後編
文字数 2,845文字
その日の夕方、真由美はまた、さんかくかんの様子を、通りの向かいから観察していた。
午後三時を過ぎたあたりから、さんかくかんを囲むどの通りからも、それぞれ別々の学校に通っているのだろう子どもたちが、次々とさんかくかんの中へ吸い込まれていく。多くの子どもたちは、二、三人で、連れだって買いにくる。あいまに、一人っきりで買いにくる子がチラチラ混じる。別に、一人で行動するのは悪いことじゃない。真由美自身、どちらかというとそういう子だった。だけど。
昨日のお下げの子が現れたのは、午後四時半前だった。通りをやってくる豆粒のようなその子の姿を、真由美は認めた。
つとめて無害なおばあちゃんの雰囲気を出しつつ、真由美はその子に声をかけた。
「こんにちは」
女の子は、足を止めてこちらをむき、礼儀正しく会釈をした。今どき珍しくしつけの行き届いた子だ、と真由美は思った。でも、要件はこれからだ。
「さんかくかんに行くのかな?」
「はい。おかあさんにも、行っていいよ、って言われてるので」
なるほど。模範的な答えだ。親の許可は得ているということを、あたしに示したいんだな。
「そうかい。いいおかあさんだね」
とにっこりしながら、真由美は少し腰をかがめ、女の子の耳元に向かってささやいた。
「もしかして、あなた、あのお姉ちゃんのこと好きなんじゃないかい?」
女の子の顔が、さっと曇った。しかしそれは一瞬のことで、すぐに元の行儀良い笑顔に戻る。
「はい。お姉さんとお話しするのは楽しいです。綺麗ですし」
「うん。そうだね。あの子は綺麗だよね。おばあちゃんもね、あの子と話すのが楽しくて、実は、さんかくかんで、こんな年になっても、時々買い物をしているんだよ」
「そうなんですね」
女の子が、少しそわそわしだしたのに真由美は気がついていた。こちらを怪しんでいるのだろうし、あまり帰宅が遅くなると母親に怒られるのもあるだろう。しかし、たぶんそれだけではない。
「おばあちゃんね、こんな年だろう。だから、お菓子はそんなに食べられなくてね。あそこは、おもちゃもいっぱいあるだろう? 時々、買って帰ったりするんだよ。すると、最近不思議なことがあってねえ。ブリキの金魚のジョウロのなかに、なぜかフーセンガムがいくつも入っていたりするんだよ。ありゃあ、おまけなのかねえ?」
女の子の、細い細い足が、ぶるぶると震え出したのがわかった。目線を上げると、深めにかぶった帽子の下の顔は蒼白になり、ビー玉のような目から涙が流れ出していた。唇がひしゃげ、小さな歯がカタカタと音を立てている。女の子が発している恐れと憎しみを浴びながら、真由美はさらにしゃがんだ。いたたた。最近腰痛がどんどん悪化しているというのに。あたし、明日歩けるかしら。
女の子の肩に両手をのせ、目をじっと見つめながら、真由美はささやいた。
「お姉ちゃんのことが好きなんだろう? じゃあ、好きな人のことを困らせちゃダメだよ」
「きびだんごかあ。食べたいけれどねえ。この頃、歯が悪くなってねえ」
一週間後の午前中、真由美は、すっかり表情の明るくなった少女と話しながらさんかくかんで駄菓子を物色していた。腰痛はそれほど悪化せずにすんだ。助かった。
「それで、最近は、商品が無くなっちゃうことは減ったのかい?」
「減ったというか、全くなくなりました! やっぱり、私の商品管理がダメダメだったんですね。管理の方法を少し変えてみてから、在庫数が合わないことがなくなりましたから。あの子たちを疑ったりしなくって、ほんとうによかった」
そういう少女の顔からは、心の底から安堵している様子が窺えた。
「そうかい、それは、ほんとうによかった」
影のない表情の少女をみていると、真由美もつい、年甲斐もなく気持ちが浮き立ってくる。
「じゃあ、今日はあたしも、いつもよりも余計に売上に貢献しちゃおうかな」
と駄菓子の棚を漁るうち、久しぶりに目にする商品に気がついた。
「おや、どんどん焼きじゃないかい。これ、前からここにあったかい?」
太鼓を叩く子どもたちが描かれた袋を少女の方に向けながら、真由美はたずねた。
「ああ、それ、つい最近入荷したんです」
少女はニコニコしながら答えた。
「けっこう子どもたちにも人気なんですよ」
「そうだろう。おいしいものねえ。うーん。これも、ちょっと硬いんだけど、きびだんごみたいに歯にくっついたりはしないし、買っちゃおうかな」
結局、どんどん焼きのソース味と、すもも漬け、ビンラムネと、いつものココアシガレットを買うことにした。まったくよく食べるおばあちゃんだこと、と独りごちながら。
「けれども、あたしが子どもの頃はね、もちろん、こういう袋に入ったどんどん焼きも売ってたけどね。この店で、おばあちゃんが焼いてくれてたんだよ」
と言いながら、真由美は商品をレジにかざしはじめる。
「私は食べられないから知識でしかわかりませんけれど、これ、揚げせんべいみたいなスナック菓子ですよね? おばあさんが、このお店で揚げていたんですか?」
「違う違う。確かに、このどんどん焼きは揚げせんみたいなもんだけどね。もともと、どんどん焼きって、鉄板で、小麦粉とかを溶いたものを焼いたものなんだよ。お好み焼きみたいなもんだね」
「はあ。そうなんですか」
「うん。ちょうどそこのあたりに、当時はおばあちゃんが座っていてね」
と真由美は、今はおもちゃ類がぶら下げられているあたりを指差しながら続けた。
「味付けも色々あってね。もう、自分が食べてたもの以外忘れちゃってるけどさ。細いお肉をのっけてソースをかけてくれたのとか、あんこをくるんで巻いてくれたのとか、よく食べたなあ。五十円くらいだったかなあ」
自身の子ども時代の記憶をたどりながら喋りつつ、ふと少女の方を向くと、困り顔になりつつあるのがわかった。目元は変わらず笑顔のままだが、眉がハの字に垂れ下がってきている。ああ可愛い。あの頃の未希子にそっくりだ。だけど、あの頃の未希子はどんな気持ちだったんだろう。そして、今のあたしはどんな顔になっているんだ? この子に料理ができないことなんか、わかりきったことじゃないか。それをわかったうえで、べらべらろくでもないことを喋り続けてこの子を傷つけるような、嫌な婆さんにあたしは成り下がったのか? いけない。これじゃあ、あたしも、あのお下げの女の子と同じじゃないか。あの子は変わったんだ。あたしも変わらなくちゃ。
「でも、このどんどん焼きもおいしいんだよ。サクサクしててね。もう一袋買って行こうかね。まったく、よく食べるおばあちゃんで困っちゃうよねえ」
少女は一瞬ぽかんとしていたが、すぐに、丸い目をキュッと細め、両側の口角が上がったかと思うと、さっきまでとは比べ物にならないほどの笑顔になった。少女の頬に浮かんだエクボに見とれながら、あたしの口角もきっと上がっているだろう、と真由美は思った。
午後三時を過ぎたあたりから、さんかくかんを囲むどの通りからも、それぞれ別々の学校に通っているのだろう子どもたちが、次々とさんかくかんの中へ吸い込まれていく。多くの子どもたちは、二、三人で、連れだって買いにくる。あいまに、一人っきりで買いにくる子がチラチラ混じる。別に、一人で行動するのは悪いことじゃない。真由美自身、どちらかというとそういう子だった。だけど。
昨日のお下げの子が現れたのは、午後四時半前だった。通りをやってくる豆粒のようなその子の姿を、真由美は認めた。
つとめて無害なおばあちゃんの雰囲気を出しつつ、真由美はその子に声をかけた。
「こんにちは」
女の子は、足を止めてこちらをむき、礼儀正しく会釈をした。今どき珍しくしつけの行き届いた子だ、と真由美は思った。でも、要件はこれからだ。
「さんかくかんに行くのかな?」
「はい。おかあさんにも、行っていいよ、って言われてるので」
なるほど。模範的な答えだ。親の許可は得ているということを、あたしに示したいんだな。
「そうかい。いいおかあさんだね」
とにっこりしながら、真由美は少し腰をかがめ、女の子の耳元に向かってささやいた。
「もしかして、あなた、あのお姉ちゃんのこと好きなんじゃないかい?」
女の子の顔が、さっと曇った。しかしそれは一瞬のことで、すぐに元の行儀良い笑顔に戻る。
「はい。お姉さんとお話しするのは楽しいです。綺麗ですし」
「うん。そうだね。あの子は綺麗だよね。おばあちゃんもね、あの子と話すのが楽しくて、実は、さんかくかんで、こんな年になっても、時々買い物をしているんだよ」
「そうなんですね」
女の子が、少しそわそわしだしたのに真由美は気がついていた。こちらを怪しんでいるのだろうし、あまり帰宅が遅くなると母親に怒られるのもあるだろう。しかし、たぶんそれだけではない。
「おばあちゃんね、こんな年だろう。だから、お菓子はそんなに食べられなくてね。あそこは、おもちゃもいっぱいあるだろう? 時々、買って帰ったりするんだよ。すると、最近不思議なことがあってねえ。ブリキの金魚のジョウロのなかに、なぜかフーセンガムがいくつも入っていたりするんだよ。ありゃあ、おまけなのかねえ?」
女の子の、細い細い足が、ぶるぶると震え出したのがわかった。目線を上げると、深めにかぶった帽子の下の顔は蒼白になり、ビー玉のような目から涙が流れ出していた。唇がひしゃげ、小さな歯がカタカタと音を立てている。女の子が発している恐れと憎しみを浴びながら、真由美はさらにしゃがんだ。いたたた。最近腰痛がどんどん悪化しているというのに。あたし、明日歩けるかしら。
女の子の肩に両手をのせ、目をじっと見つめながら、真由美はささやいた。
「お姉ちゃんのことが好きなんだろう? じゃあ、好きな人のことを困らせちゃダメだよ」
「きびだんごかあ。食べたいけれどねえ。この頃、歯が悪くなってねえ」
一週間後の午前中、真由美は、すっかり表情の明るくなった少女と話しながらさんかくかんで駄菓子を物色していた。腰痛はそれほど悪化せずにすんだ。助かった。
「それで、最近は、商品が無くなっちゃうことは減ったのかい?」
「減ったというか、全くなくなりました! やっぱり、私の商品管理がダメダメだったんですね。管理の方法を少し変えてみてから、在庫数が合わないことがなくなりましたから。あの子たちを疑ったりしなくって、ほんとうによかった」
そういう少女の顔からは、心の底から安堵している様子が窺えた。
「そうかい、それは、ほんとうによかった」
影のない表情の少女をみていると、真由美もつい、年甲斐もなく気持ちが浮き立ってくる。
「じゃあ、今日はあたしも、いつもよりも余計に売上に貢献しちゃおうかな」
と駄菓子の棚を漁るうち、久しぶりに目にする商品に気がついた。
「おや、どんどん焼きじゃないかい。これ、前からここにあったかい?」
太鼓を叩く子どもたちが描かれた袋を少女の方に向けながら、真由美はたずねた。
「ああ、それ、つい最近入荷したんです」
少女はニコニコしながら答えた。
「けっこう子どもたちにも人気なんですよ」
「そうだろう。おいしいものねえ。うーん。これも、ちょっと硬いんだけど、きびだんごみたいに歯にくっついたりはしないし、買っちゃおうかな」
結局、どんどん焼きのソース味と、すもも漬け、ビンラムネと、いつものココアシガレットを買うことにした。まったくよく食べるおばあちゃんだこと、と独りごちながら。
「けれども、あたしが子どもの頃はね、もちろん、こういう袋に入ったどんどん焼きも売ってたけどね。この店で、おばあちゃんが焼いてくれてたんだよ」
と言いながら、真由美は商品をレジにかざしはじめる。
「私は食べられないから知識でしかわかりませんけれど、これ、揚げせんべいみたいなスナック菓子ですよね? おばあさんが、このお店で揚げていたんですか?」
「違う違う。確かに、このどんどん焼きは揚げせんみたいなもんだけどね。もともと、どんどん焼きって、鉄板で、小麦粉とかを溶いたものを焼いたものなんだよ。お好み焼きみたいなもんだね」
「はあ。そうなんですか」
「うん。ちょうどそこのあたりに、当時はおばあちゃんが座っていてね」
と真由美は、今はおもちゃ類がぶら下げられているあたりを指差しながら続けた。
「味付けも色々あってね。もう、自分が食べてたもの以外忘れちゃってるけどさ。細いお肉をのっけてソースをかけてくれたのとか、あんこをくるんで巻いてくれたのとか、よく食べたなあ。五十円くらいだったかなあ」
自身の子ども時代の記憶をたどりながら喋りつつ、ふと少女の方を向くと、困り顔になりつつあるのがわかった。目元は変わらず笑顔のままだが、眉がハの字に垂れ下がってきている。ああ可愛い。あの頃の未希子にそっくりだ。だけど、あの頃の未希子はどんな気持ちだったんだろう。そして、今のあたしはどんな顔になっているんだ? この子に料理ができないことなんか、わかりきったことじゃないか。それをわかったうえで、べらべらろくでもないことを喋り続けてこの子を傷つけるような、嫌な婆さんにあたしは成り下がったのか? いけない。これじゃあ、あたしも、あのお下げの女の子と同じじゃないか。あの子は変わったんだ。あたしも変わらなくちゃ。
「でも、このどんどん焼きもおいしいんだよ。サクサクしててね。もう一袋買って行こうかね。まったく、よく食べるおばあちゃんで困っちゃうよねえ」
少女は一瞬ぽかんとしていたが、すぐに、丸い目をキュッと細め、両側の口角が上がったかと思うと、さっきまでとは比べ物にならないほどの笑顔になった。少女の頬に浮かんだエクボに見とれながら、あたしの口角もきっと上がっているだろう、と真由美は思った。
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