第2話 居場所

文字数 17,297文字


「大竹さんって宝くじ買う人ですか?」
 隣に座る近藤大輔が興味津々という顔で話しかけてきた。
 大竹吾郎は一応課長代理という役職に就いているが、みんな親しみを込めて「大竹さん」と名前で呼んでくる。それは、吾郎にとっても嬉しいことであった。
「買わないね。どうせ当たらないし」
 昼食後コーヒーを飲みながらテーブルを囲んで部下や後輩社員たちと雑談するのが習慣になっていた。自分で言うのもなんだが、なぜか、みんなに慕われている。同僚たちは外食からまだ帰って来ていない。
「それ、へんですよ。買わなけりゃ当たるも当たらないもないじゃないですか、なあ松本」 
 近藤が斜め向かいに座る松本健に相槌を求めた。
「そうですよ。大竹さんだっていつも言ってるじゃないですか。まずはやってみろって」
「それは仕事の話ね」
「まあ、大竹さんに宝くじは似合わないかな。なにせ、ボランチティアが趣味という人だから」
 松本が半ば呆れたという顔をしながら言った。
「別に趣味というわけではないけどね」
 一応そう反論したが、趣味と言っても過言ではなかった。自分たち夫婦には子供が恵まれなかった。そういうこともあって、夫婦で児童擁護施設の子供たちに対するボランティア活動を始めたのだが、今では趣味のようなものになっているし、生き甲斐にもなっていた。
「それにしても、大竹さんって奥さんと仲がいいですよね」
 何度か自宅に遊びに来ている吉村健がにやけた顔で言う。
 子供がいない夫婦だからというわけではなく、付き合っている時から今に至るまで二人はずっとラブラブだ。夫婦二人で、平凡だけど穏やかで心豊かな暮らしができている。
「まあね」
「でも、大竹さん。宝くじって、買えば万が一という楽しみがあるじゃないですか。だから、僕は今回も買いました」
 近藤が宝くじの話に戻し、ポケットから宝くじ券を出して見せた。
「僕も買いましたよ」
 松本の隣の今中もそう言った。
「今中君も買ってるんだ。そうかあ。でも、やっぱり確率の低いことにお金を使うというのは俺の生活にはないなあ」
「その意見に賛成です」
 皆の中で一番若い金田斗真だけが大竹の考え方に賛意を示したのは意外だったが、他はみんな宝くじを買っていた。
「大竹さんも金田も、たまには夢を見るのもいいもんですよ」
 なぜか近藤が盛んに宝くじを押してくる。
「夢ねえ」
 大竹吾郎は今の生活に十分満足していた。決して贅沢できるような暮らしぶりではなかったけれど、夫婦仲はいいし、仕事は楽しいし、職場の同僚たちとの関係も良く、部下や後輩社員たちにも慕われている。給料はもう少し高いほうがありがたいけれど、会社の方針とか戦略も優れていて社員としても誇らしいと思っている。
「実は来年あたり彼女との結婚を考えているですよ、僕」
 松本が突然告白した。松本に付き合っている彼女がいることは知っていたが…。
「そうか。それは良かったな」
 自分のことのように嬉しい。
「でも、現実問題、結婚ってお金かかるじゃないですか」
 松本は何を言い出すのだ?
 大竹は思わず、その疑問を口にした。
「おい、まさか、結婚費用を宝くじで賄おうと思っているんじゃないだろうな」
「もちろん、それはないですよ。それなりに貯金もしていますし。でも、もし宝くじが当たれば式だってより豪華にできるし、新婚旅行だって奮発できるじゃないですか」
 松本の言ってることはわかる。だが…。
「確かにそれはそうだな」
「そうでしょう。大竹さんだって、なんか夢があるでしょう」
「夢ねえ」
 夫婦で無駄遣いをせずに頑張ったおかげで、すでに妻が念願にしていたマイホームは手に入れていた。だから、他に改めて夢など考えたことがなかった。
 吾郎自身、それほど自分の人生に貪欲ではないからだ。
 だが、松本の言葉で吾郎の心の中に僅かながら風が吹いたような気がした。
 ちょうどそのタイミングで昼休み終了のチャイムが鳴ったため会話はそこで終わった。
 その日も無事に仕事が終わり、いつものように帰宅のために駅に向かう。今日は同僚の亀梨と一緒だ。
「じゃあまた明日」
 乗る路線の違う亀梨と別れ、一人改札に向かって歩いていると、ふと宝くじ売り場が目に入った。いつもなら素通りするところだが、昼休みに近藤たちと交わした会話が頭を過った。気がついたら買うつもりなどなかった宝くじを20枚買ってしまっていた。
 買った後に妻の顔が過る。
 自分の小遣いの中から出したのだからと自己弁護している自分がおかしくて、一人苦笑してしまう。
「ただいま」
 玄関に入った吾郎は、奥に向かって声をかける。
 だが、返事はない。
 パートに出ている妻がこの日は遅番だったことを思い出す。
 自分の部屋に入ると、ます最初に鞄から宝くじを出して机の奥に押し込んだ。別に悪いことをしているわけでもなかったが、妻には見られたくなかった。一応、抽選日だけは頭に入れておく。
 宝くじのことなどすっかり頭から外れていたが、二週間後の昼休み時間に近藤が放った一言で思い出すこととなった。
「宝くじ、またはずれちゃいましたよ」
 さして悲観している風でもなく軽く言った。この瞬間、吾郎は今日が先日買った宝くじの抽選日だったことを思い出した。
「そう。残念だったね」
 そう答えたものの、急にソワソワした。
「結局、大竹さんは今回も買わなかったんですよね」
「決まってるだろう」
 買ってしまったことを指摘されたようで口調がきつくなる。
「なんで怒るんですか」
 近藤が首を傾げながら言ったが、周りにいた全員も怪訝そうだった。
「ごめん、ごめん」
「へんですよ、大竹さん。何かありましたか?」
「いや、すまん。何もないよ。ほんと、何もないって」
 慌てて否定したが、そんな自分がひどくカッコ悪かった。
「ならいいですけど」
その日は一目散に家に帰り、とるものもとりあえず机の引き出しを開け、奥から宝くじを取り出した。慌ただしくネットを開き抽選の確認をする。
 これまで宝くじなんて無縁な生活を送ってきた自分が、なぜこんなに焦っているのか、自分でもわからなかった。
 でも、一枚一枚確認していくうちに、近藤が言っていたように気持ちが高ぶってくるのがわかった。『どうせ当たらない』とは思いながら、どこかで当たっていてほしいと願っている。そんな自分が新鮮だった。
 買った20枚のうち、19枚まで確認した時点では6等300円の当選が1枚あっただけ。やっぱり現実はこんなもの。そう思いかけた最後の1枚に奇跡は起こった。なんと1等に当選していた。自分の見間違いかと、何度も何度も照合したが間違いなかった。
 思ってもいなかった1等の当選に、吾郎はただただ驚いていた。
 当たって見て吾郎は1等の賞品は何だったか気になった。この国の宝くじは『現金』は2等以下に限られていた。つまり、1等は現金ではないのだ。改めて宝くじの裏面を見ると、1等は『夢を叶える権利』となっている。
 『夢を叶える権利』って、何?


銀行の地下の部屋に通されて、高坂と名乗る中年の男性から1等の内容の説明を受けた瞬間、思い出したくもなかった前世の自分の人生が頭の中に浮かんだ。封印していた無残な思い出のいくつかが影絵のように目の前に見える。わずか1分前まで、前世のことなど1ミリたりとも頭を過ったことなどなかったというのにである。
 地下の、この何とも不思議な空間に通された時から眠りと目覚めの境目にある海を漂っているような感覚に襲われていたが、その正体はこれだったのだ。
「ということで、やり直したいことを一つ選んでください」
 いかにも事務的に高坂はそう続けた。
「一つですか?」
 自分の声が自分でないような気がする。
 水を吸った綿のように全身が重かった。
「そうです」
「あのお、前世の人生のすべてをやり直すことはできないのですか」
 もしやり直すことができるというのであれば、すべてをやり直したい。それほど前世の自分の人生は悲惨で残酷だった。
「残念ながらそれは神を冒涜することになるので、できません。それに、前世があったからこそ、今世のあなたがあるんです」
 輪廻転生という言葉が頭に浮かんだ。あんな悲惨な人生にも意味はあったというのだろうか?
 さっきからずっと頭の中で鈍い音が鳴り続けている。
「そうなんですね。わかりました。それにしても、選ぶのが難しいです」
 本音だった。
 あまりにもいろいろあった。
 暗がりの奥の一点を見つめてみても選べなかった。
「これまでにもそういう方はいらっしゃいました。今日のこの場所では、すべての時間があなただけのために用意されています。ですから、遠慮なくたっぷり時間をかけて考えた上でお決めください。私どもは結論が出るまでずっとお待ちしております」
「そうですか。わかりました。では、よく考えさせてもらいます」


 天気のいい日に、家の裏にあるお気に入りの高台から見上げた真っ青な空は、遮る物が何一つなく果てしなく広がっていて、それを眺めている自分の将来も限りなく明るく晴れやかなものであるに違いないと二宮郁也は思っていた。
 そう。
 前世の自分は二宮郁也という名前だった。
 小学校2年生の自分はそんな子だった。
 父親の経営する事業が成功していたことで経済的に恵まれていたことが背景にあったことは間違いない。当時の同級生の自分に対する印象は、明るく元気で、何事にも前向きなクラスの人気者ということになるだろう。
 だが、そんな幸せな生活がそのまま続くと思っていたのは郁也だけだった。実は郁也の知らないところで家庭内ではあちこちにひびが入り始めていた。
 順風満帆だと思っていた父親の会社の経営はすでに傾いていて、一家の生活にも暗い影を落とし始めていた。幸せなんて、いとも簡単に零れ落ちてしまうものらしい。
 人間何かあった時に本性が出ると言われるが、父親の場合、もともとは弱い人間だったのか、現実にちゃんと向き合うことができなかった。思考が内向きになって正しい判断ができなくなり、経営はさらに悪化に向かっていた。
 ちょうどその頃だ。
 郁也が後にトラウマとなる出来事を経験したのは。
 土曜日の午後、友達の家に遊びに行っていた郁也が家に帰ると、リビングのドアが半開きになっているのが見えた。それが不思議で、奥に向かって声をかけるのも忘れて玄関にあがり、リビングに向かった。その開いたドアから郁也が見てしまったのは、あまりに衝撃的な光景だった。
 父親がまるでサンドバックのように無言で母親のことを叩き続けていたのだ。部屋の中からは、その鈍い音だけが聞こえてきた。相当痛いはずなのに、母親は意思を持っていない物体かのように無抵抗でされるままになっていた。その異常さに、郁也は恐怖でただ固まってしまっていた。なので、自分のことに気づいた父親が近づいてきても1歩も動けなかった。
「2階に行ってなさい」
 父親がまったく感情を伴わない声で言った。静かに死の闇に下りていく時のような冷たい目をしていたことだけは覚えている。あの時、自分は胸の中にもうひとつの心臓を持つことで忘れようと試みたが駄目だった。
 その日を境に、父親の母親に対する暴力は郁也の前でも平然と行われるようになった。母親に何か気に入らないことがあると、その瞬間に怒りのスイッチが入り、暴力が始まる。郁也はそれが嫌で嫌でたまらなくて2階の自分の部屋まで駆け上がり、ベッドの中で耳を塞いでいた。
 自分の性格が歪んでしまった元凶は父親にあると思っている。
 結局、両親は離婚した。
 母親に引き取られた郁也は母親と共に築30年以上はあろうかと思われる古いアパートの6畳一間で新しい生活をスタートさせることになった。倒産した会社の社長である父親からは一銭の慰謝料も支払われなかったからである。
 母親は家計を支えるために、すぐにパートの仕事を見つけ働きに出たが、生活は以前の豊かなものから貧しいものに一変した。それでも、いや、それだからこそ母親は自分のことは一切構わず郁也の望みにだけはでき得る限り応えようとした。
 子供に不憫な思いをさせたくないということもあっただろうし、郁也を巻き込んでしまったという自責の念も含まれていたのかもしれない。
 だが、その母親の優しさに郁也は甘えてしまった。
 母親がいくら頑張っても貧しさは隠しきれず、郁也の学校生活のいろいろな場面で現れてしまった。給食費の未払い、郁也の着る洋服が有名ブランド物からスーパーの安売りのものへ、など。結果、あんなに明るく元気な少年だった郁也は、どんどん暗くなり、無口で近寄りがたい子になり、切れやすい子になり、昼休みを一人で過ごす子になった。
 郁也は郁也なりにストレスが溜まっていた。


 学校の帰り道、近くの公園で一人遊んで家に帰った。
 玄関を開けると、仕事に行っているはずの母親の靴があった。その頃には2DKの部屋に移り住んでいた。母親が懸命に働いたおかげで、古いアパートながらも二部屋ある住まいに引っ越すことができたのだ。それもこれも、思春期を迎える郁也に部屋を与えたいという母親の思いだった。
 何となく違和感を感じて、そおっとキッチンに入ると、部屋の隅で椅子に座る母親の背中が見えた。微妙にその背中が揺れていて、泣いていることがわかった。たまらずに駆け寄った。
「お母さん」
 確か、そう言ったと思う。
 振り向いた母親の顔は涙で濡れていたが、自分を見て、無理矢理笑顔を作った。理不尽だと思われるかもしれないが、泣いて化粧の崩れた母親の顔を見て無性に腹が立った。嫌で嫌でたまらなかった。気がついたら母親の顔を往復ビンタしていた。一瞬驚いた表情を見せた母親だったが、自分を怒るようなことはしなかった。
「いいのよ」
 自分のとった行動を自分でも理解できず、自分の手を呆然と見つめている郁也に母親が穏やかに言った言葉だ。心の深いところが震え、ふいにわけのわからぬ感情が波のように押し寄せ、口の中に嫌な苦い味が広がった。
 自分は、自分ががあれほど憎んでいた父親と同じことをしてしまった。学校生活で溜まっていたストレスを母親への暴力で発散したという一言では片づけられない暗い穴に自分は落ちていた。
 あの父親の血を引いている自分が、父親のようになってしまう恐怖にただただ怯えた瞬間だった。
 その日を境に、郁也は不登校になりがちになった。
 自分を取り戻すためのキーワードを忘れてしまったから。
 それでも母親は何も言わなかった。
 そのことが郁也を半引きこもり状態にした。もう母親へ直接暴力を向けることはしなかったが、物に当たったり、壁をどついたりすることで、間接的に母親に当たることはあった。
 男の子が一般にそうであるように、郁也も元々は母親のことが好きだった。いや、大好きだった。しかし、父親からの暴力を無言で受け入れている母親の姿を見てしまって以来、母親を見ると、憐れみとか憎しみとか悲しみといった複雑な感情が湧いてしまうのだった。母親への愛情も完全に歪んでしまっていた。
 父親の母親への暴力は、元はと言えば母親が浮気をしていたという父親の全くの勘違いから始まったものらしい。もちろん、母親は全否定したらしいが、偏見に満ちた父親がそれに耳を傾けることはなかったという。何を言っても無駄だと思った母親は、無言で父親の暴力を受け入れたという。
 そう、母親から聞いた。
 それが本当であるかどうか父親に聞いて確かめたい気持ちもあったが、すでにその頃、郁也は父親の言葉は何一つ信じることはできなくなっていた。
 なので、自分には何が真実なのかまったくわからないままだ。
 働き続けた母親は、突然この世を去った。
 前日の夜、頭が痛いと言って、いつもより早く寝てしまった母親が翌朝には息を引き取っていた。きっと苦しんだに違いないのだが、自分の部屋でヘッドホンで爆音で音楽を聴いていた郁也は気づくことができなかった。
 悲しかった?
 悲しかったと思う。
 いや、本音を言えば、死ぬほど悲しかった。
 なんだかんだと言っても、自分の母親だから。
 とうとう自分は本当の意味で一人ぽっちになった。
 母親の葬儀の日、空は見たこともないような澄んだ青色を呈していた。
 自分の手の平にはぽっかりと空白が残っていた。
 未来への漠然とした不安を抱えたまま、初めて会った叔父という人と二人だけで母親を見送った。
 すべてを終えた自分には、ただ全身を溶かすような虚脱感だけがへばりついていた。
 でも、母親の突然の死は、引きこもりという形でストップさせていた自分の人生を再び動かせざるを得なくした。
 生きていかねばならない。
 (不思議なことに、生きようという気持ちだけはあった)
 食っていかねばならない。
 生まれて初めて就職情報誌なるものを買い、なんとか見つけた働き先は小さな印刷会社だった。というより、その会社しか採用してもらえなかった。
 自分なりの覚悟を持って働き始めた郁也だったが、長い間引きこもり生活をしていた郁也に対人コミュニケーション能力があるわけもなく、それが大きな障害となった。仕事上に必要な最低限の会話ですらうまく交わせない。話しかけられてもごくごく短い言葉でブツっと切ってしまうし、表情がほとんどないため、『無愛想だ』『態度が悪い』『新人のくせに生意気』などと注意された。本人としては、精一杯真摯に対応しているつもりだっただけに、そうした反応は納得できなかったし、大きなストレスになった。
 そういうストレスを以前のように無条件で受け入れてくれる母親はもうこの世にいなかった。
 しばらくは自分の心の中で燻らせていたが、すぐに限界に達した。
「そんなゆるゆるに結んだらダメだって言ったよな」
 印刷物を紐で結んでいる時だ。
 年下だが職場では先輩にあたる男にそう言われ、ぶち切れた。印刷物を持ち上げ、床に思い切り叩きつけた。
「お前、何するんだ」
 先輩社員の男はそう言ったが、郁也が無言で睨めつけると蛇に睨まれたカエルのようにおとなしくなった。186センチの身長で、かつ引きこもり状態の時せっせと励んでいた筋トレのおかげで筋骨隆々の郁也の鬼のような形相に怖気ずいたのだ。
 そのままロッカーに直進し、自分の荷物を引っ張り出して外に出たが、誰も止める者はいなかった。
 空の青さがやけに身に染みた。

 ここまで自分の人生を振り返ってみてきて、自然に冷たい絶望の涙が流れた。
 何一ついいことがなかった。
 だから、やり直せるとしたらすべてをやり直したいと思ったのだ。だが、1つに限定されるのなら、やはりあのことしかない。



 1社目で受けた周囲の棘だらけの黙殺に、郁也は『我慢しない』ことを自分の中で正当化してしまった。結果、2社目も3社目も4社目もうまくいかなかった。一応、今度こそは我慢しようと心に誓って働き始めるのだが、長くはもたず同じようなことを繰り返した。
 そして、5社目に働いた会社でついに事件を起こしてしまう。
 上司だった男に全人格を否定するような言葉で怒鳴られ、思い切り殴ってしまった。
 傷害罪で書類送検されたが反省することはなかった。むしろ開き直った。悪いのは自分ではなく、相手が悪い。周りが悪い。自分をこんな風にしたのは『世間』のせい。憎むべきは世間だと思うことでしか心の均衡は保たれなかったともいえる。
 この世のあらゆる負の部分を吸い込んでしまったかのように、ずっと何かがちぐはぐだった。
 だから、何もかもがどうでも良かった。
 思い通りにならないことに弱すぎたのかもしれない。
 大切な何かが丸ごと失せて、他人には理解できない自分だけの闇の中に生きていた。
 そこは、天国のような地獄だった。
 心の中が常にぐらぐらと煮立っていて、些細なことで暴発した。
 一方で途方に暮れるような心細さに襲われることもあった。
 心のバランスが崩れてからは、タガが外れたように意味もなく怒りを発散させた。
 思い出すのは、面接がうまくいかず苛ついた気持ちのままアパートに帰ってきた時のことだ。築30年以上の、お世辞にもきれいとはいえない佇まいだった。階段を上がり、自分の部屋の201号室の前に立ち、ズボンのポケットから鍵を出したところで、205号室のドアが開き、住人の若いを男が顔を出した。
 男が自分を蔑むような嫌な目つきでこちらを見た。
 ような感じがした。
 それだけで郁也の気持ちに火がついた。
 次の瞬間にはもう男に向かって歩いていた。
 当然、男のほうも郁也の動きに気づいているはずなのに、気づかないふりをしている。『関わりたくない』という意思が見え見えなのが余計に郁也の気持ちを荒らげる。
 男は鍵を閉め、近づいた郁也のことを無視して横をすり抜けようとした。逃げられないように、郁也が男の前に立ちはだかる。
「な、なんですか?」
「お前、何見てたんだよ」
「はい?」
 どうやらとぼけるつもりらしい。こちらに向き直った男の顔には怯えがあった。
「さっき、俺のことを睨んだよな」
「いえ。そんなことしてないです」
 よほど怖いと見えて目を合わさないようにしている。
「嘘をつくな」
「ほんとです。音がしたからそっちの方向に目がいったかもしれませんけど、僕は別にあなたを見てたわけじゃないですし、ましてや睨んでなんかいないです。ということで失礼します」
 男が軽く頭を下げて階段へ向かおうとしたので、その腕を郁也はつかんだ。
「やめてください」
 男はか弱い声で言ったが、郁也は男の身体を壁に押し付けて、襟首をつかみ脅した。
「おい。二度と舐めたことするなよ。もし、今度同じことをしたらただじゃおかねーからな」
 語気は強かったが手は出さなかった。すでに一度書類送検になっているので、もう事件は起こせないとわかっていた。
「す、すみません。わかりました」
 男が恐怖のあまりそう言ったところで郁也は手を離した。
 こんなことがあって住民とうまくやれるはずもなかった。ゴミ出しのことでもトラブルが続き、大家から退去を求められるはめになった。しかし、応じることはなかった。応じようにも引っ越し費用がない。ついには裁判所から退去命令が届いた。
 この時点で郁也はやむを得ず保護司の谷倉さんに相談することにした。母親の死後初めて他人に頼ったのがこの時だった。谷倉さんは以前郁也が事件を起こした時から何度も郁也を訪ねてきては何かとアドバイスをくれていた。郁也はずっと鬱陶しいと思っていただけだったが、その親切心に今回心を開くことにしたのは、谷倉さんが過去に自分と同じように世間と衝突していた時期があると聞かされたことがあったからだ
 谷倉さんの世話で新しいアパートに引っ越すことができたが、谷倉さんは新しい生活を送るに当たって根本的に考え方を変えるようこんこんと説いた。それを自分も受け入れた。そのおかげで郁也も少しは変わった。
 そんな谷倉さんが紹介してくれた就職先が株式会社丸田だった。社長の名をそのまま社名にしている。工務店であり設計事務所も併設している。先方の社長と谷倉さんは古くからの知り合いで、社長を始め社員みんなが優しい人たちだから安心していいと言われ働き始めた。
 谷倉さんの言葉に嘘はなく、郁也を温かく迎え入れてくれた。おかげで郁也は初めて働くことの楽しさを知り、生きることに意味を感じ始めていた。
 それまで、実は憧れ続けていた、ごく普通のありきたりな生活が訪れ、今度こそ自分なりの幸せが見つかる
 はずだった…。


 珍しくみんな出払っていて、郁也は作田樹里と二人きりになっていた。
「二宮さんってセンスいいですよね」
 樹里が遠慮がちに郁也の方に顔を向けながら言った。
 驚いて樹里を見ると、そこには小柄であどけない表情があった。
 樹里とは同じ職場の同僚ではあるけれど、これまで親しく会話したことなどなかった。
「えっ。そんなこと言われたの初めてだよ」
 母親の影響もあり、清潔さにだけは気をつけていたけれど。
「そうなんだ。でも、私、二宮さんみたいなセンス好きですよ」
 女性からそんなこと言われたことがなかったからすごく嬉しかった。
「ありがとう」
 樹里は社交的な性格ではなく、ちょっと変わったところのある子で、職場のみんなとも少し距離をとっていた。かといって、浮いているわけでもなく、うまく合わせている感じだった。それに、樹里は仕事ができたので、みんな樹里のことを尊重していた。
「二宮さん」
「はい?」
「恋したことありますか?」
 思わぬ質問だった。樹里が他人にそんな質問をする女の子には見えなかったからだ。しかも、この自分に?
「恋ですか」
「ええ」
 どう答えればいい?
「そうですねえ、僕もいい歳ですから恋のひとつやふたつはしたことがあります」
 嘘だ。
 自分にまともな恋などできるはずもなかった。もちろん、こんな自分でも好意を寄せた女性はいたことがあったけれど、ただそれだけだ。アプローチなどできなかったし、かりにアプローチしたところで、変人の自分が相手にされることはなかっただろう。
「そうですか。そうですよね」
「もちろん、作田さんも恋をしてきたんじゃないですか?」
 樹里は愛想がいいほうではないので男性がアプローチしにくいタイプだとは思うけど、顔自体はきれいな顔をしていた。切れ長で粗野な瞳。丸顔にしては少し高い鼻梁が見方によっては冷たい印象を与えてしまうかもしれないけれど、案外童顔なのでコケティッシュでもある。それに、肌が透きとおるように白い。なので、当然、相応の恋はしてきただろう。
「私、奥手なんですよね。わかると思うんですけど、感情を表に出すの苦手だし」
 それは傍で見ていてもわかった。
「でも、きれいだし、アプローチしてくる男性多いんじゃない」
「きれいなんかじゃないですよ。確かに、付き合っている人がいた時期もありますけど、私が素直になれないのでうまくいかないことが多くて」
「そうなんだ」
 自分ほどひどくないけど、樹里も心の中に何か闇を抱えているのかもしれない。
「ごめんなさい。私、へんなんです」
 樹里は自分とは違って、決してへんではない、ただピュアなだけだ。間違いなく。
「僕に謝る必要なんかないし、それに、へんじゃないよ、作田さんは」
「そう言っていただいて嬉しいです。ありがとうございます」
「いえ。僕の素直な感想です」
 自分でも珍しく素直になれていると思う。
「二宮さん」
「何?」
 今度は何を言われるのだろう。
「二宮さんは今恋をしていますか?」
「今ですか?」
 気づいてしまった。
 自分が今まさに樹里に恋心を抱いてしまっていることに。
 もちろん、現時点では恋ではなく、ただの好意。しかも自分の一方的な思いに過ぎないけれど…。
「はい」
 樹里の、どこか思いつめたような透明な目がこちらを見ている。
「しています」
 嘘ではなかった。ただその相手が樹里だとは言えない。言ったとしても成就するとも思えない。すべてわかっていた。
「そうなんだ…」
 樹里が曖昧な表情で曖昧な答え方をした。
 きっと自分が樹里以外の誰かに対して恋をしていると誤解している。でも、それで良かった。ただ、樹里の顔が寂しそうに見えたのが気になった。
 何か言わなければと思ったところに社長が帰ってきた。
 ただ、それだけのこと。
 翌日からいつもと何も変わらない日常に戻っていた。郁也と樹里の間に何かが起きるわけでもなかった。きっと、二人とも何かを起こす気などハナからなかったと思う。ただ、この日の会話は郁也の心の襞には深く刻まれていた。


 その日の昼休みも穏やかな時間が流れていた。
 郁也の勤める会社は小さな会社だったので、昼食は事務所横にある会議テーブルに社長も含めた全員が集まって食べるのが習慣のようなものになっていた。ある者は出前物を、ある者は弁当を広げ。
 そして、昼食後もその場に残り、雑談を交わす。それがみんなのコミュニケーションの場にもなっていた。
 とはいえ、強制ではなかったので、会話に参加することなく編み物をしたり、本を読んで過ごす自由はあった。この職場を紹介してくれた保護司の谷倉さんの顔を潰さないためにも、郁也はなるべく会話に参加するようにしていた。最初は嫌で嫌でしょうがなかったが、不思議なもので、最近では慣れて来ていた。
 そんな中で、樹里はいつもその場にいながらほとんど会話に参加することはなかったし、時には一人で読書をして過ごしていた。
 その日もそうだった。
「社長、タバコを買いに行ってきます」
 鞄に入れてあったタバコを取りに行って、今朝買い忘れたことを思い出したのだ。
「あいよ」
 社長の声を背中に受けて郁也は外に出た。
 事務所の周辺に自動販売機はないため、駅周辺まで歩かなければならない。
 冷たい風がまとわりつく。
 大きな身体を丸めて大股で駅周辺へと向かう。
 明日の分も含め3箱勝って事務所に戻る。近くまで来ると、窓越しにみんながまだ雑談をしている姿が見えたが、誰も郁也の方を見てはいなかった。寒い中歩いてきたので尿意を感じ、事務所の裏口から入り、トイレに向かう。この間、郁也のことに気づいたのは誰一人いなかった。
 用を足し終わりトイレから出ようと向きを変えたところで、会議室の方から自分の名が聞こえた。誰かが自分のことを話題にしているのだ。何を言っているのだろう。気になって、郁也はドアを半分ほど開け耳を澄ました。
「二宮のヤツ、最近馴れ馴れしくないですか、根岸さん」
 自分より4つ年下の黒田雄一の、いかにも下品な声が聞こえる。
 不快感で胸が押しつぶされそうになる。
 黒田はいつもは二宮さんと、さん付けだったし、年上の郁也を敬う姿しか見たことがなかったからだ。
 もちろん、自分が年上だからといって、職場では先輩にあたる黒田に馴れ馴れしい態度などとった覚えは一度たりともない。
「そうなんだよな。アイツ、最近調子に乗ってるんだよな」
 根岸のこの言葉に、郁也は自分の心が冷えて固まっていくのを感じた。
 根岸も郁也より2つ年下だったが、郁也の直属の上司にあたる人間だった。日ごろよく面倒を見てくれて感謝していた。
「そう言えば、この間駅ビルに入ったクレンスにアイツがいるのを見ましたよ」
 笑いを噛み殺したような竹中光一の声。
 光一は郁也の2カ月後に入社した、郁也にとっては唯一の後輩だったので、自分としては優しく接していたつもりだった。
「クレンス? クレンスって、東京の青山から出店したっていう、あのクレンス?」
 経理の吉野恵子がトーンを一つ上げて驚きを表している。
 俺がクレンスに行っちゃあいけないというのか。
「そうですよ。ひょっとして、アイツ、自分にファッションセンスがあるとでも思ってんじゃないですか」
 光一があり得ないという響きを交えた声で言っている。
 口を開け大きく息を吸い込んだ。
 そうしないと立っていられなかったからだ。
「ア、アイツがか。ワッハッハツハ」
 大笑いしているのは社長の丸田忠蔵だ。
郁也に丸田の顔は見えないが、どんな顔をしているのか想像はついた。
「大笑いでしょう」
 光一が改めて同意を求めた。
「まったくだな」
 丸田が今度は心底呆れたように言った。
「あんな顔してて、自分のことイケメンだと勘違いしてるのかもよ」
 一番年上の原川が追い討ちをかけた。
 ついこの間、樹里にセンスがあると言われたばかりだっただけに、余計に堪えた。
「プッ」
 恵子の吹き出す声が聞こえた。
 すべてが悪夢のようだった。
 日頃自分が接していた人たちがすべて別人のように、自分の悪口をいい続けている。
 いや、樹里の声だけは聞こえない。
 それだけが唯一の救いにはなったが、自分が受けている侮辱に郁也の怒りはマックスにたどり着きそうになった。
 だが、それはまだ続いた。
「しかし、社長」
 根岸が急に声を低めた。
 今までのはすべて冗談だと言ってくれたのなら許せたかもしれない。
 だが…。
「何だ?」
「何であんなヤツを入れたんですか。鬱陶しくてしょうがないですよ。へんに怒らせて逆ギレされても怖いから適当におだてて仕事やらせてはいますけど」
「しょうがねえだろうよ。谷倉さんに頭を下げてお願いされちゃったんだよ。谷倉さんには昔仕事でお世話になったからなあ。そりゃあ断れないだろうよ。本当は俺だってあんなヤツ入れたくもなかったよ」
「そうですよね。この間、奥さんも嘆いてましたよ」
「そうなんだよな。女房にはさんざん文句言われてるよ。アイツを雇っているせいで子供の通学路の環境が悪くなったってママ友たちからいろいろ言われてるらしいんだ」
「私のママ友も言ってますよ」
 ここぞとばかりに恵子も同調する。
「そうだろう。社長、アイツ何をやらかしたんですか。まさか、殺人じゃないでしょうね」
 根岸が『殺人』という部分に力を入れて言った。
 ここまで言われ、郁也の手足は震え、歯の根が合わなくなった。
「さあ、どうかな。俺も詳しいことは聞いてない。というか、訊けなかったんだよ。だからわからないけど、それもないとはいえないかもしれん」
 虫酸が走るほどの悪寒がする。
「ひゃあ、怖~い」
 恵子が悲鳴のような声をあげた。
 それを聞き、一瞬みんなが無言になった。
 きっと、自分が殺人を犯している姿を想像したに違いない。
「社長、なんとかしてくださいよ」
 よほど怖かったと見えて、光一が社長に懇願している。
 両の拳を握ってじっと耐えていたが、もはや限界だった。今すぐにでもトイレから飛び出してみんなを殴り飛ばしたい。いや、そんな程度で自分の気持ちは収まらない。
 だが、いくら自分の体力に自信があると言っても、多勢に無勢だ。怒りはとうにマックスに達していたが、自分で思う以上に冷静なのに自分でも驚いていた。
 みんなに気づかれないようにそっとドアを開け、裏口から再び外に出て駅周辺まで歩いた。しかし、途中で身体が震え出し吐き気を催したので近くのビルのトイレに駆け込み、しゃがみこむと同時にリバースした。
 しばらくすると少し落ち着いた。
 時計を見ると、午後の始業7分前だった。
 自分の気持ちにケリをつけるために立ち上がり、再び事務所に向かった。
 今度は正面入口のドアを開け、事務所に入る。
「ただいま帰りました」
 精一杯普段通りを装った。
「ずいぶん時間かかったな」
 社長の丸田が嘲笑ぎみの視線を向けて言ったが、郁也の顔を見ていったん下を向いた。普段通りを装ったものの、やはり顔に出てしまっていたのだろうか。
「すみません、ちょっと寄り道をしたもので」
 始業時間までに帰ってきたのに文句言われる筋合いはないが、以前の癖で謝ってしまった。そんな自分が腹立たしい。
「いや、それはいいんだけど、二宮、お前どうした。顔が真っ青だぞ」
 その声につられ、職場のみんなの視線がこちらに向けられた。
 黒田、根岸、恵子、竹中、原川。
 ついさっきまでさんざん自分の悪口を言っていた者たちの顔を眺めた。
「ええ。社長、体調が悪くなってしまったものですから早退させていただいてよろしいですか」
「あっ、ああ、いいよ」
「ありがとうございます。そうさせてもらいます」
 自分のロッカーから私物をすべてバッグに詰めて事務所を出ようとすると、
「無理がたたったんだろう。ゆっくり休んでくれていいからな」
 そういう社長の言葉に心がないことは先ほど知った。
 その日、どうやって自宅へ帰ったか記憶にない。
 寝たのか、それとも一睡もしなかったのかわからないが、気づいた時には翌日の10時過ぎだった。
 会社に電話する。
「社長、体調が戻らないものですから、もうしばらく休ませていただけますか」
「ああ。全然かまわないよ。仕事のことは気にしなくていいからな」
 いかにも気遣っているような言葉だった。
 今回のことがある前だったら額面通りに受け取って感謝すらしていたかもしれない。しかし、すべてを知ってしまった今は意味のない記号を読み上げているようにしか思えない。
「ありがとうございます」
 そう答えるだけでも、全精力を使った。


 翌日、郁也は浅草橋に出かけ包丁を2本買った。さらに、近くのDIYの店にも出かけナイフを3本買った。2か所にしたのは怪しまれるのを少しでも避けるためだった。それから数日の間に計画を練った。
 みんなの日頃の行動もだいたいわかっていたし、事務所の構造もわかっていた。ただ、絶対に失敗はできないので、あらゆる状況を想定して脳内でシミュレーションを繰り返した。
 そして決行日は第1月曜日と決めた。
 この日は月1の例会があり、よほどのことがない限り全員揃うからだ。その日の昼食後の休憩時間に合わせて郁也は家を出た。
 包丁とナイフを入れたバッグを抱えて事務所に近づく。少し離れたところから事務所を見る。今日も全員が揃っているのを確認できた。
 興奮なのか、それとも極度の緊張のせいなのか身体が震えてきた。ぐっと腹に力を入れ、裏口に回る。そっとドアを開けると社長の笑い声が耳に飛び込んできた。抑えていた怒りがせりあがってきた。とりあえずトイレに入り、バッグの中を開け、包丁を確認する。取り出しやすいようにチャックを開けておく。
 トイレから出て這いずるように低い姿勢で会議兼休憩所に近づく。少し手前のところで立ち上がると、一番奥の席に座っていた社長が郁也に気づいた。こちらを見て、ちょっと驚いたようだったが、それでも警戒心は持ってないようだった。
「おう。どうした」
 社長が発した声でみんなが一斉にこちらを振り返った。それが郁也にとっての合図のようなものになった。躊躇うことなくバッグから包丁を2本取り出し、まっしぐらにみんなのところに向かって突っ走って行った。散り散りに逃げられてしまうと計画通りにいかなくなる。座っていて立ち上がる間もないうちに実行することが大事だった。
 郁也の手に握られている包丁に気づいた根岸が何かを言おうとしたが、言葉にならなかった。ますは、一番手前の椅子に座っていた黒田の頸動脈あたりを裂いた。真っ赤な血しぶきが飛び散った。ここで誰かのを叫び声を聞いたような気がするが、郁也は隣に座っていた竹中の心臓めがけて包丁を突き刺した。その時、反対側の席に座っていた恵子が身体をよじって立ち上がろうとする姿が見えた。逃すわけにはいかなかった。すぐに、そちらに回り、背中にもう1本の包丁を突き刺した。
 これで包丁は2本使ってしまったが、まだナイフが3本ある。
 崩れように倒れた恵子の姿を見て戦慄に慄いたような顔を見せて立ちすくんでいる原川が郁也の前にいた。バッグから取り出したナイフで、その原川に向かって突進した。
 辺りは血の海だったが、その海の傍で樹里が呆然と立ちすくんでいた。その樹里に、郁也は言った。
「作田さんは外に逃げて」
 もちろん、樹里だけは殺さないと決めていた。だが、樹里は目に涙を溜めて震えながらこう言った。
「お願い。私も殺して」
 あの時樹里は確かにそう言った。
 郁也は自分の耳を疑ったが、樹里は呆然とする郁也にもう一度言った。
「お願い、私も殺して」
 切実な目をしていた。
 自分と同じように、それまで何度も死のうと思ったけれど、死ねなかったのだろう。
 だから、彼女の望みを叶えてあげることにした。
 恵子の背中に刺さったままの包丁を引き抜き、樹里が苦しむことのないよう心臓を一突きした。だが、その間に、一番憎い相手である社長が奥の倉庫に逃げ込み、中から鍵をかけてしまった。そして警察を呼んだ。
 それをやり直すために、今自分はここに戻ってきた。
 だから、樹里の声は無視し、倉庫へ向かって走って行く社長の背中にナイフを振りかざした。社長が膝から崩れ落ちていくが、それでもかまわず郁也は何度も、何か所も突き刺した。
 終わったという安堵から、その場にへなへなと座り込む。目の前には、目に涙を浮かべた樹里が立ちすくんでいた。
 なんとか立ち上がり、静かに樹里にお願いした。
「悪い、作田さん。警察に電話してください」
 樹里は黙って頷いた。本当はこんな場面に遭遇させてしまったことを樹里に謝らなければならなかったし、他に言いたいこと、伝えなければならないことがいっぱいあったはずだが何も言葉は出なかった。
 目的を達成できた満足感は確かにあった。
 けれど、何かが違うような気もした。
 埋めたい何かがあって戻ってきたのだけど、埋めてはいけない何かだったのか。
 気がつくと、郁也は樹里に母に包み込むまれるように優しく抱かれていた。


「大竹さん、大竹さん」
 自分を呼ぶ声に目を開ける。
「戻って来られましたね」
 満面の笑顔の高坂が寝ている自分を見下ろしている。
「あっ、はい」
 深い深い沼に落ち込んでしまったかのように、身体が重い。
「大丈夫ですか?」
 自分がやり直した内容を知ってか知らずか、高坂が事務的に言う。
 いや、この人は知っている。
 そんな気がした。
「大丈夫です」
 ゆっくり身体を起こす。
「どうやら目的を達成することができたようですね。身体は重いでしょうけど、スッキリした顔をされていますよ」
 高坂は何もかも知っているような気がする。
 天国か地獄の番人のように…。
「おかげさまで。ありがとうございます」
「いえいえ、1等に当選されたのですから当然です。で、感想は?」
「私は、ただ居場所を求めていただけなんです」
 感想を聞かれたのだけど、心の声が出てしまった。
 だが、口に出して初めて自分でもそうだったと気づいた。自分は底なしの孤独感の中、ずっとずっと、幸福とか不幸とかいった曖昧なものではなく、ただただ自分の居場所がほしかった。
「わかりますよ」
 ありきたりの言葉だったが、なぜか胸が締めつけられた。
「でも、自分のしたことは…」
「もう何も言わなくてもいいですよ。言う必要もありません」
 高坂の、やわらかな力が込められた声が、ずっとさまよっていた吾郎の魂に道筋を与えてくれた。
「そうですか…」
「そうですよ。当たり前です」
 思いのほか誠実そうな高坂の瞳と出会い戸惑う。
 自分の心が風のように透き通るのを感じた。
「ありがとうございます」
「いえ」
 この時、係りの人が高坂に近づき、何かを耳打ちした。
「了解」
 そう言った後、吾郎に向き直った。
「ちょうど今、奥様がお迎えに来られたようです」
 妻には宝くじを買ったことも、もちろん、1等に当選したことも話していない。
 きっと、高坂が知らせたのだろう。
 そんなこともありそうな気がした。
「そうですか」
「ここにお呼びしてよろしいでしょうか」
「お願いします」
「では、少々お待ちください」
 高坂がいったん部屋を出て行き、数分後に『妻』と共に現れた。
 その女性は作田樹里そのものだった。
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