第1話 ある衝撃

文字数 2,581文字

 2020年、世界は新型コロナウィルスによって、とんでもない騒動に巻き込まれてしまった。騒動というより、事故であり、事件であり・・・いや、これはウィルスとの戦争だと明言した国家統治者もいた。それほど深刻な打撃を各国にもたらした。
 しかし、そのことで詳らかになったことは、人々の中に潜んでいた、あいつコロナなんだぜ、という指摘と差別意識の助長だった。
 世にコロナ警察なるものが出没して、ビラを撒いたり、貼り紙をしたり、悪戯電話をかけたり、まことしやかなデマを吹聴したりしたのだ。
 親切で、優しい、いつも笑顔で挨拶してくれる叔母さんやオジサンがそんなふうに豹変してしまったのだ。
 またやったか・・・。
 そんな憂鬱な気分でネットニュースを読んでいた。
「!」
 ハッとした。
「あっこれはハンセン病の人たちを差別し捲ったこの国の過去の行動に通底するものじゃないか・・・」
 そんなふうに考えると繋がって行くことが次々に出て来て,暗澹たる気持ちになった。

 ただハンセン病のことについて,私がどれほどのことを知っているかというと,大したことはない。ザックリとした知識はあったが,そんなものはニュース報道によってもたらされた程度と同じだった。
 しかし,10年前,母校に社会人入学し,再び大学の講義に出る機会に恵まれ,そこで取った「現代社会論」の講義で、ハンセン病のことと関わることになった。
 もちろんその病気のことは知っていた。しかしそれはただ2次元的な知識としての〝知っている〟でしかなかったということを,『栗生楽泉園入所者証言集』を読む機会を得て,まざまざと実感した。
『なんということが行なわれていたのだろう・・・』
 鈴木時治さんの陳述書を電車の中で読み始めて,この国の今に至る卑怯で淫猥でその場しのぎの行政の対応などが,ずっとずっと昔から脈々と続いてきているのだなということを思い知らされ,これじゃあフクシマの人たちを救わないわけだ,としたくもないことに合点がいってしまい,さらにやるせない気持ちになった。
 足尾でも水俣でも,良いように誤魔化せられ,歪められ,真実がぼやかされてしまい,疲弊し,摩耗し,人々は消耗してしまい,制も根も尽き果てるのだ。そうなることを権力側は待っているし,そうなるように仕向けてくるのだ。
 しかし,この人たちは踏ん張っている。もうギリギリのところだと思うがなんとかかんとか堪えている。鈴木さんの写真を見れば確かにゾッとする。同じバスに乗って,隣の席に座られたらどうだろうと,ふと考えてしまう。でも,事の本質はそんなところにない。もっともっと根深い地の底のような場所に横たわっている何かを取り除かなくてはこういう問題は何一つ解決などされないのではないかと思ってしまう。
 それは何だ!?
 目に見えないし,この手で触ることもできないのだ。
 そしてそれは誰しもが抱えている厄介なものなのだけど,きちんと対応すれば強い味方,矜持にもなりえるものだ。

 〝湯之沢部落〟の自立的患者共同体としての存在を,国がもっと大切にしていれば,あるいはせめて肺結核治療への思い入れと配慮を持ち合わせてくれていれば,〝塀のない収容所〟としてのどこにも行き場のない現実からは,逃れられたかもしれない。もしかしたら何か別の「カタチ」での自立した素敵な療養所の姿として,画期的な「療養所」が生まれたかもしれない。確かにその部落の存在が,「栗生楽泉園」の中へと収斂されて行ったのかもしれないが,何とも裏腹なアウシュビッツ的な方向に突っ走ってしまうのだからたまったものではない。
 それがこの国の,そして世界のあちこちで繰り広げられた人間というやつの持つ,凄まじいまでにも酷く醜い側面なのだ。
 高等小学校2年生といえば14歳だ。そんな時に発症し,学校を退学させられ,教師になる夢もかなわなくなった中での治療は,いったいどういう思いだったのか,と想像しても想像できないくらい切ないものだ。

   (略)昭和11年1月21日に,乗車拒否をされないかとおどおどしながら,金沢へ帰りました。この年は大雪で,この日も雪がしんしんと降っていましたが,わたしは長野駅で待つときも,待合室に入らず,ほの暗いプラットホームの長椅子に腰かけて,寒さに震えながら待っていました(P102・12行目~15行目)

 1月の長野駅がどれくらい寒いか,そんなところでもっと寒い荒涼とした思いを抱えながら,らい病の治療を続けている16歳になるかならないかの女の子が震えているなんて,憐れすぎる。寂しすぎる。
 プロミンという特効薬が戦後普及するまで,大風子油という薬しかなく,治療と言ってもままならなかった現実は『栗生楽泉園証言集』を読むと,痛ましい限りだ。浅井あいさんが,やがてプロミンの成果で菌が消え,金沢に帰りたい,と許可を貰って,すでに全盲になっているにもかかわらず,故郷へ向かう姿は,この病気と闘い,そして人生をボロボロにされたけれども失わなかった人としての本質の輝き,強さ,優しさ,というようなものをまざまざと感じさせる。家族もまた酷い目に遭い,こらえきれない感情に翻弄されてしまうのだけど,年老い,痴呆が出た症状になっても,「自分にはいま一人子どもがいるはずだ。どこかにいるはずだ」(P113・18行目)という言葉は,母親としての如何ともし難い思いにずっとずっと苛まれてきた複雑な感情に溢れている。夢の中で何度あいさんを抱きしめたことだろう。強く強く骨も折れよとばかりにお母さんはあいさんを抱きしめたことだろう。そして声を限りに泣いたことだろう。それはどの人も,どの家族もそうだろう。

 『栗生楽泉園』は草津温泉から少しのところにある。療養生活を送る環境としては実に良いところかもしれない。しかし政府の隔離政策として捉えると,戦前のあの時代の劣悪な環境を思うとその生活は想像を絶するものがあったことだろう。
 多摩全生園や栗生楽泉園の中で繰り広げられた「人権闘争」などは,患者たちの熱い思いが已むに已まれぬ命の爆発的な思いに突き動かされて繰り広げられたのだろう。「運動」としてそれは相当な努力を要し,全生命をかけた行動だったのだろう。それが時の宰相,小泉総理大臣の耳に届き,心に触れたあの裁判に結実して行ったのだろう。
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