01

文字数 1,889文字

 カチャ、という金属のぶつかり合う軽い音を機に、室内には不気味なほどの静寂が訪れた。目の前には、ずっとずっと追い求めている物があった。それを初めて手に入れた喜びは、とうの昔に置いてきた。そろそろ飽きた。今ここにあるのは、達成感にも似た疲労感、そして歓喜と絶望の狭間の、どっちつかずのドロッとした気持ちが悪い感情だけだった。
 ふぅ、という微かな空気の音は、瞬く間に無温度の空間と入り混じって姿を消した。当たり前だ、ここに生きている人は誰もいないのだ。皮肉なほどに規則正しく心の臓を打ち鳴らせる存在は俺しかいない。
 さて、と思いながら、ステンレス製の机に横たわるそれのスイッチに手をかける。嗚呼、ここは研究室だ。非科学的なものなど、一切合切無意味であり必要などないのに。今回もまた、神様などという得体の知れないものに、祈り縋るような思いを抱いていたことに気付く。無意識のうちに若干眉を顰めた後、指先に力を込め、スイッチを押した。
 先程の静寂の中央を、機械の起動音が切り裂いた。それが少し落ち着くと、“彼女”は“ゆっくりと目を開いた”。
「――おはよう、ございます」
 そして大きくも小さくもない、女性らしい声色でそう言った。改造する前と全く同じ声だ。その後、機械音を伴って上半身を起こしたので、今までのプログラムが破壊されずにきちんと起動していることが確認出来た。少しだが安堵した。そのせいで若干の笑みが表に零れたことを自覚した。ここは快楽の手前であり、絶望の途中だ。
「おはよう、リツ」
 挨拶を返しながら、目の前のガイノイドの名前を呼んだ。別にむやみやたらに大量に飼われる魚のように、ガイノイドが沢山あるわけではない。寧ろ手元には、作っているのは、リツただ“一人”しかいない。だから名前で区別をつける必要も事象もない。それでも名前をつけた。名付けるという行為は、恐らく愛情表現だ。どうでもよければ名前なんぞつけなくたって、関係は成立するのだから。
「調子はどう?」
「……んー、そうですね。特にこれといった違和感はないです」
「それならよかった。大分軽量化したんだよ」
「そうなんですね」
 首を傾げたり、きょとんとした表情を浮かべたりするその姿は、まさに人間そのものだった。彼女のことを何も知らない人が傍目から見たら、普通に人間だと思ってしまうに違いないだろう。まぁこれは、あくまでも想像ではあるが。
「――君がいる世界は楽しいよ」
 愛の言葉が、無機で冷たい世界に落ちてゆく。

 *

「シーキーさん!」
 明るい女性の声が、密度の濃い無意識をあっさり突き破って、言葉の輪郭をなす。それと同時に、肩から背中にかけて密かに存在していた温度が一気に失せた。なんて不快要素の満載な瞬間だ。つまり、俺は強制的に起こされたのだ。
「…………んだよ、」
 不機嫌任せにそう呟き、薄目で断絶していた世界へなんとか繋がりを持ってみると、奪ったタオルケットを持ってニコニコしている女性がいた。アイさんだった。そのタオルケットを見て、恐らく昨夜はまたも机の上で寝落ちていただろうことを悟った。寝ようと思って机では寝ないのだから、肩にタオルケットをかけてくれそうな人など、彼女を除いて他にはいない。
「シキさん、朝です! 起きましょう、ご飯食べましょう、外に出ましょう!」
「……あのねぇ、アイさん。君、俺がどんな人間か分かってる?」
「当たり前じゃないですか。夜行性だから朝に弱くて、基本的にご飯はあんまり食べなくて、無駄にエネルギー消費するのが嫌だから外には出ないという、本当に面倒臭がりの塊のような人間ですよね! シキさん」
「……中々言ってくれるじゃないか。確かに合ってるけども」
「ほら、早くご飯食べますよ。頑張って作ってるんですから、残すのはいいけど食べないなんてことは許しません」
「君も本当に強引だ。どうせ俺に拒否権なんてものは最初からないんだろう、アイさん」
「ふふ、シキさん何だかんだで優しいんですから」
 彼女のそのふわっとした笑顔を見たら、朝がやってきたことに対する怒りなど、すっかりどこかへ行ってしまった。アイさんが、きちんと思って行動してくれているのを分かっているからだ。
「で、今日はどこに行くつもり?」
「少し歩くんですけど、川辺の方でお花が咲き始めたらしいんです。それを見に行きましょう」
「川辺って……また結構歩くな。ほんとアイさんって俺のこと分かってるよ」
「嫌味ならありがたく受け取ります。ほら、歩くためにもまずはご飯です!」
「はいはい、分かったよ」
 わざと諦めを少し混ぜた、幸せな返事が小さな空間に静かに溶ける。
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