プロローグ

文字数 923文字

 「まだ来ないのか、その弓野(ゆみの)とかいうのは」
作業員の一人がヘルメットの露を払いながら忌々しげに言った。薄く曇ったデジタルの画面は、気温21.2度、湿度98%を示していた。
 計器の数値以上の異様な不快さが漂っている。現場を訪れた者は皆、同じような感想を口にした。
「あ、来たみたいですよ」
 若い作業員が応える。数人の足音とピチャピチャと水たまりを踏む音が反響しながら近付いてきた。工事主任に続いて、初老で中肉の男が室内に足を踏み入れた。
「やあ、これか」
男は眼鏡を軽く下げ、室内中央にある物体を眺めて呟いた。
「今歩いてきた通路とこの空間自体、我々が掘ったのではないのですよ。この部屋に繋がる道を掘り当てた、という状況です。」
 主任が額の汗を拭いながら説明する。
「お伝えしたとおり、埋蔵文化財の情報もなくて、困惑しているんです。教授の判断で何らかの遺跡ではないとなれば、これも廃棄となるでしょう」
「強めのライトで照らしてもらえるかな」
 弓野はゴム手袋をつけながら要求した。
 直径3mほどの複雑な多面体の造形物が光を浴び、その仔細を現した。大部分は木製のようで、辺にあたる部分やいくつかの面に金属らしき反射を持つ装飾が施されている。接地する部分は円柱状になっており、その周囲の地面のみ完全な平坦のようだった。
「これがほぼ発見したままの状態なの?」
「ええ、何人か軽く叩いたりしたようですが、それ以上のことは何も」
弓野もドアをノックするように木の面を2回叩いた。
「響かないね。中まで物が詰まっているようだ。それに――」
 綺麗すぎる。誰の目にも明らかだった。環境を考えればひと月でさえ現状の表装を維持するのは難しいはずなのだが、その物体はカビの生えた様子もなく、錆もなく、水滴や泥すらも拭われたようで、異質な空気を放っているのだった。
「うーん…少なくとも古い物には見えないんだがね」
「映画か何かのセットでしょうか? 放棄されたのかも」
「なんとも言えないが、随分と重厚で見事なオブジェだよ。所有者がいないのであれば私が引き取ることも考えよう。大学の敷地に置けるかもしれない」
 弓野はあちこちの装飾に触れながら、物体の周りを歩いた。
 ふいに、鈴の鳴るような音がした。 
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