怨讐の果て

文字数 21,074文字

NOZARASI 3
 江戸人情草紙
   怨讐の果て 其の壱
   
「何故そんなに死に急ぎなさるのか」
「……」
「また黙りでござるかな」
「……」
「これでは、死ぬより辛かろうて」
「……」
「早苗ちゃん、明日にでも薬を取りに来なさい。明日朝まではこれで間に合う。朝と夕、古い薬を拭き取ってから、新しく塗り換えておあげなさい。なぁに、心配はいらぬ、いつものことだ、鍛え抜かれた身体のようで、並みの人よりは遥かに治りは早い。傷口が塞がるまでは余り動いてはなりませぬぞ。よぉく見張っているのですぞ」
「はい、いつもありがとうございます」
「御番所の方へはいいのかな」
「はい、今度も御番所の飯塚様が果たし合いということで子細は詳しく御存知のようです。ここへお運び戴いたのも飯塚様でしたから」
「そうか、また人が一人死んだという事かな」
「そのようです」
「悲しいことよの、これで何人目になるのかのう」
「はい、五人になるのではと……」
「五人か……。皆一人者と云う訳でもあるまいにの。親や家族、近しい者、悲しむ者が増えるだけでは無いのか」
「はい。飯塚様のお話では、この果し合い、全て向こうから立ち合いを望まれてのことと……」
「武士とは悲しいものよな、大義さえあれば人を殺しても何の罪にも咎められぬ。それが、さらなる悲しみと苦しみ、そして憎しみを、多くの人々に連鎖的に生み出してゆく事も解っていようにな」
「はい……」
 医者、松井草庵の憂うるよりは、もっともっと心の奥底から、この男の背負う宿命は、悲しく寂しく、その身に負うた幾つかの刀疵よりもさらに深く、暗い静寂の水面に突き刺さる鈍色の白刃に滴るどす黒い血の如く、鬱々としたものを秘めていた。
 それがなに故であるのか、解る事は出来なかったが、自分の心に響いてくる漠とした何かを痛いほどに感じ、早苗はこの男の身を案じ、また魅かれて行くのであった。

 あの大火の燃え盛る炎の中から聞こえた、弟一蔵の悲鳴と、それを助けに火の中へ飛び込んでゆき焼け死んだ父の必死に一蔵の名を呼ぶその声が、今も早苗の耳から離れてはゆかない。
 弟を産み、母は直ぐに死んだ。左官であった父との三人暮しは、質素な裏店住まいではあったが、母のいない寂しさを除けば、幸せな暮しであった。
 あの火事が、早苗の幸せともいえるその全てを奪い去って行った。
 その悲しみは、七つの女の子の心に、火傷の傷跡のように離れては行かない。あの燃え盛る炎、そして二人の悲鳴と叫び。二十歳を過ぎてもなお、一人になれば思い出され、斬り裂かれるかのように心が痛む。とりわけ、弟の一蔵はまだ四つ、可愛い盛り、「ねぇちゃん、ねぇちゃん」と、いつも纏わりつくように早苗の後を追いかけていたのであるから、尚更のことであったろう。
「お父っつぁん。一蔵」
 早苗の心の中で、小さく、悲しく、その呼び声は今も尚続く。
 業火のような炎の前に立ち尽くす早苗を、皆逃げ出すのに夢中で気付きもせぬ中、助けてくれたのが、同じ裏店に住む佐平であった。
 大工とあって気が合うのか、左官の父とは、よく二人で楽しそうに話をしたり、酒を買って来ては飲んだりしていたのを、今でもよく覚えている。
 佐平夫婦は、その日は連れだって本所の知り合いの家の祝い事に呼ばれに出かけていたのであるが、父達の事が心配になり戻って来てみると、その身をも焼き尽くされそうな炎の前で泣き叫ぶ早苗がいた。横抱きにすると、必死で火の海の中を掻い潜り、幸いにも、何とか無事に逃げおおせたのであった。
 子供のいなかった佐平夫婦は、奉行所に申し出、早苗を引き取り育ててくれた。口も利けぬほど心に傷を負った早苗を、二人は長い忍耐の末に、何とか心開かせてくれた。今の早苗にとって、二人は紛れも無く親そのものである、何の抵抗も無く「父ちゃん、母ちゃん」と呼べる事の有難さを、早苗は心に刻み込んでいた。

 二年程前のある日、そんな裏店に、一人の浪人が越して来た。
 それがこの男である。
 名は、長尾十四郎。
 この裏店の主、衣屋高衛門と何か縁があるらしい。それがどういった縁であるのかは、誰も知らなかった。ただ、時々店から使いの者が見え、その後表通りの店へ入って行くのを何度か見かけたと言う、この長屋の者が居た。単純に考えれば、衣屋の用心棒というところか。
 衣屋高衛門は、小さな古着屋から身を起し、今では立派な呉服屋を表通りに構える商人である。商いにおいても、人となりにおいても、その潔さは、仲間の誰もが一目置く程の見事さ。地回りも、袖の下目当ての役人も、煙たすぎて手を出せないと噂の男である。
 十四郎もまた、穏やかな好人物であると見え、長屋の誰とでも気さくに話し、時々長屋の者などが持ち込む代書や代読も、礼も取らずに引き受けていたし、下らぬ相談事にも耳を傾けてやっていた。有り体にいえば、重宝されているのであるが、いつの間にか、長屋の人々の信頼も深く受けるようになっていた。
 ただ、これで五度目、刀疵をその身に抱え、戻って来たのであった。
 傷は浅い事も、深い事もあった。が、致命傷になる程の傷は一度も無かった。その度に、誰かが町医者、草庵の所まで走る。裏店中がちょっとした騒ぎになるのは当り前であろう。が、奉行所の飯塚と云う与力が心得ているらしく、別にそれ以上の大騒ぎになる事は無かった。
 いずれの時も、斬り結んだ相手は死んだのだと、飯塚の手下は言っていた。
 長屋の皆で快復まで面倒を見たが、取り分け早苗は、皆から格好の冷やかしの種にされるほど、親身になって良く面倒を見た。
 それは早苗が、十四郎の目の奥に潜む翳のようなものを、自分のそれと重なり合う悲しみから生まれるものではないかと、直感したからであった。
 十四郎、三十歳。早苗、二十一歳。その悲しみ故か、魅かれあうものを共有する二人ではあったが、今は、男と女のそれでは無かった。
 
「済まぬな、いつも」
「そうお思いなら、もうお止めになられればいいのに」
 包帯を換えながら、哀しみの響きを奥底に秘めた早苗の言葉が切ない。
「済まぬ……」
「いいんですよ、言ってみただけ」
「……」
 この間の時も同じようなことを言っていたと、二人は思い出していた。
 悲しい色の二つの目線が、絡み合い逡巡し、そして逸らされていった。
「何か食べたいものはありませんか、これから買い物に出かけますので」
 その逡巡を払いのけようとするかのように、早苗が明るく言った。
「済まぬ。早苗さんの作ってくれるものは何でもいつでも皆美味しい、宜しく頼みます」
 十四郎もまた、同じように明るく応えた。
「はい。何か傷の治りが良くなるようなものがあると良いですね。草庵先生が、精の付く物を食べさせてあげなさいって」
「金はそこの小机の抽斗にありますから」
「分っています。勝手知ったる何とかですから」
「ははは、済まぬ」
「済まぬばっかし」
「済まぬ」
「ほら」
 早苗が笑った。
 返すように、十四郎も笑った。
「それから、当座の賄いだって、衣屋の旦那様から一朱銀で一両お預かりしてます」
「また衣屋殿からか……」
「衣屋さんと十四郎様は、どんな関係なのですか」
「他人に言えぬようなことでもないのだが、他人のこと故……。済まぬ」
「ごめんなさい。余計なこと訊いて。長屋の人も気になってるみたいだから」
「済まぬ」
「また済まぬなのね。済まぬ済まぬの十四郎様ね」
 早苗が悪戯っぽく笑って言った。

 昨日の五度目の果し合いの知らせが衣屋から来たのは、つい先日の事であった。
「長尾様、また参りましたよ」
「そうですか、いつも済みませぬ」
「御家老様も、もういい加減に諦めたら宜しいものを、非は御子息にありましたのですから」
「申し訳ございませぬ、いつも不快な思いばかりお掛け致し……」
「いえ、私はただ、理不尽な事が赦せぬだけなのでございます」
「済みませぬ」
「今度は何処で、相手は誰なのですか」
「洲崎。相手は、小池秀次郎とあります。他はいつもと同じ」
「飯塚様も、止めさせようとはなさらないようですね」
「そのようです」
「好いお方なのに、御家老様との腐れ縁が截ち切れぬようで」
「飯塚殿とて、気の進まぬことに違いはありますまい。済まぬことです」
「今度はお怪我なされぬようにお願い致しますよ。お戻りになられるまで、生きた心地も致しませぬ故」
「済みませぬ……」
 衣屋は、これまで十四郎の四度の立ち合いを、一度だけ見たことがあった。
 それは三度目の時、金で雇われただけでは無いものを確かに持った、相当の腕の浪人であった。恐らく、それなりの剣客の自尊心を擽り、金の力も絡ませて雇っているのであろうと察せられた。
 十四郎は、相手の技量を読み切れず踏み出すことを躊躇っているのか、八相に構えたまま動かない。
対する相手もまた八相であった。
 先に動いた相手の袈裟斬りを、十四郎が僅かに体を捻りながら退き躱したかのように見えた。
 が、その切っ先は十四郎の肩口を浅く捉え、衣に血が滲み、やがて溢れるように流れ出した。痛さを堪えるかのように唇を噛んだ十四郎の目が、その血を見た瞬間、獣の人を襲うが如き目の色に変わった。
 一閃。
 十四郎の八相が撃ち下ろされた時、相手は左の肩を首の付け根から斜めに斬り裂かれ、血飛沫を上げ崩れ落ちた。
 護身程度の剣しか知らぬ衣屋にも、あの袈裟斬りは、十四郎には躱せたと思った。
 わざと斬られたのか。
 今でも衣屋の胸に、疑念を抱かせたままであった。
 ひょっとしたら、この男は斬られて死ぬことを望んでいるのではないのか、いつもどこかに寂しげな翳りを秘めている。あの事件が、その因であるのは確かであろう。
 衣屋は、人に頼んで調べてもらったあの事件を思い出していた。

 五年ほど前、西国のある小藩。
 ひとりの頑是ない子供が斬られて死んだ。
 斬ったのは筆頭家老大飯蔵人の一人息子、左馬之介、十五歳。
 斬られたのは、藩士長尾十四郎の一人息子、彦四郎、四歳。それに小者の元蔵。
 些細なことからこの悲しい事件は始まった。

「彦様、彦様。危ないですよ」
 はしゃぐ彦四郎が、武家屋敷の白塗りの塀の角を勢いよく回り込もうとした。手には元蔵が獲った泥鰌の何匹か入った竹筒がしっかりと握られていた。
「うわっ」
 折悪しく、その塀をこちらへ向かっていた若い侍の集団に、出会い頭にぶつかってしまった。
 ぶつかった拍子に、竹筒の泥水と泥鰌が先頭の侍の股間に、丁度小水を漏らしたかのように掛かってしまった。
 それを見た、友であろう他の侍たちが、「ははは、まるで寝小便をしたようではないか」と、囃すように笑い合った。
 その笑いが無ければ、元蔵が地べたに頭を押しつけ謝るだけで済んだのかも知れなかった。
 笑われたことで自尊心を傷つけられ怒りを募らせた左馬之介、その怒りは、当然のように、元蔵と、当の彦四郎に向けられた。
「無礼者めがっ!」
 抜き放たれた白刃は、地べたに頭を擦りつける小者を突き刺し、そして、なにも分からぬ幼気な幼子をも滅多切りにした。
 
 城から戻った十四郎は、玄関の薄暗さと線香の香に、不吉な異変を敏感に感じ取った。
「何があった」
 明かりも点されぬ暗い座敷に座る妻、鴇の口から、事の次第が泣く泣く告げられた。
「そんな理不尽な。彦四郎はまだ四つの幼子ではないか」
 小さな布団の上に横たえられた、変わり果てた幼い我が子を前に、十四郎も、鴇も……。
「元じいはどうした」
「あちらの部屋に」
「二人並べてやろう、なっ」
「はい」
 小者の元蔵は、十四郎が子供の時からの従者であった。十四郎に懐いたよりも尚、彦四郎は元蔵に懐き、二人の遊ぶ姿は、まるで本当の孫と祖父とのようであった。
 十四郎と鴇は、斬られた二人を並べて供養した。それは、葬儀の時も同じであった。
 十四郎の心に生まれた理不尽さへの思いは、彦四郎と、元蔵の思い出を辿るたびに増し、日を追うごとに、相手も十五の未熟な若者ではないかという思いを超え、やがて怒りは憎しみへと姿を変え、抑えきれぬものを秘めるようになっていくのであった。
 初七日を過ぎたその夕、十四郎は鴇に離縁状を渡した。
 十四郎の決心を見抜いた鴇は何も言わず、無言でそれを受け取ると実家へ戻って行った。
 その夜、十四郎は二人の位牌を胸に筆頭家老大飯の屋敷へ忍び入った。
 庭の植込みの暗闇で、じっと機会を窺がう。
 謹慎中の左馬之介が部屋に入り、明かりの消えるのを待って忍び込み、左馬之介の顔を確かめる。驚き狼狽えるその顔には、まだ幼さが残されていた。一瞬の躊躇いと痛みが十四郎の胸を過る。それを振り払うかのように布団を被せ、有無を言わさず一突きに差し貫いた。
 その足で、鴇の実家に向かう。
 案内を乞うと、鴇の父は、黙ったまま鴇の居る部屋へ十四郎を通した。
 明かりも点けぬ闇の中に、白い装束で座る鴇が、「仇を討てたのですね」と、静かに訊いた。
 十四郎は小さく頷き、無言のままに応えた。そして二人の位牌を鴇の前に置いた。
 鴇の顔に、僅かに優しさを湛えた笑みが浮かんだが、それもすぐ悲しみを湛えた顔の中に消えた。
 二人の位牌を胸に、鴇は隣の仏間へ入った。
 遅れて十四郎も入る。
「うっ」
「何をするっ」
 鴇はその死に装束の白い胸に、懐剣を突き立てていた。
「すぐにお逃げ下さい。私は足手纏いです。私は先に逝って、彦四郎や元じいと遊んでおります」
「何を馬鹿な」
「十四郎様、苦しい」
 急所を外したのか、鴇の顔が苦しみに歪んでゆく。
「十四郎殿、御介錯を」
 いつの間に来たのか、義父が傍らで堪え切れぬ思いを込めそう頼み込むのであっだ。
 振り返れば、義母もまた、目に涙を溜めながらも、決意を込めた表情で手を合わせ座っていた。
「お逃げなされ、重四郎殿」
「いえ、父が子の仇を討つは御法度。私も腹を切りまする」
「腹を切れば、皆浮かばれましょうか。御家老は、全てを闇に葬るおつもりでした。江戸の殿には知らせず、御子息は謹慎のみ、我が家に使いをよこし、二人は病死とし、十四郎殿には、御加増を餌に堪えてくれと。これが、鴇の遺言です」
 渡された鴇の遺言を読む。
「私がいれば足手纏いです、独りでお逃げ下さい。あなたが死ねば、理不尽に屈したことになります。逃げて、逃げ果せて、あの人達にこの無念の重さを悟らせて下さい」
 短いものであったが、ところどころの涙の痕が、妻の悲しみと無念さを滲ませていた。
「権力の亡者のようなお方です。十四郎殿が生きてこの世にいる限り、御家老は、心落ち着く事はございませぬ。居所が判ればきっと追手を差し向けましょう。それも多分、我が藩に関わりなき者を使って、闇から闇へ葬らんと。生き抜いて下され。生きて、生き抜いて、鴇の無念を晴らしてやって下され。彦四郎や元蔵の無念も、鴇の思いと共にあります。裏の掘割に川舟を繋いであります。伊助に言いつけてありますので、そのまま筑後川を下り、有明の海へ出、豊後路から東へ向かいなされ。旅の用意は、鴇が整えてあります」
 十四郎の脳裏に様々な思いが過ぎった。が、終には、鴇の思いを胸に、逐電することを選んだ。

 それから三年、大坂から名古屋、そして江戸へ。
 江戸へ流れ着いてすぐ、昔、江戸詰の折り、大川端の闇で、商いのいざこざから商売仇に頼まれたらしい無頼の浪人たちに囲まれ斬られる寸前だったところを偶然助けた衣屋を頼った。それからここに世話になり、時々衣屋の用心棒を頼まれたりしながら糊口を凌いで来た。
 が、ある日、一人の男が十四郎の住まう裏店を訪ねて来た。
「ある者から果し状を頼まれ申した。受けるのであれば拙者が立会人となりまする」と、唐突に言った。 
 それが奉行所の与力飯塚であった。
「拙者は、武芸者ではござりませぬ、訳の分らぬものを受ける気はございませぬ」
「表向きは武芸者の立ち合い。その裏は、心当たりが御有りではありませぬかな」
 顔には現さなかったが、十四郎の心に広がったその驚きは、飯塚には容易く見て取れたであろう。
「おありと見えますな、そう云う事です。では明後日。勿論、他言は無用です。勝っても負けても、後の事は御案じめさるな、すべて拙者が収めまする。御免」
 終いに来たか。
 十四郎は、やって来た刺客に覚悟を決めた。
 元より、何時でも来いと云う覚悟は出来ていたし、それなりの修行も怠りはしなかった。だが、いざその時が来て見れば、心が騒ぐのを覚えるのであった。
 よれよれの一張羅で果たし合いもあるまいと、衣屋に行った。
 立派な着物の奥に古着も置いて売っている。勿論古着の仕入れもやるのであるが、新しい着物を求める客から古着を買い取り、その差額を戴くのであるが、この商売は、ずいぶん以前に始められたらしいが、今では当たり前のようになっていた。
 店の隅の古着を選んでいる十四郎を見つけ、「いよいよ参りましたか」と、衣屋が声を掛けてきた。
「えっ」
 衣屋は、全てを心得ているかのように、十四郎の驚く目を見、小さく頷いた。
 奥へ通された十四郎に、衣屋は語った。
「再会いたしました後、筑後、肥前辺りへ取引に行く懇意の同業者がおりまして、差し出がましいとは存じましたが、何か深い事情があるのではと思い、帰りに長尾様の故郷の方まで足を延ばしてもらい、何とか奥方様の御実家を探し当て、事の顛末をお聞き致した次第でございます。御無礼は平に御容赦を」
「そうですか、御心配をおかけ致し、真に済まぬことです」
「決して他言は致しません」
「分っております」
「向こうは、事の公になるのを避けているようです。長尾家は一家三人、ともに悪い流行り病で死んだことになっているようで、お家は、後を継ぐものがいないと云う事で断絶。奥方様の御実家には何の御咎めも無し。表向きは、御家老様の温情を示した形になっているようでございます。御家老様の御子息も、病死という事のようでした」
「己が保身のため、面子は捨てると云う事ですか」
「いえ、その逆ではありますまいか。表向きは面子を無くしたとしても、闇の刺客を放ち、長尾様を討てば、自身の内の面子は取り戻せます。死んだことになり、既にこの世から居ない者を葬り去るのですから、御法度も何もございません。例え真実を故郷の皆が知ってしまったとしても、それはそれ、強大な力の前には誰もが口を閉ざして語らぬのが、今の御時世。ですが、それだけに、向こうの怨讐はより深く、陰湿なものとなりましょう」
 鴇の父が言っていた通りであった。
「そうですか……」
 流石衣屋である、十四郎の思いを越え、全てとはいかぬまでも事の成り行きを把握していた。
「立会人はいらっしゃるのですか。でないと御番所の方が」
「奉行所の飯塚と名乗られていましたが」
「与力の飯塚様でございますか」
「御存知なのですか」
「はい、町役の折などにお世話になっておりますので、少しばかりのお付き合いがございます」
「御迷惑をお掛け致すといけませぬ。これ以上の事は……」
「大丈夫でございますよ。飯塚様も熟れたお方、御心配には及びません」
「そうですか」
「なに故、飯塚様が……」
「それはだな」
 いきなり襖がすっと明き、飯塚が現れた。
「飯塚様」
「悪いが、案内なしで通らせてもらった。見世の者を責めないでくれ」
「はい、それはもう」
「昨日は、失礼を致しました」
「いやこちらこそ、いきなりの失礼、御赦しあれ。手下を付けておいたのですが、衣屋さんに行かれたというので……」
「やはりそうでしたか。御家老の手の者かと思っていましたが」
「お気づきでしたか、流石ですな。長尾殿が逃げ出すとか、そういうことではござらぬ、拙者の立場もご理解を」
 家老に対する面子もあろう、手抜かりは赦されないのだ、飯塚も苦しいところか。
「あの方が、次席家老で江戸に詰められておられた折、藩の侍二人が、善からぬ連中と刃傷沙汰を起し、三人ほど斬り殺してしまいました。お上に知れてはただでは済まぬと。御奉行を通じて某の方へ。どうも、そ奴らと一緒に連み、強請りの片棒を担いでいたようで、ひょんなことから大金をせしめ、その分け前を巡って揉め事の末の刃傷。何とか内密に事を収めくれと頼まれたのが御縁で、それから何かと……」
 語尾を濁してそれ以上は言わなかった。察してくれと云うところか。大方盆暮れにそれなりのことをしてもらっているのであろう。藩にとっても、そういった人脈を町奉行所に持つことは何かにつけて重宝であったろう。
「拙者はただの立会人。お役目でも無ければ、どちらの味方でもござらぬ。それだけは御承知下され」
「はい」
「飯塚様らしゅうございますな」
「どういう意味かな、衣屋さん」
 飯塚が、ニヤリと笑って返した。
「ははは、これは失礼をいたしました」
「ははははは」
 どうやらこの二人、そう云う仲のようである。

 刺客は、四十絡みの浪人であった。
 相手は、新陰流、杉田元衛門と名乗った。
 上段に構えたその迫力は凄まじく、侮れぬものを感じさせた。
 十四郎には、こんな形、つまり、生死を賭けた果し合いとして真剣での立ち合いをやるのは初めてであった。
 得意の八相に構えても、柄を握る手にジワリと汗が滲み出してくるのが感じられ、血の逆流するかのような緊張が全身を走った。
 上段から晴眼へ構えを移した相手が、いきなりの突きに来た。八相のまま僅かに体を揺らして躱すと、ガラ空きの脳天を狙う。
 だが、凄い速さで返してきた一刀に弾かれる。身体の芯までその衝撃が走り、刀を握る手指が痺れた。
 間を採らなければと後に跳んで体勢を立て直す。
 強い。果し合いに名を借りたとはいえ、刺客を引き受ける者だけの事はある。
 十四郎は、また同じ晴眼へ戻すと、静かに上段へと構えを移して行く。
 その時、十四郎の脳裏に死んでいった三人の顔が浮かび、悲しみとも、寂しさともつかぬ感情が過った。
 直後に、「斬られて死ぬか、死ねば……」と云う思いが漠と浮かんだ。
 惑いに似たそれが、相手に一瞬の隙を感じさせたのか、上段からの斬り下ろしが来た。
 反射的に避けた左の肩に、鋭い痛みが走った。
「うっ」
 躱そうとすれば、躱せたではないか。なに故……。
 十四郎は不可思議な自分の動きが解せなかったことに戸惑いを覚えた。
 生温かい血が、斬られた肩から胸の上へ流れ落ちてゆく。
 八相に構えた左手の力は失せていたが、何故か自分では解せぬような力を伴って撃ち出された袈裟斬りが、相手の小手を捉えた。
「ギャッ」
 異様な声を発し、斬られた右手の指が三本、十四郎の足元へ飛んだ。
 次の瞬間、十四郎の間髪を容れぬ突きが相手の喉を貫いた。
 貫いて、十四郎は、後ろへ飛んで体勢を立て直す。
 苦しそうに、指の無い手で虚空を掴みながら相手は倒れていった。
「お見事」
 その声に我に返り、事切れた相手に礼をする十四郎。
「後は拙者にお任せを。何の心配も御無用にござる。尋常の立ち合い、確と見届け申した。おいっ、医者に案内して差し上げろ。それから戸板と人数だ」と飯塚が、直ぐに手下に命じているのを、「大丈夫でござる」と辞退し、横たわる杉田に手を合わせると、十四郎は歩き出した。
 歩きながら、あの時感じた、「斬られて死ぬか」と云う思いを追っていた。
「なに故だ。鴇との別れ以来、そんな事を思ったことは一度とて無いではないか。なのに、なに故……」
 そして、肩から流れ落ちて行く血の生温い温かさを感じた時、自分では無い何かおどろおどろしいものが、己の心を支配していたのではなかったのか……。
 衣屋が店に近い辻で待っていてくれた。長屋に辿りつくと、すぐに町医者の草庵が駆けつけ、傷口を閉じてくれた。
 長屋の連中が、親身になって世話をしてくれた。
 が、誰も何も訊かない。
「何も訊かないのか」と、十四郎は早苗に訊いた。
「裏ではね、みんな何があったのかって心配しています。でも十四郎様は好い人だと長屋のみんなは信じています、お侍様だもの、色々あるんじゃないですか」
「そうか、済まぬな」
「それより、たんと食べて、早く元のお身体になって下さいね」
「済まぬ」
 
 二度目の時からは、見世まで来てくれと、衣屋から使いが来た。
「飯塚様が、御自分が長屋に赴くよりは、私を介した方が目立たぬのではないかと……」
「そうですか、済みませぬ」
 果し状に目を通す十四郎に、「いつでございますか」と、衣屋が訊く。
「明後日、深川十万坪」
「相手は」
「神道無念流、鎌田幸之助とあります」

 手強い相手であったが、二度目も勝つことが出来た。
 同じ、「斬られて死ぬか」と云う思いが、また十四郎の心に浮かび、右の脇腹を鎌田の切っ先が掠めた。
 そしてまた、脇腹を伝い落ちる己が血の生温かさを感じた時、おどろおどろしい、己では無い何かが十四郎の全身を駆け抜け、故知れぬ力が内から湧いて来たように感じた。

「この次は、もっともっと強い者が送り込まれて参りましょう」
 衣屋の言葉通り、次第に刺客の力は増してゆく。
 後の立ち合いの何れでも、「斬られて死ぬか」と云う思いと、あのおどろおどろしい魔性のような何ものかは、違い無く現われた。そして、十四郎の身体に、傷跡が増えていった。

「十四郎様、そんなに死にたいのですか」
 包帯を替えながら、早苗が唐突に、しかし寂しそうな愁いを浮かべた優しい顔で十四郎に訊いた。
「いや」
「そうですか。でも、こんなことを繰り返していれば、きっといつかは斬られて死にます。どうしても止めることは出来ないのですか」
「心配ばかり掛けて済まぬ」
「済まぬとだけで、何も仰しゃっては戴けないのですね、いつも」
「済まぬ」
「果たし合いの最中に、何の前触れもなく、突然、斬られて死にたいと、そうお思いになられるのでしょ」
 十四郎は、早苗の言葉に驚き、その愁いを湛えた目を見た。
「解るのか、それが……」
「多分……」
「私自身にも解せぬものを、なに故、何故早苗さんに解ると云うのか」
「いえ、解ると云うのとは少し違うのかも知れませんが、早苗の心にも、突然、死んでしまおうかなって、得体の知れない魔物みたいなものが、時々頭を擡げるんです」
「……」
「死にたいなんて、全然思ってもいないのに、何故なんでしょうね。あの大火の時、目の前で父や弟の焼け死んでゆくのを見たせいなのかも知れません。あの時私、自分も一緒に死にたいと思いました。特に弟の一蔵の事を思うと、代わって死んでやりたかったと……」
「……」
「その悲しさが、悔しさが、私に死にたいと思わせるのかも知れません。十四郎様にも、きっと何かがあるって、初めて会って、その目を見た時に感じたんです。悲しい何かが……」
「……」
 十四郎は、もう早苗の目を見る事が出来なかった。
 見れば、早苗に、己の心の中の全てを見透かされそうな気がした。
 早苗もそれっきり何も言わなかった。

「もう大丈夫ね。今日、草庵先生が来たら、きっとこう言うわ、よしっ!てね」
 包帯を解いた早苗が、愛惜しむように、十四郎の塞がった傷跡を撫でた。
 その早苗の指先から十四郎の全身に、今まで感じた事も無い何かが、温かく、心地よく駆け巡って行った。
「今夜は長屋の皆とお祝いね」
「久しぶりに皆と飲めるな」
「美味しいもの作りますよ。皆、快気祝いはいつだと、勝手に張り切っていますからね」
「済まぬ」
「たまには、済まぬ以外の言葉を使ってみたら。済まぬ済まぬの十四郎様」
「済まぬ」
「ほら、また」
「ははははは」
 二人の笑い声が、狭い裏店の路地に響いていった。
「その笑い声なら、具合は宜しいようですね」
 草庵が笑顔を見せながら入ってきた。
「今日は、草庵先生」
「早苗ちゃん、いつも御苦労さま」
 草庵が、傷を見て、「よしっ!そろそろ無理にならぬ程度に動いて宜しい」と言った。
「ほーら、当たった」
 早苗が嬉しそうに、十四郎を見て笑った。
 思わず、十四郎も笑って返した。

 狭い十四郎の部屋で、長屋の老若男女、子供まで皆が、それぞれに持ち寄った手料理と出し合った小銭で求めた酒を酌み交わし、楽しそうにはしゃぎ、十四郎の快気を祝ってくれた。
 しばしの宴が撥ね、急に静かになった部屋で、十四郎はぼんやりと、今日の昼間、早苗の言った言葉を思い返していた。
「死にたいなんて思ってもいないのに、突然、死んでしまおうかなって……」
「十四郎様の目にも、悲しい何かが……」
 早苗の生い立ちは長屋の連中から聞いてはいた。
 早苗は、十四郎の悲しみを看てとっていた。そして、十四郎にさえ解せぬ、あの立ち合いの最中に頭を擡げる、「斬られて死ぬか」という不可解なものをも……。
 その場にいた訳でもないのに……。
 早苗はそれを、「悲しい何か」と言っていた。
 それは、彦四郎や元蔵を失い、介錯とはいえ自ら妻を手に掛けた故の悲しみなのか。怒りと憎しみに任せ、十五の子供を殺した事への悔いなのか。
 あれ以来、一日として忘れたことの無い、死んでいった者達への思いが、悲しみが、立ち合いの最中に「斬られて死ぬか」と思わせるのか。そして、死霊への恐れが、己を魔性の獣に変えるのか。
 その時、肩の傷跡に小さな痛みを感じた。
 それは、次第に大きく、速く、十四郎の全身を駆け巡り、やがて収まっていった。
「ふーっ」
 吐息の後に、あの時、肩の傷口に優しく触れた早苗の指の感触が、入れ替わるように甦って来る。その温かく心地よいものに包まれながら、早苗の悲しみを思った。

 それから三月も経たない頃、また果し状が来た。
「しつこくなって参りますね。苛立ちが伝わってくるようです」
「はい」
 いつものように、衣屋の座敷で果し状を広げる。
「明後日、深川十万坪、三本松。刻限は、四つ」
「相手は誰なのですか」
「一刀流、室田主膳とあります」
「これまでもそうですが、皆、歴とした武芸者のようですが」
「そのようですね。一つ間違えばこちらがやられてしまうのは必定。出来得れば、生きてその技を後の人たちに伝えて欲しいと願うような人達なのですが。こちらも必死、斬らねば斬られる」
「諦めきれないのですかね、非はあちらにあるものを」
「怨讐とは虚しいものですよね、御家老も苦しいのでしょう、悲しいのでしょう」
 衣屋の眉根がふと曇った。
「止めたいとは思いませぬか」
「あの時は、怒りと悲しみに身を任せ、復讐の虜となり果てていました。時が経つにつれ、自分はとんでもない間違いをしでかしたのではないかと思え始めたのです。御家老の御子息、佐馬之介殿とて同じ人の子、なに故赦してやらなかったのかと……。佐馬之介殿を刺したあの時、己の胸に奔った痛みを忘れてはいません。今、差し向けられてくる刺客を倒す度に、今お前が斬り殺し目の前に横たわる者は、あの出来事とは何の関わりも無いではないかと、虚しさのようなものが込み上げてくるのです。もう終わりにしたいと思わなくもありません。が、こんな身に落ちぶれてはいても、武士の性、果し状を突きつけられれば、受けぬ訳にはと迷いまする。それに、御家老からとあれば、死に逝きし者達の魂が……」
「そうでございますか。御武運お祈りし、無事のお戻りをお待ちしております」
「かたじけのうございます」

 強い!
 これまでの刺客とは格段に違っていた。
 こんな剣客が金で動くのか。
 十四郎は、室田と名乗る男に畏怖のようなものを抱き、己の負けを意識し、そして死を覚悟した。
 正眼に構え、ジリジリと間合いを詰めてくる室田の気魄に、十四郎は後退を余儀なくされ、終に三本松を背負った。
 追い詰められた頭上に被さる低い松の枝が障りになり、八相にも上段にも構える事が出来ない。
 不利であろう右斜下段へ構えを移さざるを得なかった。
 室田が僅かに間を詰めると構えを上段へ移した。
「斬られて死ぬか」あの思いが十四郎を過った。
 その時、十四郎はやっと気付いた。
「斬られて死ぬか」と思う反面で、死ぬことを恐れている自分が存在するのだと。
 故に、これまで己は、相手の刃をその身に受ける寸前に、無意識と云えるかどうかは分らないが、遅れながらも反射的に躱していたのだ。それ故、致命傷に至ることはなかったのだ。
 心のどこかで、己の行為を肯定するものと否定するものとが交錯し、死なんとする自分を安易に正当化された生へと逃がしてゆく己の弱さに、疾うの昔に気づいていたのではないのかという思いが生まれた。
 十四郎は、己の心から、死への恐怖と相手を倒すのだと云う殺気が消えてゆくのを感じると同時に、故郷の山河で家族と戯れた遠い記憶を思い出していた。
「鴇、彦四郎、元じい……」
 と、その時、
「駄目っ!斬られて死んでは駄目っ!」
 生い茂る薄の中から、早苗の泣き叫ぶような声が聞こえた。
 その声に、室田の動きが一瞬の逡巡を見せた。
 が、直後、室田の上段からの斬り下ろしが、松の枝ごと十四郎を截ち切らんと、鋭く、重く降り下ろされた。
「うっ!」
 室田が、左手をダラリと下げ、苦悶の表情を見せた。
 一瞬の逡巡が勝敗を分けた。
 僅かに速く、右に体を躱した十四郎の逆袈裟の切っ先が、室田に届いた。
 十四郎が刀を納めた。
「刺せ!止めを刺せ!」
「その傷なれば、治療を致せばいずれまた刀を握れましょうぞ。これ以上の戦いは無益なことです」
「ううー」
「そう云うことだ。勝負は着いたな」
 飯塚が手下を呼び、室田を医者へ連れてゆかせた。
「なに故、止めを刺してやらなかった」
「虚しい戦いであることに、やっと気づきました。御家老様の心も拙者と同じなのではないかと。多分、御家老様もすでにそのことにお気づきでしょう。亡くなった者達も、これ以上の虚しい殺し合いを望んではいないでしょう。まして、何の関わりも無き剣客達を引き摺りこむことには、もう耐え切れませぬ」
「縦しんばそれに気づいていたとしても、あの御方には、これしか取る術がないのではないのかな。子の仇、親が討つは御法度。まして御主のように藩を捨ててまではな。脱藩者として、公にお主を追えば、いつかは殿の耳に入る。それに、自分の屋敷内で仇を討たれた、その面子を返さねば、藩の権力者としては、寝ても眠れぬのではないのか。御主を病で死んだことにすれば、後は面倒がなくなる。表向きは武芸者同士の果し合いとして刺客を放ち、殺せばいいのだからな。だが、思ったよりは御主が強かった、益々、怨念の凝り固まりとなって行くのは仕方のないところだろうな」
「いえ、恐らく、少し違うのではないかと思います。出来ますれば、拙者の心、御家老へお伝え下され」
「承知致した。だが、それは伝えるだけ、とても説得と云う訳には参らぬ」
 飯塚の顔に、苦渋の色が浮かんでいた。
「はい、それで結構です」
 やはり、飯塚とて思い悩んでいるのだ、十四郎はそう感じた。
 飯塚が去った後、十四郎は傍らの薄の藪を分け入った。
「どうしてここが分かった」
「はい、衣屋さんにお聞きしました」
 早苗の声が、明らかに十四郎を畏れている。
「衣屋さんに……」
「いえ、衣屋さんに無理矢理問い質して……」
「長尾様、申し訳ございません、私がお教えいたしました」
 薄の影から、衣屋が頭を下げながら現れた。その顔が、どこか微笑みを湛え安堵していた。
「……」
「早苗さんに、今度はきっと死んでしまいます。十四郎様の目に、穏やかな光が宿ってきています。そう言われた時、一昨日の長尾様の言葉が……」
「某の言葉」
「御家老様にも、苦しみ、悲しみがと……。そして、刺客を倒す度に虚しさがと……」
 一旦切った言葉を、衣屋が続けた。
「早苗さんの言葉を聞いた時、私の心にも同じ思いが浮かびました。これはお止めせねばならぬと。ですが、ここまで来た時はもう遅かったようです。出る機はなく、この薄の陰で……」
「ごめんなさい。十四郎様が斬られるって、いえ、斬られて死のうとしているって感じたんです。そしたら、叫んでしまっていたんです。ごめんなさい」
「いえ、早苗さんのお陰で救われました。今日は、違い無く相手が上、恐らくあの声が聞こえなかったら、自分を誤魔化したまま斬られて死んでいたでしょう。私も人としての心を取り戻し、相手を殺さず剣を収めることができました。ありがとう」
「……」
「帰りましょうか。早苗さん」
 衣屋の姿はいつの間にか薄の藪陰に消えていた。

 この日以来、早苗はまるで押し掛け女房さながら、朝となく昼となく、十四郎の所へ頻繁に顔を出すようになった。
 長屋の連中も、そんな二人を好感を持って見守っていた。
 そして十四郎の中にも、死んでいった者達を忘れようとする訳ではないが、早苗の心を素直に受け入れ、心の隙間の埋められてゆく穏やかな早苗との時間を見つめる余裕みたいなものが芽生え始めていた。

 あの立ち合いから、もうかなりの時が過ぎ、十四郎も早苗の心も落ち着いてきた頃、衣屋からの使いが来た。
 丁度居合わせた早苗の顔が、悲しそうに曇った。
「もう受けないよ」
 そう笑って、早苗の顔を見た。が、早苗の顔から不安の色は消えてはゆかなかった。

「まだ止める気はないようですよ」
「また参りましたか」
「はい、大分以前に。ですが、今、果し状は因幡守様の手元に」
「えっ、我が殿のですか」
「そうです。私が飯塚様よりお預かり致し、懇意にして戴いております御老中様へ。なんとか穏便に収められぬものかと御相談致し、そして因幡守様へ」
「なに故に」
「これ以上の虚しい殺し合いを止めさせるためです」
「出来るのですか」
「御老中様は、ここで穏便に収められれば、これまでの事は全て問わぬと。ですが、因幡守様は御家老様の性格を知り尽くしておられます。長尾様が死ぬか、御家老様が御腹でも召されない限り、止むことは無いと……」
「腹を召されるのですか」
「あの執着心からして、それはないでしょう。下手な所で腹を切られれば、事は公になり、幕府も動かざるを得ません。当然因幡守様にも藩にも類は及びましょう。咎人を出さず穏便に収めるには、どんな形であれこの私闘を終わらせるしか手はございませぬ。長尾様が死ぬか、御家老様が死ぬか。長尾様が死ねば、この世には存在せぬ者、それで良し。御家老様の死は、病ということになりましょう」
「病ですか?」
「はい。江戸へ向かう道中にて悪い病に罹って死んだ」
「江戸へ?」
「江戸にて急な事態が起きた、お前の力が要るとの因幡守様の命を受け、既に国を発って船で大坂へ。今頃は東海道を江戸へ」
「……。つまり、私にそれを討てと」
「はい。討てという事では無く、果し合いとして……」
「果し合い……」
「目立たぬよう少人数で来るようにと伝えられている筈です。三名、多くて五名。そんなところでしょうか。ですが、こちらの動きの怪しさも、頭の切れるお方であれば、既に感じ取っておられることでしょうから、御供の方々もそれなりの使い手達をお連れでございましょう。こちらとて大っぴらには動く事は出来ません、こんな謀を用いるのは私とて不本意ではございますが、最早事は御老中様の御承諾を得動き出しております」
「私も余り気が進みませぬが……」
「因幡守様が、どちらが勝つかは分からぬが、ご家老様は曲がりなりにも藩に多大な貢献のあった者、それを闇から闇に葬るような次第になるのは忍びない、武士としての道を選ばせてやってくれと……」
「武士としてでございますか」
「訊けば、御家老様も若き頃は藩内でも屈指の使い手であったとか」
「それは聞き知っております。その眼力があればこそ、あれほどの腕の武芸者たちを送り込むことが出来たのでしょうから」
「もし御家老様がお勝ちになられれば、それもまた已む無し。これまでの事は全て無かったということになりましょう。如何なものでしょうか」
 躊躇うと云うのではないのだろうが、十四郎はしばらく無言であった。
 あの時、己が、今少し冷静でいられたなら……。
 その悔恨の思いが十四郎の胸に様々に交錯し、ついに、虚しく哀しい怨讐の連鎖は己が断ち切らねばならぬのだと決心をさせた。
「承知致しました」と、十四郎は応えるのであった。
「勝手な振る舞い、どうか御赦し下さいませ。私にはこれが一番良い解決法だと思えましたものですから……」
「そうかも知れませんね。もう人は斬りたくないと思ったのですが、私にはたとえ己が死のうとも、この怨讐の連鎖を終わらせなければならぬ責がありましょうから」
「申し訳ございません」
「いえ、何から何まで、ありがとうございます」
「御武運信じ、御帰りをお待ちしております」
「はい、必ずや」
「早めにお発ちになられ、三島の河津屋へお泊り下さいませ。御老中様の手の者が大坂より後を付けており、御家老様の御一行が三島の宿に入れば、すぐに繋ぎがあると思います」
「分かりました。人目の少ない箱根山中でということでしょうから」
「そう云う事になりましょうか。無事のお帰りをお待ち致しております」
 苦渋の表情を浮かべ、衣屋が重ねて無事帰ってきてくれと頭を垂れた。

「何処へ行かれるんですか」
 朝早く旅の支度をしている十四郎を見た早苗が、目を丸くして訊いた。
「……」
「故郷へお戻りになられるのですか。それで昨日は考え込んでいたのですね」
「……」
「なぜ何も仰しゃってくれないのですか」
 そう言った早苗が、泣きそうな顔をし小走りに外へ出て行った。
「生きて帰れれば、御帰参を許されると思いますよ」と、あの時、別れ際に衣屋がそう言った。
 十四郎の心の中は、その一言で水底の泥の舞い上がったかのように乱れてしまった。
 自分にまだそんな未練が残っていようとは、思いもしなかったことであった。
 侍の態はしていても、ここの暮しは宮仕えとは違い気楽なものである。それより何より、互いを思いやる優しい心が通い合う。
 こんな暮らしにどっぷりと身を浸してきた自分が、果してあの堅苦しい城勤めへ戻る事が出来るのであろうか。十四郎には今の暮しは捨て難かった。
 そして、いつの間にか自分の心の中の大きな存在となってきた早苗との別れが何よりも辛かった。
 故郷へ戻っても、一人息子であった十四郎には既にふた親も無く、近しく縁となるような肉親もいなかった。
 
 三島から箱根山中へ、家老大飯達の後を行く。来る時に確かめておいた街道脇の道を少し奥へ入った祠の辺りを、決戦の場所と定めていた。
 その脇道への分岐の手前で一行に追いつくと、声を掛けた。
「長尾十四郎にございます」
「久し振りだの。やはりそう云う事か」
 大飯は既に大方を察していたのであろう、驚く様子も無く十四郎を見た。
「殿は御承知なのだな」
「はい、御老中様が間に入りまして、これまでの事は問わぬ、無益な殺し合いはここで収めよと。また、殿の、武士としての道を選ばせてやってくれとの御心に従い、長尾十四郎ここへ罷り越しました」
「相分かった、当人同士の果し合いで決着を付けろという事なのだな。それでどうする」
「ここでは目立ち過ぎましょう、脇道へお願い仕ります」
「よかろう。最早、その時が近づいておるとは、儂も感じてはいた」
「……」
 十四郎は黙ったまま先に立って祠の前まで行く。
 四囲をゆっくりと見まわした大飯が、
「ここが我が死に場所か。いいところじゃの、長尾」と、静かに言う。
「……」
「だが、儂にとってそちは息子左馬之介の仇。その仇を目の前にし、例え殿の命でも、腹を切る訳にも、黙って討たれる訳にもゆかぬと思うていた。若しそちが来ぬ時は、たとえ物の怪となり果てても命貰おうと心に決めていた。果し合いということであれば儂とて望むところじゃ」
「……」
「それにしても強いの、あの強者達を悉く退けるとはな。儂が甘かったかの」
「……」
「儂も、曲がりなりにも念流を修めた者、心して来い。死を覚悟した者の剣は手強いぞ」
「はっ」
 大飯が柄に手を翳すと、供の侍たちも一斉に刀を抜いた。
 が、大飯はそれを制した。
「お前たちは決して手を出すな、臣として殿の御心を裏切る訳にはゆかぬ。儂が斬られて死んだとしても、決して手を出してはならぬ。儂が死んだら、全てを目立たぬ様措置致し、箱根にて病に倒れたと、故郷へ骨を持ち帰り、決して誰にもこの事口外致すな。お前達は儂の部下ではある、が、殿の家臣ぞ。良いな」
「はっ、しかし」と、共の侍たちは承服しかねていた。
「長尾、この者達には何の落ち度もない、若い者の将来を無駄にはしたくない。殿にお伝えし、然るべく計らってはくれぬか」
「はい、私が生き残りましたれば、必ず。それから、御跡は御養子の栄次郎様に継がせるとの殿の御言葉でございました」
「そうか、思い残すこともそれで無くなったの。我が息子の短慮の為に、苦労掛けたの、済まなかったの、長尾」
「はっ、私めこそ至りませず……」
「……」
 十四郎は、今の一言に、この男の苦しみの深淵を見たような気がした。
 互いの怨讐の彼方から、今果つるであろう迄の来し方を、二人は遠い想いでその胸に見やるのであった。
「行くぞ、長尾」
 その思いを断ち切らんとするかのように、大飯が刀を抜いた。
「死を覚悟した者の剣は強いぞ」と言った大飯の気魄は、とても六十を前にしたとは思えぬものであった。
「どうした。己より明らかに劣るものを斬るのは厭か。年寄りを斬るのは厭か」
「……」
「来いっ、長尾!」
「……」
「来ぬか。ならば、こちらから行くぞ」
 八相から放たれた大飯の袈裟斬りは、十四郎の読みを遥かに超えた凄まじい一閃であった。
 辛うじて躱した十四郎に、「どうした、その顔は。手強いぞと言うたであろうが」と、愉悦を含んだ笑みを見せた。
「……」
 ジリジリと間合いを詰めてくる大飯の気魄が、内に秘めた何かに力を与えられたかのように増してゆくのを感じた。それは、あの怨讐であるのだろうか。十四郎の心を、悔恨に似たものが過ってゆく。
「かーっ」と、叫び声を挙げ、再び八相から大飯の袈裟斬りが来る。
 己は斬られて死のうとも、必ずや相手を倒すのだと云う覚悟の秘められた捨て身の八相であった。
 必死で弾いた十四郎が、屈むようにしながら、大飯の左を駆け抜けた。
 十四郎の抜き胴に、大飯が「ドウッ!」と仰向けに倒れた。
「御家老!」
「己ッ!」
「ならぬ!」
 共の侍たちが一斉に刀を抜き駆け寄ろうとするのを、倒れた大飯の手が苦しげな声と共に制した。
「長尾、流石だな」
 笑みを浮かべて、大飯が言った。
「御家老様……」
「赦せ。儂の不徳の招いたことで、多くの者達を苦しめ、悲しませてしもうたな。もう子は駄目かと諦めた頃にやっと授かった子故な、溺愛してしもうた。あの時腹を切らせ、儂がお前に謝れば、そこで怨讐の連鎖は断ち切れたものを……」
「私めこそ、あの時、なに故十五の佐馬之介殿を赦せなかったのだと……」
「人の子の親とはそういうものよ、誰しも我が子が可愛いのだよ……」
 大飯の目から一筋の涙が流れ落ち、やがて静かに事切れた。
 合掌し立ち去ろうとする十四郎を、共の侍の一人が再び刀を抜き追おうとしたが、仲間にその肩を押さえられた。

 己とて大飯と同じであったのだ。
 一時の怒りを抑え、十五の子供故の過ちと、なに故冷静になれなかった。さすれば、彦四郎と元蔵を失った悲しみは残ったであろうが、鴇までも失う事は無かったのだ。あの剣客達も死なずに済んだのではなかったのか。怨讐の連鎖に、罪も無き多くの者達を巻き込んでいったのは、誰あろう己ではなかったのか。
 仇を討って、誰が救われた。
 鴇は救われたか。
 彦四郎は、元蔵は救われたか。
 はたまた己は救われたか。
 愛する人が死ぬと云う事の痛み。
 人を斬り殺すと云う事の痛み
 殺された者達の痛み。
 鴇の苦しみを見かねてとはいえ、その胸に止めを刺した時、己の心に突き刺さったあの痛み。
 肉親の死という同じ痛みが、この男の心の底にもまた、歴として存在していたのではなかったのか。
 それが悲しみを抱く己が一つ身の背と腹であると、なに故気付かなかった。
 そして己は、誰をも救う事は出来なかったのではないのか。
 己さえも……。
 なに故、十五の若者の命が、彦四郎の命と同じ重さを持つということに思い至らなかったのだ。

 十四郎は、近々隠居する高齢の指南役に代わり藩へ戻って次の指南役を務めよとの因幡守の命を固く辞退した。
 こんな己が、人の上に立ち何かを教えることなど適わぬと……。
「長尾、巷の空気に魅せられたか。それが出来る者は羨ましいの、他藩へは行くなよ。その時は戻って来い、いつでも待っておるぞ」
 因幡守は十四郎の心を知ってか知らずか、笑って十四郎の我が儘を赦してくれた。

 半年後、衣屋が長屋の皆を集め、小さな料亭を貸し切り早苗との祝言を挙げてくれると言ってくれた。
 恐縮する十四郎を遮って、「ここは、この衣屋の気持ちを黙ってお受け下さいまし」と言って譲らなかった。
 が、懇意の武家に早苗を養女とし、武家の婚礼として体裁を整えるという衣屋の申し出は断った。
 武士の体面なんぞはもう自分には無縁のもの、この市井で生きてゆくのだと、十四郎は心を決めていた。早苗もまた、それを望んでくれた。

 祝言も無事進み、宴に入ろうとする頃、女将が顔を出し、「衣屋様、お客さまでございますが」と、伝えに来た。
「間に合ったかな……。女将、お頼みしておいた膳を頼みますよ」
 座を外した衣屋が、嬉しそうな声で話しながら廊下を戻ってきた。
「間に合いました、間に合いました。良かった、良かった。道中、大分お急ぎになられましたか」
 部屋に、六十絡みの旅姿の男女と小者が案内され入ってきた。
「義父上!義母上!」と、十四郎が後の言葉を失っている。
「十四郎殿、おめでとうござる。衣屋殿から書状を戴いての、伊助に助けられながら必死で歩いたのだがの。年寄りの足では如何ともし難く、ちと遅れてしもうた。江戸は遠いの」
「わざわざ私の為に……」
 十四郎が、涙を流した。
 彦四郎と元蔵を失い、そして鴇を失った己は、これで天涯孤独の身になったと哀しみ、勝手に思い込んでいた。この二人もまた、娘の鴇を失い、可愛い孫を失い、寂しさと、悲しさを、その老いた背に背負うていたのだ。それすら解る事の出来なかった未熟な己に、衣屋はそれを教えてくれようとしたのか。
 義父と義母は、血も繋がらぬ己の為に、老骨を鞭打ち遠い九州の彼方から遥々と……。
 十四郎のその涙を、早苗が拭った。
「こちらが、早苗殿かな」
「はい、鴇様の……」
 早苗もまた、声にならない。
「良い、良い。何も言わずとも良い。儂が、鴇の父じゃ。これが母。鴇も、彦四郎も、元蔵も、皆喜んでおろう……。早苗殿も、今日から儂等の娘じゃ。嬉しいの」
 思わぬ祝いの客に、座は盛り上がりを見せる。
 しばらくした頃、鴇の母が早苗を促し奥に消えた。
 再び襖が開けられた時、一斉に吐息が洩れた。
 裾から舞い立つ鶴の刺繍された見事な打ち掛けを纏う早苗が立っていた。
「流石因幡守様、これはまた見事な打掛けではございませんか」
 因幡守からの打ち掛けを持参するとの飛脚での知らせを聞き、自ら用意しようとした打ち掛けを諦めた衣屋であったが、その見事さに思わず驚きの声を挙げた。
「江戸へ行く願いを出したらの、今、国元へお戻りの殿のお耳に入ったらしゅう、これを届けろと」
 義父が、涙声で言う。
「不遜にも殿のお気持ちをお断りした、この我が儘者に……」
 十四郎が、早苗の打掛け姿に頭を垂れた。
「あんな長屋じゃ泥棒に持っていかれちゃうよ」
 佐平が、そう言いながら泣いている。
「あんな長屋ですか」
 大家である衣屋が、佐平の言葉に笑った。
「いけねぇ、そんな積りじゃ」
 皆の大きな笑い声が小さな料亭を包んだ。
 何処から来たか、桜の花びらがちらちらと風に舞っている、もう直に江戸の春も逝こうとしていた。
                         
                         完
                                     
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