硝子少女

文字数 11,938文字

 ――身を砕くなる夕まぐれ、心の色はおのづから――
 謡曲『野宮』より


 生まれた子を見て、母親はたいそう驚いた。硝子(がらす)なのである。身体が透けていた。
「病気――ですか?」
先天性玻璃状構造体児童(せんてんせいはりじょうこうぞうたいじどう)。突然変異による硝子生命体(がらすせいめいたい)です。お腹のなかで砕けなかったのは僥倖でした。そういったケースでは、母体も無事では済みません」
 産衣にくるまれた赤ん坊は、病室の光を反射して、眼を刺すようにきらめいていた。赤子らしい小さな体躯が、透明な輪郭を形づくっている。これでは目鼻立ちもよくわからない。ひどく無愛想な硝子の赤ん坊。
「これ……生きられるんでしょうか?」
 母親は無意識に、目の前のわが子を“これ”と呼んでしまった。人間というより、珍妙な器物に思えた。なにかの悪い冗談みたいだ。
 母親の言葉を咎めるでもなく、医師は答えた。
「ええ。硝子とはいえ、生きていることに変わりはありません。ただし、くれぐれも扱いには気をつけてくださいよ。見かけどおり、繊細なお子さんですから」
 にっこりと医師は笑った。
「元気な女の子です。傷ものになっては大変だ」
 医師の冗談は、まったく笑えなかった。

 彼女は鏡を眺める。自分の顔が映っている。透明な硝子の無表情。その顔に、顔の映った鏡が映りこんで、反復された、歪んだ鏡像が見える。鏡に映った硝子に映った鏡に映った歪んだわたし……。その先をたどりつづければ、わたしは硝子ではないわたしの顔を、いつかどこかで見つけられるだろうか。
 彼女は鏡から眼を離す。いつまで見つづけても、硝子の顔は、湖面のように冷たく無表情だと、わかっているからだ。
 彼女は顔を洗い(顔を磨き)、髪を梳かし(髪を削り)、制服に着替えて、身支度を整えた。
「行ってきます」
 母親に声をかけて、通りすぎる。
「朝ごはんは?」
 気遣うような問い。こわれものに触れるような。
「いらない」
「そう」
 言葉少なな母子のやり取り。硝子の娘は、いまだにこの母から生まれたと信じられない。母は母で、いまだにこの娘を生んだと信じられない。愛がないというわけでは、ないけれど。組成が違いすぎる。
 彼女は家を出た。学校に向かう。行きたくもないが。
 電車に乗った。相変わらず、周りの乗客から物珍しげにじろじろと見られる。いつも通学しているのだから、いいかげんにやめてほしい。少しは見慣れて無視してほしい。硝子のくせに、人間のふりか? いつもそんな風に、視線に問われているような気がする。
 以前、車内で痴漢にあったことがある。後ろ姿と制服だけで、よくわからなかったのだろう。ぶしつけに触られて、振り返って睨みつけたら、悲鳴をあげられた。のっぺらぼうに会ったような、甲高い悲鳴。屈辱だった。そんなに怖いなら、死ねと思った。叫びたいのはこちらの方だ。いつだって、叫びたかった。硝子が砕けるほど耳障りな叫び声で。
 学校に着く。廊下を歩く。人間、人間、人間。顔を持った、肉を持った、透けていない人間たち。すれ違う。後ろから、小声でなされる会話。聞こえてしまった。
「いつ見ても不気味ね」
 教室に着く。顔だけは見知っているクラスメイトたち。内面は知るよしもないクラスメイトたち。いまだに、名前をよく覚えられない。覚える気もない。どうせ、違う存在だ。そんなところも、反感を買うのだろう。彼女は疎まれていた。
 孤立は幼年のころからおなじみだ。特に、学校という集落に放り込まれた後は。
「この子は普通の子とは違います。傷つきやすい硝子なのです。だから、みんなでいたわって、優しくしてあげましょうね」
 おせっかいな教師はそう言った。小学生と呼ばれる人間の子どもたちは、にこにこ笑って、はい、とお行儀よく返事した。そうしてにこにこ笑ったまま、彼女を裏でいじめにいじめた。
 数人の男の子たちから無理やり服を脱がされて、囃し立てられた。
「本当だ、身体中が透明だ。おまえ、本当にニンゲンかよ?」
 おまえたちがニンゲンなら、わたしはニンゲンになんかなりたくないと、こころの中で毒づいたところで、虚しさが晴れるわけでもない。
 金槌で指を叩き割られたこともある。教師に後で叱られたその女の子は、本人の言によれば、「硝子なら、割れるのかな、と思って」、確かめてみたくなったそうだ。お望みどおり、指はしっかりとひび割れた。しかし数日経つと、新品の指のようにぴかぴかに復元した。「よかったじゃん」と加害者の女の子は笑った。その笑いが、いまも忘れられない。あんな笑顔を浮かべるくらいなら、わたしは顔なんていらなかった。
 成長すると、あからさまな悪意にさらされることは、以前より少なくなったとはいえるかもしれない。高校生ともなれば、嫌悪を隠す作法も少しは上達する。人権教育の賜物だろうか。単にませただけか。きらきら光るものに引き寄せられる、子どもっぽい好奇の習性を、恥じるようになるのかもしれない。もっとも、遠巻きにこちらを探るような視線は、絶えることはない。学校という空間は、彼女にとっては、相変わらず真っ白な無人島だ。他者は、曇りをもたらすノイズでしかない。学校を出たところで、同じようなものではあったが。
 授業が始まる。学校で唯一、気が休まる時間だ。勉強が好きなわけではないが、野放しの時間よりはマシだった。授業が始まりさえすれば、奔放な生徒たちも、厩舎につながれた家畜に似るしかない。硝子の彼女もまた、熱心な奴隷のように、せっせとノートに書き取りをする。
 なぜ自分はここにいるのだろう、と、ペンを動かす透明な手をとめて、彼女はふと思う。答えはない。物心ついた時から、幾度となく問うてきたが、答えなどなかった。なぜ自分は透明な硝子なのだろう、と問うても、同じことだ。ただ、二つ目の疑問は、普通の人間に生まれさえすれば、抱かずに済んだ余計な疑問だ。自分の存在自体が、余計に思えた。
 チャイムが鳴った。授業は終わった。また、気詰まりな時間がやってくる。ぬるい煉獄のような。

「あなたって、とても綺麗ね」
 保健委員の少女は、まじまじとこちらを見つめて、そんな賛辞を口にした。硝子の彼女は、戸惑うばかりだった。
 体育の授業中にぼうっとしていた彼女は、グラウンドで急に走り出した時に、足をくじいてしまった。落としたグラスを心配するように、教師は仰々しく騒ぎ立て、保健室へ連れていくように命じた。ひとりで大丈夫です、と断ったが、保健委員の少女がついてきた。肩を貸すよ、と再三申し入れてきたので、仕方なく応じた。連れ立って歩き、校舎へ向かった。
 養護教諭の姿は見えなかった。保健室のベッドに勝手に横になり、彼女は眼を閉じた。大したケガでもないが、サボれるのはありがたい。体育は嫌いだった。座学とは違い、まったく好きになれない授業だからだ。回し車で走りつづけるハムスターのような、みじめな気分だけが残る。とはいえ、口実をもうけて見学していると、「硝子にも生理ってあるのかな」とクスクス笑われたのが聞こえたので、できるだけ参加するようにはしている。
 彼女は負けず嫌いで強情だった。危ういほどに。
 ふと眼を開けると、保健委員はまだベッドの近くに立っていた。そうして、彼女と眼を合わせながら、意味のわからない妄言を口走ったのだ。
「……キレイ? わたしが?」
「うん、とても綺麗。どっかのお姫様みたい。うらましいな――」
 彼女は保健委員の言葉に、一瞬、虚をつかれた。それから、ふつふつと怒りがこみ上げてきた。彼女は身を起こした。
「……バカにしたいなら、好きなだけバカにすればいいけれど。他のところでやって。ケガしたときくらい、ゆっくり休ませてよ」
 彼女は保健委員の少女を睨みながら、棘のある言葉を放った。また外敵か、とうんざりしたような口ぶりで。
「ううん、違うのよ。気にさわったなら、ごめんなさい。でも本当に、いつもあなたを見るたびに思うのよ。なんていうかな――。凜としてる、っていうかさ。透明で、澄んでいて、綺麗だな、って。硝子だから、ってわけじゃなくて、さ。それとは関係ないの。まあ、あたしなんかは、肌荒れとかニキビもあるし、硝子もいいな、とか、正直、思ったりもするんだけど、さ」
 保健委員は彼女の怒りに気づいているのかいないのか、アハハ、などと笑いながら、なおも腹立たしい言葉を吐きつづける。硝子もいいな――だと? 硝子の彼女が、いままでどれほどこの身体を憎んできたことか、どれほど粉々にしてやりたいと望んできたことか、眠れない夜に幾度吐きそうになって消えたくなったことか。
 もちろんそんなことは、彼女以外にはだれも知らない。だれにも伝わらない――。
「……だったら、代わってみろよ。硝子の身体で、生まれてみろよ。顔のないまま、生きてみろよ。なにも……なにも、知らないくせに――」
 うめくように、ぼそぼそと、彼女はつぶやいた。泣きたいくらいの気持ちだった。小学生のとき以来、人前で泣いたことなどないが。彼女をなぶる人間たちは、彼女が泣き出すとますます増長し、つけあがった。だから、二度と泣かないと決めたのだ。たとえ殺されようとも、弱みを見せたくなかった。彼女は世界を絶対に許さないし、彼女をなぶった他人を許さない。だから、泣かないと決めたのだ。
「――ごめんなさい。怒らせちゃったみたいね。あたし、どうも空気が読めないっていうか、無神経なところがあるみたいで、さ。自分ではよくわからないんだけど。でも、あなたが綺麗だと思うのは、本当なの。って、それがむかつく、っていま言われたのよね? ごめんなさい、ホント、ごめんなさい。でもね……って、ダメだ、また言いそうになっちゃった、ごめんね」
 保健委員は、ひとりで焦ったり謝ったりあたふたしながら、なおも勝手にしゃべり続けている。とはいえ、本人の言うとおり、悪意はないようだった。彼女は毒気を抜かれてしまった。
「……まあいいけど。もう、戻ったら? わたしは大丈夫だから。どうせ、大したケガじゃないし」
「うーん、ここにいちゃダメ? あたし、体育って苦手なんだ。付き添いってことなら、サボってもオッケーかなー、って。だから、ついてきたってのもあるんだけどね。せっかく先生もいないことだし、さ。お話しでもして、時間つぶそうよ」
 彼女の返事も待たずに、保健委員は椅子をベッドの傍らに持ってきて座った。そうだ、せっかくだし、と思い出したようにつぶやき、また立ち上がって、保健室に置いてある冷蔵庫に向かった。
「身体動かして疲れちゃったし、お茶タイムお茶タイム。ちょうど、麦茶があるみたい。麦茶でいいよね? あたしも、麦茶好きだし」
 言って、またしても返事を待たず、二人分のコップに麦茶を注ぎ始めた。保健委員の少女は、どうも、マイペースなところがあるようだ。少しばかり、変わった人間だった。
「はい、どうぞ」
 保健委員は彼女にコップを差し出した。ありがとう、と言って、彼女はそれを受け取った。かすかに、二人の指先が触れた。
「――あれ? ちょっと、いいかな?」
 保健委員は、コップを持っていない方の手を、彼女の、これまたコップを持っていない方の手へのばし、ぎゅっ、と握った。彼女は、唐突に触れられて、ちぢこまる猫のように内心でおののいた。硝子のコップが揺れて、琥珀色の液体が震えた。
「うわっ、冷たい! すごく冷たい! えっ、大丈夫? なんか、あなたの手、すごく冷たいよ?」
 保健委員は、眼を丸くして、本気で驚いている。透明な彼女の握られた手が、保健委員の手の温もりで、白く色づいた。
「……別に、いつもこんなものだけど」
 硝子だから、と彼女はつけ加えた。
「そっか、体温低いんだ。末端冷え症ってやつ?」
 納得したように保健委員は言って、握った手を、ぱっと離した。
「でもさ、どこかで聞いたことがあるよ。身体が冷たい人は、こころが温かいんだって。ということは、あなたって、優しい人ってことだよね。あれ? でも、そうなると、あたしって、身体はけっこう温かいんだよね。ということは……」
 うーん、などと保健委員は悩み始めて、ずずっ、と麦茶をすすった。
 彼女は、保健委員の手が離れた後も、依然として落ち着かなかった。胸が高鳴ったままだった。
 保健委員は、放っておいても、ひとりでしゃべり続けていた。彼女はそれを聞きながら、そう、とうなずいたり、へえ、と相槌を打つだけだ。保健委員は、彼女の返答などお構いなしだった。会話とはいえても、対話とは呼べなかった。
 それでも、不思議と不快感はなかった。これは驚くべきことだった。彼女は、他人とのコミュニケーションに、いつも居心地の悪さしか感じたことがなかった。いつだって、彼女は人間に怯えていたし、いつだって、人間は彼女を物珍しがった。硝子の彼女は緊張で言葉少なになり、硝子ではない人間は表情のうかがえない彼女を不審がった。そこにはいつも、こわばった時間、ぎこちない時間だけが流れた。
 保健委員とは、そうはならなかった。なぜかはわからない。同じクラスでも、これまでは、ろくに話したこともなかったのに。とはいえ、ろくに話したことがないのは、他のどの人間でも同じだが。学校であれ、家庭であれ、硝子の彼女のまともな話し相手など、この世には存在しなかった。これまでは。
 やがて時も過ぎ、チャイムが鳴った。養護教諭は、けっきょく保健室に戻ってこなかった。
「あー、終わったか。最後までサボれて、ラッキーだったね。って、これじゃあ、あなたがケガしてよかったって言ってるみたいか……ごめんね」
「ううん、それは別にいいんだけど……」
 彼女は、この時間が終わるのが、少しだけ残念だった。こころ残りだった。そう思って、そう思ってしまったことに気づいて、彼女は愕然とした。
 わたしは、どうしたというのだろう。硝子でしかないわたしが。人間でしかない相手と。ほんのひととき、和やかに話したというだけで。
「あ、そうだ。それで、ものは相談なんだけど、さ。あたしさ、昼休みに、いつも一緒にご飯食べてた相手がいるんだけど。そいつ、いま入院しちゃっててさ。よかったら、今度から一緒にお昼たべない?」
 保健委員は、ついでのように、最後にそんな提案を口にした。
 硝子の彼女は、断りきれなかった。

 屋上の風は澄んでいた。さわやかで涼やかで少し寂しい。空は広々。雲は軽々。羽根に手が届きそうな真昼時。
「外で食べた方がおいしいのは、なぜだと思う?」
 隣に座る保健委員が、箸で卵焼きをつまみながらそう問う。
「さあ。なぜなの?」
「あたしも知らない」
 ぱくりと食べる、咀嚼する。呑み込んでからまた喋る。
「ひとつ言えるのは、どこで食べるかは極めて重要ってことね」
 それに、だれと一緒に食べるかも、と硝子の彼女は付け加える。口にはしなかった。言っても言わなくても同じかもしれない。保健委員は、あまり人の話を聞かないところがあるから。
 いい場所があるんだ、と初めて昼食を一緒にした日、保健委員はこの屋上へと案内してくれた。扉には鍵がかかっていたが、柱の陰にあるよくわからないスペース、その暗がりにあるよくわからない小窓から、身をよじって、なんとか外に出ることができた。保健委員も、食事を共にする相手から教わったらしい。
「ここは静かだからね。あたし、ざわざわしたところで食べるの、苦手なんだ」
 彼女にとっても、それはありがたかった。食事時かどうかに関わらず、彼女は喧噪が苦手だった。人が多い場所はすべて居心地が悪かった。疎ましい視線、耳障りな声、募る隔絶感。人が多ければ多いほど、彼女の砂漠は広がっていった。
「いつもパンなのね。飽きないの?」
 彼女が惣菜パンを鳥のように啄んでいるのを、保健委員は不思議そうに見つめる。
「あまり、食べることに興味がないから」
 その言葉どおり、彼女は食事に好みや不満を持たなかった。必要ということになっているから食べるだけ、という感覚だった。
 硝子生命体の食事風景は、好事家の興味をそそるらしい。どんなふうに嚥下して、どんなふうに消化しているのか。いかなる構造で成り立っているのか。トイレにカメラを仕掛けられそうになったこともある。そんな諸々も、彼女が食という行為を愛せない理由の一端かもしれない。胃の内容物が透けて見えないのは、不幸中の幸いだった。
 そんな彼女が、いまは昼食の時間をひたすらに待ち望んでいる。この二週間ほど、彼女はそれだけを楽しみに日々を過ごしていた。それだけが生き甲斐だった。期待に胸が躍るなんて、生まれて初めてのことだった。
「ふうん。あたしは無理だなー、毎日おなじものなんて。飽きっぽいんだよね、あたしって。ピアノもバレエも結局つづかなかったし……」
 保健委員は、今日も相変わらず小鳥のように、幸せそうにさえずりつづけている。その声に耳を傾けているだけで、彼女も幸福だった。内容なんてどうでもよかった。とはいえ、どんなにたわいのない話でも、彼女は記憶に大切に刻みつけ、後で何度も反芻した。
 恋をしている、と彼女が自覚したのはいつだったか。なぜ保健委員にこんなにも惹かれるのか。そんなことは、どうでもいいことかもしれない。考えたところで、わかるものでもなかった。
 ただ、保健委員は彼女をことさらに特別視しなかった。興味本位の質問も時おりはあったが、硝子の彼女に好奇心を抱いたというより、本当に、当座の話し相手が欲しかっただけのようだった。それは単に、ずぼらと無神経が少々ないまぜになった性格によるものかもしれないが、彼女にとっては居心地がよかった。他人の前で安らかな気持ちになれるなんて、いままで思ってもみなかった。
「あーあ、空って本当に綺麗ね」
 それまでの話題とは関係なく、保健委員が伸びをしながら、出し抜けに言った。
「青い空。白い雲。これで太陽が赤ければ、フランス国旗の完成ってとこね。でも、太陽って別に赤くは見えないよね? 絵に描くときは、クレヨンで赤く塗ったりしてたけど。緑色の信号を青って言うくらい、詐欺の匂いを感じちゃうな」
「夕日は、赤いじゃない」
「夕日? まあ、たしかにね。でもそれだと青が台無し。フランス国旗は完成しないわ。画竜点睛を欠くってやつね。ま、完成しなくても、別にいいけど、さ。そうそう、竜といえば、あたし、夕焼け雲って、血まみれの竜みたいに見えるんだよね――」
 保健委員は、彼女の返答も待たず、ひとりで気のおもむくまましゃべりつづけている。のどかだった。保健委員に言われると、たしかに空は綺麗に思えた。いつでもそれは頭上にあったのに、いま、初めて見つけたという気さえした。
 青い空。白い雲。それらを背景に、二羽の鳥が寄り添うように飛んでいた。つがいだろうか。
 比翼の鳥、連理の枝。そんな故事成語を、彼女はなんとはなしに思い浮かべた。それはたしか、もともとは中国の詩の言葉だ。仲睦まじいふたりを表す、羽根のついた言葉。
 ――わたしと彼女も、つがいになれたらな。
 硝子の少女は、空と鳥を眼に映しながら、想い人の声を耳で聴きながら、激しい恋情を胸に抱きながら、そんな儚い白日夢を夢みていた。

「最近、なんだか楽しそうね。いいことでもあった?」
 晩の食卓で母親にそう言われて、彼女は意外の感があった。いいことは、あった。楽しいという感情は、あった。しかし、それを近親に見抜かれるとは、思っていなかった。
 ――わたしの表情が読めるというのだろうか。硝子でもないこの人に? 顔のないわたしの表情が……。
 彼女と母親の距離は、遠かった。冷たく扱われたわけではない。特異な体質を蔑まれたわけでもない。それでも、ふたりのあいだには、薄い氷が常に張られていた。
 彼女は、母親からの愛を実感できなかった。母親も、娘への愛に自信を持てなかった。表情のない透明な表情を、徴候のない透明な感情を、読みとれるほどでは、あったというのに。
 だから、彼女はいつもどおり、言葉少なに答えるだけだった。
「別に」
 そして、母娘の食卓には、いつもどおりの気づまりな沈黙。箸と食器のたてる音が、やけに耳についた。

「――え?」
 寝耳に水だった。時がひび割れる音がした。
「最後って……?」
「うん。入院してたやつが、月曜からやっと戻ってくるみたいで、さ。そうなると、また一緒にご飯を食べるってことになるだろうしね。ありがとね、いままで付き合ってもらって、さ。あたし、自分勝手にべらべらしゃべってばかりで、呆れたでしょ? ごめんね、今日までの辛抱だから」
 昼休み、学校の屋上、青い空の下。保健委員は、唐突に終わりを告げた。いともあっさりとしたものだった。
「呆れるなんて……そんな……」
 彼女は、平静を装おうとした。が、無理だった。声が、震えた。胸が、裂けるようだった。頭の奥が熱くなった。耳鳴りがした。
 保健委員は、そんな彼女の様子に気づかなかった。動揺したところで、硝子の彼女に表情はない。保健委員は、母親とは違った。そうだ、明らかなことだった。保健委員は、硝子の彼女にさして関心があるわけではなかった。とりとめのない話を聞いてくれる相手が欲しかっただけだ。そんなことは、最初からわかっていたことだ。彼女の異質性を気にかけないほどに。保健委員はマイペースな人間なのだから。
「あたし、人ごみは嫌いなくせに、ひとりで食べるのは退屈で、さ。どうしても、話し相手がいるんだよね。だから、すごく助かった。いろいろ我慢させちゃったんじゃない? あなたは、黙って食事する方が好きだろうから。前にも言ったけど、あたしって、どっか無神経なところがあるらしいから、さ。こんど退院してくるやつにも、散々そんなこと言われたんだよね」
 一緒に昼食を食べないとしても、会えなくなってしまうわけではない。それでも、昼休みの屋上以外では、彼女と保健委員は特に親しく言葉を交わすわけでもなかった。朝や放課後は、保健委員は別のクラスメイトと和やかに過ごしていた。彼女には、そこに近づく勇気はなかった。変になれなれしくして、保健委員にまで白い目が向けられるのは嫌だった。だから、昼休みをのぞけば、彼女は相変わらずひとりで、相変わらず孤立していた。まるで、他人と楽しく過ごした時間など、夢でしかなかったというように。
 ――そんな夢すらも、わたしには許されないのか。
「……嫌だ」
「え?」
「これで最後なんて、嫌だ」
 駄々っ子のように、彼女は言ってしまった。どうしようもなかった。
 保健委員は、眉根を寄せた。その困ったような視線が、嫌だった。そんな眼を向けてほしくなかった。わたしの呟きなんて意に介さず、しゃべりつづけてほしかった。でも、保健委員はぴたりと黙って、言葉のない風が鳴っていた。
 言うな、言うな、言うな。気持ち悪い。気持ち悪い存在のわたしが、気持ち悪いことを言おうとしている。困らせるな。大切な相手を、困らせるな。言うな、言うな、言うな。口にするな。
「わたし、あなたのことが好き」
 言ってしまった。どうしようもなかった。堰が破れていた。
 保健委員は、明らかに戸惑っていた。
「……もちろん、あたしも好きよ。こんなに話せて、ありがたかった。そんな相手ってなかなかいないのよ。あたし、気さくとかフランクとか、そんなふうに思われてるかもしれないけど、実はそうとも言い切れなくて――」
「違うの」
 彼女は初めて、保健委員の話を遮った。
「違うの――そういう意味じゃ、ないの。わたし、本当に、あなたが好きなの」
 じっ、と彼女は顔のない顔で、保健委員を見つめた。睨むようだった。
 保健委員は、相手の想いを少しばかりは察したようだった。糸の切れた人形のような表情が浮かんだ。
「ありがとう」
 そう言って、保健委員は残念そうに口許を歪めた。
「でも、あたしは、

男の人が好きなのよ」
 拒絶された。面と向かってはっきりと。


 彼女は、生まれた時から普通ではなかった。身体が透けているという、その事実だけで、普通ではあり得なかった。その事実を、保健委員は気にせずにいてくれた。ただ、同性を好きになってしまったという、それだけの些細な事実によって、彼女は、保健委員にとっても、普通ではなくなってしまった。
「そう」
 彼女の外面は、氷像のように冷たく固まった。彼女の内面では、いま、なにかが砕けようとしていた。
「ごめんね」
 保健委員は、屋上から立ち去った。彼女は後に残って、チャイムが鳴るまでその場にじっとしていた。

 月曜日。昼休み。彼女は、そっと階段をのぼり、小窓から屋上をのぞいてみた。
 保健委員が座っていた。いつものように、弁当を箸でつついていた。その隣に、彼女はもういない。代わりにいるのは、男だった。
 つがいの鳥のように、仲睦まじく、ふたりは笑っていた。
「…………」
 彼女はゆっくりと歩き去った。パンを食べる気にはなれなかった。なにをする気にもなれなかった。

 火曜日。空気の抜けた風船のように彼女は過ごした。
 水曜日。皮膚を剥がれた鹿のように彼女は過ごした。
 木曜日。音の出ないラジオのように彼女は過ごした。
 保健委員は、教室や廊下で彼女とすれ違っても、目を合わせようとしなかった。声をかけようともしなかった。要するに、以前と同じだった。それまで通りだった。ひとときの夢が、消えたというだけだ。
 毎晩、眠れなかった。夜が終わらず、頭がおかしくなりそうだった。ろくに食べてもいないのに、吐き気がおさまらなかった。胸を刺されたわけでもないのに、痛みが芯に響いてえぐれた。夜は長かった。異常なまでに長かった。光など、どこにも見えなかった。

 不眠の夜が明け、十三日の金曜日。俗説によれば、神の子が磔刑に処されたとも言われる、剣呑な日。
 放課後だった。彼女は、屋上に立っていた。保健委員はいない。だれもいない。彼女のそれまでの世界そのままに、ひとりで立っていた。
 夕暮れだった。景色が赤かった。空は赤く、雲も赤かった。フランス国旗も、血まみれの竜も見えなかった。ただ赤かった。
 彼女は泣いていた。泣くものかと、自分自身に祈るように誓ったはずの彼女が、いま、脆さをさらけ出すように泣いていた。
 硝子の表面を滴がつたい、透明な感情の液体と、透明な玻璃状の肉体が、夕日に照らされ、プリズムのような輝きを放っていた。
 それが、彼女の痛みの色だった。
 孤独を生涯の友としてきた彼女が、初めて他人を切実に求め、初めて狂おしく恋をし、初めて痛ましく破綻した。クラスメイトのすべてから忌み嫌われ、しつこくなぶられたときも、彼女は平気だった。彼女は他人が心底嫌いだったから。他人はすべて敵だったから。痛みは外側にとどまったから。
 すべて敵だと断じる性急さは、短絡的で余裕のない、彼女なりの防衛機制だった。自身を守護する外殻だった。自身を隔離する防壁だった。そんなふうにしか、生きられなかった。
 いま、痛みは内側から彼女を苛んだ。敵とはどうしても思えない、近くに寄り添いたいと願った、唯一の相手。その相手からも、拒まれてしまったという現実。幸福だった記憶が浮かぶたびに、痛みは鋭さを増していった。埋められない喪失感が棘となって、彼女を襲った。そんなことくらいで、と嗤われるような脆弱さだとしても、彼女には耐えられなかった。
 ――わたしの一番目の罪は、この世に生まれたことだ。二番目の罪は、人並みに他人を求めたことだ。三番目の罪は、これからやろうとしていることだ。
 彼女は赤い空をあおぎ、羽根を持つ者が過ぎ去っていくのを眺めた。かつて憧れた、空を横切るつがいの記憶。
 夕暮れだった。鳥は(ねぐら)に還る時間だった。

 遺骸は、粉々に砕けていた。しおれたように制服が地に伏し、周辺にかけらが散らばっていた。血なまぐさくなくて助かる、と片づけながらだれかが言った。この高さでここまで砕けるのはおかしい、とだれかが言った。そもそも硝子が生きていたのがおかしい、とだれかが笑った。
 物珍しい投身者は、無関係な他人にもことしげく話題にされ、そして、すぐに忘れられた。所詮は他人の死だからだ。
 だが、疑問は残る。彼女は本当に死んだのだろうか。
 硝子が生きるのが可能ならば、砕けたかけらがもういちど人になる可能性も、ゼロとは言いきれないだろう。人間は、たとえこころが砕けても、立ち直れないほど粉々になっても、それでも生きようとする、奇妙な生物だ。たとえ死を願い、死に焦がれ、死を求めても、なにかのはずみで生きつづけてしまう、いいかげんでずぼらな、愉快な生物だ。砕けて粉々になったはずのこころが、つぎはぎだらけでもまた生き始め、もういちど恋をし、もういちど笑うこともある、不屈の生物だ。死んでしまったはずの彼女にも、夢をみられない道理はない。
 硝子がふたたび人になるならば。だれかがそれを伝えなければ。
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