第2話 六花

文字数 2,994文字

 約束の日曜日、隼人は動物園の前で待っていた。待ち合わせの時間より、三十分も早い。空は十勝晴れと呼ばれるのにふさわしく、青く輝いていた。
 落ち着きなく、足元の雪を踏む。胸がどきどきと息苦しい。待っている間さえこうなら、六花の姿を見たら心臓がはぜてしまうのではないか。

 隼人の思索を中断したのは、近づいてくるエンジン音だった。緑の軽自動車が、隼人の前でするすると止まった。
 運転席には少しやつれた感じの女が座っていて、隼人を見ると丁寧に頭を下げた。
 隼人もこっくりと頭を下げる。スモークウインドーの後部扉がおずおずと開き、白いブーツが顔を出した。

 隼人は、車から出てきたものが何なのか、判らなかった。
 異様な風体の、男か女かも判らない存在が、うつむいて立っていた。
 全身が黒かった。身長は隼人と同じくらいで、黒い目出し帽をかぶり、頭頂部にはポンポンが揺れている。大きなサングラスをかけていて、表情は判らない。肩の角ばった、真っ黒なコートの裾が膝の下で揺れている。手袋も黒かった。唯一、ブーツだけが白い。それは見慣れた、六花のものだった。大きなナップザックを背負っていた。
 軽自動車は黒い存在を降ろすと、ゆっくりと去って行った。

「だ、誰だよおまえ」

 隼人の震えた声を聞いて、黒い存在がすくんだように見えた。

「……あたし」

 目出し帽の奥から、くぐもった声が聞こえた。
 黒い存在はナップザックを降ろし、サングラスを外した。長いまつげの、悲しげな瞳が現れた。

「六……花?」

 目出し帽を脱ぎ取ると、漆黒の髪がざっと流れ落ちた。黒いコートの襟の上に、六花の顔が乗っていた。雪のような肌の白さは、太陽の下でも変わらない。しかし、何かに耐えるような表情の六花を見るのは、初めてだった。
 六花はサングラスと目出し帽をナップザックに投げこみ、いつもの白い帽子を取り出してかぶる。不格好なコートをいそいそと脱ぐと、下にはお気に入りの、白いコートを着ていた。

「なんだよ、その格好」
「隼人君をね、驚かそうと思ったの」

 六花は隼人の顔を見ずに、黒いコートをナップザックにしまっていく。
 不可解だった。しかし眼の前にいるのは、確かに六花だった。隼人には、それで充分だった。

「それ、貸せよ」

 六花のナップザックを、隼人が背負う。

「ありがとう、隼人くん。行こうよ。あたし、シロクマが見たいな」

 雪の華が、笑う。太陽の下のそれは、不安になるほど弱々しかった。



 六花は珍しそうにあたりを見回しながら、シロクマの檻へと歩く。
 月の下で見たような、軽やかさがなかった。なんとなく気にはなったが、六花とふたりでいることに、隼人は切なく昂っていた。
 並んで歩くと、手袋と手袋が軽くふれる。そのままつないでしまおうかと思い、やっぱりダメだと思いなおすが、六花は気にもしていなかった。

 隼人が同じ逡巡を繰り返しているうちに、シロクマの檻の前に来ていた。
 シロクマの檻は見下ろすように作られていて、周囲はのびのびと泳げる広さの水路で囲まれている。シロクマは雪の積もった島の上に寝そべっていた。帯広の厳冬は、まことに快適そうだった。

「かわいいね。あたし、白い動物が好きだけど、シロクマが一番好き」

 六花が眩しげに眼を細める。

「おれも、白いのが好きだな」

 それは、すぐとなりにいる。軽く速い鼓動で、胸がむずがゆい。
 六花がこちらを見て、笑った。

「あたしたち、どう見えるのかな」
「えっ……」

 六花がそっと、隼人の手をとった。心臓が一瞬でふくれあがる。

「普通の男の子と女の子に、見えたらいいな」

 六花が頭を、肩にもたれかける。甘いミルクの匂いが、鼻をくすぐった。

「お、おい……!」

 あまりの柔らかさに、頭が熱の塊になる。
 六花の頭が、ずるずると下がっていく。力を失ったかのように、隼人にもたれてくる。ようやく、異変が起こったことに気づいた。
 頭を打たないように抱きとめ、雪の上に座りこむ。六花は苦しそうにまぶたを強く閉じ、不規則な呼吸は浅かった。

「六花! どうしたんだよ!」

 六花が、うっすらと眼を開いた。泣く寸前のように、潤んでいた。

「あたしね、みんなと違うふうに生まれたけど、みんなと同じだって、証明したかったの」

 隼人は首を振る。六花が何を言っているのか、判らなかった。

「嬉しかったよ、動物園に誘ってくれて。お気に入りの服を来て、青空の下で隼人くんとデートできて」

 六花は苦しげに笑い、眼を閉じた。弱々しい呼吸が、さらに細くなっていく。
 背中が恐怖で震えた。雪から生まれた六花が、腕の中で消えていってしまうというのか。そんなことさえ、本当にありそうな気がした。

「六花!」

 誰かが呼んだのか、救急車の音が遠くから聞こえる。隼人はしみてくる雪水にも気づかず、ただ六花を支えていた。



 六花は、病院の集中治療室にいた。隼人は廊下の長椅子に、うなだれて座っていた。隼人の前に人影が立つ。見上げると六花を送ってきた、やつれた女がたたずんでいた。

「あなた、隼人くんよね?」

 ぼんやりと、頷く。

「私は、六花の母です。本当に、ありがとう……」

 六花の母は、深々と頭を下げた。

「おれ、なにも判らねえ……六花はどうしてこんなことに?」

 隼人の隣に、六花の母がゆっくりと座った。

「六花はね、日光に当たると肝臓の機能が落ちてしまう病気なの」
「そんな病気が、ほんとうに?」
「ポルフィリン症って言ってね、生まれたときからそうだった」

 六花がそんな病を抱えていたことに、驚く。

「昼間、外に出るには黒い服で全身を覆わないといけないの。そうしないと、すぐに発作が起こってしまう」

 胸がじくりと痛む。あの黒ずくめの六花に、怯えてしまった。知らなかったとはいえ、六花はどれほど傷ついただろうか。六花の妖精のような白い肌も、日光を浴びられないためだった。

「夜だけは、六花の好きな服を着て、外で遊ぶことができた。だから……自由に遊ばせてやりたかった」

 夜しか会えなかったのは、そういう理由だった。

「じゃあ、どうして動物園で、黒い服を脱いだんだよ?」

 六花の母は、隼人をとても愛おしそうに見つめた。

「それはね、六花が女の子だからよ。普通の女の子と同じように、好きな男の子の前で、可愛くしていたかったの。たとえ、生命が危ないと判っていても」
「そんな……」

 声が出なかった。出てくるのは嗚咽だけだった。こめかみが痛くなるほど、涙がぼろぼろとこぼれる。六花の母が、背中にそっと手を置いた。

「隼人くんに出会ってから、六花は本当に幸せそうだった。私は親として、六花の生命を守るために黒い服を着せたけれど、六花が脱いだ気持ちは痛いほど判るの」

 自分の思いだけで六花を振り回して、六花のことを知ろうともせず、不可解を考えようともしなかった。隼人の胸が、万力で締められるよう痛む。

「夫の転勤で帯広に来たけれど、私と六花はたぶん、設備の充実した札幌に戻らないといけなくなる。だけど、隼人くんのことは絶対に忘れないわ。私も、六花も」

 隼人は、胸を絞るように泣いていた。


 
 五月。隼人は中学生になり、帯広の雪はようやく消えた。
 六花は、母とともに帯広を去った。
 春霞でぼんやりとした空を見て、思う。
 消えた雪は、また冬にめぐり来る。
 消えた六花にも、またきっと会える。
 今度は、決して消えさせたりはしない。〈了〉
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