始発のヒーロー

文字数 4,264文字

高校時代の同級生、三島哲弘(のりひろ)は赤い全身タイツに青のハーフパンツ、エナメルのような青いブーツを履き背中に青いマントという()で立ちで電車に乗り込んだ。
遠巻きにクスクス笑う女子高生たち。怪訝な顔をするサラリーマン。「おはよう」と声をかけるおばさん……。乗客の反応は様々だ。私は隣のドアから同じ車両に乗り込み、哲弘の様子を観察した。

吊り革を持ち、じっと前を見る哲弘。その目には高校時代と同じように私が映る余地はないのだろうなと思った。

哲弘は4つめの駅で降りた。そして改札を抜けくるりと踵を返し、また改札を通って駅の中に入って行く。私は改札に乗車用ICカードをかざし哲弘を追った。さっきとは逆方向のホーム。そこにすっくと立った哲弘がいる。

彼は一体なにをしているのだろう。逆向きの電車に乗った哲弘は4つ目の駅で降車し、改札を抜け、また踵を返し改札に向かった。

私は思わず声をかけた。

「ちょっと待って、哲弘っ」

咄嗟に彼の腕を掴んだ私を見て

「川崎?」

とその口は言った。

「久しぶり。ねえ、一体なにしてるの?」

私の質問に彼は答えずに

「急ぐから」

と言って改札を抜けて行った。

それから約1時間、彼は同じ行動を繰り返した。

そんな意味不明の反復行動の末、やっと駅から出てそのまま歩き出した哲弘に駆け寄って

「久しぶり。元気にしてた?」

と話しかけた。

哲弘は

「元気だよ。川崎は?」

と高校時代のままのやさしい笑顔で言った。どこかお店に入ってお茶でもと誘うと哲弘が

「公園のベンチで話そうか」

と少し先の公園を指差した。小さな公園で人もいない。哲弘の格好が人目を集めてしまうからという私に対する気遣いかもしれない。スマホの時計はまもなく9時を刻もうとしていた。

自動販売機でコーヒーを買ってベンチに座る。

「高校卒業以来だから4年半以上経つんだね」

私が言うと、哲弘はプルトップを開けてコーヒーを一口飲んだ。

「4年半かぁ。早いねぇ」

そう言った哲弘の目は、過ぎた4年間を真っ直ぐに見ているようだった。

「川崎は? 元気にしてた?」

「元気だよ。でも社会人1年生はなかなかハードだね。初めて有給休暇なるものを取ってこっちに帰って来た」

「そうかぁ。有給休暇かぁ」

「哲弘は? 今はなにをしてるの?」

スポーツ推薦で大学に行ったことは知っている。陸上部で颯爽とハードルを跳び超える哲弘はチーターみたいにかっこよかった。

「俺? 俺は……ヒーローになりたいと思って」

もともとやさしくて真面目な性格だから、もしかして就職して辛いことがあったのかな……。そんな心配が頭をかすめる。でも哲弘の顔を見ているとそんなふうでもないように感じる。瞳に力がある。

「哲弘は昔からヒーローだよ」

私の言葉に哲弘が驚く。

「ヒーローにはなかなかなれないよ」

呟くように哲弘は言う。

「私にとってはヒーローだったんだよ。哲弘が颯爽と走る姿を見ると私も頑張ろうと思えた。私、哲弘のこと好きだったんだ」

あの頃どうしても言えなかった言葉が今はするりと出てくる。

「ありがとう」

哲弘は言った。

「でも、ごめん」

ばか。真面目で素直なやつ。

「謝らないでよ。私、今ちゃんと彼氏いるから」

「そっか。よかった」

「聞いていい?」

「……」

「どうしてそんな格好して何度も電車に乗ってるの?」

「コスプレ趣味に目覚めたんだ。快感を知ってしまった」

哲弘は笑いながら言った。

そんなこともあるのかな……。どこかケムに巻かれたような気持ちで私は哲弘の横顔を見ていた。

  ***

大学進学を機に地元を離れた私は、そのまま地元には戻らずに就職した。地元の友達とも連絡は取るけど、その回数は実家に帰る回数に比例して減っていった。

半年以上ぶりの実家。明日は久しぶりに香絵(かえ)に会う。高校時代はニコイチと呼ばれるほど仲のよかった香絵は地元の専門学校に進学し地元で就職した。

由羽(ゆう)〜元気だった?」

私より先に待ち合わせのレストランに来ていた香絵は笑顔でそう言った。

「元気だよぉ。香絵は? あれから仕事、大丈夫?」

香絵が厄介な上司に悩まされているという話を電話で何度か聞いた。辛そうな香絵の話を、私は聞くことしかできなかった。

「今年入ってきた新人さんが頼りになる人で、私が攻撃されそうになると上手くかわしてくれて……」

少し微笑みながら香絵は話した。

「よかったね! 本当によかった」

「実は来年、その人と結婚するんだ」

「えっ⁈」

「由羽には会って伝えたかったから今になっちゃった。いっぱい心配かけたね。いつも話を聞いてくれてありがとう」

そうだったのか——。
うれしいことなのに、どこかさみしい。油断すると妬ましい気持ちまで出てきそうな自分を立て直して

「おめでとう」

と香絵に伝えた。

「ありがとう」

香絵の笑顔は幸せに満ちていた。

食後のカフェオレを飲みながら

「そう言えば昨日、哲弘に会ったよ」

と私が言うと、香絵の表情が少し曇った。

「もしかして駅で……?」

「うん。コスプレに目覚めたとか言ってヒーローみたいな格好してた」

「ヒーロー……」

「何度も何度も同じ駅を行き来して……。哲弘、どうしちゃったんだろ」

香絵はもちろん私が哲弘に恋心を抱いていたことを知っている。

「由羽……実はね……」

香絵は話そうか話すまいか迷うように手元のカップを見つめながら言った。

「哲弘は本当にヒーローになろうとしてるんだよ」

私は話の見当が全くつかずに、カフェオレを啜った。

「由羽、美穂ちゃんって覚えてる?」

美穂ちゃん……。覚えてるよ。哲弘がたった1人名前を呼び捨てにする女の子。私たちの学年は和気あいあいと和やかで少し仲良くなると男女でも下の名前で呼び合った。でも哲弘は女子のことはかたくなに苗字で呼んだ。そんな哲弘が唯一、名前で呼ぶ女の子が美穂ちゃんだった。哲弘の口から「美穂」という名前を聞くたび私の胸はズキっと痛んだ。説明なんてなくても哲弘が美穂ちゃんのことをどれだけ想っているかわかる。2人は付き合っていたのか、そうでないのか、それは知らない。でも哲弘が美穂ちゃんを大切に想っていることは、その頃の私にはいやでもわかってしまった。

「覚えてるよ。哲弘の大切な美穂ちゃん。美穂ちゃんがどうかしたの?」

一瞬話すのを躊躇って、香絵は口を開いた。

「美穂ちゃん、電車で痴漢に遭ってしまって……」

「女性専用車両に乗ったり、周りを友達に固めてもらったり色々対策してたらしいんだけど、たまたま1人だった時に駅でつけ回されたり、何度か怖いことが続いてしまったみたいで……」

「お父さんの顔も、幼馴染の哲弘の顔も見られないぐらい男性が怖くなってしまって……。ずっと部屋に引きこもってるって……」

「いつから……?」

「去年の今頃ぐらいかな……」

「それからずっと哲弘はああしてるの?」

「そんなことになって何か月かしてからだと思う。始発の電車から朝の9時頃まで。夜も……」

「始発? なんで? そんな時間も?」

「始発なら大丈夫かと思って乗った日に、また美穂ちゃんいやなことがあったみたいで……」

「哲弘、大学は? 就職は?」

「大学の単位を取りきれずに留年してるみたい」

「そうなんだ……」

思いもよらない話に頭が真っ白になった。でも少し落ち着くと哲弘ならしそうなことだとも思った。そしてだんだん痴漢なんていう卑劣なことをする人間に怒りが込み上げてきた。私にも経験がある。本当に恐怖なのだ。こんなに頑丈そうな心の私でもしばらく怖くて男の人と目を合わせられなくなった。

「悔しいね」

「うん」

「哲弘、悔しいんだろうね」

「うん」

真っ直ぐ。ハードルを跳び越えるくせに哲弘の体は上下に動かない。一直線の光のように真っ直ぐ駆けて行く。何度見ても惚れ惚れしたトラックの哲弘を思い出した。

哲弘の行動を美穂ちゃんがどう思っているのかわからない。でもいつか哲弘が美穂ちゃんのヒーローになれたらいいなと思った。

  ***

それから数か月後、哲弘が新聞に載ったと香絵から連絡があった。痴漢逮捕に協力し、哲弘がヒーロー姿で電車に乗る時間帯や区間の痴漢被害数が減っているそうだ。

私は駅でその新聞を買った。写真に写る哲弘はニコリともせず、ただ真っ直ぐ前を見ている。そうだよね……。哲弘が成し遂げたいのは世間にヒーローだと認められることじゃないもんね……。哲弘の記事が載っているページを残そうかと思ったけどやっぱりやめてそのまま新聞を閉じた。そして明日も始発に乗り込むであろうヒーロー姿の哲弘を思い浮かべた。

  ***

「お父さん、怒るかなぁ」

私の恋人は、お土産に買った洋菓子の紙袋を覗き込みながら半笑いで私に聞いた。

「もう四十も近い娘なんだからそんなに怒んないでしょ」

今日は彼と結婚の挨拶をするために私の実家へ行く。久しぶりに地元の電車に揺られながら、あれから哲弘はどうしたかな……とふと思った。

「パパ、のどかわいた」

幼い女の子が父親らしきその人に向かって話す。

(のり)くん、そのリュックに水筒入ってる」

母親らしき人が言う。

「美穂のかばんの中じゃなかった?」

そう言われて

「あ、そうだ!」

とかばんから水筒を出す。

哲くん……。美穂……。

私は何気なく見ていたその光景にハッとした。

青いジャケットの襟元から赤のタートルネックが覗く。ボトムスは赤のカラージーンズ。

哲弘だ……!
隣の人は美穂ちゃんだ。
そして幼い男の子と女の子。


「ママー、おばあちゃんのお家、まだぁ?」

靴を脱いで窓の方を向いて椅子に座っている男の子が美穂ちゃんに尋ねた。

「もうすぐだよ」

美穂ちゃんはやさしく答えた。

哲弘はヒーローになったんだ。

美穂ちゃんのヒーローに。

私は溢れる涙を急いでハンカチで拭った。

私の恋人は

「どうしたんだよ。込み上げるには早くない?」

と私の様子を見てからかうように言った。

「そりゃ込み上げるよ……」

そう言ったら涙が止まらなくなった。

「ごめん。感極まっちゃった。次の駅で降りていい?」

やさしい恋人は私の背中をポンポンと叩きながら

「オッケー」

と言った。

次の駅で電車を降り、私は駅から哲弘と美穂ちゃんの家族を見送った。

どれだけの愛で美穂ちゃんを支えたのだろう。どれだけの気持ちで貫いたのだろう。邪悪な行為になど負けない。
哲弘は間違いなくヒーローだ。

あの日見たヒーロー姿の哲弘が頭の中で蘇る。

私も頑張らなくちゃ。大切なこの人と幸せを築いていくよ。

この日、哲弘と美穂ちゃんを見られたこと、私にとっては奇跡で神様からの祝福に思えた。

「大丈夫?」

恋人が言った。

「ありがとう。大丈夫」

「行こうか」

「うん」

私たちは手を繋いで、入ってきた電車に乗り込んだ。

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