第1話

文字数 5,270文字

 おれには歳の離れた兄貴がいる。
 おれが生まれたとき、兄貴はすでに高校生で、ひと回り以上歳の離れたおれたちは喧嘩というものをしたことがない。
 それがふつうだと思っていたから、兄弟がいる友人の話を聞くたびに、おれは不思議でしかたなかった。
 兄貴がいる友人は、幼いころに散々いじめられて泣かされたことをいまだに根に持っていて、ほとんど口をきくこともないという。弟がいる友人は、くそ生意気でむかつくから、なるべく顔を合わせないようにしているという。
 おれは兄貴にいじめられたことはないし、無視をされることもない。それどころか。
 兄貴はおれに甘い。
 それはもう異常なほどに。

 *****

 大学進学と同時に家を出た兄貴はそのまま都会で就職して独身生活を謳歌している。
 おれが高校生ということは、兄貴は今、三十代半ばになる。母親は、もうそろそろ身を固めてはどうかと再三いっているようだが、柳に風。兄貴はうまくそれを躱してのらりくらりと生きている。
 兄貴は長期休暇以外にも、ふいにふらりと家に帰ってくる。そのたびにおれに土産を携えて。しかもその土産は、新発売のゲームソフトや限定品のスニーカーといった決して安くはないものばかりで、幼いころからの度重なる高価なプレゼントに、さすがにこれはちょっと度が過ぎると最近のおれは引き気味だった。
 兄貴はおれにプレゼントを渡すために帰郷しているのではないかと思うほどだ。
 今日もそうだった。
 帰宅部のおれは授業を終えて友人と寄り道して帰ろうと学校を出た。
 そこに兄貴が待ちかまえていた。
 見覚えのある車が見えたときからイヤな予感はしていた。友人のひとりが気付いて「あ」と声を上げる。
「あれ、おまえの兄貴じゃね?」
 高校に入ってからできた友人でさえおれの兄貴の顔を覚えてしまった。そのくらい頻繁に兄貴はこうして不意打ちでおれを迎えにくる。おれは内心ため息をついてうなずく。ダメだ。今日の予定は全部キャンセルだ。
「悪い」
 短く詫びるおれに友人たちはニヤニヤしながら肩を叩いて去っていく。おれはもう一度ため息を零して兄貴に近付いていった。
「お帰り」
 おれの心中などおかまいなしに、兄貴は無駄に爽やかな笑顔でおれを迎える。身内のおれがいうのもなんだが、兄貴は見てくれがいい。コンプレックスを抱く気すら起きないほどの美形ぶりだ。
「ただいま。お帰り」
 ぶっきらぼうにいうおれに嬉しそうな顔で兄貴は答える。
「ただいま。会いたかったよ冬馬」
 まるで遠距離恋愛中の恋人にでも会いにきたような顔と台詞だ。ついひと月まえに会ったばかりだというのに。気にしたらダメだ。過去に散々指摘したけど、糠に釘。兄貴は人の話を聞かない。聞いてもさくっとスルーしやがる。
 兄貴の運転する車に乗り込むと、毎度のごとく、行きたい場所はないか、食べたいものはないかと尋ねてくる。おれの答えはわかりきっているだろうに。
「べつにない。母さんから買いもの頼まれてるんだろ?」
「ああ、今日の夕飯はハンバーグと唐揚げとコロッケだそうだ」
 母親も兄貴の扱いを心得たもので、帰ってくるたびに「どうせ冬馬を迎えに行くんでしょ。ついでに買いものお願いね」とちゃっかり頼んでいる。
 つーか、どんなメニューだよそれ。兄貴とおれの好物を足してさらにおまけまでついている。
 近所のスーパーに買いものに行く。仕方ないのでおれもついていく。この時間帯の客層は圧倒的に主婦が多い。真剣な面持ちで玉葱を選ぶ兄貴を、母親と同年代とおぼしき女性がうっとりと眺めている。やめとけ。見た目はいいけど中身は問題ありだぞ。
 夕食の材料を揃えると、兄貴は嬉々としておれを呼び寄せる。お菓子コーナーに。
「冬馬、なんでも好きなもの買ってやるぞ。なにがいい?」
 これもお決まりのパターンだが、いいかげん恥ずかしい。完全に子ども扱いだ。
「いや、いいって」
「遠慮するな。おっ、おまえの好きなチョコパイ、冬バージョンが出てるぞ」
 そんな具合でどんどんカゴにお菓子を放り込んでいく。だからチョコパイが好きだったのはガキのころのことだって。今も嫌いじゃないけど。つーかどんだけ買う気だよ。
 そんなにいらない、というおれの言葉を笑顔で黙殺して、兄貴は大量の菓子類を買い込んだ。
 遠慮なんかするなとおれの頭を撫でるが、遠慮しているわけじゃなくて本当にいらない。うちで甘いものを食べるのはおれだけだし、毎日食べても半月以上はありそうな量だ。
 というか、頭を撫でるな。しかも人前で。
 家に帰ったときにはもうぐったりしていた。兄貴から逃げるために自分の部屋にこもるつもりが兄貴までついてくる。意味がない。
 げんなりしながら制服を脱ぐおれを兄貴は黙って眺めている。男同士とはいえそんなにまじまじ見つめられると着替えにくい。頭からトレーナーをかぶった瞬間、背後からペタペタと脇腹を撫でられておれは「ひゃあっ」とへんな声を上げた。
「なななななにすんだよっ」
「冬馬も大きくなったよな。むかしはこんなに小さかったのに」
「ちょっ、とにかく触んな!」
 強引にトレーナーをおろして兄貴の手を振り払う。おれは脇腹を触られると弱い。今だって全身に鳥肌が立っている。あわてて兄貴から離れると、なんだか傷付いたような顔をしてつぶやく。
「子どものころの冬馬はかわいかった。いつもおれのあとをついて回って『にーちゃんにーちゃん』ってしがみついてきたのに」
「いつの話だよ!」
 兄貴のなかではおれはいつまで経っても小さな子どものままらしい。いいかげん弟離れしろよブラコン。
 しゅんと肩を落としていた兄貴は、思い出したようにぱっと顔を輝かせて手に持っていた袋を差し出す。イヤな予感。
「なに?」
「お土産。冬馬、欲しいだろうと思って」
 おそるおそる受け取ってなかを見ると、先日発売されたばかりのDVDだった。おれが好きなアーティストのライブを収録したもので、欲しいけど小遣いがギリギリで我慢していた。
「もしかしてもう買った?」
「いや、まだだけど」
「嬉しくない?」
「や、ていうか、兄貴」
「ん」
「嬉しいけどさ、あんまりおれを甘やかすなよ。兄貴、おれにどんだけ貢いでんの」
 貢ぐという言葉は正しくないかもしれないが、実際そんな感じだった。
 兄貴は笑う。
「いいんだよ。おまえに貢ぐのがおれの楽しみなんだから。黙って甘えてろ」
 自分で貢ぐっていったよこのひと。
 絶句するおれの頭をよしよしと撫でながら兄貴はつづける。
「おれがおまえを甘やかす代わりに、お袋たちはおまえに厳しいだろ。だから気にしなくていい」
 たしかに。兄貴のあまりの溺愛ぶりに両親は呆れつつも、自分たちはちゃんとおれを躾ないといけないという使命感に駆られたらしく、おれに対しては基本的に厳しい。
 そのまえに、兄貴の暴走をなんとかしてくれと思うのだが、それに関してはすでに匙を投げているのだろう。おれがいくら訴えても「夏樹はあんたのことがかわいくてしょうがないのよ。邪険にしないで相手をしてやりなさい」と全面的に兄貴の味方だった。やりきれない。

 *****

 お子様ランチのような夕飯を食べ終えて、一緒に風呂に入ろうとする兄貴を全力で締め出して無事にさっぱりしたおれは、このあとのことを考えてふたたび憂鬱になる。
 兄貴が帰ってくるたびになにがいちばんおれを憂鬱にさせるかというと。
「冬馬、おいで」
 自分の部屋すら安息の地ではないと悟ったおれは、パジャマ姿で居間に避難していた。ここなら両親の目があるので、兄貴も極端な言動に走らない。
 つかのまの平穏を味わっていると、風呂からあがってきた兄貴がおれを手招きした。
「おれの部屋で一緒にDVDを観よう」
「や、ここでいい」
「冬馬、お兄ちゃんの部屋に行きなさい」
 母親があっさりとおれを売った。
 この家のヒエラルキーの頂点は母親で、次が兄貴、父親、そしておれが最下層だった。上のふたりがタッグを組むと、おれに勝ち目はない。父親は素知らぬ顔で新聞を読んでいる。この家におれの味方はいない。四面楚歌だ。
 おれは売られていく仔牛のようにとぼとぼと兄貴の部屋へ向かう。
 兄貴の部屋はダブルベッドが占領しているといっていい。ありえない理由だが、兄貴はおれと一緒に寝るためにこのダブルベッドを購入したのだ。
 子どものころのおれは、誘われるまま素直に兄貴と寝ていた。でもさすがに中学生にもなると兄貴と一緒に寝るなんて恥ずかしいし、だいいちベッドが狭い。
 当時はまだシングルベッドを使っていた兄貴に、おれは「ベッドが窮屈だからもう一緒に寝たくない」といった。もちろん、そんなのは体のいい断り文句で、たんに兄貴と寝るのがいやだっただけだ。
 すると兄貴は暴挙に出た。
 それまで使っていたベッドを処分し、ダブルベッドを買ったのだ。おれは唖然とした。母親に泣きついた。兄貴はおかしい、と。
 そのときの母親のいいぶんがまた奮っていた。
「夏樹は今までまったくわがままをいったことがなかったのよ。それがあんたと寝るためにダブルベッドが欲しい、買ってもいいかと聞いてくるじゃない。だめとはいえないでしょ」
 いや、全力で止めてくれよ頼むから。そもそも長男が弟と寝るためにダブルベッドを買う、という発想がすでにまともじゃない。微笑ましいじゃないの、と母親は笑うが、冗談じゃない。笑いごとじゃない。
 だが、おれの抵抗も虚しく、兄貴はいまだに帰ってくるたびにおれをベッドに引き込んで眠る。兄貴が寝ているうちにそっと逃げようとしても、眠りが浅い兄貴はすぐに目を覚ましておれを連れ戻す。おとなしく寝るしかない。

 *****

 飲みものを用意してくるという兄貴を放って、DVDをセットする。今日もらったばかりのあのDVDだ。
 なんだかんだいって、兄貴の土産はいつもおれの欲しいものを見事についている。外したことはない。だけど逆に、今までにおれが兄貴にあげたものといえば、たかが知れている。おれはもらってばかりだ。
 なかなか素直になれないが、ありがたいと思うし、悪いなあとも思う。
 珍しく殊勝な気分でぽつんと座っていると、兄貴が戻ってきた。ローテーブルにトレイを置き、ベッドにもたれていたおれの身体を起こしてその隙間に割り込んでくる。つまり、おれを背後から抱き込むような姿勢になる。
「な、なにするんだよ」
「くっついたほうがあったかいだろ」
 そういって兄貴は背後からおれの身体に腕を回してくる。抗議しようとしたおれに絶妙のタイミングでマグカップを差し出す。つい反射的に受け取ってしまう。ホットミルクだ。猫舌のおれが飲みやすい温度に設定されたそれを見て、おれはなにもいえなくなる。黙ってカップに口をつける。
「これ、なんか入ってる?」
 なにか違和感があった。
「へんな味がする?」
 聞き返されて、首を振る。まずいわけではない。それ以上気にせずに、おれはちびちびとミルクを飲んだ。
 しばらくして異変に気付いた。
 顔が熱くなって身体が怠くなる。頭がぼうっとする。カップはもう空だ。
「兄貴、これ、なんか酒入ってるだろ」
 詰問するつもりが、舌が回らない。ふにゃふにゃしたしゃべりかたになっているのが自分でわかる。
 おれはアルコールに弱い。
 正月にお屠蘇をひと口飲んだだけで顔が赤くなって眠気に襲われるほどだ。兄貴はあやすようにおれの身体を軽く揺さぶる。
「少しだけ。身体が温もるだろう?」
 やっぱり。おれはぺしぺしと兄貴の手を叩く。
「兄貴のバカ。おれが酒飲めないって知ってるだろ」
「知ってるよ。でもおまえ、酔うとかわいいから」
「変態!!」
 もうDVDどころではない。おれは恨めしく兄貴を振り返る。
「にーちゃんなんか嫌いだ」
 ぐい、と頭を引き寄せられる。
 唇を塞がれて一瞬息ができなくなる。
 ――――え。
「っんん!!」
 兄貴にキスをされている。頭が真っ白になる。なんで、なんでこんな。
 いったん唇を離して兄貴はささやく。
「かわいい、冬馬」
「や、にーちゃ、なんれ……っ」
 ふたたび口を封じられてしゃべれなくなる。頭のなかがぐるぐるする。やばい。さすがにこれはやばいと危険信号が点滅するが、アルコールがおれの抵抗を鈍らせる。
 キスをし終えると、兄貴はおれの耳許に優しく吹き込む。
「冬馬はもうおねむだね。さあ、一緒にねんねしようか」
 いやいや、おれ、やばいだろ。
 まさかとは思うがこれはもしかすると、て、貞操の危機?
 暴れるおれの手を掴んで兄貴はささやく。
「おとなしく寝ないとダメだよ。さ、おいで」
 おそるおそる見あげた兄貴の目は少しも笑っていなくて。
 はじめて兄貴をこわいと思った。
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