第1話 隼人

文字数 3,871文字

 少女が月光の下で、雪原をくるくると舞っている。
 白い帽子、白いコート、白いマフラー、白い手袋、白いブーツ。
 全身を白で装った少女は、肌の色も雪のように白い。帽子から出た、肩へと流れる髪だけが漆黒だった。

 少女が踊るたび、足元で雪がきらめく。銀砂のようだった。
 帯広の二月は、気温が零下二十度になることも珍しくない。雪は湿度さえ奪われ、雪玉も作れないほどさらさらになる。
 千堂隼人(せんどうはやと)は、母親に叱られた腹いせに家を飛び出し、ふとたどり着いた公園で、楽しそうに舞う少女を見つめていた。

 公園といっても、北海道らしくサッカー場ほどもある広大なものだった。
 誰もいない公園の中央で、少女が妖精のように舞っている。
 隼人は、少女に引き寄せられていった。自分の見ているものが、はたして現実なのか、判らなかった。近づいていったら、ふっと消えてしまいそうな気がした。

 少女は笑っていた。夜空には雲ひとつなく、凍てついた月明かりを青白く反射する雪の舞台で、少女はたったひとりの主役だった。
 隼人の足元で、雪がきゅっと音をたてた。
 初めて、少女が止まった。不思議そうな眼で隼人を見ていた。
 雪あかりで照らしだされた少女は、ひどく儚げに見えた。

「キミ、誰?」

 少女の口から、くっきりとした呼気が昇る。喋ったことに驚いた。

「お、おまえこそ誰だよ」

 慌てて口を覆うマフラーを下げる。少女が口をとがらせたのを見て、どきりと胸が跳ねた。

「やだな、おまえって」
「だって、名前知らねえもん」

 自然と幼くなる口調に、顔が熱くなる。

「あたしは、橘六花(たちばなりっか)。六つの花って書くの。キミは?」
「おれは、千堂隼人。そこの小学校の、六年生」
「あたしと同い年なんだ、隼人くん」

 胸の前でぽふっと手を打った六花の顔が、輝いた。隼人は、物語の世界が突然現実になったかのような、不思議な気持ちだった。

「隼人くん、こんな夜に何してたの?」

 隼人は口ごもった。帯広とはいえ、零下二十度の夜に散歩へ出かける者はほとんどいない。酔っぱらいが凍死することも年に何件かあった。

「り、六花こそ、何で踊ってんだよ?」

 出会ったばかりの、雪から生まれたような少女を呼び捨てにするのが気恥ずかしくて、隼人は顔を逸らした。

「楽しいから」

 晴々とした笑顔だった。心から、そう思っているようだった。

「あ……」

 六花が落雷のように、心に焼きついた。心臓が駆け足を始め、胸がもどかしく締まる。隼人が経験したことのない、甘い痛みだった。

「どうしたの?」

 隼人の呻きに、六花が無邪気に問いかける。もう耐えられなかった。

「お、おれ、帰る」
「そう……」

 六花の笑顔が、すっと消えた。ひどく罪深いことをしてしまった気がして、逃げるように六花に背を向けた。

「じゃあな」

 気まずさと戸惑いをごまかすように、隼人は駆け出した。
 何か叫びたいのに、気持ちを外に出してしまうのが惜しいような、不可解な感情に心を乱され、隼人は早足で家に向かった。
 忍び足でベッドに入り、目を閉じて浮かぶのは、白い六花の舞いだった。



 隼人は次の夜も、家を抜けだした。目的は、昨日とは違う。部屋の中で、じっとしていることはできなかった。携帯ゲームも、分厚い月刊漫画も、もちろん宿題も手につかなかった。
 公園に行って、確かめたかった。今日も六花が、雪原を舞っているのか。
 圧雪の歩道を、公園へと歩く。軽快な鼓動を鮮明に感じる。

 それは不愉快ではなく、自然と隼人の足を速めていく。
 公園にたどり着いたとき、鮮やかな歓喜が走った。
 昨日と同じように、六花が舞っていた。型のない、天衣無縫の舞いだった。
 縦横無尽に駆けたかと思えば、奔放に跳びはねる。それでいて荒々しさはなく、ひたすらに可憐だった。

 足元から舞い上がる銀粉が、きらきらと六花を彩る。
 夢を見ているようだった。
 六花は喜んでいた。普通の喜びようではなかった。獄から解放された囚人のような、あまりに切実な喜びだった。

 少しだけ、不安になった。
 六花は隼人に気づいたのか、舞を止めて手を振った。わずかな曇りは、嬉しさに吹き飛ばされていた。
 六花のところへ駆けて行きたいのを、こらえて大股で歩く。あからさまに会いたかったと思われるのが恥ずかしかった。

「来てくれたんだ」

 六花の笑顔は、雪の華のようだった。

「おれの行くところに、六花がいるんだ」
「そうかもね」

 六花がふふっと笑う。すべてを承知したような表情に耳が熱くなり、眼を逸らしてしまう。

「六花ってさ、何組に転校してきたんだ?」

 恥ずかしさをごまかすための、どうでもいい問いのつもりだった。

「え?」
「うちのクラスじゃねえし、誰に聞いても転校生なんて知らねえって言うんだよ」

 六花の長いまつげが、寂しそうに伏せられる。

「あたし、学校には行ってないの」
「なんで?」

 雪の精だから人間の学校には行かないの、と言われても信じてしまいそうだった。
 病気で身体が弱いのならあれほど動けるわけはないし、登校拒否にしては笑顔があまりに鮮烈だった。
 無遠慮な問いに、六花はしばらく迷ったような顔をしていたが、やがて濡れた黒曜石のような瞳を向けた。

「いいじゃない、そんなこと。隼人くんとはここで会えるんだしさ」
「お、おう」

 はぐらかされたことにも気づかず、顔が火照る。

「昨日はあたしの質問に答えてくれなかったよね。こんな夜に何をしてたの?」
「別に……つまんねえことだよ。母ちゃんに怒られてさ、悔しくて眠れなくって、外に出たんだ」

 本当は言いたくなかったが、六花に打ち明けることで、少しは距離が縮まるような気がした。

「うらやましいな」

 思いがけない言葉に驚き、ちかっと怒りさえ湧いた。そんな隼人に気づいているのかいないのか、六花は淡々と続ける。

「お父さんもお母さんも、あたしのこと怒らないの」

 六花の口端が、寂しそうに小さく持ち上がった。隼人はわけが判らなかった。

「怒られたいのか? じゃあうちの母ちゃんやるよ」

 いらついたふざけが半分、もう半分は本気だった。

「ダメだよ、そんなこと言ったら」

 六花の声は、思いのほか強かった。濡れた瞳が、本気で怒っていた。不意の怒りに直面し、股がすうっと冷える。

「いつまで一緒にいられるか、判らないんだから」

 静かな六花の声が、ひどく大人びて聞こえた。
 沈黙の中、粉雪がちらちらと降ってきていた。

「ごめんね、変なこと言って」

 六花がうっすらと笑う。さっきの、寂しげな笑みではなかった。

「いや、別に……」

 六花に心を揺さぶられていると、はっきり判っていた。

「あたし、そろそろ帰らなきゃ。また会おうね、隼人くん」

 六花は身をひるがえすと、スキップのように軽やかに、雪原を駆けていった。
 六花が夜の闇と雪あかりの境目に消えるまで、隼人は立ち続けていた。


 
 隼人は六花の姿を探すようになっていた。下校途中の通学路で、駅前の市街地で、ホームセンターの棚の間で。
 帯広は小さい街ではないが、公園から走って帰れる距離に住まいがあるなら、出会う可能性はあった。しかし、六花を見つけられるのは、いつも夜の公園だった。

 手さえ握らない逢瀬を重ねるうち、隼人は想いが想いのままであることに、次第に耐えられなくなっていた。どうしても太陽の下で、六花に会いたかった。
二月も終わりに近づいたころ、隼人は思い切って六花に告げた。

「あ、あのさ、今度の日曜日に、動物園行かねえか」
「え、えっ」

 白い手袋で口を押さえた六花の頬が、たちまち染まる。動物園は、公園の近くにあった。市営で、小学生の小遣いでも充分に楽しめた。
 隼人は、六花の答えを待ってうつむいた。六花もまたうつむき、答えを探しているようだった。しばらくして、六花はためらいがちに口を開いた。

「ごめんなさい、日曜日は用事があるの」

 どん、と心臓を内側から叩かれた。答えを待つ間、すでに六花とふたりで動物園にいる自分を想像していた。抑えきれない悔しさとみじめさが、かっと背中を焼いた。

「じゃあ、その次の日曜は? 来月は? いつならいいんだよ?」

 思いがこぼれて、後戻りができなくなっていた。本当に用事があるのだとしても、自分との約束なら六花は優先してくれるだろうと勝手に思っていた。そんな身勝手な自分が嫌で、六花にそんな自分を見せてしまったことが悲しくて、眼の奥が熱くなる。

「隼人くん……」

 六花は本当に申し訳そうな、優しい瞳をしていた。隼人の頬を、こらえきれなくなった涙がつたい、すぐに冷たくなる。

「見るなよ」

 横を向き、乱暴にダウンジャケットの袖で拭う。デートを断られたぐらいで泣いてしまったのがたまらなく恥ずかしく、今すぐ頭を石に打ちつけて砕いてやりたかった。

「ほんとうに、あたしと動物園に行きたいの?」

 いたわるような六花の声に、やけくそで頷く。
 六花は静かに眼を閉じ、瞑想するように黙る。やがて眼を開いた六花は、すっきりと笑っていた。

「わかった、三月の最初の日曜に行きましょ」
「ほ、ほんとか?」

 たまらない喜びが、背骨を駆け上がる。六花が、すっと頷いた。

「やったあ!」

 拳を手のひらに、ぼすっと打ち当てる。本当は跳びあがって踊り出したかった。

「そんなに嬉しいの?」

 六花の口元はわずかに緩んでいたが、遠くを見るような眼だった。

「……悪いかよ」

 派手に喜んでしまったことが、急に恥ずかしくなる。一旦断られて、泣いたことなどもう忘れていた。

「楽しみだね」

 六花が、静かに空を見上げる。星のない空から、砂のような雪が舞い降りてきていた。
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