第1話
文字数 2,000文字
以下に記すのは、台北 に住んでいるわたしが実際に目にした出来事である。
これが果たして怪談なのかどうか、わたしにはよくわからない。
もう八年も前の話だ。
その晩、わたしにしては珍しく、帰宅が夜中になった。いつも降りるバス停を乗り越してしまったのは、ちょっと心に掛かることがあったせいだが、その事とこの話は関係ない。たぶん、ないと思う。
いつもの停留所の一つ先で、バスを降りた。
夜の底に沈んだ街の顔は、停留所一つ分だけよそよそしい感じがした。
交差点はがらんとしていたが、青信号になるまで待った。
交通ルールのためではない。こんな時間は、誰もいないと思って猛スピードで突っ込んでくるタクシーやバイクに出くわす恐れがあるせいだ。
信号が、青になった。わたしは通りを渡った。
通りの向かいの〝便利商店〟(コンビニ)だけが明るい。
〝便利商店〟の角を回り込むようにして路地に入る。
路地に入った途端、思わず身震いが出た。
空気の温度が、すっと下がった気がした。
街灯は点いているから真っ暗というわけではない。でも、光の届く範囲の外には、かえって濃く深い闇が淀んでいるように見える。
路地の左側に、シャッターを下ろした店が二軒並んでいて、その先が角になっている。家に帰るには、角を左に曲がらなければならない。
手前の方の店先が、なぜかうっすらと光っていた。
路面と店の入口の間には段差があり、木製の階段が三段付いている。
その二段目が、煙るような白い光を放っていたのだ。
わたしの目は、その二段目に吸い寄せられた。
キリンが、いた。
小さなレゴのキリンだった。丸っこくデフォルメされた身体に、黒い胡麻みたいな可愛い目。
――キリンさん。
日本の子供だったら、そう呼ぶだろう。
キリンだけではなかった。象やペンギンもいた。レゴの動物たちは、規律のとれた兵隊みたいにきちんと整列していた。
それにしても、この白い光はいったいどこからくるのか。
わたしは目を凝 らした。
レゴの動物と動物の間に、サイズの不揃いな銀色の球体が、いくつもいくつも並べられていた。
その球たちが、街灯を照り返していたのである。
そしてもう一つ、光っているものがあった。
玩具 のティアラ。
幼稚園児くらいの女の子がその柔らかい髪の上に飾って、ちょっと気取って微笑んでみせるようなティアラ。
キリンとティアラの位置を結ぶと、段の上に対角線が浮かび上がる。なぜかは知らない。
その傍 らには、靴が一足。
女の子が穿く靴ではない。明らかに大人の男の靴だ。
レゴの動物たちと較べて、靴は不自然なほど大きく見えた。
――じっと見つめてはいけない!
わけもなく、そんな恐怖が背筋を走った。
我に返ったわたしは、慌てて目を逸 らした。
実際に見つめていた時間は、ものの数秒に過ぎなかったと思う。
わたしは急いで、でも、できるだけ足音を立てぬよう気をつけながら、その場を離れた。後ろも振り返らずに角を左に曲がった。
――思い当たることがあったのだ。
家に帰ると、すぐにカレンダーを見た。
間違いなかった。二〇一四年七月二十七日は、旧暦の七月一日に当たっていた。
旧暦の七月一日。
この日に、〝鬼門 〟が開くと言われる。
開いた門から出てくるのは、一か月だけ此岸 ――この世に帰ることを許された彼岸の〝鬼〟たちだ。
だから旧暦七月は、〝鬼月 〟とも呼ばれる。
〝鬼月〟には、いろいろ禁忌 がある。
ベランダで乾かした傘を、家の中で畳んではいけない。先にベランダで畳んでから家の中へ入れねばならない。
夜、洗濯物を干してはいけない。
水辺には、決して近づかないこと……。
傘は彼らを招き入れてしまうから。濡れた服は彼らを吸い寄せてしまうから。水の中に潜むモノは、あなたの足を摑んで引きずり込もうと待ち構えているから。
でも、中には……
願う人もいるのではないか。
――入ってきてほしい、と。
レゴの動物たち、それからいくつもの球を整然と並べ、最後にティアラと自分の靴をそっと置いて。
強く念じた人がいるのではないか。
――たった一晩でもいいから帰ってきてほしい、と。
「風水師 によるとね、光を跳ね返す球体には邪気を祓 う力があるんですって」
台湾の友人から、そう聞いたことがある。
もしかしてこの不思議な階段には、何かを招き入れると同時に、入 るべからざるモノの侵入を防ぐ術が施されているのだろうか。
そして、あの男物の靴。
夜の底に置かれた靴は、なんだか暗い海に浮かぶ浮標 のようでもあった。
小さい〝鬼〟は、この大きな靴と輝くティアラを目印に、遠いところから帰ってくるのかもしれない。
少なくともこの靴の持ち主は、そう信じ、祈ったのだ。
どうか娘が道に迷いませんように、と。
――爸爸 ! 我回來了 !
全てはわたしの妄想に過ぎぬのかもしれない。
もう、八年も前の話だ。
これが果たして怪談なのかどうか、わたしにはよくわからない。
もう八年も前の話だ。
その晩、わたしにしては珍しく、帰宅が夜中になった。いつも降りるバス停を乗り越してしまったのは、ちょっと心に掛かることがあったせいだが、その事とこの話は関係ない。たぶん、ないと思う。
いつもの停留所の一つ先で、バスを降りた。
夜の底に沈んだ街の顔は、停留所一つ分だけよそよそしい感じがした。
交差点はがらんとしていたが、青信号になるまで待った。
交通ルールのためではない。こんな時間は、誰もいないと思って猛スピードで突っ込んでくるタクシーやバイクに出くわす恐れがあるせいだ。
信号が、青になった。わたしは通りを渡った。
通りの向かいの〝便利商店〟(コンビニ)だけが明るい。
〝便利商店〟の角を回り込むようにして路地に入る。
路地に入った途端、思わず身震いが出た。
空気の温度が、すっと下がった気がした。
街灯は点いているから真っ暗というわけではない。でも、光の届く範囲の外には、かえって濃く深い闇が淀んでいるように見える。
路地の左側に、シャッターを下ろした店が二軒並んでいて、その先が角になっている。家に帰るには、角を左に曲がらなければならない。
手前の方の店先が、なぜかうっすらと光っていた。
路面と店の入口の間には段差があり、木製の階段が三段付いている。
その二段目が、煙るような白い光を放っていたのだ。
わたしの目は、その二段目に吸い寄せられた。
キリンが、いた。
小さなレゴのキリンだった。丸っこくデフォルメされた身体に、黒い胡麻みたいな可愛い目。
――キリンさん。
日本の子供だったら、そう呼ぶだろう。
キリンだけではなかった。象やペンギンもいた。レゴの動物たちは、規律のとれた兵隊みたいにきちんと整列していた。
それにしても、この白い光はいったいどこからくるのか。
わたしは目を
レゴの動物と動物の間に、サイズの不揃いな銀色の球体が、いくつもいくつも並べられていた。
その球たちが、街灯を照り返していたのである。
そしてもう一つ、光っているものがあった。
幼稚園児くらいの女の子がその柔らかい髪の上に飾って、ちょっと気取って微笑んでみせるようなティアラ。
キリンとティアラの位置を結ぶと、段の上に対角線が浮かび上がる。なぜかは知らない。
その
女の子が穿く靴ではない。明らかに大人の男の靴だ。
レゴの動物たちと較べて、靴は不自然なほど大きく見えた。
――じっと見つめてはいけない!
わけもなく、そんな恐怖が背筋を走った。
我に返ったわたしは、慌てて目を
実際に見つめていた時間は、ものの数秒に過ぎなかったと思う。
わたしは急いで、でも、できるだけ足音を立てぬよう気をつけながら、その場を離れた。後ろも振り返らずに角を左に曲がった。
――思い当たることがあったのだ。
家に帰ると、すぐにカレンダーを見た。
間違いなかった。二〇一四年七月二十七日は、旧暦の七月一日に当たっていた。
旧暦の七月一日。
この日に、〝
開いた門から出てくるのは、一か月だけ
だから旧暦七月は、〝
〝鬼月〟には、いろいろ
ベランダで乾かした傘を、家の中で畳んではいけない。先にベランダで畳んでから家の中へ入れねばならない。
夜、洗濯物を干してはいけない。
水辺には、決して近づかないこと……。
傘は彼らを招き入れてしまうから。濡れた服は彼らを吸い寄せてしまうから。水の中に潜むモノは、あなたの足を摑んで引きずり込もうと待ち構えているから。
でも、中には……
願う人もいるのではないか。
――入ってきてほしい、と。
レゴの動物たち、それからいくつもの球を整然と並べ、最後にティアラと自分の靴をそっと置いて。
強く念じた人がいるのではないか。
――たった一晩でもいいから帰ってきてほしい、と。
「
台湾の友人から、そう聞いたことがある。
もしかしてこの不思議な階段には、何かを招き入れると同時に、
そして、あの男物の靴。
夜の底に置かれた靴は、なんだか暗い海に浮かぶ
小さい〝鬼〟は、この大きな靴と輝くティアラを目印に、遠いところから帰ってくるのかもしれない。
少なくともこの靴の持ち主は、そう信じ、祈ったのだ。
どうか娘が道に迷いませんように、と。
――
全てはわたしの妄想に過ぎぬのかもしれない。
もう、八年も前の話だ。