序盤 2

文字数 6,637文字


「勝ちました、と」
 兄弟子の長谷川のラインに私はVサインのスタンプを押す。すぐにおめでとう、の言葉がついた。
『お祝いしようか? 今週末の予定は?』という返事に私は少し悩んでからごめんなさい、のスタンプを押し、メッセージを残す。『今週末は姉の家に行くと伝えてあるので』と。

 姉の芙美子の大好きなシュークリームを買って私は夜の街を歩いている。大分遅くなってしまったが、まだ起きているはずだ。
 まだ姉の子供は小さい。赤子だ。断続的に睡眠を取るから姉もそれに合わせて不定期に休んでいる。確認の為にラインをし、今から行く旨を伝えてある。
 週末の土曜日、将棋教室を手伝った帰り道、元々この日は姉の家を訪問する予定を立てていた。姉も一人寂しくしているとのことで夕食を一緒にすることになっていた。
「ほんと、悠さんは忙しいからね……」
 妻と子供を放置していることを恨むわけではない。彼は実際、忙しい。
 名人戦第一局、一日目。彼は名人としてその防衛戦の為に遠征している。
 彼は強い。今回もどうせ、勝つのだろう。
 勝率9割以上という馬鹿げた数字を保っている最強の名人。将棋界に現れたスターであり至宝。だからこそ、家庭にはなかなか戻れない。対局日程が過密過ぎるのだ。
 ちくん、と胸が痛む。
 自分の父がそうだったように、家庭には母しかいなかった。
 有栖川剛三。現日本将棋連盟会長。将棋以外の価値観を有せず、母を、そして私たち三姉妹を蔑ろにし続けた、私のトラウマだ。
その三姉妹の末妹が私、有栖川春だ。
全員が将棋界に入り、私はいま奨励会三段の資格を有し女流棋戦でも戦っている。
棋界初の女性プロ棋士。その誕生の可否を常に一番憎い父から嘱望される。娘としてではなく、棋士として。
それが堪らなく、嫌だ。
こんな世界から、早く抜け出したい。
それは辞める、という形なのか、勝って、自分の力で羽ばたいていきたいのか、未だに自分の気持ちが整理出来ない。
でも。だからこそ、羨ましく思う。憧れるのだと、思う。
天王子悠に。
姉の、芙美子に。
この世界から、抜け出した二人のことを。
姉さんは女流棋士を辞めた。いや、正確には、辞めてもいいという許しを得た。
条件はシンプルだった。
『天王寺悠が名人になること』
これが姉を将棋界、父剛三という檻から救う為の条件だった。
一目惚れだった、と悠さんは語った。悠さんが17歳の時、偶然TVで美少女女流棋士として紹介された姉さんのことを見かけ、口説くために姉さんの出るイベントに出かけて行ったのだそうだ。
当時の姉は奨励会にも所属しており、私同様、女性初のプロ棋士を嘱望されていた。
イベントには父もおり、その場に居合わせていた。そしてあの軽妙な口調で姉を口説きだすのだから、当時の父の怒りは凄まじかった。
激高するわけではない。ただ、静かに、殺意を込めた冷たい視線で悠さんに言い放ったという。『お前のような無価値な人間には娘はやれん』と。
しかし、そんな頑なな父を前にしても、悠さんは引き下がるような人間ではなかった。
――じゃあ、名人になればいいのかな?
その場にいた全ての者が彼を嗤った。
しかしその8年後、彼はいま、名人として将棋界に君臨している。最短で、最速で階段を駆け上り、彼は褒美を手にしたのだ。
『運命だったの』
 芙美子姉さんの言葉が胸に響く。
「私はもう限界だった。これ以上棋士を続ける重圧に耐えられなかった。才能はあったのかもしれないけど、でも、もう続けるだけのモチベーションを保てない。そんな時に、彼が現れたの。まさに私の、王子様(ヒーロー)」
 皆がスーツや和服に身を包んでいる中現れたアニメTシャツを着た白馬の王子。しかし彼は、本物だった。
 全てをなぎ倒し、侮る者を食い散らかし、彼はあっという間に登りつめた。
 天才はいる。
 私はまざまざと思い知らされた。どんな者も凌駕する。圧倒的な支配者がこの世にはいる。神様の不条理を感じながら、しかし私はそれを好意的に受け止めた。
 だから、私も頑張れる。
 そう、三段リーグ(ここ)だけでいい。ここだけを私は頑張ろう。将棋界の未来も、姉の幸せも全て悠さんに任せていれば上手く行く。女性初のプロ棋士誕生という期待も、彼という輝きの前には霞んで見える。
 軽い足取りのまま、私は――。
「あれ?」
 今のバイク……。
 目の前を通り過ぎたバイクに彼女は見覚えがあった。
 あれは、悠さんのだ。
 まさか。彼は今対局の為に遠征中だ。こんなところにいるはずがない。
 勘違いだ。……でも。
 言いようのない僅かな黒い闇が自分の眼前に広がっていくような気がした。そう、これは勝負の時に、よく見るものだ。潜む悪手。気付かない好手。自分だけが気付けない、落とし穴。
 その正体が分からないまま、私は姉の家に辿り着いた。一軒家の普通の家だ。豪邸も建てられたのだろうが、悠さん達はそうしなかった。
『普通の家庭がいい。慎ましく、普通の』
 姉の願いはそのまま幸せの形としてこの家になった。
門を潜り、私は玄関のベルを押した。しかし、反応はない。扉の取っ手を掴むがやはり開かない。もしかして、手が離せない状況かもしれないと暫く待つ。しかし、やはり姉は出てこない。変に思いラインを送ってみるが既読はつかない。
 外に出ているのだろうか? と考えたがそれも変だと思いなおす。姉は夜、一人で外出などしない、しかも赤ちゃん連れで。
奨励会の頃からマスコミに対応し続け、心を疲弊し、近所付き合いもしたくないほど『他人』を拒絶しているのだ。夫である悠さんが活躍して以降、マスコミ対策か住んでいる場所も公表はしていないし、親しい親族以外はほぼインターホン対応で、外に出はしないのだ。まかり間違って週刊誌に写真でも撮られようものならまた要らない気苦労をしてしまうだろう。もしかしたら赤ちゃんと一緒に寝ているかもしれない。声を抑えて玄関から呼び掛けてみるが誰も出てこない。帰ろうかとも思ったが、しかし、こんな時の為に私は三姉妹の間だけ渡されていた合い鍵を使うことにした。約束をしていたのだし、問題はないだろう、むしろ、居眠りで末妹を帰させてしまったなどとわかったら謝り倒されることが必至である。そういう、姉なのだ。
「お邪魔します……」
 寝ているかもと声を押し殺して挨拶する、しかし暫く待ったが誰も出てこないのでそのまま中に入ることにする。灯りの点いている一回の居間に入る。整えられた、白い空間。姉好みの、シンプルなデザインが心地よい。
 しかし、その白い空間に映える、数点の染みが私の不安を増大させた。
 ――赤い。
 赤い……血痕?
 いやそんな馬鹿な。
 絵具か、もしくはケチャップかもしれない。それが床にただ、付いただけだ。
 しかし――。
 不安を心の底に押し込め、私は居間の奥の扉に手を掛ける。
 赤い点はここに、繋がっていた。
「姉さん」
 私は開けた。それが、絶望の扉だとも知らずに。

『某ニュースにて』
 ――第一発見者は有栖川春(22)さん、被害者である天王寺芙美子(25)さんの実の妹で、彼女と会う約束をして訪れた際に、変わり果てた被害者を発見した。殺されたのは天王寺芙美子さんとその息子の悠実くん(1)であり、死因であるが、悠実くんは窒息死、芙美子さんは刃物による失血死だと見られている。
 尚、夫であり父である名人の天王寺悠氏のコメントは未だ得られていない。
 
 この記事の数日後、天王寺悠は逮捕された。2人の殺害容疑に関して。
 私は、傍聴席に赴いた。どうしても、信じられなかったから。
 どうしてあの人が姉を殺したのか?
 どうしてあの人が息子を殺したのか?
 どうして、二人を裏切ったのか?
 でも――すべての状況は彼に不利だった。彼が、自宅に帰ったのは事実だったのだから。
 私の証言は彼を、いや、姉を殺した憎むべき殺人鬼を有罪へと導いた。
 証拠もあった。バイクはやはり彼の物であり、なんとあの当日彼は本当に遠征先から自らのバイクで帰宅していた。理由は『お気に入りの扇子を置いて来たから』という取って付けたような理由にもならない理由。当然そんなものは信用されなかった。
 世論も彼の味方をしなかった。そう、彼は『変わった』のだ。
 品行方正の甘いマスクの紳士という仮面を彼は将棋界で常に付けていた。
 しかし、彼は法廷でそれをゴミ箱に捨てるかのように投げ出したのだ。
裁判が始まり、認否の際に中指を立て、それ以降不貞腐れたような態度を取り続けたその姿はワイドショーの格好の餌となった。
 私は彼の本性を知っている。やんちゃで、傲慢。だけど優しかった、あの人のことを。知っていて、尚、その姿をなぜ世間に見せつける必要があるのか理解出来なかった。
 将棋界にいる間はずっと付けていた仮面。親しい人にしか見せることのない素顔。
 それを今は――。
 私は何を信じたらいいのか、分からなくなった。

「お姉さんを殺されたお気持ちは?」
 幾度となく浴びせられるその質問は私の心を削った。
 対局でもこんなに疲弊したことはない。姉と甥が死んだという事実を何度も、無造作な言葉でぶつけられることはどんな負けよりも堪えた。特に――今、三段リーグが終わり将棋会館を出たばかりの私にまたこの質問をしてきたこの神谷という記者には心底反吐が出た。
「――お答えすることはありません」
 こいつは三流ゴシップの記者だ。
―――天王寺悠は、殺人者である。そう題された記事を私は一度目にした。

 天王寺悠は自らの妻と子を殺し、裁判でも人を舐めた態度を取り続けている。
 彼には莫大な名誉と、幸福な家庭があったはずなのに、それをあっさりと手放した。
 その身勝手を決して許してはならない。
 天王寺悠は天才である。その才故に、彼は護られてきた。しかし、罪は別なのだ。
 天才は―――神と呼べるほどの才能があれば、何でも許されるのか?
 その傲慢を許してはならない。彼を人として裁くことこそが、我々の使命なのだ。残されたご家族の心情を思うと筆者の胸も引き裂かれんばかりである。
 ―――記、神谷拓馬。

私はそれを読んだ後すぐにゴミ箱に捨てた。何もわかってない私たち家族の心情を面白おかしく書き立てるだけの屑だ。しかも一番しつこく私たち家族の前に現れた。朝も昼も、まるで、それが自分の存在意義であるかのように。
「傷ついているのはわかります。私もあんな卑劣な男のことは大嫌いでしてね。いやあ、心情お察しします。ですが貴方の口からあの男を断罪する言葉を言っていただければこちらはそれを大々的に宣伝してさらに世論を煽っていくことも出来ますし……」
 私は無言で会釈だけを返す。
 ――何が分かるんだ!
 そう叫びだしたい気持ちを押し殺して。
 どうして? どうしてこんなことになったの?
 こんな理不尽な質問を受けることも、対局で負けたのに悔しくもないこの空っぽの自分も、今の私は何もない、ただの、弱い人間だ。
 ――お姉ちゃん、ねえ、どうして? 悠さんは、何をしたの? 本当に、彼が殺したの? ねえ――。
「失礼します」
 いたたまれなくなった私は彼を振り切ろうと駆け足になる。
「待ってくださいよ! ねえ、こちらとしても――」
「申し訳ない、取材はご遠慮願います」
「は? 誰だあんた――」
 食い下がる記者をスーツ姿の男が押しとどめた――顔を上げ、よく見るとそれは私の知っている人物だった。
「冴島――さん」
「おやおや、これは――殺人犯の弁護士さん、でしたか?」
 ブランド物のスーツを着こなした長身の彼は記者に笑みを返す。
「私は将棋連盟の顧問弁護士でもありますから――取材は、私を通して頂けますよう通達したはずですが?」
 笑顔だが、笑っていない。張り付いたような仮面のそれで彼は記者を威圧する。
「――こちらは知る権利を……」
「お帰り下さい」
 にべもない返事に記者は彼を睨みつける。そのにらみ合いと沈黙が暫く続いたあと――彼は一回だけ舌打ちをし、踵を返し将棋会館前の坂を登り去って行った。
「――冴島、さん。その……ありがとう、ございました」
 私は頭を下げるが、正直、この後の台詞が思いつかなかった。彼と私、そして天王寺悠は知り合い――というか友人だった。冴島さんは悠さんと同級生であり、若くして司法試験に受かった天才だ。悠さんを通じて、彼と私は幾度か話したことがある。彼は紳士であり、好青年であることは疑いようがない。交流しているうちに会話の流れからデートに誘われたこともあった。断るのも無粋、悠さんの手前一度はそのデートを受けた。しかしそれは実現しなかった。そう――姉が死んだからだ。
彼は今天王寺悠の弁護をしている。一体彼は今何を思って弁護をしているのだろう? 私の姉を殺した憎むべき殺人犯をどうして――。
「悠のこととは関係ないから」
 私の気持ちを察するように彼はハッキリそう言った。
「君を助けたのは俺の、単なる気持ちだ。君が悠のことをどう思っているか――それに関しては同情する」
 ――だけど。そう言葉を区切り、冴島さんは厳しい顔から『いつもの』優しい笑顔を渡しに向けた。
「俺は悠のことも大事な――友人なんだ。君と、同じで」
 そう言って彼は優しく私の右手を両手で包んだ。その手は――とても熱かった。

 結審当日。
 被告人席に座る姉を殺した男は周囲のざわめきをまるで気にしないように、一人、手遊びに興じている。ずっと、落ち着きなくまるで手首の様子を確かめるように続けるその動作を彼は何度も裁判官に注意された。もう、諦めたかのように、呆れたかのように誰もそれを咎めようとはしなかった。そして、そんな彼を残して――結論が下された。
「被告、天王寺悠を無期懲役とする」
 空っぽの私は、その言葉に縋るしかなかった。
「人殺し!」
 私は裁判中一言も喋らなかった天王寺悠に苛立ちをぶつけた。傍聴席の最前列から身を乗り出す。
「傍聴人!」
「どうして姉さんを殺したの! どうして、悠実くんを殺したの!? 答えなさいよ!」
 警備員に押さえつけられる。放せ。私は答えが欲しいんだ。彼は殺人者なんだ。私の愛した人たちを殺した殺人鬼なんだ。だから、だから――。
「やってねぇよ」
 ハッキリとした口調。ぶっきらぼうな、素顔の彼の言葉が、法廷内のすべての人間の耳に入り込み、時が止まった。
「……ふざけないで!」
 何なのそれは。
「やってない!? なら何で裁判中に言わないの!? 今更よ! 貴方は殺人者! 答えは出たでしょう? だから私は訊ねてるのに、何でそんなこと言うのよ!」
「わりぃ」
「謝るなら……謝るなら姉に謝って! 殺してないなら証明してよ! 姉に自慢してたじゃない! 俺はゲームの天才だって。何でも出来るんだって!」
『私の王子様(ヒーロー)』
 姉の言葉がリフレインする。
「姉さんを殺した真犯人がいるっていうなら、ここに連れてきなさいよ! 本当に殺してないなら、姉さんに謝りたいっていうなら!」
 今、天王寺悠はどんな顔をしているのだろう。私は目を瞑り、歯を食いしばる。私の言葉は届いたのだろうか? こいつに、何か一撃を加えることが出来たのだろうか? 姉の無念が、少しでも――。私が顔を上げると――。
「――」
 天王寺悠は、笑っていた。
 不敵な、不遜な、ゲームに、勝負に向かい合っている時に見せる、それを。
「ねえ、春ちゃん」
 怖い。
「それをしたら、君『ら』は俺を許してくれるのかい?」
 何を、言っているの? 私は、今――勝負(ゲーム)を持ちかけられている?
 頭に理解が追い付かない。でも、勝負師として、本能でわかることがある。彼は、本気だってことが。
「……いいわよ。出来るものならやってみなさいよ。そうしたら、何でもしてあげるわ!」
 彼は、誰にも咎められることなく私に歩み寄った。その迫力に、誰も異議を唱えられなかった。
「わかった。そのゲーム、乗ろう。有栖川春」
 賽は投げられた。このゲームが、私と彼の長い旅の始まりとも知らずに。
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