第3話 忘れ物

文字数 18,601文字


「隼人、ちょっといい」
 内村隼人がトイレから出てきた時、妙に険しい顔をした池田詩織に声をかけられた。
「いいけど、何?」
「大谷君のことなんだけど」
「光良のこと?」
 隼人は勝手に自分のことで声をかけられたと思ったので、肩透かしを食らったような感じになった。
「うん」
「何かあった?」
 同期入社の中で隼人と大谷光良と池田詩織の3人は特に仲が良かった。なので、入社当時は3人でよく飲みに行っていたが、それぞれ違う部署に配属になったことで一緒に飲む機会はすっかり減っていた。
「何があったかわからないから相談しようと思ったのよ」
「ごめん。ちょっと意味がわからないんだけど」
 詩織には肝心なことを省いてしまう悪い癖がある。
「あっ、そうよね。実は昨日珍しく仕事で大谷君に会ったのよ」
「うん。それで?」
「何かへんだったの」
「何かへん?」
「だから、何かへんなの。仕事の話はちゃんと通じるんだけど、合間に見せる表情がすごく暗いの」
「ふ~ん。で、本人に訊いたの」
「もちろん、訊いたわよ」
「そうしたら?」
「別にって。でも気になったから、大谷君と同じ課の秋山さんに訊いてみたのよ」
 秋山春奈は自分たちの1期先輩だ。
「うん」
「そうしたら、2週間前くらいからおかしいんだって。でも、秋山さんにも理由はわからないって。今のところ仕事には支障はないみたいだからいいんだけど、あなたたち仲がいいんだから何とかしてあげてよって逆に言われちゃったのよ。でも、私だけだと心細いし、それに私、女だし」
 『女だし』は、ちょっと意味がわかりかねたが無視することにした。
「そうだったんだ。わかった。じゃあ、俺が話してみるけど、きっとその場では何も言わないと思う。だから、何とか誘いだして久しぶりに3人で飲みに行かないか。飲ませれば理由を話すと思うんだよね。しばらく3人で飲んでないし、いい機会だとも思うし」
「そうね。でも、乗ってくるかな?」
「そこは俺に任せて」
「わかった。じゃあ、お願い」


 詩織に話したように光良を飲みに誘ってみたが、暖簾に腕押し状態でまったく反応がなかった。それでも諦めるわけにもいかず、どうしてもお前に相談したいことがあるからと言ったらしぶしぶ誘いに乗った。
「しかし、3人で飲むのほんと久しぶりだな」
 そう言いながら光良の顔を見る。一見変わった様子はないように見せるが、明らかにり生気がなかった。
「そうだな」
 光良がぶっきらぼうに答える。
 ただ、光良のぶっきらぼうは昔からで、変わったことではなかった。
 まずはビールで乾杯して宴?はスタートした。その後も光良は確かにいつもより口数は少ないものの、隼人には彼の身に何かあったようには見えなかった。
「隼人の相談って何だよ」
 雑談をしている最中、光良がしびれを切らしたように言い放った。
 自分たちに対してというよりも、何かに対して怒っているような感じだった。
 そういえば、隼人はそういう理由で光良をこの飲み会に誘ったことを思い出した。
「ああ、それね。実は…」
 あらかじめ用意してあった割と誰にでも起こりがちな仕事上の悩みを口にした。思いの外、光良が真剣に耳を傾け、真面目にアドバイスをしてくれたので申し訳なく思ってしまう。一応の結論が出たところで、再び雑談に戻る。光良の顔からまた生気がなくなった。
「大谷君、何かあった? というか、あったよね」
 隼人はもう少し様子を見てから問いかけようと思っていたが、詩織が我慢できなくなったようで、いきなり直球勝負に出た。詩織にはもともとそういうところがと詩織のあった。
「何だよ、いきなり」
 光良は詩織の顔を見ずに目の前の料理に箸を伸ばしながら答えた。
 それが詩織には逃げているように思えたのだろう。
「大谷君、ちゃんと私の顔を見て」
 やむを得ず顔を上げた光良と詩織の視線が絡んだ。
「あのさあ、わかるんだから。私たちお互いのことを知り尽くしているの知っているでしょう。だから、隠したってわかるの。さっきから大谷君、ずっとおかしいよ」
 詩織が飲みかけたビールのコップを置いて、昔一緒によく飲んでいた時のような姉御口調で言った。
 そう。
 当然3人とも同じ歳なのだが、なぜか詩織は姉的な存在だった。
「池田の言う通りだよ」
 隼人が詩織の言葉に乗る形で言葉を被せた。
 すると光良は隼人と詩織の顔をじっと見た後、うつむいてぼそっと呟いた。
「彼女と別れた」
 光良がまるでため息をつくように言った。
 それを聞いて、隼人と詩織は思わず顔を見合わせた。落ち込み具合からして、二人は家族の問題とか本人の病気とか、まったく別の原因を想定していた。そういう意味で、二人は安堵の思いで」顔を見合わせた。もちろん、光良にとっては辛い思いでいっぱいなのだろうが。
 一般に、女性は砂を吐く貝のように恋愛を重ねていけるが、男は恋愛に対する耐性があまりない。
 自分にも同じような経験があるからわかる。
 詩織が光良の肩にそっと手を置いて言うと、光良はボロボロと涙をこぼした。
 これだけ涙を流すということは、光良にとってよほど大きな恋愛だったのだろう。
 最近、恋というものから遠ざかっている隼人には羨ましくもあった。
「泣きたいだけ泣けよ光良」
 隼人には、そんなありきたりの慰め方しかできなかった。
「大谷君、大丈夫よ。君ひとり分の幸せぐらい残っているから」
 そう言った詩織の目にも涙が溜まっていた。
「やっぱり同期っていいもんだな」
 光良が声を振り絞るように言った。
 胸の内に温かいものがひたひたと溢れてきた。
 

 住宅街を抜けると、街の灯りが見えて来た。
 次第に光の密度が濃くなり、遠くからざわめきが聞こえてくる。
 酔いつぶれた光良を自宅まで送り届けた後、隼人と詩織は駅へと戻る道を歩いていた。
「ねえ、大谷君、大丈夫かな」
 詩織のまるく優しい声だった。
「う~ん。今日全部思いを吐き出したからだいぶ楽になったと思う。だから大丈夫じゃない」
「そうかな。それならいいけど」
 詩織のしなやかな髪の流れが鼓動を打つ。
「詩織」
 なぜか緊張して声がくぐもってしまった。
「何?」
「飲み直さないか」
 思い切って言ってみた。
 光良は気づいていなかったが、実は隼人と詩織はかつて付き合っていた。だから、隼人にとっては、こうして二人で並んで歩いていることすら不思議な感覚だった。
 なので、意識し過ぎなのかもしれないが、二人きりで飲むことを提案するのは躊躇いがあったのだ。
 でも、このまま帰りたくなかった。
 もっと詩織と一緒にいたかった。
「いいよ。飲み足りないし」
 早々に酔いつぶれてしまった光良を介抱し、自宅まで送り届ける必要があったため二人はあまり飲んでいなかった。
「そうだよね」
 駅の反対側にある居酒屋に入った。
「こうして二人きりで飲むの久しぶりよね」
 詩織は何のわだかまりもなく言っているように思えた。いや、きっとそうなのだろう。自分と違って。
 別れてからもう2年半くらい経つから当然と言えば当然なのだけど…。
「そうだね。こんなこと言うのはへんだけど、元気でやってる?」
 まっすぐ顔を見る勇気がなくて、皿に醤油を注ぎながら何気なさを装って言った。
 何でだろう。
 妙に照れくさくなってしまったのだ。
「うふふ。元気よ」
 隼人の様子がおかしかったのか、詩織は笑っている。
「そう。良かった。じゃあ、とりあえず注文しようか」
 そう言って、二つあったメニューの一つを詩織のほうへずらして言った。
「う~ん。任せる」
 付き合っている頃から詩織は注文を隼人に任せていた。詩織の好みはわかっているので、一通り注文する。
 飲み直しは詩織の好きな冷酒で始める。
 しばらくはお互いが今取り組んでいる仕事の話をした。それが差しさわりがなかったから。
「その後どうなの?」
 いきなり詩織のほうから仕掛けてきた。
「何が?」
 もちろん、質問の意味はわかったが、とぼけて見る。
「何がって、わかるでしょう。新しい恋をしいているのかっていうことよ」
「いや」
 本当は今付き合っている女性がいる。だけど、『いる』とは言いたくなかった。
 その女性とは友人の紹介で出会い、付き合うようになった。大病をしたせいで気弱になった母親を早く安心させたいという思いが自分をそういう行動に導いたのかもしれない。なので、本当に好きなのかわかっていなかった。たぶん、別れることになるだろう。
「そう…」
 自分の返事を詩織はどう受け止めたのだろう。
「そういう詩織のほうはどうなの? いるんじゃないの、新しい彼氏?」
「いないわよ。小さい恋愛はあったけど、すぐに終わった。だから、今はいない」
 口の中に入れたばかりの湯豆腐をほぐほぐしながら答えた。淡々としているように見えたけれど、それは詩織が熱い豆腐を食べるのに集中していたせいだろうか。
「そうなんだ…」
 なんだか気まずい空気が流れた。
 隼人はとりあえずお猪口の底に残った酒を飲み干す。
「私、大谷君の気持ちすごくよくわかるな」
 詩織が、正体を無くすほど酔いつぶれた光良の姿を思い浮かべるように言った。
「それはもちろん俺もよくわかるよ」
「そう?」
 詩織は持っていた箸を置いて、首を少し傾けながら言った。
 隼人は詩織の言葉に疑問符がついていたのがが気になった。
「光良がどんな相手とどんな別れ方をしたのかはわからないけれど、とにかく光良がものすごく好きな人だったことはわかる」
「そうね」
 詩織の声がだんだん硬くなってきている。
 なぜだろう?
「そんな人と別れるのって、言葉では言い表すことができないくらい辛いよね」
 詩織の心の変化がわからないまま、隼人は光良の気持ちを代弁したが、ひどくおざなりになってしまった。
「うん…」
 詩織が急に口を閉じてしまった。
 空気が再び冷たくなる。
 隼人は何を言えばいいのかわからない。
「あのさあ、私たちなんで別れたんだろうね」
 詩織が言葉を絞り出すように言った。
 きっと、ずっと胸の中にしまっていただろう思いを形にした。
 もうすっかり気持ちを切り替えていると思っていただけに、詩織の言葉は隼人の胸に刺さった。
「そうだね。何でだろうね」
 お互いに好き過ぎたというのが答えなのかもしれないけれど、それを言うのは躊躇われた。
「お互い、あんなに好きだったのにね」
 詩織が遠くを見つめるような目つきで言った。隼人とは違い、詩織のほうは今でもまっすぐだった。
「うん」
 もちろん、付き合っていればそれなりにいろんなことは起きる。でも、好きだという気持ちは変わらなかったように思う。なのに、結局、別れを自分のほうから切り出した。どちらかが浮気をしたとか、嫌いになったとかいった特別な理由があったわけではなかった。ただ、このまま惰性で付き合っていても、お互いの成長には繋がらないような気がした。その時は…。
「うんって、別れを切り出したのは隼人のほうだからね」
「うん。そうだけど。あの時、自分もそのほうがいいと思うって詩織言ったよね」
「確かに言ったよ。けど…」
「けど?」
 その先を聞きたいような、聞きたくないような、聞いてはいけないような、複雑な気持ちになった。
「いや、もうやめよう、この話。終わったことだし」
 思い出が別の形を持ってしまうことを避けるかのように、自ら断ち切った。
「何だよ。詩織のほうから言い出したんじゃないか」
「だって、隼人の顔を見てたら色々思い出しちゃったのよ」
「そうか。なんかごめん」
「謝らないでよね。謝られたら傷つくのわかんないの?」
 また『ごめん』と言いそうになる。今、詩織の心の中にどのような思いがあるのか、隼人にはつかみかねていた。
「わかってるって」
「それならなんで謝ったの? まっいいや。そんなことより、今年の社員旅行のことだけどさあ」
 詩織が無理矢理話題を変えてくれたことで、同じ職場で働く社員同士に戻った。それから1時間ほど飲んで別れた。
「じゃあね」
 そう言って、詩織は隼人と反対側のホームに向かって歩いて行った。付き合っていた頃のように振り返ってくれるかと思って彼女の後ろ姿を見守ったが、振り返ってくれることはなかった。
 店で詩織と向かい合って座った時から、本当は言いたかった『俺たちやり直さないか』という言葉は結局言えずじまいだった。今付き合っている女性と別れてでも、もう一度詩織とやり直したいという思いが沸き上がったけれど、自分にはそれを口にする勇気がなかった。
 1年後、詩織は自分には何も告げずに会社を辞めた。同期の大神という男からそれを聞かされて驚いたが、職場の同僚にも理由は伝えていなかったようで、その後詩織がどのように暮らしているのかはわからなかった。
 隼人のほうも、定まらない気持ちのまま当時付き合っていた女性とは案の定うまくいかず、別れることになった。
 

 数年後、隼人は結婚相談所の紹介で知り合った村島茜と付き合い始めた。もちろん、結婚相談所の紹介で出会ったからといって結婚までたどり着かず別れるカップルもいるだろう。しかし、隼人と茜の付き合いは至極順調だった。
 結婚が前提の付き合いには、胸が締め付けられるような感情のトキメキはないけれど、ゴールに向けて一緒に歩いている中で、ゆっくりと穏やかに愛を育んでいた。村島茜は洗練された都会的美人で、意思の強さと繊細さを併せ持つ申し分のない女性だったけれど、いつも控え目で隼人をたててくれた。
「しかし、お前はラッキーだよな」
 焼酎を飲みながら、大学時代の長澤純一が羨ましそうに言う。先日、茜を長澤に紹介したのだ。
「そう思うか」
「ああ。あんな理知的な美人で優しくて心配りができて、その上スタイルも抜群な女性なんてめったにいないぜ。少なくとも、俺は出会ったことがない」
 長澤は独身を謳歌していて、恋愛経験も豊富だ。そんな長澤にそこまで言われ、隼人も嬉しかった。
「そう…。職場が女性とおじさんしかいなくて、若い男性との接点がなかったらしいんだ」
 隼人自身も茜のような女性が結婚相談所に登録するというのが不思議だったので、付き合い始めた時に最初に訊いた。
「そうかもしれないけど、外に出れば機会はいっぱいあるだろうに」
 そう言われると、茜のほうに何か問題があるようで不快な気分になる。
「彼女、内向的な性格であまり外に出なかったみたいなんだ。で、友達が見かねて結婚相談所への登録を勧めたんだって」
 なんか弁解をさせられているようで納得がいかない。
「そうか…」
「何だよ。何か言いたいことがあるなら言えよ」
 思わず語気が強くなる。
「おいおい、怒るなよ。なんか羨ましくて、つい余計なことを言ってしまった。ずまん」「まあ、いいけど…」
「ともかく、いい人に出会ったよ。あんな人に出会えるんなら、俺も結婚相談所に登録しようかな」
 そうは言っても、長澤にその気はない。なにせ、自由恋愛至上主義の男だから。
「真面目に結婚を考えるのならお勧めするよ。ただ、俺たちの出会いは偶然なんだ。俺が登録の手続きに行ったその日に彼女も登録に来ていて、カウンセラーの人が、今登録されたばまりのこの女性とあなたは相性がピッタリだと思うんですけど、会ってみませんかっていうことで、その日のうちに紹介してもらったんだよ」
「へえー、本当にラッキーだったな。ということは彼女は他の男性と一人も会っていないんだな」
「そういうことになるね」
「もし他の男性と会っていれば、そっちを選んだかもしれないな」
 確かにそういうことになるが、長澤がいつになくおかしなことを言うので苛つく。
「いい加減にしてくれないか」
「ごめん、ごめん。今日の俺、へんだよな」
「自覚してるならいいけど」
「ちょっと焼いてるんだ」
「えっ、お前が?」
「俺だって妬くことはあるさ」
「あっ、そう。お前に妬かれるとは驚きだ。ちなみに、彼女にとっても俺は理想的なタイプだったっていうから、もし他の男と会っていたとしても、俺を選んだと思う」
「おっとおー、オノロケか」
「そんなもんだ」
「心底羨ましい。正式に結婚が決まったらまた連絡くれよ。盛大にお祝いするから」
「ありがとう」
 両親もだいぶ年をとった。なので、、隼人もなるべく早く結婚して、とりわけ母親を安心させたいと思っていた。
 だが、後になって思うと、茜との結婚を急いだもう一つの理由は、心の奥底でずっと消えていなかった詩織への思いを断ち切るためであったと言えるかもしれない。
茜が27歳の誕生日を迎えたその日に正式にプロポーズをした。受けてくれるとは確信していたけれど、やはりドキドキした。
「僕と結婚してください」
 いろいろ考えたけれど、自分らしく率直に、シンプルに、でも思いは人一倍込めて言った。
 そんな隼人の目を真正面から受け止めて、茜もシンプルに答えてくれた。
「ありがとう。嬉しい」
 自分の心が風のように透き通るのを感じた。
「OKということだよね」
 不安で、押さなくてもいい念を押した。
「もちろん」
 絶対に幸せになると、隼人は心に誓った。


「うちの両親すごく喜んでたよ」
 茜の横顔を見ながら言った。
 茜の両親に挨拶に行った翌週に茜を隼人の両親に会わせた。
「そう。それなら良かったわ」
 振り向いた茜の顔が上気しているのがわかった。
 特に母親は喜んでいた。よほど嬉しかったのか、茜の両手を握って『ありがとう』と何度も繰り返していた。隼人が詩織のことで一時かなり悩んでいたのを知っていたからだろうか。
 きれいに澄み渡った秋空が暖かな光で満ちるようになった頃
 結婚に向けての準備段階に入るに当たって二人は同棲することにした。とかく、この時期はさまざまな思いが入り混じり不安に襲われたり摩擦が起きやすいという話を友人たちから聞いた茜が、傍にいることで気持ちを確かめながら進めたいと隼人に話したことで実現したものだ。
「これから忙しくなるね」
 結婚式までにやることは多い。できるだけ一緒にやりたいとは思うが、どうしても茜の負担が大きくなってしまう。
「そうね。でも大丈夫よ。私、楽しみだもの」
「そう。でも、無理をしないでね。何かあったら遠慮なく何でも言ってね。できる限り対応するから」
「ありがとう。あなたには式場選びとか大事な時だけ一緒に行動してもらえればと思ってる」
「わかった」
 言葉通り、茜は楽しそうに準備をしていた。そんな茜の姿を見ていて、隼人も幸せな気持ちになれた。
 結婚の準備も大方予定通り進む中、結婚指輪を作るため二人で銀座の宝石店に向かった。
 タクシーの外を見ると、マンションが灰色の波のように坂を埋め尽くしていた。
 隣に座る茜の横顔の現実離れした美しさが私を少しだけ不安にさせる。
「やっとここまできたね」
 不安をかき消すために、そんな言葉を口にした。
「そうね」
「結婚の準備、ほとんど茜にやってもらうことになってしまって、すまない」
「ううん。あなたには仕事があるんだから当然よ」
「そうだけど、それでも茜の負担は大きかったと思う。でも、仕事のほうはあと少しで落ち着くから、そうしたら僕も茜をサポートできるようになると思う」
「ありがとう。期待しないで待ってるわ」
「少しは期待してよ」
「ふふふ。そうね」
「それに、結婚したら家事は二人で分担してやろうね。こう見えて、俺、家事得意だから」
「そうなの。初めて聞いた」
「初めて言ったからね」
「おもしろい」
 こんなことを話していたら、タクシーは店のすぐ傍まで来ていた。
「あっ、着いたよ」
 銀座の中でも高級店として知られた店だ。
 一生のことだから奮発したのだ。
「えっ、ここ?」
 高級店の前に立ち、茜は驚いていた。
「そうだよ」
 茜の腕をとってタクシーを降り、店に入る。事前に希望を伝えてあったので、担当者のほうでいくつかの指輪の候補を用意してくれいた。早速茜が指に嵌めて眺める。
「すてき」
「似合うよ」
 その時隼人の携帯が震えた。画面に表示された番号を見て隼人は戸惑い、そして驚いた。なぜなら、それは詩織の母親の携帯番号だったからだ。詩織との付き合いは長かったので、自然に母親とも番号交換をしていたのだ。でも、そのことすらもう忘れていたが…。
「茜、悪い。ちょっと電話してくる」
「うん。わかった」
 茜は隼人の表情から仕事の電話と思ったようだ。
 店の外に出て携帯を耳に当てる。
「はい」
「内村隼人さんですよね」
 一語一語を慎重に言葉にしているようだ。
「はい、そうですが」
「私、池田詩織の母親の池田真子です」
 母親から改めて詩織の名を告げられ、遠い日の影絵が動く。
「はい。番号でわかりました。その節はいろいろお世話になりました」
「いえ」
 なんだろう?
 母親の口調は硬かった。
「すっかりご無沙汰しております。で、何か?」
 あくまで隼人は丁寧に答える。
「突然の電話、すみません」
「いえ」
 窓越しに茜の姿が見える。茜もこちらが気になるのか、時々目を向けてくる。安心させるために笑顔を作り、軽く手を挙げる。それを見て茜も安心したのか、店員の方に顔を戻した。
「実は詩織が交通事故に会いまして意識不明の状態なんです」
 一瞬、隼人は心の行き場を失う。
 想像もしていなかったことを突然告げられた衝撃は大きかった。
 まるで、暗がりの奥の一点を見てしまったようだ。
 会社を辞めた後の詩織のことはほとんど情報がなかったけれど、きっとどこかで幸せに暮らしていると思っていたし、そう願ってもいたのだ。
「そう、なんですか…」
 他に言うべき言葉が思い浮かばなかった。
「来ていただけませんか?」
 母親の単刀直入で、切実な声が隼人の耳を突き刺した。
 澱のように沈んでいた感情が粟立った。
「どこへですか?」
「病院です」
「……」
 隼人の中に、すぐにでも駆けつけたい気持ちがなかったわけではない。
 しかし、それはせっかくつかみかけている確かな幸せを喪いかねない…。
 窓の向こうには笑顔で店員と話している茜の横顔が見える。
 やはり、自分は行ってはいけない。
「すみません。私、今別の女性と付き合っていて、結婚間近なんです。ですから。申し訳ないですけど、そちらに伺うことはできません。本当にすみません」
 きつく目をつむり、唇の端を歪めるように吊り上げながら、でも丁寧に言った。
 事実を隠すことなく話して了解してもらうしかなかったから。
「そうですか…。わかりました」
 低く唸るような声だった。その声の中には落胆と同時に隼人を非難するニュアンスが含まれているように感じたのは気のせいか。自分は非難される筋合いはないと思ったが、詩織のことで頭がいっぱいの今の母親には、隼人の置かれた立場など考える余裕もないのだと自分を納得させた。
「申し訳ありません」
 複雑な気持ちを抱えたまま隼人は声を振り絞るように言った。それでも母親はなかなか電話を切らない。
「すみません。いいですか?」
 改めてこちらの意思を伝えた。
「あっ、はい」
「では、失礼します」
 そう早口で言って隼人は携帯の電話を切った。
 これしか対処の方法はなかった。
 そう自分に言い聞かせる。
 だが、電話を切った後も、隼人の心の中では動揺が消えなかった。
 いったん大きく息を吸い、無理矢理笑顔を作り、なんとか気持ちを切り換えて店内に戻る。
「大丈夫?」
 隼人の顔を見て茜が言う。動揺を悟られないようにしたつもりだったが、茜は異変を感じてしまったようだ。
「ああ、大丈夫だよ。そんなことより、指輪どう?」
「すごくいい。気に入ったわ。隼人も嵌めて見て」
「そうだね」
 店員に嵌めてもらった指輪は輝いていた。
「いいじゃない。すてきよ」
「そう。良かった」
 店を出て並んで歩き始めたところで茜が隼人に向き直った。
「何かあった?」
 改めて訊かれてしまった。茜は店の中ではなんでもないふりをしていただけで、本当は気になっていたのだ。
「いや、別に…」
 どうしても歯切れが悪くなってしまう。
「嘘。どう見ても何かあった顔してるわよ」
「そう…」
「話して。私たち隠しごとはしないって約束したよね」
「そうだね。じゃあ、喫茶店に入ろうか。そこで話すよ」
 さすがに立ち話で話す内容ではなかった。こんな日に話したい内容ではなかったけれど、隠しておくことは無理だと判断した。
 幸い、5分ほど歩いたところに喫茶店を見つけた。できるだけ奥の席を選んで座る。
「こんな日に心配させてしまって、ごめん」
「ううん。で?」
「さっきの電話は元カノのお母さんからだった」
 茜にとっても想定外のことだったのだろう。隼人の口元を見つめたまま、すぐには言葉を発しなかった。
 入り口のドアが開き、数人の若い女の子たちが賑やかに入ってきた。
「そうだったんだ。それで、何の用だったの?」
 茜が何気なさを装って言った。
「元カノが交通事故に会って意識不明になったらしい。で、僕に病院に来てほしいと頼まれた。でも、僕には今結婚間近な彼女がいるから行けないって断った。だから、もう心配しないで」
 茜がどんな気持ちで隼人の言葉を受け取ったかはわからない。けれど、茜は静かに応えた。
「そう。断ってくれてありがとう。でも、あなたの顔を見てると大丈夫なのかなって」
 自分の中にある複雑な気持ちは極力抑えているつもりだったが…。
「大丈夫だから」
 自分自身に対する苛立ちのせいで言葉が強くなってしまった。まずいと思ったが、もう遅かった。
「わかったわ」
 茜が唇を噛みしめながら言った。茜自身も複雑な感情なのだろう。
「ごめん。僕のせいで本当なら幸せな日を台無しにしてしまった。もう忘れて。家に戻ってお祝いしよう」
 なんとか気持ちを立て直して、精一杯の笑顔を作ってみた。
「そうね。そうよね」
 茜も頑張って笑顔を作ってくれた。
 詩織のことが隼人の頭の中から完全に消えたわけではなかったけれど、もうこれ以上のことは起こらないと思った。
 そのはずだった。


 翌日の夜、残業をしていた隼人の携帯に再び詩織の母親から電話があった。暗澹たる気持ちにんる。もちろん、出ないこともできたが、元々気のいい隼人には無理だった。急いで廊下に出る。
「はい」
「すみません。詩織の母です」
「わかっています」
 言葉に拒絶のニュアンスを入れた。
 母親もそれを感じたに違いないが、それよりも自分の伝えたいことを優先した。
「詩織が…」
 敢えてあらゆる感情を封じ込めたような声だった。
 嫌な予感がした。
 もしかして詩織は亡くなったのか?
「詩織がどうかしましたか?」
 もう詩織と呼び捨てにできる人間ではないのだけど、思わずそう言っていた。
「詩織が何度も何度もあなたの名前を呟いているんです」
 ふいに得体の知れない感情の波に襲われる。
 なぜなのか鼻の奥がかすかに熱くなる。
「そうですか…」
 かろうじてそう答えた。
「お願いです。詩織に会いに来てくれませんか」
 控え目だけど、隼人の心の一番柔らかな部分に触れるような言い方だった。
 心のブランコが激しく揺れたけど、自分の今の立場を見失うことはなかった。
「お母さん、昨日も言いましたけど、私は行けないんです。申し訳ありません」
 母親の気持ちを思うと辛かったが、断腸の思いで断った。
「どうしても、駄目ですか」
 母親は簡単には引き下がらなかった。
 『どうしても』という部分に母親の強いメッセージが込められているように思った。一瞬、隼人も迷った。でも、耐えた。
「本当にごめんなさい。無理です」
「わかりました」
 母親の冷えた声を聞きながら電話を切った。隼人の胸の中には依然として何かが燻り続けていた。そんな自分に戸惑ってもいた。
 だが、本来ならこの時点で、万が一また電話がかかってくることも想定して着信拒否の設定にしておくべきだった。
 しかし、隼人はそれをしなかった。
 なぜ?
 なぜかは自分でもわからない。
 案の定、翌日も母親から電話があり、同じことを繰り返された。
「お母さんの気持ちはわかります。私も心苦しいのですけど、同じ答えをするしかないんです。どうか私の立場をご理解ください」
「冷たいんですね」
隼人の胸の内に爪を立てるように言葉を吐き捨てた。
 水を吸った綿のように全身が重くなった。
 いつまでも母親に期待を抱かせることはかえって残酷だと気づき、隼人は辛い言葉を言うことで終わりにしようと考えた。
「ごめんなさい、お母さん。言いにくいんですけど、もう二度と電話をかけてこないでいただけますか」
 電話の向こうで母親が息をのむのがわかったような気がする。
「そうですか。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。失礼します」
 かぼそい悲鳴のようだった。
 誤って砂を飲み込んでしまったような気持ち悪さだけが残った。
 重い気持ちのまま家に帰ったが何もやる気がしなかった。食欲も湧かなかったこともあり、ただぼおっとしていたところ、突然茜がやってきた。いつもなら必ず事前に連絡をくれるのに、その日に限って何もなかった。
「突然来ちゃってごめんなさい」
「いいけど…」
 まだ心の整理がついていない隼人は言葉を続けられない。
 何とか薄い笑顔だけは作ったけれど…。
「最近隼人元気がなかったじゃない。だから元気づけてあげようと思って、サプライズで来てみたの」
 実は今が一番しんどいとは言えなかった。
「そう…。ありがとう」
「でも、今日は一段と落ち込んでない?」
 茜が顔を覗き込むようにして言う。
「そんなことないよ」
 そうは答えたが、隼人の耳朶には先ほど詩織の母親に最後に言われた言葉が残っていた。。
「ウソ。明らかにおかしいでしょう。また何かあったのね?」
 断定的に言われた。
 夜のまだ浅い時間がひどく頼りない。
 自分の部屋のはずなのに、自分の部屋にいる感じがしない。
「うん」
 もはや隠し切れないと思った。
「話して」
「わかった」
 今日の昼間の出来事を話したが、茜に驚いた様子はなかった。きっとだいたいの予想はついていたのだろう。
「そう…」
 いつの間にか、窓の外では雨が静かに灌いでいた。
 茜は眉根を寄せたまま何かを考えていた。おそらくそれは数秒のことだったに違いないが、隼人にとってはとてつもなく長く感じた。何か言わねばと隼人が思った時、茜がこっちを向いた。
「行っていいよ」
 寂しげな光を宿してはいてけれど、覚悟を決めた強い目だった。もちろん、茜にとっても重い決断だったに違いない。
 だが、隼人にとっては予想外の言葉だった。だから、果たして自分は茜のこの言葉を真に受けていいのか判断がつきかねた。
「でも…」
 でも、の後どんな言葉を紡げばいいかがわからない。
「今から行ってくれば」
 そうでもしないと自分の決心が揺らぐとでもいうように、茜は間髪を入れずに言い切った。
「今から?」
 まだ隼人は戸惑っている。
「うん」
 茜の顔には、傷ついた野獣のような悲痛な覚悟があるように見えた。
「いいの?」
 自分の感情を読み取られないよう、なるべく平坦に言ったつもりだけど、言葉はひどく浮いていた。
 この時、自分がどんな顔をしたか覚えていないが、考えるのもおぞましい。
「いいよ」
 心を放り出すようにそう言いいながら無理矢理見せた茜の笑顔は、冬の光のように透明で弱々しかった。
「わかった」
 本当は、ありがとうと言うべきところかもしれないけれど、それは言ってはいけない言葉だった。
 それくらいは隼人にも自覚はあった。
「でも、必ず帰って来てね。一緒に夜ご飯たべよう」
 今度は、いつもの茜のように目の奥にゆるぎのない自信を浮かべながら言った。
 そう言えば夕食を食べていなかった。
「そうだね」
「私、ここで待っているから」
 茜の深い優しさに自分は応えなければならない…。
「うん」
 ここでも、『ありがとう』と続けそうになって思いとどまる。


 雨がそぼ降る中、隼人は茜を自分の部屋に残し、急いで病院に向かう。母親への連絡は駅に着いてからでいい。それほどに気持ちは急いていた。
 電車は案外空いていて席に座ることができた。このところの疲れのせいで隼人はすぐに眠りに落ちてしまった。
 眠りの中で隼人は、病院に着いた後に実際に起こった出来事を『夢』という形で見ていた。
 『池田詩織』と書かれた病室の名札を見た瞬間、詩織と過ごした懐かしい日々が頭に浮かび、隼人の胸は張り裂けそうだった。
 ドアを小さくノックすると、中から母親の返事が聞こえた。
「どうぞ」
 そっとドアを開けると、すぐにベッドに横たわる詩織の姿が目に入った。顔自体は何の傷跡も見られず、綺麗な顔をしていたので、とりあえず安心する。
 隼人の姿を確認した母親が、パイプ椅子からゆるりと立ち上がって隼人の元へ歩いてきた。
「来ていただいてありがとうございます」
 母親が温度のない微笑を浮かべながら感謝の意を示した。
 久しぶりに見る母親の顔は、看護疲れのせいか想像より老けたように見える。
「いえ。何度もお電話いただいていたのに来られなくて申し訳ありませんでした」
「無理を言ったのは私のほうですから。とにかく、詩織に会ってやっていただけますか」
 母親の後についてベッドに横たわる詩織の元へ向かう。当然ながら、眠ったままの詩織は隼人を見ても何の反応も示さない。
 もともと色白だった詩織だが、今や蒼白と言えた。浅い呼吸のために口がかすかに動くことで、自分の『生』を表わしているように見えた。
「詩織、隼人さんが来てくれたわよ。良かったわね」
 そういう母親の声は濡れていた。
「遅くなってごめん」
 心の内を探って言葉を選び、隼人は端正な顔立ちをした人形のような詩織に向かって、呟くように言った。
「手を握ってあげてください」
 母親に促され、布団を少し持ち上げて詩織の手に触れた。その瞬間、それまで堪えていた感情が崩壊し、隼人は嗚咽を漏らした。
 どれくらい経ったであろうか。
 いつの間にか母親は病室の外に出ていて、隼人と詩織は二人きりになっていた。
「詩織、僕が守ってあげれば良かったんだよね」
 今の隼人にとっては、詩織のことしか考えられなくなっていた。
 しかし、もちろん詩織は何も答えてくれない。
「詩織、詩織、詩織」
 手を握りながら何度も何度も叫んだ。さっきあれほど涙を流したばかりなのに、止めどなく涙が流れた。その時だった、詩織の口が微かに開いた。思わず顔を近づける。
「はやと、はやと」
 詩織の声が隼人の脳裏を刺しつらぬいた。
 母親からずっと電話で聞かされていた通り、詩織は自分の名を呟いた。
 自分が置いてきた時間が蘇り、熱情の炎が拭きあがった。
「詩織。僕だよ。ちゃんと来たよ」
 反応がないのはわかっていたけれど、詩織の手を自分の両手で包み込みながら語りかけた。
「きっと詩織はわかっていると思いますよ」
 いつの間にか母親が隼人の後ろに立っていた。
「そうでしょうか」
「ええ。詩織はずっとあなたのことを待っていたのですから。内村さん、ちょっといいですか」
 母親が病室のドアを指さした。話があるということなのだろう。
「はい」
 母親の後について病室を出て、自動販売機のあるたまり場まで移動した。
「何にしますか」
 母親が自動販売機を指さす。
「アイスコーヒーで」
 ベンチに並んで座り、隼人はアイスコーヒー、母親はジュースを口にする。幸い、周りには誰もいなかった。
「今日は本当にありがとうございます。改めてお礼申し上げます」
 深々と頭を下げる母親はなぜか痛々しかった。
「いえ。それより詩織さんの状態はどうなのでしょうか」
「そのことをお話するつもりでここへ来ました」
「はい」
「あの子は何とか一命を取り留めることができましたけど、ご覧の通り、昏睡状態が続いています。この先どうなるかもわからないと先生から聞かされています」
「そうですか…」
 病室で詩織の姿を見た時から想像していたことだった。
「それに、もし意識を取り戻したとしても、身体に障害が残るそうなんです。それが不憫で。いっそこのまま…」
 母親が言葉を詰まらせた。さすがにその先は言葉にできなかったのだろう。
「お母さん、そんなことは絶対に考えないでください」
 だが、隼人もそれ以上の言葉は言えなかった。
 しばらく二人とも無言になった。
 隼人は母親に気づかれないように腕時計に目を落とした。
 隼人もようやく現実に戻っていた。
 すでに午後9時になろうとしていた。茜には自宅に帰って一緒に夕食を食べる約束をしていた。今茜がどんな気持ちで自分のことを待っているかと思うと、それも辛かった。
 でも…
 詩織の姿を見、詩織の手に触れ、詩織の『はやと、はやと』という呟きを聞いてしまった今、隼人はこのまま戻れないという思いに駈られていた。
 だが、とにかく連絡だけはしなくては。
「お母さん、ちょっと電話してきていいですか」
 母親に茜とのやりとりを聞かれたくなかったので病院の外に出て電話をかける。
「はい」
 聞いたことのないような無機質な声だった。
「僕だけど」
 そんなことわざわざ言わなくても茜にはわかるのだけど…。
「わかっているけど、遅いじゃない。今どこ?」
 茜はまだ自分が戻ると思っている。
「まだ病院。というか、今日は帰れない」
「どういうこと?」
 普段怒るということがほとんどない茜の声が怒りで震えていた。
「必ず帰ってくるって約束したよね」
 心がチクリと痛む。
「うん。もちろん、そのつもりだったんだけど、彼女が可愛そうで…」
 そこまで話して、不覚にも隼人は感極まり泣いてしまった。茜に対して、あまりにもひどい仕打ちだと今ならわかるが…。
 それでも、茜は隼人が落ち着くまでじっと待っていてくれた。いや、本当は呆れていたのかもしれない。
「ちゃんと話して」
 少し冷静になった茜に言われる。
「わかった」
 詩織の状態を話した上で、今日だけは彼女の傍に居させてほしいと頼んだ。ただし、明日には絶対に帰ると約束した。
「わかった。今日はいいよ。でも、今の約束は二度目だからね。もし、明日戻って来なかったら、私たちの関係も終わるということは忘れないでね」
「わかった」
 翌日の日曜日の夕方に隼人は自宅に戻った。
 茜の中でも思うことはいっぱいあっただろうけど、茜は明るく隼人を迎えてくれた。
「大丈夫? なんかたった1日で痩せちゃったみたいだけど」
「そんなことはないよ。でもほんと、いろいろごめん」
「まあ、いいわよ。こうして帰って来てくれたんだから。さあ、夕食を一緒に食べましょう。隼人の好きなチーズ入りハンバーグを作ったから」
 食後のゆったりした時間の中で、隼人は茜との関係が今まで通りにいくか不安になった。感情の糸をもつれさせた責任は自分にあるとわかっていたが…。
 しかし、隼人はその後も性懲り泣く茜には内緒で時々病院に行った。そんな中でも、茜との結婚の準備は着々と進んでいた。
 だが、隼人が最初に病院に行った日からほぼ1カ月後に奇跡が起きた。
 詩織が目を覚ましたのだ。
 母親からの電話でそのことを聞いた隼人は何とか理由を作って早退し、病院に駆けつけた。だが、そこにはもう一つの軌跡が待っていた。詩織は記憶障害を起こしていたが、それが故に、なんと隼人と付き合っていた中で二人が一番幸せな時間軸で目が覚めたのだった。病室で隼人を待っていた詩織はまさに当時のままの詩織だった。病室に入って行った隼人の姿を見つけた詩織は開口一番こう言った。
「仕事大丈夫なの?」
 自分のことではなく、隼人の仕事のことを心配した。常に自分のことより相手のことを考える詩織らしい一面だった。
 隼人はたまらずベッドに駆け寄り詩織に抱きついた。
「痛いよ」
 そう言いながらも詩織は、寝たきり状態だったため細くなってしまった右腕を隼人の身体に巻き付けるようにして受け入れてくれた。
 この瞬間に隼人は茜と別れて詩織とやり直す決意をした。
 半身に障害が残り、普通の生活はできない状態になってしまった詩織を見捨てることなどできなかった。病室の外で待っていた母親にそのことを伝えた後、茜に別れを告げるために会うことにした。実はその日が結婚指輪が出来上がる日だった。そんな、本来なら幸せな日に別れを切り出すのは辛かった。もちろん、自分よりも茜のほうが何倍も、いや何十倍も辛く、苦しく、悲しい思いをすることはわかっていた。だからこそ、自分の気持ちをすべてありのままに話した。隼人の話を全部聞き終わった茜は、目に涙を浮かべつつも、案外すっきりした顔でこう言った。
「結局、私は詩織さんに勝てなかったのよね」
 茜の乾いた声が一筋の風のように通り過ぎた。
 茜はまぶしいくらい綺麗だった。
 隼人には答えようがなかった。
 そうであるとも言えるし、そうでないとも言えたから。
 こんな自分のせいで茜を翻弄させてしまったことについては、ただただ申し訳ない思いでいっぱいだった。でも、『ごめん』という言葉は言えなかった。いや、言ってはならない言葉だった。
 後は慰謝料の問題も含め弁護士に対応を頼んだ。
 こうして詩織との新たな生活をスタートさせた隼人だったが、結論から言えばうまくいかなかった。半身に障害が残り、普通の生活ができなくなった女性と付き合うということは『見捨てることができない』といったような一時的な感情の高まりや浅はかな思いでは無理だった。要するに覚悟が足りなかったのだ。次第に気持ちのズレが起こり、わずか2年後には別れた。結果的に自分は詩織を二度傷つけたことになる。
 奇妙な磁気に二人は狂わされた。
 恋愛恐怖症状態になった隼人だったが、親の強い勧めもあって、5年後に見合い結婚をした。だが。それもうまくいかず、3年後には離婚した。二人の間に子供ができなかったことはむしろ良かったと思っている。以後はずっと一人で過ごした。
 風の便りによれば、詩織は精神的に歪んでしまい、家族も手をつけられなくなって、施設に入ったらしい。


 ガタンという音とともに目を覚まし、隼人は自分が電車の中にいることに気づく。
 車内アナウンスで詩織の入院する病院がある駅の二つ手前の駅で目を覚ましたことがわかった。自分は『夢』の中で、茜ではなく詩織を選んだ後の人生の結末までを見てきた。ただし、これは『夢』ではなく事実だ。だが、今自分はこの事実を変えるためにここにいる。この場所に戻った。その機会を与えられた。走り過ぎる車外の景色を見て、それを実感した。だから、このまま詩織の待つ病院に駆けつけてはならない。すぐに電車を降り、ちょうど止まっていた反対方向行きの電車に飛び乗った。
 部屋に入って行った隼人のことを茜は不思議そうな顔で迎えた。
「えっ、早くない? ちゃんと病院に行ったの?」
「いや。行くのを止めた」
 感情の端切れを心深く沈めて言った。
「そう…。私としては嬉しいけど、本当にそれでいいの?」
 茜は多少戸惑いを含んだやわらかな微笑みを浮かべていた。
 ごめん。
 こんな優しい茜を自分は裏切ろうとしていた。
「うん。電車の中でいろいろ考えたけど、僕にとって一番大切な人は茜だっていうことに、改めて気づいたんだよ。だから戻って来た。ちょっとだけふらついちゃった僕のこと、許してくれる」
「もちろんよ、隼人。私にとってはずっと変わらずあなたが一番大切な人よ」
 確かな皮膚感で幸せを感じられた。
「ありがとう。心から嬉しいよ」
「大好きよ、隼人」
 そう言って茜は、雨の中を走って帰って来た隼人に飛びついてきた。
「あっ、雨の匂いがする」
 茜の嬉しそうな声が隼人の顔あたりでする。
 二人は予定通り結婚し、二人の子供にも恵まれ、幸せな人生を歩むことができた。もちろん、それなりの苦労もあったけれど、それはどの家庭にも起こりえる程度のものだった。78歳になった茜が癌で自分より先に旅立ってしまった時は悲しかったが、それも運命と受け止めた。それから3年後、二人の子供と3人の孫に見守られながら、84歳になった自分も茜の後を追うように天に召された。
 あの時、茜の元に戻ったおかげで自分は本当に幸せな人生を送ることができた。
 身体がふわっと浮いたようなような気がした瞬間、目が開いた。自分がいる場所がどこなのか、すぐにはわからなかったが、目の前の大きなスクリーンを見て気づいた。
「戻って来られましたね」
 高坂と名乗った中年の男性が現れ、自分の身に起こったすべてのことを理解した。
「はい」
「とっても幸せそうな顔をしていらっしゃいますよ」
「ええ。やり直したおかげで幸せな人生になりました」
「それは良かったです。じゃあ、気をつけてお帰りください」
 高坂の笑顔に見送られて銀行の外に出た。
 夕日が歩道を照らす中を最寄りの駅へと向かう。なんだかずっと夢心地が続いていて、頼りない気分だった。自宅のある駅までは電車でおよそ40分。
 駅を降り、歩き始めたが、もう少し余韻に浸りたかったので、最近駅前にできたおしゃれな喫茶店に入ることにした。1時間ほど過ごし外に出ると、すでに陽は傾き始めていた。
 明日からまた平凡な日常生活が始まる。
 そう。
 こっちで自分は徳島淳平という名の、29歳でまだ独身の平凡なサラリーマンなのだ。
 繁華街を抜け、住宅街に入ると、とたんに道幅が狭くなる。その割に車どおりが多いので、辺りを見ながらゆっくりと自宅を目指す。
 一台の車がこちらに向かって走ってくるのが見えた。
 ピンク色の可愛らしい軽自動車に思わず微笑む。その車が自分に近づいてきた時、何とはなしに運転手の顔を見て隼人は恐怖のあまり固まってしまった。
 運転席に座っていたのが、虚ろな目をした詩織だったからだ。
 全身の毛が逆立った。
 一瞬詩織と目が合ったような気がするが、事実か定かではない。
 それまでゆっくり走っていたその車が突然猛スピードで自分を目掛けて突進してきていた。もはや避けようがなかった。あっという間に車が大きな塊となって目の前に迫り、全身に強い衝撃が走った。
 薄れていく意識の中で、その車が当時1回だけ乗せてもらったことがある詩織の車だったことに今更ながら気づく。
「気をつけてお帰りください」という高坂の声が遠くのほうで聞こえた。
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