きながら言うのを見て、ミノという呼び名の男が気づいた。
 目を見開いて首を巡らす男の横で、元々群れに属さない狼の男が主に告げる。
「二の主。ウノからの言伝です」
「ん?」
「姫が動いたので、少し外します」
 目を剝いて振り返った主に、狼が続けた。
「誉殿の言う事をよく聞いて、お役目の手伝いをするようにと」
「動いたって、逃げたのかっ? オレが近くにいると、ばれたっ?」
「そうじゃないだろう。もしそうならば、ウノが動くはずがない」
 誉がやんわりと答えると、浪人者は泣きそうな顔になった。
 その様子に呆れながらも、優しく言う。
「いた場所から、逃げただけなんだろう。何か、良からぬことが起きているかもしれないが、あなたはこちらを全うしろと、言っているんだ」
「よ、良からぬこと? もしや、例の賊の魔の手が、伸び始めているのかっ?」
 喚く浪人者の背後で、ミノが顔を背けて呟いた。
「……というより、その賊、姫の親族……」
 誉が睨み、呟いた男の舌が固まったところで、狼に言いつける。
「ロウ、黙らせとけ。めんどいから」
 無言でその言いつけを守る男を見ながら、誉は青褪めた主の一人に、凄味のある笑顔を向けた。
「主殿。家出と称して、オレからウノを奪っておいて、今のこの大事な時に信じないのは、おかしくはないか?」
 慄く浪人者の後ろで、羽交い絞めにされて口をふさがれながらも、蛇の男が誉を睨んでいるが、怖くもなんともない。
「一人で外れたという事は、一人の方がやりやすいという事だ。先程、少し聞いたところだと、こちらの事とも関わりがあるから、あなたはここで大人しく役目の手伝いをしてくれ」
「奪ったなんて人聞きが悪い。オレは、隠居したいというから、それをあんたが引き留めてるから、こっちの事情のついでに、連れ出しただけじゃないかっっ」
 震えつつも言い訳する浪人者を一瞥し、誉は戻って来た男を見た。
 濡れ鼠の優男も、後ろから何かを引きずりながらやって来る。
「人の家に落ち着いているというから、諦めたと思ったら、ウノも一緒だったのか。あいつも、元気なのか?」
「この方たちの家の初代の時に、自分から出て来てくれた。余計なものもついていたが」
 じろりと蛇の男を一瞥してから、オキの気楽な問いかけに答えた。
「最近では、隠居したいが口癖なんだが、家の拘りが邪魔して、うまくいかない。兎の妖しは多いが、あれを越える者はあり得ないだろう」
「力は多少劣るが、お前がいるならば、そこまでこだわる事はなくないか? というより、オレには本音を言え」
「聞かれているのに、言えるはずがない。後で踏んづけられる。あのふわふわの足で」
 真顔の言い分に、オキは何故か呆れている。
「……嫌そうに言っても、声が弾んでるぞ」
 話を聞き流しながら、大きな戒の体を引きずって戻って来たエンは、その話を聞いている面々の思いが、二手に分かれているのに気づいた。
 浪人者とその兄弟たちは、ここにいないものへの同情と、恐怖に似た引き攣った顔で、静かな獣一同は、顔を見合わせて困ったようにしている。
 首を傾げる男の前で、オキもその面々の様子に気がついた。
「……お前、まさか……」
「残念なのは、獣たちには、誤魔化しがきかない事だ。主たちは、生粋の人間だからな。騙すのは、楽だ」
「……」
 意味不明な言葉を交わしてから、二人は本来の話に戻った。
「で、こいつで間違いないのか? その、話をしたい男と言うのは?」
 話に出された大きな男を、エンは軽く前に投げ出した。
「水の中でも暴れたんで、仕方なく落とした。少し待ってくれれば、気が付くと思うが」
 穏やかに言われ、誉の顔が引きつったが、何とか気を取り直して、白目をむいている戒の顔を覗きこむ。
 だが、よく分からなかったらしく、振り返って主たちを呼んだ。
「首実検を、お願いします」
「……間違いない」
 近づくまでもなく言い切ったのは、三男だった。
「先代……父上が覚えていた男の、若い頃と面影が似ている。ただ、年齢が、若すぎる気がするから、子ではなく、孫かもしれないな」
「年齢は関係ないな。混血とは言え、主を張れた狐に育てられたのなら、同じように年を取らなくなる者もいる。先代が書いた人相書きは?」
「持ってはいますが、人の絵には見えないですよ」
「逆に、それでどうして、面影があると分かるんだ?」
 四男が人相書きを差し出しながら言うのに眉を寄せ、浪人者はその紙を見下ろして頷いた。
「成程、目つきが似ているんだな」
「……」
 目が晴れて、間違いないと頷く浪人者が、裏返して二人の男にもその絵が見えるようにした。
 大きな丸が二つ上下にくっつき、その下の丸に、小さな丸が両脇と下にちんまりとついた絵だ。
 上の大きな丸の中に、目らしい逆三角が並んでいるのを見て、エンは呟いた。
「親孝行の、いい子たちだな」
「無理に当て嵌めなくも、いいだろうにな」
「まあ、戒に似てなくも、ないか? 目元が」
「そういう事で、いいんじゃなかろうか」
 うまかろうが下手であろうが、彼らが戒を目的の男と断じたのだから、そうなのだろうと、オキは話を進める事にした。
「先に、こちらの話を聞いてもいいか? あの暴れよう、もしかしたら、何かの呪いを付けているかもしれない」
 まず、その呪いを解かなければ。
 そう言うと、浪人者が頷いた。
「そちらの方が、切羽詰まっているのだろう? 頭を冷やしてもらわねば、どの道話も出来ないだろうから。ただ、一緒に聞いても障りがないだろうか?」
 慎重にそう申し出たのは、先の誉の言葉を思い出したためだ。
 この山の狐が不在の中、一人暴れていた男があの賊と係わりがあるのなら、ついているかもしれない呪いも、あの賊がかけた事になる。
 それがどう言う事なのか、考えたくもないが、もし考え通りなのならば、これ以上、放置しておくわけにはいかなかった。

 狼の混血の娘を、ある集落に送ってすぐ、戒は住処へと急いで戻ったが、遅かった。
 住処の洞窟の中はひっくり返され、ここ数日で揃えられていた物が、根こそぎ奪われていた。
 そして、姉貴分の姿も、消えていたのだった。
 足元が崩れたような不安が戒を襲ったが、ここを襲った奴らに心当たりがあった。
 あの集落の奴らに、決まっている。
 そう断じ、すぐに動いた。
 頭に血が上っていた男は、その動きが命取りになるという事も、思い浮かばなかった。
 意外にすんなりと集落に入り込んだ戒は、一番怪しそうな襤褸屋に忍び込んだ。
 そして、見つけた。
 床間に蹲るようにして横になっている、姉貴分の姿を。
「み、ミヤっ」
 声を上げて駆け寄ったが、何かに弾かれて後ろに後ずさる。
 よく見ると、雅の横たわる床間に、物々しい文字が墨で書かれていた。
 これのせいで、姉貴分は気を失っているのだと知り、慄くより先に怒りがこみ上げた。
 持っていた刀を抜き、力任せに床に突き刺すが、途端に激しい衝撃が全身を走り、思わず悲鳴を上げた。
 その悲鳴のせいか、衝撃が内側まで伝わったのか、ぐったりと横になっていた雅が、頭を僅かに持ち上げた。
 眉を寄せた顔をこちらに振り返り、目を見開く。
 戒の名を呼んだようだが、声が出ないのか掠れてしまって聞こえなかったのか、こちらにまでは届かなかった。
 激痛をやり過ぎして身を起こした戒は、突然背後から首根っこを攫まれた。
「ん? 鼠にしては、大きいな」
 抗う間もなく組み伏せられ、頭を床に押し付けられる。
 身を起こした雅が、目を剝いたまま固まっているのが見えたが、それ以上動くことができない。
「そいつ、さっき獲物を奪って行った奴だ。この女も助けに来たのか? あれの中に入れぬ化け物のくせに、馬鹿な話だな」
 見下ろしたのは、昼間見た賊の一人だった。
「隙をついて獲物を奪えたから、ここに来ても楽に奪えると、勘違いしたんだろう。本当に馬鹿な奴」
 もう一人の賊が言いながら、戒の頭を床に踏みつけた後、無理やり引き起こした。
 目の前がおぼつかないまま、それでも何とかその男を睨み、戒は声を絞り出した。
「ミヤを、離せっ。そいつは……」
「それは出来ないな。ようやく、いい駒が手に入ったというのに。使えるか見る前に、手放せない」
「使えるに決まっている。その為に、この土地に陣取ったんだ。何なら、試してみろ」
 賊の一人の言葉に、戒を完全に組み敷いている男の声が、面白そうに返した。
 途端に、入って来た二人がにやりと笑いながら頷く。
「丁度、目覚めたようだからな」
 戒の頭を話した男は、ゆっくりと雅の方に体を向けた。
 その、舐めるような目つきに、全身に震えが走る。
「やめろっ」
 叫んで抗う戒を押さえつけながら、後ろの男は面白そうに声をかけた。
「相手は混血とは言え、狐だ。多少乱暴でも、すぐにいい声で鳴いてくれるようになるだろう。見た所、まだ味わっていないようだから、どんな声なのか、お前にも聞かせてやろうじゃないか」
 賊の二人が、ゆっくりと衣服を寛げながら、雅の傍に近づいて行く。
 何とか身を起こした女は、目を見張ったまま床を這うように後ずさるが、男二人に前後を取られ、床に組み敷かれた。
「やめろ、やめろっっ」
 戒が力いっぱい抗いながら喚くが、抑えつける力は緩まない。
 それどころか、止めさせられないならと目を伏せる戒の頭を引き上げ、面白そうに囁いた。
「二人相手なのに、声一つ上げないぞ。お前と大違いだ。見習ったらどうだ?」
 その時には、怒りよりも情けなさが襲っていた。
 雅の方に目を向けても、涙でぼやけて何も見えない。
 男の背中と、下品な笑い声が響いているだけだった。
 気がつくと、しんと静まり返った場所に、転がされていた。
 押さえつけられていたせいか、首根っこの辺りが、ひりひりと痛みを帯びている。
 身を起こして周りを見回したが、そこは自分達の住処だった。
 夢ではない。
 それは、荒らされたままの住処の様子で、はっきりしていた。
 守れなかった。
 ひとしきり泣いた戒は、どうすればこんな事にならなかったのか、ぼんやりと考えた。
 不意に思う。
 何で、雅はここに戻ったのか。
 それが一番、障りがあった。
 そもそも、師弟の間柄から、それ以上に進もうとしなかった男に、咎があるじゃないか。

「……」
 最後、吐き捨てるように言い放ち、エンを睨んだ戒を、オキは深い溜息を吐いてから見下ろした。
 その目は、怒りよりも呆れの方が濃い。
 妙な呪いの気配を感じ、大昔に作りいつも大目に懐に入れているものの一つを、エンが渋々戒の首に無理やり括り付け、経緯を聞いたところだった。
 その話の間中エンは、穏やかな笑顔のまま、戒の前に目線を合わせて座っていた。
 そのまま黙っている男を、戒は立ち上がって、勢いのついたまま責め続けているが……。
 オキは頭を掻いて、エンに呼び掛けた。
「……引導は、任せてくれないか?」
「いや。それは、甘すぎる」
 振り返らないエンの声は、変わらず穏やかだ。
「いや、そう言わずに、一応、師匠のオレが……」
「だから、甘すぎると、言っているだろう」
 言いながら、伏せていた目を上げ、勢いのついた戒を見上げた。
 その目が、矢張り笑っているのを見て、大木のような男が目に見えて怯む。
「鍛え直すのも、叩き直すのも、やらなくていい。ましてや、師匠としての慈悲の余地など、何処にもない」
 だろうなと、溜息を吐いたオキの前で、エンは身を乗り出して、あっさりと戒の首を攫んだ。
「雅さんの師匠であるオレが、跡形もなく消し去ってやるのが、一番だ」
「匂い消しのものを、何か持ってくる。後は頼むぞ」
 立ったまま話を聞いていた石川家の面々が、突如始まった修羅場に騒然とする中、オキはあっさりと手を振って外に出かけようとする。
「こらオキ、待てっ。言ったよな、その男は、オレたちも話があるとっ」
「いや。残念だが、あれは、国のためにはならん。諦めろ」
 軽い様子で手を振るオキに、誉は気になった事を口にした。
「お前、あの男の師匠だったんだろうっ? あのまま、死なせてもいいのかっ?」
「本気で知るか。こっちの技術を、お根掘り葉掘り聞きだしておきながら、右から左に聞き流して、忘れているから、あんな醜態をさらすんだっ」
 意外に、オキの方も怒っている。
「二重も三重も警戒して、押し入るべき場所に、何の準備もなく入るだと? 罠だとも考えない馬鹿な弟子など、元からいなかったと思った方が、まだましだ」
 吐き捨てたオキは、エンが他の石川家の式神たちに命がけで止められ、宥められているのを見て、舌打ちした。
「お前らが、引き取ってくれるんだろうな? 生かすのなら、当然」
「……まあ、話して見て、使えなかったら、お前に返そう」
「いらん」
 鼻を鳴らすオキは、外に行くのをやめてその場に残り、決死の制止に渋々とどまったエンは、穏やかに嘆いた。
「しかし、お前を捕まえていた男、甘いな。どうせなら、お前も衆道の道に引きずり込んで、戻れないようにしてくれていれば、こちらも少しは胸がすいたのに」
 だが気になる、と付け加えた。
「一応、お前も力は強くなっている筈なのに、たった一人に組み伏せられた。ただの人間の賊の集まりじゃあ、ないな」
 それに、雅の様子も気になる。
 お守りを手離していたとしても、大抵の術師には太刀打ちできるはずの人が、成す術もなく賊の手に落ちている。
「……相当、強い家系だったんだろう」
 考えながら言う男に、苦い顔になったのは、それまで黙っていた浪人者だった。
 小さく唸って言う。
「大当たりです。我々の国にいた、術師一家の一つです」
 そうしてその場に腰を下ろした浪人は、その家にまつわる話を始めた。

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