一回戦Cグループ

文字数 2,905文字

※一部ネタバレを含んでいます。


超娘(ちょうむすめ)ルリリンしゃららーんハアトハアト」 首都大学留一
 ふるえた。壊れてる? パソコンを振って叩いてみても治らない。怖い。ものすごく怖いものを見せられた今。文章が壊れている、というより侵食されている、昼と夜に、ひるとよるに、□と■に、でも意味は無傷のまま把握ができる。乖離しているからだ。超娘は想像をこえて超だった。一年前、JR山手線は、えっちゃんの言う通りになった。超娘であるルリリンは、ステキステッキの一振りで、大体のことを思い通りにできてしまう。それで文章を壊して時間を壊してビッグマックを壊してでもそうして食べたビッグマックがうまかったようにこの小説は絶対に面白かった。


「中庭の女たち」 コマツ
 中庭の女たち、その一人である私の物語、と読みましたが、物語後半の展覧会にいる「私」はまた別の人間で、池のほとりで彫刻をしていた女たちと何らかの回路で記憶を共有しているのだろうか。
 すでにある彫刻の上に、別の彫刻を施していく女たちの仕事は、たしかに前世から魂を引き継いでいくイメージと重なるし、池の水面に映る世界の断片は、複数の土地や時代を見渡している。
 中庭の女たちの仕事からにじむ途方もなさと、なんらかの理由で故国に帰れない「私」の孤独とが絶妙にリンクしていて、どう読もうとも、切実さで胸がいっぱいになる。


「バックコーラスの傾度」 堀部未知
 起きてることの不思議さはCグループでもぶっちぎりだが、やけに信頼できる語り口なのでするする読めてしまった。犬に似たバス停に似た犬が赤い砂丘の谷間を抜ける一本道に立っている。という終盤になって突如出てくるぜんぜん意味の分からないシチュエーションすらすんなり受け容れてしまった。文章の地力というのか、とにかく文字を飲みこませる力がすごい。
 歌謡曲のバックコーラスって確かに面白い。実物はほとんど見たことないのに、付かず離れずの絶妙な角度を思い出せる。あの体勢を維持しながら歌声を安定させるには相当の訓練が必要に違いない。でも、絶対これじゃない…。落ちてくるたらい、ファクシミリ、ムード歌謡など細部のひと昔ふた昔前な感じがゆるさを生んでいて、そこも好き。


「銘菓」 左沢森
 短詩を書ける人は全員天才に見えてしまうが、本作はとくにそうだ。
 以下、特に好きだった歌を挙げます。


 ちょうど数日前、窓際にサボテンを買ったのでぐさり。だめにして捨ててしまって、捨てたことすら忘れる日が来るのか。


 「パンダ見に行こう」っていう提案だけでも魅力的なのに前半が瀟洒すぎて惚れる。ひとつになる、というのはパンダから見た人間のことを言っているのか、人間から見たパンダのことを言っているのか。

 


 すごいわかる。カッコつけて、どこかで書いちゃった記憶すらある。よく知らないのに。


 しびれた。天才!って言いたい。

Amazon


 今日頼んだものが明日には届く、って革命なんだけど、それが当たり前になってしまい、革命後を生きる私たちは、たとえ生活必需品の買い置きがなくなりそうでも、最悪AmazonPrimeあるし、っていう考え方で、あの頃よりちょっとだけずぼらになった自分を許してあげる。


 ぱた、ぱた。と音を立てて時間と場所を行き来する、スライドショーのような映像効果を、ふたつの/がまずは生み出している。が、それだけではない。
 「生まれたときの記憶がない」という、それはほとんどの人がそうであろう、その過去の開始地点を、因果関係ではない方法で(つまり、/で)現在と結びつけるとき、後景化したそのほかの「記憶」にたいして抱くのは、憧憬とも後悔とも取れるふわふわした気持ちで、でもそれは感情の端緒にはなっても、分析の材料には決してならず、結局自分がどうしてここにいるのか、はたして困っているのか、反対に助かっているのか、何も教えてはくれない。つまり分からなさの集合である、そのうずたかく積まれた「記憶」の一番奥に、自分がかつてこの世に生を受けたという、記憶ではない形式で保証された唯一の事実が、それだけが、私が語りうるすべてであることを発見する。そういう歌なんだと、私は読みました。

 銘菓、という題と直接結びつく歌は一首だけだが、どの短歌をとっても、ていねいに包まれた菓子折りを開封し、包み紙をとき、口に含んでゆっくりと溶かしていくような幸福感を味わった。
 一回戦の全作中、最も好きな作品でした。


「やさしくなってね」 白城マヒロ
 西友で暴れていた「それ」をコテンパンにやっつけた女の子が、明日クラスの男の子に話しかけられたらなんて返そう、とシミュレーションするシーンが面白い。
 お母さんが家に連れて帰ると言い出した時は、まじか、と思ったが、「それ」のサイズ感や見た目を知っていたら、今の私の感じ方も違っていたかもしれないと思うと、「それ」が代名詞でしか呼称されないだけでなく、具体的な描写を一切与えられていないことの効果がはっきりしてくる。
 「それ」に関して、読者は、想像力に枷をはめられている感覚がある。「わたし」が「それ」を懲らしめたり、怖がったり、反対に親しみを覚えたりするとき、「それ」の正体が不明であるがゆえ、読者は「わたし」の個々の行為を、どう評価したものかと悩んでしまう。「それ」が仮に子猫のような愛らしい生き物(ないし人)なら、いくら暴れているからと言って、グーパンしたりロープで縛ったりするのはとても残酷に思える。一方で「それ」が小汚い生き物(ないし人)だったら、子猫のばあいと同様に感じる人はぐっと減るはずだ。
 タイトルはストレートに読めば「わたし」の「それ」にたいする願いと取れるが、名前も姿かたちも分からないものに対して、どこまでやさしくなれますか、という読者への問いかけであるようにも感じられ、反省した。


「ロボとねずみ氏」 紙文
 冒頭でネタバレについての注意喚起はしているものの、それでも結末についてしゃべることが憚られるくらい、結末の種明かしが華麗であった。ジャッジの小林かをるさんが講評のなかで「換金できるレベル」という当意即妙な表現をなさっていたまさにその通りで、そういった方向性では一回戦のなかで最も優れた作品だと思いました。
 物語のカギとなる「生きている/生きていない」という現象について、ロボ独自の解釈が冒頭二段落で示されるが、それが非常にスムースで的確だったことは、二回目を読むとなおさらよく分かる。
 ねずみ氏とロボのやりとりが、切ない、というのはちょっと違くて、愛おしい、というと嘘くさく、子どもにかえってかれらと一緒にいたくなる。もう一度、やさしくなれたような気がして、ちょっと嬉しかった。


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み