05
文字数 1,601文字
*
「……リクさん、顔色が悪いです」
度々訪れる沈黙を、今度はリツが破った。彼女は俺のことをリクさんと呼んでいた。シキさん、アイさんという呼び名からリツ、リクさん。下の名前で呼ぶことで、距離も近くなると思っていた。思っていた、のに。
「……どうしてだ」
「何がですか?」
「どうしてずっとずっと、合沢璃津は手に入らないんだ……!」
俺は彼女を愛していた。だけど彼女はそうじゃなかった。それが、彼女を殺めた率直な理由だった。
遡ること、デパートへ出かけた日の夜、彼女と二人で普段通りに夕食を摂っていた時。
*
『今日は本当に楽しかったです。色々とありがとうございました』
『別に大したことはしていない。アイさんの誕生日なんだから』
『だけどほんと、よく覚えてましたね。私の誕生日なんて。そもそもシキさんに教えた覚えもないくらいですもん』
『まぁ、それはあれだよ。他の人からふと聞いたことがあって』
『あ、そうだったんですね。でもそれにしてもですよ。私はただのアシスタントなのに』
『……そんなことない』
『えっ?』
『そんなことはない。だって、俺は君が――』
そこまで言って、次の言葉がどうしても声にならなかった。その様子を見て、言いたいことを察したらしい彼女は静かに目を見開いた。そこから、今の今までそこに宿っていたあたたかさが、穴が開いたようにボロボロと零れ落ちてゆく。可視出来ないものだが、彼女が感情を失ってゆく様ははっきりと分かった。
『……シキさん』
そして呟くように、しかしこれまたはっきりと告げたのだった。
『私は最初から最後まで、貴方のアシスタントです。だけど貴方にとってそうでないのなら、私はここを出ていかなくてはなりません』
彼女とは、特に何かの契約を結んだわけではなかった。単に彼女の方が後から研究所に勤務してきて、俺の助手としてそこにいただけだった。ここに来たことも、紛れもなく彼女自身の意思だった。それが、本当に助手としての務めを全うするためだけだったというのか。信じられなかった。信じたく、なかった。
俺はずっと、貴女がついてきてくれた時からずっと、貴女が好きだったというのに。
『……そうか』
ショート寸前の脳内から出てきた言葉は、それしかなかった。彼女は夕食の残りを黙って食べ、食器をさげてから足早に自室へ戻っていってしまった。
そして暫く経って現れたのは、スーツケースを引き摺ってお気に入りの帽子を被ったアイさんだった。黙ったまま扉の外へ出て、そこで漸く口を開いた。
『長らくお世話になりました、シキさん』
『……これからどうするつもりなんだ、アイさんは』
『分かりません。でも、きっと何か仕事を探して、なんとか生活していくんだと思います』
『本当に、ここに留まる気はないんだね』
『はい。私がここまで執着していたのは、あくまでも居慣れた居心地の良い場所であって、シキさんの恋人という立ち位置ではなかったんです。ごめんなさい』
「まともな社会生活はきっと私には向いていない、だからこの仕事が一番向いていると思う」と過去に零していた彼女が今、隣から離れようとしていた。
――行かないでくれ。
その胸中の一言で、堰を切ったように感情という名の水が溢れてきた。どうやったら、アイさんを引き留めることが出来る。言葉じゃダメか。それなら力か。いや、力ずくで引き留めたって、彼女は絶対に出ていくだろう。
――そうか、それならいっそのこと。
背を向けて歩き出した彼女を追うように一歩踏み出した。踏みつけた砂利が音を立てた。それに気付いたアイさんが振り向いた。
――殺してしまえばいいのか。
その瞬間に手を伸ばし、彼女の細い首を躊躇いなく両手で掴んだ。スーツケースが倒れる鈍い音がした。帽子は音もなく落ちた。彼女の端正な顔が歪んだ。世界全てが消え去った気がした。
気が付けば、目の前には呼吸を忘れて脱力した彼女の姿があった。
「……リクさん、顔色が悪いです」
度々訪れる沈黙を、今度はリツが破った。彼女は俺のことをリクさんと呼んでいた。シキさん、アイさんという呼び名からリツ、リクさん。下の名前で呼ぶことで、距離も近くなると思っていた。思っていた、のに。
「……どうしてだ」
「何がですか?」
「どうしてずっとずっと、合沢璃津は手に入らないんだ……!」
俺は彼女を愛していた。だけど彼女はそうじゃなかった。それが、彼女を殺めた率直な理由だった。
遡ること、デパートへ出かけた日の夜、彼女と二人で普段通りに夕食を摂っていた時。
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『今日は本当に楽しかったです。色々とありがとうございました』
『別に大したことはしていない。アイさんの誕生日なんだから』
『だけどほんと、よく覚えてましたね。私の誕生日なんて。そもそもシキさんに教えた覚えもないくらいですもん』
『まぁ、それはあれだよ。他の人からふと聞いたことがあって』
『あ、そうだったんですね。でもそれにしてもですよ。私はただのアシスタントなのに』
『……そんなことない』
『えっ?』
『そんなことはない。だって、俺は君が――』
そこまで言って、次の言葉がどうしても声にならなかった。その様子を見て、言いたいことを察したらしい彼女は静かに目を見開いた。そこから、今の今までそこに宿っていたあたたかさが、穴が開いたようにボロボロと零れ落ちてゆく。可視出来ないものだが、彼女が感情を失ってゆく様ははっきりと分かった。
『……シキさん』
そして呟くように、しかしこれまたはっきりと告げたのだった。
『私は最初から最後まで、貴方のアシスタントです。だけど貴方にとってそうでないのなら、私はここを出ていかなくてはなりません』
彼女とは、特に何かの契約を結んだわけではなかった。単に彼女の方が後から研究所に勤務してきて、俺の助手としてそこにいただけだった。ここに来たことも、紛れもなく彼女自身の意思だった。それが、本当に助手としての務めを全うするためだけだったというのか。信じられなかった。信じたく、なかった。
俺はずっと、貴女がついてきてくれた時からずっと、貴女が好きだったというのに。
『……そうか』
ショート寸前の脳内から出てきた言葉は、それしかなかった。彼女は夕食の残りを黙って食べ、食器をさげてから足早に自室へ戻っていってしまった。
そして暫く経って現れたのは、スーツケースを引き摺ってお気に入りの帽子を被ったアイさんだった。黙ったまま扉の外へ出て、そこで漸く口を開いた。
『長らくお世話になりました、シキさん』
『……これからどうするつもりなんだ、アイさんは』
『分かりません。でも、きっと何か仕事を探して、なんとか生活していくんだと思います』
『本当に、ここに留まる気はないんだね』
『はい。私がここまで執着していたのは、あくまでも居慣れた居心地の良い場所であって、シキさんの恋人という立ち位置ではなかったんです。ごめんなさい』
「まともな社会生活はきっと私には向いていない、だからこの仕事が一番向いていると思う」と過去に零していた彼女が今、隣から離れようとしていた。
――行かないでくれ。
その胸中の一言で、堰を切ったように感情という名の水が溢れてきた。どうやったら、アイさんを引き留めることが出来る。言葉じゃダメか。それなら力か。いや、力ずくで引き留めたって、彼女は絶対に出ていくだろう。
――そうか、それならいっそのこと。
背を向けて歩き出した彼女を追うように一歩踏み出した。踏みつけた砂利が音を立てた。それに気付いたアイさんが振り向いた。
――殺してしまえばいいのか。
その瞬間に手を伸ばし、彼女の細い首を躊躇いなく両手で掴んだ。スーツケースが倒れる鈍い音がした。帽子は音もなく落ちた。彼女の端正な顔が歪んだ。世界全てが消え去った気がした。
気が付けば、目の前には呼吸を忘れて脱力した彼女の姿があった。