中盤戦 2

文字数 9,359文字

「――それは、本当か?」
 記者、神谷拓馬は電話口の相手の言葉に疑いの声を掛ける。しかし、すぐにそれが無意味なことだと理解した。この男の言うことは――いつも正しいからだ。それから神谷拓馬はすぐに電話を切り、電車に飛び乗った。目指す先は桐生亭、いままさに黄龍戦の行われている場所である。電話主は彼のパートナーである天王寺悠である。彼は神谷にこう言った。
『有栖川春が誘拐された』と。そしてもう一つ――『二人を殺した犯人が分かった』とも。
 彼はその話を詳しく聞きたがったが、時間がないと説明は後回しにされた。全く、忌々しいな――そう思いつつも心は浮足立ち、嬉々として彼の命に従ってしまう自分の心に彼はそっと目を逸らした。

 午後、対局が再開されると――白瀬の顔はより蒼白くなっていた。手も震え、駒を持つ手も覚束ない。時折駒台の駒を落とし、具合が悪いのが明らかだった。
「――申し訳ないですが」そう白瀬は切り出し、中座する。持ち時間を消費するが離席し休憩したい――そう言うことらしい。長谷川はため息をつく。己の戴冠が多少遠のいた残念感に。ただ、もうその賜杯は9割9分、己の手の内にある。もう――離しはしない、あの時のように。
 暫くして、白瀬が白いマスクをつけて戻って来る。小さく会釈し、彼はちょこん、と盤の前に座った。手番は彼――後はもう奴の玉を仕留めるだけだ、と長谷川は気合を入れる。力ない手つきで彼の手が指される――。力強さなど微塵もない、ただの逃げの手。ずるずると、長引かせるだけのような手が続いていく。長谷川は可笑しかった。相手が自分の掌の上で踊り転げている様が。ただ受け、ただ逃げ、ただ与えるだけの手の連続。もはや相手はただ長引かせるだけしか出来ない、まな板の上の鯉だと。窮鼠ですらない、ただの愚鈍な陸に上がった魚を捌くだけ。単なる作業である。
対局開始から実に十時間以上――もう時計は21時を回りかけている。本当に――本当に永かった――。ようやく自分は報われるのだと強く確信する。
 遠いあの日を思い出す。名人挑戦権を掛けたA級トーナメントプレーオフ。あの時自分は破れ、最も欲していたものを失ったのだ。伴侶に欲した――有栖川芙美子を。

      ※

「芙美子の伴侶には君を、と思っている」
 将棋連盟会長、有栖川剛三が会長室でそう長谷川浩二に告げたのは天王寺悠がA級に最短で駆け上ってくる少し前だった。
「君が芙美子のことを憎からず想っていることも知っている。何より君は、実力も人徳もある。幼いころから芙美子の将棋の面倒も看てくれていた。芙美子も了承するだろう」
 疑問の言葉を挟む余地もなかった。彼、有栖川家の家長であり将棋連盟会長の彼の言葉は何よりも重く、決定事項として重く圧し掛かるものである。しかし、その言葉は長谷川を歓喜させた。あの愛して止まない――美しい花を娶れる。その一点に彼の心は奪われたのだ。
「ご期待に、添わせて頂きます」
 長谷川は奮起した。幼い頃から籠の鳥として育てられた芙美子を自分が籠から出してあげることが出来る――その役目を与えられたことに。しかし、実際はそれが、会長の与えた彼女への枷だとも知らずに。

     ※

――物凄い音がして、長谷川は一瞬のけ反った。意識が急速に盤面に押し戻される。白瀬が突然大きな音を立てて駒を打ち付けたからだ。
「――気合なんて、信じたことはないけど」
 聞き覚えのある声――そんな馬鹿な――と長谷川は目を剥く。
「頃合いかな、と」
 まさか、そんな、馬鹿な。
 対局中に起こる想定外――そのすべてに対処できる準備は出来ていた――そう、思っていた。しかし、そんな想定をはるかに超える『それ』が目の前に突然現れたのだ。
「どうしてだ?」
 自分を責めさいなむ声が目の前の男から零れた。
「――馬鹿な」
「馬鹿はお前だ、長谷川浩二」
 おい、と彼は記録係に声を掛けた。
「出ていろ、そしてしばらく戻って来るな。記録は俺がやるから。立会人にも伝えろ。誰も入るな、とな」
 出ろ、と命令された記録係の青年は戸惑いながらもその迫力に気圧されのけ反る。
「出て――いろ」
 長谷川が彼にそう告げると彼はいそいそと部屋の外へと出て行った。中継を見ていた棋士たちは一斉に訝しみ、立会人は記録係に問い詰めるも二人に退出を促されたからだとしか答えない。しかし対局の二人の言葉は絶対だ。よほどのことがない限り尊重されるべきである。二人が出ろと言うなら従うしかない。彼らに出来ることは不都合が起きないように画面に注視することだけだった。
「さて――」
 対局室の扉を閉めた『白瀬』は対局室に置いてあったマイクの電源も落としてしまう。そして再び長谷川の向かいに座る。
「改めて見ても――ひでえ盤面だ」
 まるで――。
「言うな……」
「あんたの人生みたいだ」
 頭に血が上る。唇を噛み切ったのか、血の味がする。掌に爪が食い込み――息が上手く出来ない。目の前の男は――『白瀬』であるはずの男は、サングラス越しでもわかるほどの威圧を込めた眼光を彼に向ける。長谷川の身体は震え、カチカチと、歯の鳴る音がする。幾度となく浴びせられた苦杯の歴史(おもいで)が彼を襲う。
「――天王寺、悠」
 彼は確信を持って『白瀬』に問う。己を殺人者に落としたきっかけを作った者の名を。

     ※

「――さて、会長。僕とのお約束は覚えてらっしゃいますかね?」
 名人戦をストレートで制した天王寺悠が満員のホテルの解説会場の壇上で問いかけた意味が最初分からなかった。有栖川会長はいつもと変わらぬ鉄面皮のような表情でまるでそれを追認するかのように軽く頷く。そしてすぐに、彼が満面の笑みで会場の片隅にいた有栖川芙美子を呼び寄せる。ざわつく会場を更にざわつかせる発表がすぐに彼の口によってなされる。そう、有栖川芙美子と彼の婚約である。私はすぐに、会長の元へと歩み寄った。
「――ど、どういうことでしょうか?」
「見た通り、だが?」
「な、納得行きません! お、お嬢様は……その、私と――」
 そこまで言い掛けてまるで氷よりも冷たい視線が自分にぶつけられていることにようやく気付く。その主は誰あろう、目の前の男から発せられている。
 ――お前は、あの時何を捨ててでも勝たねばならなかったのだ、この、暴君に。その冷たい瞳はそう語り掛けてくる。
「――ご苦労だった。後は『相応の』活躍を期待している」
 一瞥もせず彼は長谷川を残し会場を後にする。後に残ったのは、伽藍洞の自分だけだった。

      ※

「認めろ」
「何を……」
 それが愚問であることは分かっていた。しかし、そう答える以外ない。どうして? という疑問だけがぐるぐると脳内を巡る。思考すべき盤面のことなど一切出てこない。どうして、こいつは俺の所に――どうして、こいつは俺が殺したと――。
「簡単だ、消去法――よくあるだろ。そう言う『手』が」
 『白瀬』こと『天王寺悠』はさも当然のように長谷川にそう言い放つ。
「俺はずっと、犯人なんてどうでもいいと思っていた。犯人を見つけ出して裁いたところでもう俺は『負けている』。だから、指摘するのも面倒で、やらなかっただけだ」
 最も大事な者はもう帰ってこない――そう、天王寺悠は言っている。
「さて、時間がないから説明は手短にしようか。持ち時間も――ちょうどお互い30分ずつくらいだし」
 悠は座布団の上でリラックスしたようにあぐらを組む。
「消去法――思考の中では良く起きる単なる可能性の除去さ。俺が犯人を絞るため調べたのはただ一点――『誰が可能だったか』だけだ」
 こんな風に――。そう言うと悠は一手、盤上の駒を動かす。
「必然手ってやつさ。他の手はすべて詰む。だからこれ以外の手は指せない。だろう? 可能性を切り落とした先に待つ、ただ一手。それを逆算したんだ。『将棋関係者』から」
 軽妙な語り口であるが、決して疑問を挟ませないほど断定した強い口ぶりに長谷川は閉口する。
「どうして将棋関係者か? なんてことを聞くなよ。あんたも知っているはずだ――芙美子はそれ以外の人物に戸を開けたことなんてないからな」
 用心深い、俺の妻は。そう、『妻』の部分を彼は強調する。
「後は簡単だ。アリバイを調べりゃいいだけ。俺の友人にあの当日、芙美子の知己でアリバイのない奴を調べて貰う。真っ先に浮上したのが、長谷川さん、あんただ」
「それだけ――か?」
 侮るような口ぶりで長谷川はそう返す。
「それだけさ」
「――根拠がない。穴だらけの推理だ。馬鹿馬鹿しい。どうして俺が芙美子ちゃんを殺さなければならないんだ?」
「そう言うと思った。だけどな、最初に言っただろう? 動機じゃない、消去法だって」
「なら、お前が犯人だ」
 ふふ、天王寺悠は薄く笑う。
「だろうな、だからこそ、俺が逮捕されたんだから。他に疑うものなどいない。将棋関係者で、家の鍵を持ち、実際に帰っている。理想的な――犯人だ」
 ――だが。
「問題がある。どうして、俺が帰宅するのがわかったのか? 俺に犯行を押し付けるのだとすればこれ以上ない理想的な状況だ。だから俺も最初は考えた。どうやって名人戦会場からひっそりと移動した俺の動きを知ったのか――なんて、見当違いな考えをな」
 長谷川は乾いた唇を舐めたくなる衝動を必死に抑える。動揺を――悟られないように。
「さて――だからこそ『動機』だ」
 一度は否定したその言葉をもう一度天王寺悠は持ち出す。
「そうだ、そもそもの出発点がおかしかったんだ。あんたは俺に罪を押し付ける気なんて最初からなかった。俺の動きそのものが、偶発的なものだったからだ。俺が帰ってきちまったことがあんたの誤算であり、実は失敗だったなんてな。本当はあんたは――」
 ああ、嫌だ、聞きたくない。長谷川は耳をふさぎたい衝動に駆られる。
「有栖川春に、死体を見つけさせ――あわよくば、罪を着せるつもりだったんだ」
 長谷川浩二にとって一番指摘されたくない言葉が、一番憎い男の口から放たれた。

「考えれば至極当然で、簡明な論理的帰結だ。俺があの場からわざわざお気に入りの扇子を取るためだけにバイクで帰宅するなんて誰にも読めない。つまり、俺に罪を着せる気などさらさらなく、本来の目的は有栖川春だった。裁判の証言を思い出せば明らかだ。あんたは春ちゃんの行動を把握し、彼女に第一発見者になって欲しかった。有力な容疑者として警察――果てはマスコミにそういう目で見て貰いたかった」
「……馬鹿な、ことを。そんなことに――何の意味がある?」
 長谷川の言葉には力がない。否定はしていても、明らかに気もそぞろで動揺を隠しきれていない。
「実際に裁かれるかどうか――は重要じゃない。容疑が晴れ、すぐに釈放されても構わない。単にそういった『十字架』を背負わせたかったんだ。世間の好奇の視線に彼女を晒したかった。結果としてその部分だけはあんたは成功した。だけど、姉と子殺しの容疑だけは掛け損ねた。そうすれば、きっと彼女は耐えきれず、壊れただろうに」
 悠の話を聞く長谷川の顔は白く――だが、その瞳は黒く濁り、怒りが渦巻いている。
「殺す機会は最大で七度――まあ俺が名人だから防衛は最短の四回が関の山か。だが、四回もあったわけだ。俺が不在の時に、有栖川春が俺の家に訪れる機会を窺う。そんなところだったんだろ?」
 悠の言葉が核心を突くたびに、長谷川の顔色はより白に近づいていく。
「理由は――分かりたくもないが」
 これ以上の説明がいるか? とでも言いたげに彼は膝を立てる。悠はあえて長谷川の動機を最後まで話さなかった。
「――情けをかけた、つもりか?」
「いいや? 単に意味がないと思ってるだけさ。犯行動機なんて、それを起こした本人にしか、正確なところはわからない。それを推察するだけ時間の無駄さ。俺に出来るのはせいぜい筋道立てて他人が理解したつもりにさせてやるだけ。それとも――教えたいのか?」
「くっ……くははっ」
 長谷川は乾いた笑いを上げる。
「ああ、それもいいかもな。どうして、芙美子を殺そうと思ったのか、お前は知りたいんだろう?」
「認める、のか?」
「――ふふ、いや、そう思いたければそう思えばいい。仮に、だ。仮に私が犯人だったとしたらどんな犯行理由を考えるのか、おしえてやるのも悪くないなと思っただけだ」
――余興だよ、お前の好きな。そう嘯くように長谷川は言う。
「お前がここから逆転でもしようものなら、教えてやってもいい。出来るものなら、な」
 教える気はない、と言わんばかりに――盤面の状況は天王寺悠に不利である。ここからの逆転はあり得ないと大抵の棋士はそう思うだろう。
「いいぜ」
 しかし、あっさりと悠はこれを認めた。しかも――。
「負けたら、罪を認めて出頭してやる。俺が犯人です、とな。いやあ助かったぜ、あんたから先にそう提案してくれてさ。手間が省けた」
「……調子に乗るなよ?」
 長谷川には絶対の自信があった。もはや彼の玉は風前の灯火であり、負けなど万に一つもない。いくら相手があの天王寺悠であろうともあり得ないだろう、そう思えるだけの差がそこにあるのだ。
 そして、その異様な対局は再開された。
 盤上――悠の玉は追い詰められていく。長谷川玉は安泰で、逆転の目はない。しかし悠は粘る。粘りに、粘る。その姿を見て長谷川はこみあげる愉悦をおさえきれず、口角が上がる。
 ――ああ、イキそうだ。
 どうにもならない盤面を押し付け、蹂躙する。今、この場において私はこの男をなぶり殺している。いつまでも――どこまでも、永遠にこうしていたい衝動に彼は駆られる。初めて――彼は天王子悠との対局を『愉しんで』いた。それは――永遠とも思える至福であり、長年の溜飲が下る瞬間でもあった。それが――それが誘導された局面だとも知らずに。
「――?」
 何かの振動音がしてふと彼の意識は盤上から目の前の男へと移った。天王寺悠は――何かを察したかのように笑みを浮かべている。
「――何だ? 負けを察して気でも狂ったか?」
「ああ、そうだよ?」
 悪びれもせず悠は答える。
「――ふん、なら早く言え。『投了』とな。それで全部――終わりだ」
「そうだな、終わりだ」
 納得したかのようなその言葉に長谷川の気持ちは天上へと昇りそうになる。しかし次の言葉でそれは一転、地に落ちた。
「春ちゃんは無事だぞ?」
「――」
「有栖川春は、俺の知り合いが無事見つけた。今の音――気づいてたろ? あれは見つけたら鳴らしてくれって言ってあったんだ。無事なら短め、死んでたら長めに鳴らせ、ってな」
 長谷川の顔から一気に色が失せた。
「――貴様、それが――」
「そうだよ。時間稼ぎがはそれが狙いだ」
 天王子悠は薄く笑う。
「――彼女が見つかり証言すればお前は終わりだ」
「う――嘘だ」
「確かめたけりゃ、彼女を監禁した場所に向かえばいい。ただし――」
 そう言うと悠は再び、一手指した。
「――ッッ」
「この盤上の答えを出したら、な」
 その手は――苦し紛れの一手であるはずだった。しかし、読み進めるうちに逆に長谷川は苦しい表情になる。
「――千日手」
 正確には、千日手含みである。ようは再び最初から指し直しになる変化が含まれる手だった。しかも――。
「局面自体はあんたの勝ちだろうな、だが――」
「黙れ……」
 千日手を回避するだけなら簡単だ。しかしその勝ち筋は更に――更に数十手先にある勝ちを拾いに行く時間を要する。つまり、軽く一時間は引き延ばせるのだ。それだけあれば――そう、それだけあればきっと――。
「確かめる時間はない」
 逆に長谷川はリミットを突き付けられる結果になった。指せば勝てる――ただし、もうその時間は彼にない。
「――ふ、ざけるなあああああ!」
 長谷川は指した。一直線の、斬り合う手を。
「勝ってやる! 今すぐに! ふざけるな! 終わらせる! 今すぐ!」
 激高した彼は自らの信条――堅実さをかなぐり捨て危険な順に踏み込んだ。一手もミスらなければまだ勝てるだろうと言う、いばらの道に。
「そうだな、それしかないぞ、長谷川浩二」
 正確に指されれば負けることは悠も分かっている。しかし、その道はいま、長谷川にとって『死路』である。指せるが――指した後にあるのは身の破滅である。
「証明してやる! 私は――俺は、俺には出来るんだってなああああああああああ!」
 長谷川は盤上を歩む。歯を食いしばり、己の強さを証明せんと足掻く。凡人故の――努力の跡を残し一歩ずつだが、確実に攻めの糸を手繰り寄せ天才を追い詰めていく。そう、もう勝利は目前だった。だった、のだ。
「惜しい」
 緩手――ではなかった。しかし、ほんのわずかの隙、それを天才は見逃さなかった。ズパンッと子気味良く彼の飛車が切られると――盤上の図が一変した。
「あ――」
 詰めろが掛かっていた。どこで逆転したのか、長谷川本人も気付かないほどの圧倒的切れ味を示したその飛車切りは、長谷川玉を頓死に追いやっている。それは――残酷なまでに才能の差を示した一手であった。
「――さて、もういいだろ」
 天王寺悠の瞳はもう盤上にない。玩具に飽きた子供のように、彼はもうそれに興味を示さずただ虚ろな瞳を泳がせる対戦相手に注がれている。
 そして同時に外が騒がしくなってきていた。通常、投了が近い局面になれば立会人が中に入り待機するのが常だ。しかし今、記録係まで追い出し二人だけの空間にしている。いつ中に入ろうか、外が騒がしくなるのも当然だった。
「――あ」
 長谷川が何か言い掛けた瞬間だった。天王子悠がそれを手で制したのは。
「どうでもいい。聞きたくねえや、もう」
 そう言って彼は本当に、無邪気な笑顔をして長谷川を止めた。敗者の弁など――どうでもいい。彼はそう態度で示した。それは、最後の最後で、彼の妻子を殺したことを詳細に告白しようとした長谷川の最後のプライドを見事に折った。
「どうせ――俺の想像の範疇からでねえもの。8割が会長、1割が俺、残り1割もあるかないかの恋慕か恨みつらみで――よくもまあ」
 悲しむでも、呆れるでもない。本当に――心底つまらなさそうに彼は『言い当てる』。そう、長谷川浩二は何よりも、誰よりも――将棋界そのもの――代名詞と呼べる男、会長有栖川剛三を恨んでいたのだ。

     ※

「君には自殺して貰う」
 桐生亭の上流にある滝つぼ横の木で作られた小汚い小屋の中に手と足と縛られ、口にテープを貼られ寝かせられた、意識のない有栖川春に長谷川はそう宣言する。
「ここはね――使われていない管理小屋さ。この滝は、自殺者が毎年それなりにでるんだ。それを防止するため、という方便として作られたもの。誰も来やしない。君もこの後この滝つぼに沈むんだ。そして君の自殺の理由だが――ありすぎて誰も疑問など挟まないだろうね」
 長谷川は春の頬を優しく右手で撫でる。
「奨励会の期待や苦悩――姉を好意的に見ていた男に殺されたという悲劇――そして有栖川剛三による言葉にならない重圧。すべてが君を殺す材料として不足ない。そう、将棋が、君を殺すんだ」
 長谷川は笑う。有栖川春が哀れでしかたなくて。
「ただ単に――女性初のプロ棋士を生みたいという我儘の為だけの犠牲者。それが君たち姉妹さ。姉が死に、君が死ねばあの男も終わりだろう。有栖川剛三――、責任逃れなど絶対に出来ないほどの不祥事の連続さ。どんな厚顔無恥な男でも、将棋界を食い物にしようとしがみつくあの悪魔も――必ず殺せる」
 長谷川の瞳には赤い決意が滲み出ている。
「ただ、今は殺さないよ。今仮に君の死体が発見されたら私の大切なタイトル戦に支障が出てはいけないからね。終わった後に――ゆっくりと迎えに来る」
 そう言って長谷川は扉を施錠し、その場を後にした。

     ※

「――何もないんだ」
 ポツリ、とこぼすように長谷川は話し出した。
「将棋の道をただひたすら邁進した。結婚もせず、遊びもせず、ただ上を目指した。その結果――タイトルが取れなかったのは別にいい。それは単に、私よりも将棋が強い奴がいた、というだけの話だ。だが――」
 あの男は――あの男だけは許せない。
「自分が将棋そのものであるかのように振る舞い、私を――そうだ、私を小間使いのように色々使い倒し、それこそ何でもあの男の為に尽くしたというのに――最後に回ってきたお鉢が『将棋教室の講師』と『お前の御守り』ときたもんだ」
 お前の役目はもうない。諦めろ。そう言外に有栖川剛三は長谷川浩二を将棋界の第一線から切り離そうとしたのだ。
 一生、これからのスターのサポートとしてついて回れ、と命じられた時に、長谷川は心底、絶望した。なぜなら彼はまだ、それでもなお自分の強さを諦めてなかったからだ。
「放っておけよ、あんな糞親父なんて」
「――お前だけだ、そんなことが出来たのは」
 強さだけが最大の不文律だと示し、有栖川剛三相手に我儘を押し通して見せたのはただ唯一、天王寺悠だけであった。彼が名人を獲るその瞬間まで有栖川剛三は、彼の足を引っ張ることに余念なく、言いなりにならないこの男をいつでも引き摺り落とす準備は出来ていた。しかし彼はそれを圧倒的才能で悉くかわし続けたのだ。
「――やっぱり、下らねえ」
 天王寺悠は立ち上がり、先ほどから口元を扇子で隠している長谷川浩二の胸倉を掴んだ。
「――腹が立ったか?」
「理解できないだけだ。殺す以外でもなんとでも出来たはずなのに」
 悠の言葉に苛立ちはない。彼の胸倉を掴んだのは――どうにも『奇妙』な感じがしたからだ。そう――勝負における、妙な、それ以外の仕草に。
「ああ……そうだな。殺さなくとも――いくらでも復讐は出来た……だが、それが――」
「あ?」
 そう疑問に思った瞬間だった。長谷川が呻き、苦しみ出したのは。
「おいっ!?」
 悠が声を上げた瞬間だった。今度は対局室の襖が開かれ立会人の老棋士含め、幾人かが雪崩込んでくる。
「白瀬先生! 何をなされているんですか!」
 まだ悠を白瀬だと思っている老棋士はそう叫ぶ。
「がはっ……」
 老棋士が二人に詰め寄った瞬間、長谷川の口から鮮血と泡が迸る。
「長谷川先生!?」
 長谷川は虚ろな瞳で震える指を悠に向ける。そして――。
「こい……つ、天王寺……悠に、やら、れた」
 苦し気だが、皆に聞き取れるような声量でそう言い切り、倒れた。
老棋士が駆け寄り、血を吹きこと切れた長谷川と、目の前に立つ『白瀬』を見比べる。そして――彼は驚愕したように目を大きく見開く。
「け、警察を!」
 その叫び声と、天王寺悠が彼らの間をすり抜け駆け出したのは同時だった。
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