第1話

文字数 14,439文字

 随分長く離れていた気がするが、(みやび)が住処の山を離れていたのは、ほんの数年だ。
 それでも、誰も立ち入らない山中は、獣道すら藪に覆われ、手入れから始めなければならない程になっていたため、その作業は少し骨が折れそうだと思っている。
 望月千里(もちづきちさと)と狸の娘たちと別れ、雅は弟分の(かい)と共に、山の頂上の洞窟に帰って来ていた。
 隣村を出てすぐから山中に入り、山下の村に入らないように戻って来たのは、やはり昔のことがあって後ろめたかったのと、命を取られそうになったこともあるため、用心したせいだ。
 夕餉を捕まえに戒が出かけ、雅はその間周囲の草刈りや、誰もいなかった分荒れてしまった寝床を整えていた。
 少しの間はここにいて、落ち着いたら戒と今後の話をするつもりだ。
 雅は、戒の行く末を見届けてから、この間別れた群れに身を寄せることを、既に決めていた。
 思いを寄せる男と、一緒に居たいからではない。
 壁があればあるほど、色恋は盛り上がるとも言うし、時々顔を合わせる位の方が、相手も気にして貰えるかも知れないから、寧ろこのまま遠くにいる方が、男との仲は深まるだろう。
 雅が気にしているのは、その男の弟分の若者だった。
 自分と同じくらいの背丈と細身のその若者は、その群れを率いている頭だった。
 見目のいい男女の多い中、ひときわ目立つ容姿の若者だが、その兄貴分曰く、己の事では妙に後ろ向きな考えの持ち主だ。
 元々は、親族のみで作られていた群れで、一言でいうと、盗賊、という稼業の者達なのに、標的の細部にまで気を払い、時にはその地の役人と手を組み、注意を払って活動する、不思議な群れだ。
 本人たちに言わせると、それは単に残った数少ない良心を、少しでも痛めないための、欺瞞なのだそうだが、今まで会った盗賊や噂で聞く奴らは、目先の利を念頭に置いて動いているから、妙な力を持つ事を除いても、異質な群れだ。
 手下たちの中には、他の盗賊のように荒くれ者もいるのだが、そう言う奴らもうまく使いながら、出来るだけ極悪な所業にならないように、心掛けて動いているらしい。
 そんな中、三代目の頭となったその若者は、秘かにその群れの解散を目論んでいると、雅は知った。
 世間に顔向けできないのを憂いてのことではなく、側近に当たる異質な男女が心を完全に病む前に、稼業自体を断ち切りたいのだと察したのだ。
 その思いを知り、雅は師匠に当たる男への感情を抜きにして、手伝いたいと考えた。
 親しくなった娘や、その周囲の者たちが、永くこの稼業をする上で、割り切るという考えに至っているのに気付き、若者の動きを止める事はないが、手助けする気もないという間柄だと、短い付き合いで分かったのも理由の一つだ。
 殺戮には正直、気後れしている。
 だが、誰も手を付けない所を手伝うのなら、自分のような者でも出来るのではと思う。
 ただ、そう決めたはいいが、色々と考えなければならない事はある。
 その一つが、弟分の戒の事だった。
 戒は、十数年前に、村に旅の途中で立ち寄った僧侶が連れていた、幼い子供だった。
 人より多くの者が視え、それに怯えた親が、僧侶に預けた子供だったらしい。
 その村で突如行方を絶った僧侶を探し、雅の山に入り込んで泣いていたのを拾い、養ったのだ。
 雅を姉と慕い、大きくなった今でも離れようとしない、少し甘えが残った弟だが、これだけ大きく育ち、自分の身を守れるようになったのならば、そろそろ独り立ちの時期だろう。
 一番独り立ちの方法として無難なのは、所帯を持たせる、なのだが……。
 生憎と、知り合いが少ない雅には、婿入りさせる事のできる年頃の娘に、心当たりがない。
 躊躇いなく自分とこの山に戻ったから、あの群れに未練が残る程の相手はいないらしい。
 もしそうならば、また別な心配があるが、自分としては話を切り出しやすかった。
 そう悩み、今後の話を切り出せないまま、その日は夜を迎えてしまった。
 そうして、ずるずると三日。
 雅は話を切り出せないまま、山での生活に戻っていた。
 山菜を採り、時に魚や鳥を捕獲し、近くの村へと物々交換に下りる。
 山のすぐ下の村は、最近国から人が使わされ農家が出来て、再び田畑が広がっているが、昔の村への罪悪感が未だに根強くある雅には、敷居が高い。
 だから、少し足を延ばして、一度だけ立ち寄って泊まったことがある村へ、籠を背負って来ていた。
 田畑で取れる食べ物は、村でしか手に入らないから、代わりに人が入れない山奥で得られる物を、村に持って行く。
 国元の武家が隠居に使う大きめの屋敷が、村に下りて一番初めに行く場所だ。
 挨拶がてらに、山で採れた物を差し出す。
 既に、二代越しの付き合いとなるその屋敷の主は、座敷に通された雅を、大喜びで迎えてくれた。
 主夫妻と暫し歓談してから、村の家々を回った。
 この数年で、小さかった子供たちが大人になり、所帯を持って迎えてくれるのを、感慨深い思いでやり過ごして昼過ぎ、山に戻って来ると留守を頼んだはずの戒が、見当たらなかった。
 山の外の世界を知った戒は、じっとしているのが辛くなったらしい。
 山の中もそれなりに広く、凹凸もあって歩きにくいから、日々の散歩だけでもメリハリがあると思うのだが、活発な若者には、物足りないらしい。
 このまま、戻ってこないかも知れないな、と思うと寂しいが、実の兄弟たちも、こんな感じでいなくなったなと思い出し、仕方ないかと溜息を吐いた。
 このまま、戻ってこないようならば、自分も動こう。
 交換してもらった品を籠から出しながら、雅がそう決めた時、妙な気配に気づいた。
 気配と言うか、何かが引っかかったのだが、何に引っかかったのか、分からない。
 住んでいる場所には、戒がいないという事以外では、いつもと違いはない。
 そっと気を静めて、山の周りの気配を辿る。
 縄張りとしている場所ならば、その気配も匂いも辿れ、常と違うものにもすぐに気づく。
「……」
 戒が、山下の村の前にいるのが分かった。
 そして、どうやら、若い娘と一緒だ。
 意外に手が早くなったなと感心しながら、雅は更に気を張って周りを見た。
 そして、急に立ち上がり、外へと駆け出した。
 この山は、国境にある小さな山だ。
 正面にあった村は一時期寂れたものの、今はまた栄え始めている。
 最近では、その反対側の開けた場所にも集落が出来始め、徐々に人が住み始めているのは、雅も知っていた。
 だが、今感じたものは、ただの百姓とは違う、毒々しい気配だった。
 何故、こんな所に?
 そんな思いがよぎるが、まずは弟分と連れを助けるのが先だ。
 出来るだけ音をたてないように、素早く動けるようになったのは、修業の成果だ。
 そして、その毒々しいものを纏う者が、弟に向けて手をかざすその間に入り込めたのも、そのたまものだった。
 長々と呟いたのちに、背を向けて逃げる二人へと指を差し出した、荒くれ者の前に立ちふさがった雅は、その手から放たれた術をまともに受けた。
「っ、ミヤっ?」
 叫ぶ戒を背に、雅はそのまま拳を握る。
 突然立ち塞がった美しい娘に目を剝いた荒くれ者が、突き出した指をそのままに、固まった。
 まさか、まともに術を受けた者が、そのまま反撃するとは思っていなかったようだ。
 身を竦めたままの荒くれ者を、拳の一撃で沈めると、雅は周りを警戒しながら振り返った。
「……何事なんだ? これは?」
 ぽかんとした弟分は、背に小さな女を庇っていた。
 同じように目を見開いて口を開け放っている女は、口ごもりながらも呟く。
「もしや、山の主様?」
「その呼び方は、止めてくれ。この山を住処にしてはいるけど、主って程のものじゃない」
 久し振りに言われたその呼び名に、雅はつい顔を顰めてしまう。
 そんな姉貴分に、戒はようやく声をかけた。
「大丈夫、なのか? 今のは、オレ達みたいな奴を消せる類の、術じゃあ……?」
「そう言う話は後だ。取りあえず、ここから離れよう」
 平然と雅が言い切り、二人を連れて山の頂上に向かって歩き出した。
 ふらつきながらも、二人がその後をついて歩き出す。
 追手の有無を気にしながら、雅は小さく息を吐いた。
 経緯次第では、しばらくここを離れられない。
 出来れば、江戸からここに戻る若者たちと合流したかったのだが、事を治められなかったら、それは見送るしかなくなる。
 かと言って、物騒な気配を纏う者が、この辺りをはびこっているのに気づいた今、放っていくのも躊躇われた。

 娘は、旅人だという。
「もう少し奥まった所にある集落の僧侶に呼ばれて、北の方にある村から男たちとやって来たそうだ」
 そんな娘が、何故か山に囲まれて、国に所在すら知られていない、あんな小さな集落にいたのは、理由があった。
「昨夜、近くの山中で夜が更け、やむを得ず夜を過ごしたのですが、賊に遭ってしまったのです」
 その賊たちは、連れの男を全て殺戮すると、娘を拘束してあの集落に連れ去った。
「……親戚の殿方って、あなた、狼の混血だろう?」
 親戚とは、人間側なのかという疑問に、娘は顔を歪ませた。
「先程の恐ろしい術で、彼らは叔父様方を……」
 顔を覆って泣き出した娘の代わりに、戒が続きを話す。
「朝方、暇つぶしに周りを探索していたら、死臭がした。この山じゃないようだったが気になって行ってみたら、男たちが苦労して何かを埋めている最中だった」
 旅人はどんな死に様でも行き倒れと届け出は出されるが、この場合は相手が悪い。
 狼の妖しは、群れで生活している。
 その仲間が術師の手にかかったと知れれば、集団での報復が待っている。
 危ない橋を渡っているのに、当の術師たちは慌ててはいなかった。
「……清めて、痕跡を消す法を、知っているんだろう」
 短く言った雅は、何とも嫌な感覚を覚えた。
 もしかすると、人間を狙うよりも、妖しの者を狙う方が国の目を掻い潜れると、そう考えている賊なのかも知れない。
 狼は、鼻が利く。
 それでなくとも、妖しとなった獣は鋭くなっているというのに、それを欺けるほどの術師が、あの集落にいる。
 近いなと、雅は苦い思いを噛み締めた。
 暫く留守にしている間に、とんでもない奴が住み着いてしまっていた。
 再び離れるつもりだったとはいえ、いない間の住処が荒れるのは、了承できない。
「隙をついて助け出したはいいが、どうしても振り切れなくて、あんな所まで連れてきてしまった」
 戒が、身を縮めて悔いているように言った。
 助け出せただけでも、まあ上等だろうと頷き、雅は娘を見た。
「あなたが向かっていた集落とは、何処の事だ?」
 娘は、父方の群れに馴染めず、かといって人間の母方とは折り合いが悪く、扱いに困った父方の親戚が、方々に相談した中で、一番信頼出来て馴染めそうな集落の長からの誘いを受けたのだという。
 一度見たら忘れない、小さな僧侶が細々と治める集落だという。
「……」
 それを聞いた雅は、目を丸くして戒を見た。
 弟も頷いて返す。
「あの侍たちが向かった、あの集落だと思う」
「そうか、なら、大体の場所は分かる」
 雅と戒の住処の山に近い場所まで道連れになった、望月千里と名乗る女武芸者は、連れの娘たちと共に当の集落へと向かった筈だ。
 頷いた姉が、戒に娘をその集落へ送ってやるように言うと、弟は顔を顰めた。
「あんな近い場所に、あんな荒くれ者が住んでいるのに、ミヤを置いて山を離れろと?」
 嫌そうな戒に、雅は苦笑しながらも、はっきりとした声音で答えた。
「こちらから仕掛けない限り、あちらは私がいる事すら知らないはずだ。それに、さっき見た通り、私には術に耐えられるようだ。力で敵わなくても、何とかなる」
 敵わないなら逃げると言い切った雅は、まだ不安そうな戒に優しく笑って見せた。
「お前は、一度助けた者を、途中で投げ出す子になってしまったのか?」
 優しい声なのに、戒の方がびくりとはねる。
「私は、そんな子に育てた覚えは、ない」
「……分かった」
 連れが代わってしまった娘が、その集落に入る時に障りがないように、雅は自分が関わっていることが分かるものを、戒に差し出した。
「……」
 何か言いかける弟分に、揶揄いの目を向ける。
「もう、持てる位には、大きくなっただろう?」
「っ、当たり前だっ。もう、怖くないっ」
 受け取った物を握りしめて言い切りながらも、戒はそれを帯の間に押し込んだ。
 まだ、素肌に近い所に身につけるのは、躊躇っているようだ。
 その経緯を、師匠の男に聞いていた雅は、大きな男になった弟のまだまだ子供の仕草を微笑ましく思いながら、二人が別な方向から山に下りていくのを見送った。
 先程の、術師崩れらしい荒くれ者の攻撃を受けても障りがなかった位だから、師匠の男から分けて貰ったあれは、充分効き目がある。
 隠形にも使えていればいいがと思いながら、雅はそっと踵を返した。
 人を害するのは初めてで、どうも力加減が半端だったらしい。
 怒りの形相で山を上がって来る男衆を見て、女は溜息を吐いた。
 あの守りのお蔭で無事だったが、術を受けた時の体に響いた振動は、相当の威力があった。
 あれをまともに受けたのなら、力のある狼たちも動けなくなり、その隙に斬り付けられたら成す術もなかっただろう。
 混血の、何の加護もなくなった娘一人では、更になすすべはない。
 だが仮にも、この山の主を名乗るからには、山を荒らす者たちを見逃す訳には行かない。
 雅は優しく微笑んだまま、賊たちを迎えた。
 この修羅場を、どう切り抜けるか、真剣に考えながら。

 そこは元々、狸が多く住む土地だった。
 人が移り住みだし、徐々にその住処を狭めていたのだが、今はこの辺りまで人が入り込むことはない。
 不可思議な出来事が、まことしやかにささやかれているからだ。
 それを流したのも、当の狸たちなのだが……。
 これ以上、住処を人に侵されたくない思いが、長である源五郎(げんごろう)の思惑を呼んだ。
 この辺りに大昔から住む、唯一力を付けた狸は、一時期この土地を離れて子孫を作り、己の力を引き継ぐ者を連れて、数年前に戻ってきたところだ。
 武士の力が強まった頃から、数年前まで戻って来れなかったのは、土地を均すための資金作りと後継ぎづくりが、思いのほか難しかったためだ。
 大昔から作っていた護身の札は、高貴な人間にしか手に入れられない程の、高値で取引していたことと、源五郎の見た目の好みが、雌の狸にすら受け入れなかったせいだ。
 護身の札は、値が大きいから、一枚売れればそれでよかったが、子孫の方は、源五郎が本当に姿かたちに拘らないくらいに惚れた者が現れるまで、作ることができなかった。
 その上、力まで継げる者ができるのも、遅かった。
 だから、孫の源六(げんろく)は、源五郎と数代跨ぎの年齢差がある。
 もっと前に祖母である狸が現れればよかったのだが、ああいう狸がそう何度も現れても、獣の立場からは困る。
 珍しい雌の狸と添った源五郎は、それから頑張った。
 だから、源六には叔父叔母が、数えきれないほどおり、まだ顔合わせしていない者を合わせると、伯父叔父は百郎、伯母叔母は九十(くと)までいるらしい。
 作ったこともすごいが、名前を子供たち一人一人につけているのも、狸としてはすごい。
 源六は、丁度十番目の息子の子で、六番目の孫だ。
 つまり、従兄に源一から源五がいる。
 今も従兄弟どころか、その子も増え続けているが、今の所源五郎の目に止まった者は、源六だけだ。
 親は誇らしがったが、その後が続くと限らず、一時期は焦っていたようだ。
 野生の狸が偶々生んだ、力を持つ雌狸を許嫁にしていた時期もあったのだが、それもある事情で流れた為、源六は未だに独り身で、ようやく落ち着いて来たこの集落を、祖父が留守の間守るというお役目についていた。
 半年ほど顔を見せなかった源五郎が、ひょっこりと帰って来たのは、秋空が広がり始めた頃だった。
 最近では、祖母を口説くために使った容姿で、方々を歩き回るようになっていたが、ここではそんな遠慮はしない。
 久し振りに見る丸く小さい僧侶は、孫を見ながら溜息を吐いて見せた。
「ようやく、落ち着いてきたようだの」
「まあ、村ほど栄えていないが、平穏に過ごせるようにはなった」
 源六の素直な答えに、源五郎は満足げに頷き、留守中の事を訊く。
「何も変わりはなかったか?」
「三つほど、ある」
 その二つは、繋がりがあると答えた孫は、まず梅雨の前にやって来た客人たちの事を話した。
「ホウが、無事に身を寄せて来た」
「ほう」
 丸い顔を綻ばせた祖父に、源六も表情を緩ませながら続けた。
「あれ、どういう事だ? 何で、二人になっている上に、名前を別々に呼ばれてんだ?」
 しかも、昔仲間たちからはホウと呼ばれていた娘達には、連れがいた。
 その連れが、見た事のない女武芸者だったことも、事情を知る者たちの戸惑いの元だった。
 繊細な話になりそうで、源六は本人たちに事情を聞きだすことができずにいた。
 その事情を知っているらしい祖父が戻って来たら、真っ先に聞くつもりだった孫に、源五郎は答えた。
「話せば長いのだが、まあ要は、元の主だった女武芸者が、死にかかったのだ」
「死にかかった?」
「うむ。その原因が、どうやら永年身につけておった小袖であったらしい。九十九になったからと、すぐに害が出るものではないと思ったが、動けるようになってすぐに、主を襲って喰らおうとした」
「……」
 顔を強張らせた孫に、源五郎は真面目に頷いた。
「知っての通り、力が戻るまで主の力を分けて貰わねば、あの子は死んでしまう。だから、あの子は今の姿で主を抱えて逃げた」
 二人に分かれる事で、更に力は半分になるが、女にしては大きいあの武芸者を、たった一人で抱えて逃げるのは、難しかったのだそうだ。
 望月千里という女武芸者は、無念な死にざまをする羽目になったところに、源五郎を頼って逃げて来たホウが偶々行き会い、抱えていた主とその無念の心が引き寄せ合って、くっついてしまった。
「……そんな事、あり得るのか?」
「ないと思っていたのだが、あった様だの。直に見たあの娘は、お前から見ても、妙な気配であっただろう?」
 祖父の言葉に、源六は確かにと頷く。
 ホウと名乗っていた娘も、気配は一つなのに二人いて驚いたが、女武芸者の方は、一人の体に二人の気配があった。
 どちらも、自然の者としてはあり得ない。
「よく喋る方を白銀(しろがね)、無口な方を黄金(こがね)とつけた」
 (ほう)、にかけたのだという源五郎は、優しい目で孫を見た。
「どんな感じなのだ? 住み着いているのだろう?」
 源六は顔を搔きながら、答えた。
「毎日朝晩、食事を持って来てくれる」
「ほう」
「……武芸者の方は、子供たちに文字を教えてくれている。いずれは、別な事も教えていくと、そう言ってくれた」
「それは良かった。もう、目を離す心配は、ないようだな」
 だといいがと、妙に嬉しそうな祖父に返してから、源六は真顔になった。
「あんたが旅に出る前に、狼の集落から文が来ただろう?」
「おう、混血を数人、引き取って欲しいとの話だったな。来たのか?」
「ああ。ただし、一人だけ」
「ん?」
 話と違うと眉を寄せた源五郎に、孫は難しい顔で続けた。
「賊に襲われて、その娘だけ残して、全員死んだそうだ」
 その生き残った娘も、危うく地獄を見る所だったらしい。
「賊の根城に連れて行かれる前に、助け出されたそうだ」
 助けたとされる大男は、その娘をここに置いて、自分の住処に戻って行った。
 ただの人間の賊が、狼の妖しを含む混血たちを、殲滅したのも信じがたかったが、それは、その知らせを受けた狼の集落の者も一緒だった。
「あの集落の長が、直々にやって来て、娘を詰問している。そもそも、狼の混血を下に見ているのを見かねた者が、あんたに繋ぎを取って相談を持ち掛けた事が、引き取る発端だったんだろう? 事情を知るあんたに、直接訊きたいと、先方はそう言っている」
「? 直接訊いたところで、変わらんと思うが」
 首を傾げる祖父に頷きつつも、源六は苦い顔だ。
「どうやら、賊との繋がりを、疑っているらしい」
「……」
 嫌そうな顔をするのを見て、はっきりと祖父の心境が読み取れた。
「全く。人間の中に、自分達を害する者はいないと、そう思い込んでおる様だの」
 その驕りが、この集落にたった一人しか辿り着かなかった原因だと、分かっていない。
「よくよく聞いて見ると、混じり気なしの狼は、一人しか付いていなかったらしいから、あんたの考えは当りだ。しかもその賊、術師崩れも多数いるらしい」
 深々と頷いて答える孫を従え、源五郎は狼の混血の娘を訪ねるべく、外に出た。
 手ごろな山の木を刈り取り、草や葉をかき集めて作った祖父と孫の住処は、同じようにして作った他の家よりは大きい造りで、ホウと名付けられていた娘と女武芸者も、身を寄せている。
 今日は子供に文字を教えている女武芸者に黄金が、狼の混血の娘の客の対応を白銀が、請け負っている。
 先程までは一緒に接客をしていた源六は、祖父の帰郷に気付いて、その出迎えに向かう前に、白銀一人にその後を頼んでいたのだ。
「まあ、女相手に無体をするほど、出来ていない人じゃないようだが、周りがな……」
 苦い顔で言う孫の思いを察しながら頷き、源五郎はその家の外で声をかけて中に入った。
「ゲン爺」
 顔を輝かせたのは、二人の小さな娘の内、すこしふっくらとした娘だった。
 どうやら、孫や集落の者に、沢山食べ物を恵まれているらしい。
 少し前に会った時は、この白銀ももう一人の黄金も、まだまだ幼い面影があり痩せていたが、今では年頃の娘に見える。
 隣に座る娘は、新たな男の出現に身を竦めたが、その姿かたちを見止め、目を瞬いている。
 白銀の声で振り返ったのは、娘達より二回りは大きい男達だった。
 山で暮らす者らしく、背丈は小さいが肉付きが良く、今もこちらを見据えて身構えるさまは、喧嘩っ早さをうかがわせた。
「……邪魔している」
 その中で、静かにそう頭を下げたのは、娘たちの正面に囲炉裏を挟んで座っていた男だった。
 躊躇うことなく上座に座る源五郎を目で追い、源六は白銀の隣に胡坐をかいて座った。
「群れを離れるのが嫌だからと、少ない数の下っ端を付けて、この者をこちらに向かわせたと言うのに、無駄骨だったの」
 やんわりと切り出す老狸に、憮然とした男は顔を顰めた。
「まさか、誰一人戻らぬ事となるとは、思わなかったか。見通しが甘い」
 あんまり煽るな、と内心慌てる源六だが、上辺だけは平然と客たちを見返している。
 その横で、あからさまにオロオロしている娘たちは、喧嘩腰になっている狼たちと、小さな丸い老僧を見比べていた。
「……こちらに、塩を送るよう、頼みを聞いたのは、これが狙いだったと、そう捉えてもよいのだな?」
「戯言だな」
 緊張を孕んだ言葉を、源五郎は笑って一蹴した。
「お主の脅し紛いの頼みは、確かに気分のいいものではなかったが、初めの懇願はお主ではなかっただろう?」
 人間との混血に、初めて娘が生まれた。
 母親に似た可憐な娘は、年頃になると集落の男達の目を引くようになった。
 二親が生きている間は、そうでもなかったが、この数年で立て続けに父母が病で世を去ると、身を寄せていた叔父の家に、男衆が入り込もうとするようになった。
 若い男ならばまだ追い返せるが、叔父よりも年嵩の男は、年長者を敬う一族でもある集落では、追い返しきれない。
 何とか、懇願して帰ってもらっていたが、そろそろ本当に危ういと感じていた叔父は、姪っ子を集落から出す事を考え始めた。
 源五郎に繋ぎを取った叔父の話を、集落から出すのは百歩譲って許すが、別な獣との血が混じるのは我慢が出来ない、他の混血たちも一緒ならばと言う、妙な条件を付けて了承したのは、今ここにいる長だ。
 長い旅路の中で、自分と同じ立場の混血の男と交わえば、すぐに戻って来るだろうという、いささか小狡い考えだったろう。
 そう感じたからこそ、付き添いとして娘の叔父が、すぐそこまで一緒だったのだ。
「混血の、どちらとも相容れぬものならば、わが集落でもなじみが早かろうと、了承したのだが、お主は、他に数名の混血を、しかも既に考え方が寄り過ぎている男どもを、一緒に住まわせろと言って来たな。わが集落を、人間の目に晒されたくなければと、汚い脅しと共に」
 源六の目が細まった。
 それを見上げた白銀は、事情を話した源五郎を覗き見た。
 こちらも、煽るだけのつもりがない。
「だからと言って、その混血どものみを手にかけるならまだしも、この娘の叔父上までそうしなければならぬいわれは、ないの」
「なくとも現に、手にかけておるだろうがっ」
「だから、しておらんと、言っている」
 きっぱりと、源六が低く声を出した。
「この辺りで、賊が横行している。どんな手を使ったのかは知らないが、そいつらの手にかかったんだ。我々は、逆に驚いているが。年頃の娘一人に、六人の男を付けただけだと? 一人は親戚だったそうだが、どういう了見だ? まかり間違って、この集落に来る前に子を孕んでいたら、賊に遭わなくともこの娘は、命が危うかったぞ。慣れぬ旅先での身籠りは、人間でなくとも危ういのは、周知の話だと思っていたが」
 一人でも貫禄は、充分彼らに見劣りしない。
 狼の長がたじろぎ、後ろの男衆すら顔を引き攣らせているのに構わず、源五郎が孫を窘める。
「これ、あまり怖がらせるな。己の住処を出た狼は、それだけでも心細い故、力のあるお前に脅されては、腰を抜かしてしまうわ」
 いや、窘めるどころか、当てこすって煽っている。
 ゲン爺っっ。
 横で黙って聞いている白銀が、狼の娘と共に身を竦ませていると、案の定、恐れより怒りの方が勝った一人が、立ち上がった。
「てめえら、我らといがみ合いたいのかっっ?」
「やめろ」
 冷ややかに見上げる祖父と孫の前で、長が低い声でその男を座らせる。
 そして、静かに源五郎を睨んだ。
「……ここをどうにかするのは、後だ。今は、その賊を、襲撃するのが先だ」
「ほう」
 源五郎が、わざとらしく目を見開いた。
「なら、こちらへの挨拶は後回しにして、さっさと賊の根城に向かえば良かろうに。何故、うちの孫を怒らせるようなことを言った?」
 やんわりと言いながら孫を一瞥し、けろりと言い放つ。
「これでは、仇討の前に滅ぼされてしまうぞ」
「……」
 先程まで、狸よりは力が上と考えていた狼の長は、温和な表情で娘たちと話していたが、この言葉で顔を険しくした。
 源五郎だけではなく孫の源六ですら、普段力を抑え込んでいるのを、長らしい鋭さで察したらしい。
 騙され過ぎだ。
 白銀は、自分に向ける目ですら畏怖が混じっているのを見て、盛大に首を振りたい気分だ。
 たった二人が威嚇しただけで、集落の者全員が力を隠していると思い込むなど、どこまで考えなしなのか。
 居心地悪い思いで、身を竦めた女の横で、源六は静かに切り出した。
「余計な力を使う前に、その賊とやらの方を襲ってみてはどうだ? その後ならば、そちらも多少は、頭が冷えている事だろう」
「……すでに、幾度かやっておる」
 言いにくそうな長の言葉で、源五郎は手を打った。
「成程。だからお主が、わざわざ出て来たのか。後継ぎは、育ったのだな?」
 苦い顔で黙り込んだ長の後ろで、狼たちは悔しそうに狸の爺を睨んだ。
 白銀が、首を傾げる。
「どう言う事?」
 先程まで、温和ではあるが、妙に当てこすった攻め方をしていた面々が、今は大きな子供のごとく拗ねた顔をしている。
 そんな狼たちを見て、老僧は鼻を鳴らした。
「大きな男が、そんな顔をしても可愛くもなんともない。子供ならまだしも、人に似せたそんな体では、儂の目には汚く見えるわ」
「……あんたの好みは、誰も聞いてない」
 鼻を鳴らし続ける祖父を制して、源六が言う。
「要は襲撃が、ことごとく失敗してしまい、とうとう長が出張る羽目になったと。ここに来たのは、たんに恨み言を言う為か、加勢を頼みに来たか? 加勢を頼むにしては、失敬な事しか言われていないんだが」
「……そこまで、落ちてはいない。ただ、あの賊どもが何者なのか、こちらで伝え聞いてはいまいかと、確かめに来ただけだ」
 そんな言い方ではなかった。
 白銀がじっとりと目を細め、それを横目に源六が鼻を鳴らす。
「女子を脅して、何が訊けると思っていたのだ? 何も知らん者は、それこそやってもいない事をやったと、謝りかねない言い方では、真の事は何もわかるまいに」
「ここに住まっているのであれば、話が伝わっているであろう? それを知らぬと言われては、取り込まれていて惚けておると思うしかあるまいっ?」
 睨む狼の長に、源五郎が呆れたように首を振った。
「まず、その賊の住処とやらは、分かっておるのだな? だからこそ、襲撃を幾度か試みたのであろう?」
「無論だ」
 そく答えた長は、その住処の場所を答えた。
 一つの山をまたいで村を越えた先の、もう一つの山の向こう側だという。
「……遠い」
「……」
 呟く源六の横で、白銀が眉を寄せた。
 それに気づきつつも、源五郎が天井を仰ぎながら言った。
「あの山の向こうか。確か一昔前、旅人が雨季に消えると、そんな奇異な話があったな」
 その村を賊が占拠したのなら、それは人間側の怠慢だ。
「村が無くなってから、国の偉い方の目が入り、浄化の後に人を移り住ませたと、そう聞いた」
 その後、賊が襲ったのならば、それは成す術もなかったかもしれないと、老狸は言った。
「あの山の主は、元々力のある女狐で、混血の子供たちが大人になってから、山を下りた。暫くは、その混血の子供の一人が住んでいたようだが、今は無人のはず」
「それは、本当の話か?」
 目を瞬く白銀に、その仔細を訊くより早く、狼の長が低い声を出した。
「うむ。山に住まう時も、山を下りる時も、旦那の旧知であった儂に、挨拶に来てくれたからな。間違いない」
「では、別な狐、なのだな」
「ん?」
 顔を上げた老狸に、狼が睨みながら尋ねた。
「あの賊どもと手を結んだ狐と、山の主は別な狐、なのだな?」
「今、住み着いている狐に関しては、儂も知らんが。お主らがそう確かめたのであれば、そうなのだろう」
 言いながらも、信じてはもらえんなと諦める。
 この集落にまで、手が伸びる恐れは、まだまだないと思われるが、客たちをこのままにしていると、その前に障りが出てくる。
 色々と思うところはあるが、取りあえずこれからやることは決まった。
 孫を一瞥すると、無言で見返した源六は静かに告げた。
「こちらは、預かり知らぬこと。信じろとは言わない、だが、疑いを持って接する輩を、ここに止める気もない」
 数人の狼たちを見回しながら、源五郎がきっぱりと言った。
「夜が更ける前に、お引き取り願おう」
 家内が冷え切った。
 緊迫の中、狼の長もきっぱりと言う。
「分かった。お主らも、敵だという事だな?」
「話が通じぬ方々だな。言っている事が、あべこべだ。お主らが、こちらを敵とするのならば、こちらもそう断じると言っているのだ。今ならば、大人しく故郷へと帰すと言っておるというのに」
「ふざけるな。狸の分際で、偉そうに……」
 顔を歪ませた相手に、源五郎はせせら笑って見せた。
「ようやく本音が出たか。その狸に、加勢をさせようとするお主らは、どの程度の分際だ?」
 心の中で悲鳴を上げる娘たちをよそに、男たちは一触即発となった。
 それをあっさりと削いだのは、乱暴に戸を開け放った者だった。
「おやあ? 話し合いは、決裂なのか?」
 骨太の背高な男が立つ戸口の外で、柔らかな声がかかった。
 振り返った狼の長は、目を見張って呻く。
「……お主、何処の里の者だ?」
 古着を纏った背高な男は、無言で客たちを見回し、首だけ後ろを振り返る。
「ああ、こいつは、うちに代々仕える、流れ者だ。あなた方とは、全く関わりがないので、悪しからず」
 ひょっこりとその背後から顔を出したのは、男の半分ほどの背丈の男だった。
 同じように古着だが、何やら育ちがよさそうなその男は、柔らかい声で笑いながら前に進み出、源五郎を見止めて破顔した。
「源五郎殿、お帰りでしたか」
「おう、先程戻ったところでございます。お久しぶりですな。それに、中々に馴染んでおられるようだ」
「私が馴染んでも、あまり意味がないでしょう。あの者たちが、人見知りを辞めてくれぬ限り、家に戻ることは出来ませぬ」
 気楽に挨拶する老僧と男を挟んだ客たちは、顔を強張らせていた。
 やけに静かになった客たちを見返し、男が柔らかに微笑む。
「話が終わったのならば、早々にお引き取り願えるか?」
「……いや。終わっていない。やはり、あの賊どもと、手を結んでおるのかっ?」
「黙れ」
 狼の長の、決めつけた叫びに、男は柔らかく返したが、その言葉は崩れていた。
「賊紛いをしている術師崩れと、うちの家系を一緒にされるのは、心外すぎる。これは、わが家への侮辱と取らせてもらう」
 言い切った途端、大きな影が二つ、土間を通り抜けて客たちを捕まえた。
 抗う間もなく捕らわれた狼たちは、その二つの影を見上げて身を竦ませる。
「……不味そう」
 ぽつりと短く言ったのは、先ほど戸を開け放った男だ。
「同族を、獲物と見るな」
 その男より細身の男が、呆れたように言いながら、同じように客の狼たちを押さえつけている。
 たった二人の男に、数人の狼が楽々と抑えられ、そのまま外へと引き出されていった。
 それを見送って、再び家内を見やった小さな男が、柔らかに微笑んだまま言った。
「どう始末しましょうか?」
「集落の外に出して、再び来れぬようにしてくれれば、それでよい」
「承知しました」
 一礼して戸を閉め、男の足音も去っていく。
「……やはり、癖のある者が揃ってくると、穏やかな暮らしなど出来ぬな」
 荒々しい客たちが去った後、源五郎がぽつりと心の内を呟いた。
「あんたがそう言う心づもりで、受け入れると決めたんだから、腹をくくるしかないだろう」
 嵐が去った後のような気持ちで、源六も溜息を吐いて、娘たちを見た。
 この集落には、異形の者や混血などを含む者たちの他、人間の中で生まれた者も、身を寄せ始めている。
 先程の客たちへのけん制も、あながち虚勢ではない。
 特に先程の男は、ある術師の家系の次男坊で、今は式神の獣同士の駆け落ちを手伝う形でこの集落に居ついており、その傍を守る狼や蛇の妖しは、心強い護衛となっていた。
 的外れな恨みを買っても、今のところは防ぐことができるから、目下の気になる事を源六は突き詰める事にした。
「知ってるのか? 先程、話に出た山に住む狐を?」
 白銀と狼の娘が、何故か同じように顔を輝かせて、同時に何度も頷いた。
 その様子に嫌な予感はあったが、尋ねたからには訊くしかない。
「……それは、困ったの」
 二人が代わる代わるする話を聞いた、源五郎の感想はそれだけだったが、源六は頭を抱えてしまった。
 本当に困った話だった。
 賊に取り込まれたと思われる狐が、この娘たちを無事にここに辿りつかせるよう守ってくれた、望月千里が言っていた友人となった混血の狐だと、そう思われたのだ。
 助け出す約束と、女武芸者への口止めをし、外へと出た後ものの、どうするかと二人で空を仰ぐ。
「偶々、似たような山に住んでいる混血の狐がいても、不思議ではないが……そう、言い切ることも出来ない」
「よし、一度深く探って来よう。またしばらく、留守を頼むぞ」
「ああ。くれぐれも、気を付けて」
 気楽に背を向ける祖父を、源六はいつもの挨拶で見送った。
 混血狐違いであることを願っていたのだが、その願いは叶わなかった。
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