第2話

文字数 3,112文字

 首筋に冷たい空気を感じておれはもぞもぞと身じろぎをした。首を竦めてすぐそばの温もりにすり寄り、ぐりぐりと頭を押しつける。それに応えるようにゆっくりと髪を撫でられ、おれはそのままふたたび眠りに落ちようとした。
 いや、ちょっと待て。
 おれは重たい瞼を無理やりこじ開ける。目を擦るおれの頭を撫でながら兄貴がいった。
「おはよう、冬馬」
「うわあああああっ」
 おれは飛び起きて兄貴から離れる。低血圧なおれには考えられないほどの反応の速さだ。
 兄貴は枕のうえに片肘をついて頭を支えたまま、空いた手でぽんぽんと隣を、つまり今までおれが寝ていた場所を叩く。
「おいで冬馬。まだ時間はあるよ」
 まるでなにもなかったように、朝から無駄に爽やかな笑顔でうながす兄貴にぶんぶんと首を振って拒否する。
「や、おれもう起きる」
 あわててベッドから降りようとしたおれを、素早く身を起こした兄貴が背後からつかまえて引き寄せる。そのまま布団のなかにひきずりこまれる。
「ばっ、馬鹿兄貴! 離せよ!」
「ひどいな。昨夜の冬馬はすごくかわいかったのに」
 背後から抱きしめられて耳許でささやかれる。微かに息がかかってぞくりとする。おれは暴れた。
「離せよ! 変態っ」
 とたんにありえない場所に兄貴の手が触れて、驚きのあまりおれは一瞬抵抗を忘れる。
「な、ちょっ、どこ触って」
「ふふ、かわいい。気持ちよくしてあげるからじっとして」
 冗談じゃない。昨夜の恐ろしいできごとを思い出しておれは青くなる。
 夕べ、兄貴はおれを酔わせて無理やりキスしやがった。しかも絶対に冗談なんかじゃ済まされない、ものすごいディープなやつを。
 というか、まさかおれ、あのまま寝たのか? そのあとの記憶がない。へんなことをされてないだろうな。とくに身体に違和感はないが。
 いや、それよりとにかく今のこの状況が問題だ。
「やめろよ! あ、や、やだっ」
 やばい。キスもやばいがそれよりさらにエスカレートしてないか、これ。
 二度目の貞操の危機に狼狽するおれの窮地を救ってくれたのは、ドアを開けて顔を覗かせた母親だった。
「冬馬、起きてるの? あんた今週当番で早く行かないといけないんでしょ」
 天の助け。昨日兄貴に売られたことは水に流しておれは母親に感謝した。
「お、起きてるよ」
「今起こしていたところ」
 布団のなかでおれの身体に触ったまま、なに食わぬ顔で答える兄貴にかっとなる。でも母親にそれを訴えることはできない。というか、いいかげん手を離せよ兄貴。
「あんた朝弱いからね。夏樹がいてよかったわ」
 いやむしろ危険なんですが。切実に。
 母親の登場で手が緩んだ隙に兄貴から逃れて、今度こそ部屋を飛び出す。その足でトイレにこもり、おれはぐったりとうずくまった。
「信じらんねえ」

 *****

 学校まで送っていく、とうるさい兄貴を断固拒否しておれは家を出た。
 しまった聞き忘れた。兄貴、いつまでいるんだろう。帰りは友だちと寄り道するから迎えにくるなといっておいたけど、もし今夜も泊まる気なら確実に迎えにくる。兄貴におれの都合は関係ない。
 おれはうんざりしながら重い足取りで学校に向かった。
 兄貴の奇行を知る友人たちは寄ってたかって新たな情報を求めてきた。
 おまえら絶対楽しんでるだろ。
 いいたくなかったが、黙っておれひとりで抱えておくと、昨夜のできごとが余計に深刻なものになる気がして、おれはあえて道化になることを選んだ。
「キスされた」
 友人たち、もとい、悪友どもは、さすがに目をまるくしたが、すぐに身を乗り出して口々に囃し立てた。
「おまえの兄貴マジでやべーよ」
「さすがにキスはしねえよな」
「つーか、キスだけ?」
 ひとりの言葉に一瞬しんとなる。
 おれは今朝のできごとを思い出して赤くなった。しまった、と思ったときにはすでに手遅れで。悪友どもはわあわあと騒ぎ出した。今さら訂正したところで聞くわけがない。くそ。おれは頭を抱えた。
 そこに救世主が現れた。
「草壁、おまえ当番だろ。先生が呼んでる」
 クラス委員がおれを手招きする。
 て、天の助け。ふだんなら面倒臭くてしかたない当番をこれほどありがたいと思ったことはない。
「わかった」
 おれは悪友どもを振り切って委員長についていく。
「あれ、職員室じゃないのか」
 委員長は階段を昇っていく。おれはあとにつづきながら尋ねる。委員長は振り向きもせずに進んでいき、とうとう屋上へ繋がる踊り場までやってきた。そこでようやく委員長は足を止めて振り返る。
「嘘だよ」
 優秀さを絵に描いたようなノーブルな顔立ち。眼鏡の奥の目を眇めて微かに笑った。
「へ?」
 思わず素っ頓狂な声をあげたおれを階段から見下ろして、委員長は繰り返す。
「先生が呼んでるというのは嘘。草壁、困ってただろ。だから助け舟を出しただけ」
 おれは呆気にとられて委員長を見あげる。その言葉の意味をようやく理解して、おれは礼をいった。
「サンキュ。おまえいいやつだな」
 委員長はふっと笑って手摺りにもたれる。
「それはどうかな」
「え」
「草壁、お兄さんにキスされたというのはほんとう?」
 あらたまってそんなふうに聞かれると答えにくい。というか、なんでおまえがそんなことを聞くんだ。
 おれと委員長はそれほど親しいわけではない。接点がないからつるんでいるグループが違うし、そもそも委員長はグループに属さない。気が向いたらどこかのグループに入る。そんなスタンスを保っている。身軽だ。
「なんで委員長がそんなこと聞くんだ」
「興味があるから」
 あっさりと返ってきた答えにげんなりする。委員長、おまえもか。
「委員長がそんな話に興味があるとは思わなかった」
「そう? どうして」
「どうしてって、なんとなくそんなイメージ」
「ふうん」
 委員長はおかしそうに笑う。
 なんだ。堅いやつだと思ってたけど、意外ととっつきやすいかも。おれはこっそり委員長の印象を修正した。
「キスされてどうだった?」
 委員長はさらに突っ込んだ質問をしてくる。いいかげんこの話題はやめてほしいが、いちおう、助けてもらった借りがあるので無下にできない。
「どうって、そりゃあびっくりしたよ」
「そうじゃなくて、気持ちよかった?」
「なっ」
 おれはかっと赤くなる。なんだこれ。いやがらせ? セクハラなのか?
 委員長は口をぱくぱくさせるおれに近寄ってくると、後ずさるおれの背後の壁に手をついて顔を覗き込んでくる。
 近いっつーの。
「お兄さんの気持ちがわかる気がする。草壁を見ているとちょっかい出したくなる」
「な」
 なんだよそれ。おまえまさか兄貴の同類か。変態か。そうなのか。
「ぼくも草壁みたいな弟が欲しかったな」
「同い年だろ」
 力ないおれのツッコミにくすりと笑うと委員長はおれから離れる。なんなんだ。
「お兄さんとは歳が離れているんだろう」
「え? ああ、兄貴が高校生のときにおれが生まれたって聞いた」
「じゃあ、今のぼくたちと同じ年ごろに弟ができたってことだな」
 そういうことだ。
「それはかわいくてしかたないだろ。草壁、もし今、自分に弟ができたらどう思う」
「どうって」
「かわいくないか」
 そりゃあかわいいに決まってる。
 委員長はいたずらっぽい目をしていう。
「つまり、そういうことだ」
「へ? なにが?」
「自分で考えろよ。戻るぞ」
 さっさと階段を降りていく委員長を呆然と眺めておれはつぶやく。
「意味わかんねえ」
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