一回戦Aグループ

文字数 2,401文字

※一部ネタバレを含んでいます。


「幸せな郵便局」 竹田信弥
 たたかい方はそれぞれだ。それにしたって、一文目でまずこの作品は戦う気があるのかなと思ったが、そうやって相手を油断させておいて最後の最後でブザービートをかまず、みたいな姑息なことすらせず、この小説は終わっている。
 ひとつの舞台のなかで視点人物がころころと変わる構造はAグループ最後の「矢」と似ていて、しかしこの作品では、登場人物たちが見ている世界はことごとく違う。その違い方がパズルのようにぴたりとはまるかといえば、そういうわけでもないらしく、やはり読めば読むほどわからない。
 だれかの幸せは別のだれかの不幸せ、みたいなことを言いたいだけではないのだろうな、と思いつつ、それ以上の読みができないのは私の力不足。参りましたと言わせてください。


「成長する起案」 鞍馬アリス
 現実への皮肉が利いた題材も、こういう回路でファンタジーに昇華させられるんだなあ~、というお手本みたいな小説だった。中西さんがなんといっても魅力的でいい。
 誰に頼まれるわけでもなく自己増殖する押印欄は仕事そのもののアナロジーに思えた。だとしたら無駄な仕事を増やす中西さんはとんでもない悪魔だ。中西さんの起案がいじわるな誰かに妨げられたり監査にひっかかったりしないのは神様に守られているからだと本人はいうが、それは同時に悪魔的な能力でもあるよな、などと考えた。


「夏の甲子園での永い一幕」 夜久野深作
 あらゆるスポーツは冷静になればどう考えても変じゃんというルールのもとに成り立っているが、野球はその最たる例だ(と勝手に思っている)。打ったり投げたり走ったりしている時間よりただ立っている時間の方がずっと長いし、ボールは小さすぎて観客席からほとんど見えないし、攻守が時間でくっきり分かれているのも妙な気がする。いちばん変なのは得点の入り方で、ホームベースから出発した人がホームベースに戻ってくると点になる。つまり野球というスポーツの中心概念は円環である。
 そういうわけで野球は、サッカーやテニスにはない永さを持っている、というのがこの作品のなかでは独特のやり方で描かれているんだな、ということがまず読み取れた。
 次に、試合中に取り返しのつかない怪我を負ってその後犯罪に手を染めたとか、打球が直撃して戦線離脱したとか、サイレンの音とかは空襲警報っぽく、敗戦や黙祷という語彙からも、ああこれは、戦争の話なんだなとようやく分かった。
 冒頭のルールの話にもどれば、世の中に「戦争法」というものが存在することを知った時の理解のしきれなさを思い出した。好きな作品でした。


「花」 宮月中
 ここから怒涛の、学校三部作。
 「校門で待ち伏せするカメラとマイク」この文だけでいろんな説明を済ませてしまう技術はさすがとしか。その余白に書き込まれた細部によって小説の叙情性が支えられているのだから、やっぱりクラフトこそがアートを可能にする。
 百合や菊などで抽象的に死を匂わせつつ、15本の薔薇(謝罪の意味があるそう)が配置されたとたん、そのゲーム性が前景化する。しかしいざ自分の番になると、花を飾ることではなく、あぶれた花を引き受けることにこそゲームの本意があったと気づく。とっさに鞄にしまわれる秋桜の花。このシーンを読んで、この小説がとても好きになった。
 そしてたどり着くラストは、おそらく、主人公こそが死者である可能性にたいして閉じられてはいない。私はそう読みました。この小説はたぶん、利他や責任について、とても重要なことを言っている。もっともっといろいろな人の読みを見てみたくなった。


「連絡帳」 星野いのり
 Aグループでいちばん「「ファイト」」を感じた作品。
 (小学校低学年くらいとおぼしき)子どもの視点で描かれる世界は、人間とその他生物の区別があいまいだったり、常識からすればありえない因果関係が成立したりする点で、俳句という超短時間で最高風速を出さなければいけないフォーマットとは相性がよいのかな、と思ったりもしたが、まさしく低学年の脳みその中を覗くみたい、と感じさせる言葉選びには、素直に舌を巻いた。全句よいのだ。全句よいのだが、とくに「あつい手を入れてバケツの水ふえる」がよい。その驚きを、頭と体の両方をフルに使って理解しようとしてうまれるセンスオブワンダーがみずみずしくて熱い。
 学年の終わりにかけて「先生」に焦点があってくる感じにも、懐かしさを覚えた。かつて連絡帳は、先生と私との交換日記でもあった。


「矢」 金子玲介
 一行目から名前を持つ人間が4人も出てくる小説を、私は他に知らない。
 最終的には六枚のなかで8人(名前だけを含めると9人)の人物が描かれているので、誰がしゃべっているのか一読して正確に追うのは難しいが、しゃべっているのが誰だろうと面白さが損なわれることはない、というのもこの小説の特徴なのだと思う。一読どころか紙に書いて整理しないと私は誰が何をやっているのか何回読み直しても理解できなかったが、何回読み直しても、マジで同じところで笑えてしまった。
 こういう読み方が可能なのは、意味よりも行為?というか運動?のほうに圧倒的に力点が置かれているからで、言葉も(紙の切れ端でやりとりされる)運動として描かれているのはその象徴のように思える。読者はその運動をただ見ているうちに、笑いのツボを押されるかなにかして、理解する前から条件反射的に笑ってしまうのだ。どうやったらこんな、ポチっと発明ピカ珍キットみたいなものが書けるのか、いくら考えてもわからない。
 唯一やや詳しく内面描写されている樺澤が保健委員であることの納得感がすごい。こういう細部から、「普通の」小説も普通に書ける力量がじゅうぶん伝わってくる。ぜひとも二回戦で、次の作品を読んでみたいと思った。

(2021年11月2日更新)
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