寝越智夢見睡眠事件帳

文字数 5,188文字

 丑三つ時とは、現代でいうなら深夜2時から2時30分の間だそうだ。草木も眠るとはよく言ったもので電気もガスもないお江戸の町、外をうろつくのは幽霊くらいのものだろう。

「なんでこんな時間になっちまったんだよう」
「知るかよ、おまえが賭場で勝ったり負けたり浮き沈みが激しすぎたからだろ。それで勝ててればまだしも。提灯も持てねぇとはよ」
「なんだよ、いいところできりあげようとしたところを、もっとやれもっとやれとけしかけたのはおまえだろ」
 ふたりの男は右心房と左心房にでもなったかのようにひっついている。帰り道が同じ方向なのだろう。
 街灯などあるわけもなく月明かりだけが頼り。草木も眠っているから聞こえてくるのは虫か蛙の声。
「ゲコゲコが聞こえるから川沿いだ。まっすぐ行けばじき長屋に着くさ」
「そう願いたいね」
 ふたりはひとつになって心の臓をドックンドックンいわせていた。
「ひいいいいいいいいいい!」
 悲鳴をあげたのは右心房。つられて左心房も腰を抜かす。
「なんだよ! いきなり!」
「あそこ、あそこ」
 右心房の指差す先。闇夜に浮かび上がる輪郭のはっきりしない灯。
「ひっ、ひとだまっ」
「ひえーーーーーっ」
 抱き合うふたりは心臓発作寸前だ。腰くらいの高さの左右に揺れる灯が近づいてくる。
「おやおや、こんなところに人がいる」
 それは提灯で、それを持った男は奉行所の役人のように見える。
「しかもふたり」
 右心房左心房は抱き合ったまま涙と鼻水を流していた。
「なんだよ、お役人様かよ」
「おどかさないでくださいよ」
「おやおや、勝手に驚いたんじゃないか」
 肩を上下に動かす役人。
「こんな夜更けに出歩いてたら辻斬りにあっても文句はいえないね」
 役人はこれといった特徴もない顔立ちをしていた。雛人形顏とでもいうのか、江戸時代の役人には珍しくない顔形なのか。
「お、お役人様は、見廻りですか」
「そういうあんたたちはなにをしてたんだ」
「なにって……」
「なにって……」
 心臓たちのデュエット。動悸は落ち着いてきたようにみえるが、まだひっついている。
「見てごらん。今宵は満月だ」
 役人は刀を抜いて見せた。刃に月明かりが反射して一瞬明るくなったような。
「綺麗じゃないか」
「そ、そうですね」
 左心房が役人に話を合わせてみせるが、右心房が着物を引っ張る。
「いこうぜ、もう立てるだろ」
「おまえたち、送ってやろうか」
 ようやく立ち上がった心臓たちに抑揚のない役人の声が注がれる。抜刀したままだ。
「ひええええええええっ!」
 右心房が悲鳴をあげた。つられて左心房も「ギャッ!」と言う。
「今度はなんなんだよ」
「つ、つ、つ、辻斬り!」
 右心房が指差す方向にもうひとつの提灯。近づいてくる長身で胸板の厚い男は連獅子のようなボリューミーな頭に黒い着流し。肩には白い猫と黒い猫を乗せている。
「妖怪だ!」
 左心房も素直な感想を述べた。
「お役人様! ひっ捕らえてください!」
「お役人様! 退治してください!」
 どっちも正解のように聞こえる。役人は細い目をできる限り見開いた。
 ボサボサ頭と暗闇で顔がよく見えない男はかったるそうに大あくびをして。
「おまえら、あっちいけ」
 と心臓たちに向かって追い払う仕草をした。
「死にたくなければこの場から去れと言っている」
 右と左は顔を見合わせた。頷きあって意思確認。辻斬りでも、妖怪でもこの場にいたら殺される確率は100%。
「ふあぁぁあぁああっ!」
「お助けを!」
 ふたりは肩を組んだまま走りだした。二人三脚なら一等賞の旗をもらえるスピードだ。

「早いなぁ」
 遠ざかる足音に耳をそば立てる着流しの男。
「貴様、なんのつもりだ」
 役人が刀を向けていた。
「いやあ、俺だってこんな夜遅くに出歩きたくなんかなかったんですよ。でも仕方ないじゃないですか。丑三つ時に辻斬りが現れちゃ」
 男の口元が役人に向けてつり上がった。
「夜っていうのはさ、草木と人間様は眠りにつく時間なんだ。真夜中に目が冴えてしまうっていうのは問題ありだろ」
 役人が後ずさる。片手にしていた提灯を地面に下ろし、刀を両手で握りしめた。
「なるほど。わたしは見廻中に辻斬りと遭遇した。それを叩き斬った。なんの落ち度もない」
 見開かれた目が血走り始める。それを見つめる男はため息をついて。
「あんた、目の下に隈ができてるぜ」
「やかましいわ!」
 いきなり斬りかかってきた。男の肩にいた猫たちが飛び降りる。空を斬る刀の音。
「チッ」
 暗闇のせいでどうやってよけたのかはわからないが、着地する草履の音だけははっきりと聞こえる。
「あんたには治療が必要だ。ぐっすり眠れる治療がな」
 男は懐からなにかをだした。なんなのかが暗闇でわからない。しかし役人はさらに目を開いて笑う。
「クックック、飛び道具でもない限りわたしの剣にかなうものか」
「うーん、飛び道具ではないんだけどな。でも飛び出すかなぁ」
 面倒臭そうにつぶやく男は左手に提灯を持ったまま右手を突き出した。
「なんだそれは?」
 男の手の中にあったのは刀の柄だけ。銀色の柄だけ。
 役人は頭が地面につくほどのけぞって大笑い。
「おまえバカだよね、おバカさんだよね」
「そんなに可笑しいか?」
 男は首をかしげた。役人はまだ笑っている。
「まぁいいか。嬉丹」
 うれたんと呼ばれた白猫が足元で鳴く。
「媚豆」
 びいずと呼ばれた黒猫も応答する。
「元の姿に戻れ」
 と言ったのに、2匹はじぃっと主人を見上げている。男はグシャグシャの頭をブンと振って。
「終わったらメザシな」
 とたんに2匹はニャオンのハーモニーを奏でて蛍光灯のスイッチが入ったかのような光を発した。ろうそく以上の灯など存在しないはず。役人が声にならない悲鳴をあげたのはいうまでもない。しかも猫二匹が光の帯と化して細く長いマーブル状の竜巻となり、柄に絡みつき刃となったのだから。
「ば、化け物!」
 闇雲に刀を振り回して飛びかかってきた。
「化け物なんて酷いなぁ」
 焦点の定まらない刃などかすりもしない。男はひらりとよける。
「これは妖……魔……宝刀、その名も宝刀安眠枕だ」
 と説明してから妖刀とか魔剣とかいったら妖怪の類と認めてしまうと思ったが、猫たちが気づいていないようなので男は胸をなでおろした。
「なんなんだ、なんなんだよ」
 役人は剣先を向けてガニ股になって震えている。
「案ずるな殺しはしない。安らかに眠ってもらうだけだ」
「おなじだろ!」
 さっきから役人は瞬きをしていないのではなかろうか。煙がでそうな眼圧になっている。
「秘儀安眠三日月揺籠」
 男は上から下へ剣を振った。闇夜を斬る音、はいっさいしない。そのかわり、銀色の刃から刃と同じ形の灯の像が現れる。果実に詳しい者ならでっかいバナナだと解説するかもしれない。しかしこれはバナナを模したものではない。地上の三日月なのだ。その三日月は万人の足元を照らすのだ。たとえ相手が辻斬りだとしても暖かく受け入れる。刀が放った三日月の灯は役人を抱擁するかのように真正面から覆い被さる。灯はぼんやりしているだけあって動きもスローモー。なのに役人は動くことができなかった。

「ねんねこよ おころりよ」
 若い女の唄が聞こえる。
「だ、だれだっ!」
 周囲は霧に覆われていた。
「なんだなんだ」
 秘剣とやらを持った男の姿も見えない。
「ねんねこよ おころりよ」
「でてこい! 妖怪か、幽霊か、斬ってやるぞ」
 子守唄がやんだ。肩で息をしている。額にも汗の珠が吹き出しては流れ、吹き出しては流れ。
「こわがらないで」
 つかみどころのない女の声が耳元にふれてきた。
「うわああっ!」
 力任せに刀を振る。しかし霧を分けただけですぐに繋がってしまう。
「いつもそうして近づく者を斬っていたのね」
「知ったようなことを言うな」
 後ろか? 右か? 左か? 振るっても振るっても手応えのない霧ばかり。
「誰であろうと斬るの?」
「誰だろうと斬る」
「親切でそばにいた人もいたでしょう」
「信じられるものか。裏でなにを考えているか。偽善者ほど臓物は真っ黒だったよ」
 ひきつりながらも笑ってみせる。
「だれも信じぬ。恐怖は斬り捨てる。私はそうやって生きて来た」
「許して。わたしがあなたを独りにしたせいで」
 霧が役人の前に集まってきて人の形を作り始めた。人影は袖で顔を隠して泣いているように見えた。
「だれだ、貴様は」
「思い出せませんか」
 汗が切っ先に落ちて、肩の力が抜けていくのを感じる。
「ねんねこよ おころりよ」
 女は背を向けて唄いだす。この子守唄は記憶の扉を開く。
 あぁ、あれは桜のつぼみがふくらんできたやわらかな季節。寝つきの悪いわたしにいつも唄ってくれた。病気がちで物心つく前に亡くなってしまった母上のかわりに世話をしてくれた乳母の咲。
「咲なのか」
 女の背中はただ子守唄を唄い続ける。布団のなかで、若い咲の着物を握りしめ「おまえだけはどこにも行かないで」と言った。
「わたしは若様のおそばにいますよ」
 あたたかな子守唄に包まれ。幼子はなんの恐怖も不安もなく、夜に打ち勝ち眠ることができた。
「咲、咲」
「ねんねこよ おころりよ」
「おまえ、生きていたのか」
 役人の瞳に映し出される過去が事実なら、咲は父上が大切にしていた盆栽を傷つけてしまいお手打ちに。
「若様……お忘れください……」
 咲は斬られてもなお笑顔を向けていた。
「やだ、咲! 咲!」
「うるさい!」
 大泣きして血まみれの咲にすがった幼子を父が吊るし上げ、拳で殴りつけた。
「……家の男児たるもの、たかが乳母ごときになんたる醜態!」
 震え上がった。優しい父が本気で5歳児を殴りつけた。その理由が枝の折れた盆栽の松と咲。父がそんなお人だとは思わなかった。威厳があってだれにでも優しくて頼り甲斐のある……。
「ひどい、ひどいよ」
「酷くなどない!」
 植え込みに投げ入れられた。身体中傷だらけになった。あまりのことに頭のなかが白くなっていく。

 優しいとか威厳とか、すべて嘘だったんだ。まやかしだったんだ。

 咲を失ってから自分には味方がいなくなった。人の笑う目は信じられない。いやらしい目をなぎ払うように闇夜に剣を下ろすと心が落ち着いた。こうでもしないと眠れない。
「咲、こっちを向いておくれ」
「ねんねこよ」
 唄が止まった。
「若様、咲は一夜きりの約束で閻魔様の元から戻って参りました」
 女はゆっくり振り返る。あの頃とまったく変わらない咲の姿。
「お願いがあるのです」
「なんだ、なんでも言ってみろ」
 手から刀が落ちていることに役人は気付かない。
「最後にもういちど、若様をひざまくらして子守唄を唄いとうございます」
 役人はビー玉が転がるように涙を流していた。膝をつき、両手を土につき。
「咲、わたしは大切なことを忘れていた。父上に殴られた衝撃で問題の本質をいままで忘れていた」
 ほおに触れる細くてやわらかな手。
「若様、懐かしゅうございます」
「盆栽の枝を折ったのはわたしだったんだ。それを咲、おまえが忘れろと」
 泣きじゃくる手を握りしめておまじないをかけた。
「若様、咲にはなんのことかわかりません」
 あの頃となんらかわらぬ笑顔。ちいさな若様をかばった笑顔。
「ねんねこよ おころりよ」
「わたしが正直に言っていれば咲は死ななかった。わたしもあそこまでの力で殴られることはなかったかもしれない」
「旦那様の拳はきっと痛かったと思います。責めてはなりません」
 淡い光に包まれた咲の膝で、ちいさな男の子が泣いている。
「もう、もう遅い。わたしは、この手で何人もの」
「ねんねこよ おころりよ」
「咲……咲」
「なにがあっても、咲はおそばにいます」
「咲……」
 こんな安らかな気持ちになったのは、何年ぶりだろうか。
「ねんねこよ……」

 翌朝、橋のたもとで役人がすやすやと眠っているのが発見され、黒山の人だかりとなった。
 陽の光と雀の声で起床した役人はそっと涙をぬぐい、駆け付けた同僚に罪の事実を話し、おとなしくお縄についたという。
 しかしながら役人が遭遇した謎の男についてはどこからやってきて、どこへ去って行ったのか。丑三つ時ではわかるわけもなく。役人も記憶から消えているほどであるから睡魔が見せた幻だったのかもしれない。

 せめて名前くらいは掲載しないと夢見が悪い気持ちもするのだが。

                  〈完〉
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