二章-02 「優しいひとですね」

文字数 2,493文字

 いつきは弾かれたように振り返った。
 体が反射的に逃げを打つ。もう、傷つけるのも傷つけられるのもごめんだった。
 いつきの様子に、声をかけてきた相手はひどく驚いたらしい。びくりと肩を振るわせて、四阿に入ろうとしていた足を止めた。
「あ……気づかなくて、ごめんなさい……」
 反射的に相手に眼を向けたけれど、眼は合わなかった。少し年下らしい少女は、いつきの足下を見ていたらしい。
 少女は最後までいつきと眼が合わないまま、頑なに地面を見つめたまま身を翻した。その足が、ふらりと縺れる。
「危ない!」
 思わず手を伸ばすも、当然のように届かなかった。べしゃりと派手に転ぶ相手に、眼を瞑ってしまいたくなる。
 慌てて少女の隣に膝をついた。のろのろと起き上がろうとする少女に手を差し伸べる。
「あなた、大丈夫?」
 少女はうろうろと視線を彷徨わせて、ようやく手に気づいたらしい。慣れない動きで手を握って、少女はようやく顔を上げた。
「ありがとう、ございます」
 そこで初めて、眼が合った。眼が合ってから、いつきは自分の姿を思い出す。
 喉が一息に乾いた。言葉を失ったいつきを前に、少女が微笑んだ。
「優しいひとですね」
 血まみれのいつきの姿を見たはずなのに、気づいた様子はない。
 少女の眼に、いつきはどう映っているのだろう。血まみれなんかじゃない、普通の少女として見えているのだろうか。
 いつきの胸に、期待が宿る。一方の少女は手を握ったというのに立ち上がりもしないまま、ふらりともう片方の手を上げた。
 いつきの額に、控えめに触れる。触れてから、驚いたように手を引っ込めた。
 心配そうに問う。
「けが、……痛く、ないですか」
 あぁ、この少女にも見えているのだ。
 見えていて、いつきに怯えないでいてくれるのだ。化け物みたいになってしまったいつきに。
 視界が滲んだ。気が緩んで、涙が零れた。
「……痛いわ……」
 思い出したみたいに、気づいたみたいに。怪我はどこも、痛くはなかったけれど。
「痛いの。とても、痛いのよ――」
 言い募って、いつきは泣いた。

「――ごめんなさい、取り乱して」
 少女は、空崎(そらさき)つぐみと名乗った。高校一年生だという。
 自分よりも二つも年下の少女の前で取り乱したことに、いつきは顔を赤らめた。
 バレーボールのために短髪にしているいつきとは違って長い髪に、やけに細い手足の少女だった。
 節の浮き出た、いつきよりも一回りくらい細そうな指先。白い爪先を、いつきはそっと撫でた。
「ありがとう、逃げないでいてくれて」
 心から、いつきは言った。四阿で隣に座ったつぐみが、ゆっくりと瞬く。
 言い聞かせるように、いつきは続けた。
「あなたは、わたしが恐くないのね」
「恐い……?」
 不思議なことを聞いた、というようにつぐみが首を傾げた。いつきの指先を握り返して、笑う。
「出海さんは、優しいから。恐く、ないです」
「優しくなんて――」
 否定しかけて、いつきは口を噤んだ。優しい、とはどんな状態を言うのだろう。
 考えて、いつきは別の言葉を口にした。
「出海さん、だなんて他人行儀よ。いつきって呼んで」
 いきなりの申し出に、相手は面食らったらしい。
 瞬くつぐみを見つめながら、いつきは内心で驚いていた。こんな大胆なことを言ったのは、もしかしたら初めてかも知れなかった。
 人恋しい、のだろうか。人恋しい、のだろう。
「いつき……さん? いつき、ちゃん」
 いつきの様子を見ながら、伺うようにつぐみが言った。いつきがにこりと笑えば、ほっと息を吐く。
 きっといつきの微笑みは、血まみれの幽霊が笑いかける、ひどい絵面だったに違いないけれど。
「お友達になりましょう、つぐみちゃん」
「お友達……」
 そっと、噛みしめるように、つぐみは繰り返した。
「お友達……そう、素敵、ですね」
「えぇ、わたしはもう死んでしまったようだから」
 そういえば、死んでしまってもつぐみには触れるのだ、と気づいた。視える相手には触れるのかも知れなかった。
「どうしようかと、途方に暮れていたの。話し相手になってくれたら嬉しいわ」


 それからいつきとつぐみは、日が暮れるまで四阿で時間を潰した。つぐみが借りてきたらしい本を見て、いつきは歓声を上げた。
「そのシリーズ、わたしも好きだったのよ。知らない間に、ずいぶんと進んでいたのね」
 記憶を辿ろうとしても、あやふやな記憶しか出てこない。ずっと前に読んで、そのままになっていたのかも知れない。
「本当ですか!」
 つぐみがぱっと顔を明るくして、それからちょっとだけ眉を下げた。
「でも、もう読めないんですね……」
「その分、あなたが読めば良いのよ」
 いつきは言った。つぐみの言葉に打って返すように、迷いなどないように。
 どこにも後悔なんてないみたいに。それは、強がりに近かったのかも知れないけれど。
「もう死んでしまったわたしが読めなかった分まで、あなたが読んでね。できれば、感想をわたしに聞かせてくれると嬉しいわ」
 たった二歳とはいえ、年上の意地で。いずれ、自分の年齢を追い越していくだろう少女の前で。
「わたしが好きだったものを、好きな誰かが生きているのは、きっと、……うん、とても素敵なことだわ」
 言っているうちになんだか泣けてきて、いつきは少しだけ泣いた。目尻に滲んだ涙を拭う。
 心配そうに伺ってくるつぐみに、いつきは半端な顔で笑いかけた。
 借りてきたらしい本の表紙を撫でる。覚えのある雰囲気の、けれど見たことのない表紙。
 指先で撫でればつるりとした感触が返った。けれど持ち上げようとすれば手がすり抜けた。
 あぁ、読めない。
 ただそれだけのことが悲しくて、いつきは泣いた。自分はもう死んでしまって、いつまでこうしていられるかも判らない。
 ふっ、と足元がなくなるような――。ただ本が読めないというだけで、こんなに心許ない気持ちになるだなんて知らなかった。
 不器用に、つぐみがそろそろと背中を撫でてくる。年下の少女の手を、優しくいつきは振り払った。
「大丈夫、大丈夫よ」
 何が大丈夫なのか自分でも判らないまま、いつきは繰り返した。
「大丈夫よ。わたしは、大丈夫」
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