最も低い、俺

文字数 2,583文字

 学校はあまり好きではない。

 勉強ができないわけではないし虐められているわけでもない。

 友達……はいないわけじゃないからぼっちでもないよ。ほんとうだよ。

 おっはよー。矢田っち。
 おー、間堂くん。……はよ。
 ほらね。いたでしょ。友達。

 だから俺はぼっちではないよ。断じてぼっちなどではない。

 矢田っち、目の下の隈すごいよ。大丈夫?
あー…うん。あんまり寝れてないかも。
 そっかあ。なんか悩みとか?

 あ! 恋の悩みだったりして〜?

 ないない。ただ最近寝付けないことが多いだけだよ。
 本当? 

 悩みとかあったら聞くからね。矢田っち自分のことあんまり話さないから心配だよ。

 大丈夫だって。

 でもありがとう。間堂くん。

 矢田っちがそう言うならいいけど…。

 もう授業始まるけどきつかったら早めに保健室行きなよ。

 ん、そうする。
 本当は昨日見た夢のせいであまり眠れなかった。でも間堂くんは俺みたいなのにも話しかけてくれるいい奴だからあまり心配させるようなことを言いたくなかった。

 単純にあの夢をもう一度思い出したくない気持ちも大きかったけれど。

 ほーらみんな席につけー。

 授業始めるぞー。

 一限目は歴史の授業だ。

 浜岡先生の単調でゆっくりとした話し方は寝不足の頭を夢の世界に誘うにはうってつけだった。

 ウトウトと船をこぎながら俺はまたあの妙な夢を見なければいいなと考えた。


〜〜〜


 珍しくこの時はイエス様のお側に誰もおらず俺とイエス様の二人きりだった。というのもイエス様自ら俺と話しがしたいとおっしゃったのだ。

 正直に言って俺は浮かれていた。

 ただでさえお忙しいイエス様が十二使徒の一人ではあるが一番下っ端の俺なんかと話しがしたいなんてこんなに有り難いことあるだろうか。

 二人きりだなんてあの仔猫を差し上げた夜以来だ。多くの人々がそれこそ高い地位の方から貧しい民までこぞってイエス様のお説教を聞きたがっているというのに!

 敬愛するイエス様からのお話を独り占めできるなんて幸せでどうにかなりそうだ。

 まるで想い人に呼び出された乙女のようにソワソワとしてしまうのも無理からぬことだった。

 ユダよ。

 あなたは私のことを愛していますか?

 時折イエス様はこのような質問を弟子達にされる。この愛とはもちろん恋愛ではなく神子への純粋な愛と信仰を問われているのだ。
 ええ。もちろんです。

 わたくしめがどんなに貴方様を愛しているのか貴方は知っておいでです。

 ええ、知っていますよ。ユダ。

 愛しい我が子よ。

 イエス様は微笑んで俺の頭を仔猫を撫でるように優しく撫でてくださった。

 まるで飼いならされた犬のように俺は彼からの愛を享受する。

 愛する子よ。あなたは私のために命を捨てる覚悟がありますか。
 はい。主よ。

 このユダ・イスカリオテ、貴方様のためなら命でもなんでも捨てましょう。

 今この場でこの目をえぐり出せと言われてもイエス様の望みならば躊躇など致しません。

 大げさに聞こえるかもしれないが本心からの言葉だった。

 本当に、イエス様のためならなんでもできる気がしていた。

 そうですか。では
 イエス様は慈しみを満ちた瞳で笑いかけてくださった。

 ああ、なんて麗しい。

 心も姿もこれほど美しく気高く尊いお方はおられないだろう。

 この方を見て、神の御子ではないと疑う人などいるだろうか。

 しかし、うっとりとイエス様を見上げる俺にイエス様はこの上ない残酷な言葉を放った。

 ユダよ。あなたはいずれ、私を殺すでしょう。
 いやだ!

 私には愛する貴方を殺すなんて考えられないっ!

 えっ!?
…………んあ……?
 我に返ると目の前にいたのは浜岡先生の顔で、麗しい師の姿はどこにも見当たらなかった。

 思わずイエス様のお姿を探して周りを見渡すと教室のみんなが俺の方に驚いた顔を向けていたのが目に入った。

 そして再び浜岡先生の顔が視界に入る。

 そうだ。ここは教室だ。俺はようやく状況を理解して青くなった。

矢田っち……?
 斜め後ろの席の間堂くんが心配そうに声をかけてくれる。でも俺はパニックになっていて返事もできなかった。

 浜岡先生が動揺からいち早く立ち直って若干不自然な笑い声を上げた。

 はっ、あっはっはっはっはっ!

 ずいぶん熱烈な告白だなぁ、矢田?

 でもごめんなー。先生、付き合うならデーカップのぴちぴちギャルがいいんだわ。

 ……お、俺…………。
 浜岡先生がなにか笑い話にしようとしてくれてるのもほとんど耳に入らない。頭の中はさっきの夢がリアルに思い出され、いや夢なんかじゃない。

 もう俺には分かっていた。

 これは夢ではなくて現実に起きた実体験の記憶なのだと。そうこれは。

 俺の前世の記憶だ。

 ……俺は……俺、の…名は…………。
 そうだ。俺の名は。

 何度も、何度も師に呼んでいただいたあの名前は……っ!!

 …ユダ・イスカリオテ……。
 その時の感情は上手く言い表わせない。ただ、途方もない罪悪感と消えない師の言葉が頭の中を嵐のように駆け巡っていた。

 そしてはっきり分かっていたのは、俺がイエス様を殺したという事実だった。

 ……矢田?  大丈夫か?
 浜岡先生が気味が悪いものを見るような目で俺を見ていた。

 教室の連中は驚きと戸惑いから脱してひそひそと話している。中には面白そうにこちらを覗き込んでいる者もいた。でもその時の俺にはそんなことどうでもよかった。

 俺がなにをするべきか、もう心は決まった。

 俺は教室を飛び出した。

 先生が声を荒げていたが一度も立ち止まらなかった。はやく。はやく。はやく。

 心の声が俺を急かす。

 たどり着いたのは屋上で、普段運動もろくにしない癖にこの時は何故か全力疾走のあとも座り込みもせずにフェンスに手をかけていた。

 三階からの眺めは普段見ている教室と少し違って新鮮だった。

 なあ、みんなは自分の一番大切な人を殺してしまったらどうする?

 








俺は、こうする。

 ははっ、前の時よか楽に死ねそう。
 フェンスを乗り越えて狭いコンクリートの梁に足を下ろす。

 びゅうと音を立てて風が俺の体に吹きつけた。

 ああ、イエス様。

 ごめんなさい。愛してます。

 許されないこの罪をせめてこの命で少しでも贖えるのなら……。

 俺は何もない宙に足を踏み出した。

 ……さようなら。コトハ……。
 さようなら世界。

 さようならみんな。

 良い一日を。

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登場人物紹介

矢田 誠実(やだ まさちか)

前世がユダな不幸な男。ひょんなことから自分がキリストを裏切ったユダ・イスカリオテということを思い出し絶望して死のうとする。生死を彷徨っている時に夢にキリストが現れて彼に新たな使命が与えられた。はたして誠実は過去の汚名を晴らすことができるのか!?

間堂 当真(まどう とうま)

誠実と同じクラスで友人。自殺未遂した誠実をとても心配している。

鞠山 言葉(まるやま ことは)

誠実の幼馴染で同級生の女の子。いつもやる気のない誠実が気になるみたいで……?

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