第1話

文字数 2,263文字

 電車は8両とも超満員だった。1時間ほど前に人身事故があったらしい。灯輝(とうき)が駅に着いた時にちょうど運行が再開され、窮屈な登校を余儀なくされた。スクールバッグを両手で前に抱えていたが、周囲の人間にガッチリと固定され、吊り革などに掴まる必要はなかった。同じ車両の少し離れた所で誰かが誰かの足を踏んだらしく、軽い言い合いが起きたが、喧嘩するなら降りてやってよ、との第三者の声により鎮まった。
 灯輝は何気なく中吊り広告に目をやった。旅行、美容、アプリ、健康食品、消費者金融、様々なデザインの紙面が売り文句を並べている。自分とは縁遠いもののように感じながらも、これが社会で、いずれ嫌でも関わるようなことになるのかな、と灯輝は漠然とした想いを巡らせた。
 電車は多摩川に差し掛かろうとしていた。


 橋梁の上空に、二枚の紙がひらひらと舞っていた。どちらも大きさは葉書ほどで、四辺は切り込みによって飾られ、表面には黒い墨で崩れた漢字がしたためられていた。微風こそ吹いていたが、その紙は物理を逸脱するように、一定の範囲を付かず離れず浮遊し続けていた。
 やがてその内の一枚が―――言葉を発した。
「要領を得んな。まだ思考に霞がかかっているようだ」
 落ち着きのある男性の声であった。
「私もハッキリしないけど、(うつつ)映盤(えいばん)は完了してるのよね?ならもう始まってるということだと思うんだけど」
 応じたもう一枚は女性のようだった。周囲を伺いながら滞空している所へ、規則的な音を発する、長く、大きな物体が接近してきた。
「なんだあれは…我々の感じた櫂脈(かいみゃく)はあれなのか?」
「ええとあれは……でんしゃ。そう電車よ。現代人の移動手段のひとつね。櫂脈は別じゃないかな…この辺りからずっと感じるし」
 電車が橋に入り、先頭車両が川の中腹を越えたとき、水面が大きく弾けた。


 強い衝撃が灯輝を襲った。密接した乗客から悲鳴があがる。大きな圧力が進行方向へとかかり、肺から空気が全て抜けるほど体が締め付けられる。車体が何かとぶつかり合い、擦れ合い、轟音が鳴り響き、それでも灯輝は自分の肋骨が軋む音を聞いた。何か大変な事故が起きた、ただそれだけが理解できた。車両は右、同時に前方へ傾いた。耳を裂くほどの金属音が空気を振動させる。窓ガラスが割れ、一部の座席はひしゃげ、弾け飛び、投げ出された乗客が他の乗客を押し潰す。死ぬのか、灯輝は思った。今度は一瞬身体が浮くような感覚があり、再び強烈な打撃を全身に受けた。灯輝は気を失った。


 冷たい触感が、灯輝を呼び起こした。状況が掴めなかった。ぼんやりとした頭で考える。乗っていた電車で事故が起きた。そして――落ちたのだ。車両ごと川へ。灯輝の半身は水に浸かっていた。意識が戻ってくると、視覚と聴覚も働き出し、その場の様相を灯輝に伝えた。
 車内は地獄と化していた。蛍光灯は消えていたが、折り重なり、流血している人々が窓からの光で見えた。うめき声、助けてというすすり泣きが聞こえてくる。足元に柔らかさを感じ、濁った水の下で自分が踏んでいるのは人間だと気付いた。心臓が縮むような悪寒が走り、咄嗟にその人物を水から引き上げようとした。かろうじて掴んだ腕はあらぬ方向へ曲がっており、その白さと体温が既に息絶えている事実を告げていた。
 悲痛な叫び声は続いている。しかし灯輝にはそれ以上他人に関わるという判断はできなかった。川の水は車内に流入し続けている。事切れているのか、失神しているのか分からない人々を押しのけ、灯輝は片方のドアが無くなっている歪んだ乗降口へと進んだ。身体のあちこちが痛み、脛も擦り切れて傷口が沁みるのを感じたが、骨折などはしていない、という自覚があった。


 既に半分が水没している車両から抜け出ると、大破した他の車両が目に入った。全体としては横転しているようで、屋根がこちらを向いており、パンタグラフに血まみれの遺体が引っ掛かっていた。灯輝は吐き気を覚えつつ、片手を自分のいた車両の凹凸にかけたまま辺りを見回し、一番近い岸を探した。流れがあるが泳いで行けるだろうか。
 その時、掴まる車両の裏側、川上の方から重く大きな音が響き、灯輝は思わず口まで水に浸かった。誰かが叫ぶのが聞こえた。
「もう一度尋ねる! そなたいずれの(こま)か! 戯法(ぎほう)を理解した上での所業なのか!!」
「聞く耳があるとは思えないわ! 少なくとも私達の知る駒じゃない!」
 全く理解のできない会話の方を伺おうとしたが、視界は車体に遮られていた。上方を見上げると、橋の一部が完全に崩落していることが分かった。自分が乗ったのは4両目か5両目、不確かではあったがそれより後続の車両も川へ落ちたようだった。曲がった橋の桁には血糊も見え、灯輝は再び吐きそうになった。
「やむを得ん。この場で素棋力(そきりょく)の高い者を見つける! 無理にでも局者(きょくしゃ)となってもらう!」
「でもそれだと……いいわ分かった。考えてる暇はないわね」
「少し時間を稼げ。我から探す」
 不明なやり取り、鈍い打撃音、水が跳ねるような音が続いていた。声の主に助けを求めるべきだろうか。灯輝は小さく首を振った。どう考えても自分は軽傷な方だ。自力でどうにかしなければ。意を決し泳ぎ出そうとした時、背後上空から再び同じ声を聞いた。
「ほうこれは…偶然にしては、まことふさわしい者がいたものだ」
振り返る間もなく、灯輝は自分の意識が薄くなるのを感じた。無くなるのでなく、薄くなったのだ。
「すまぬが少年、少し身体を貸してもらいたい」
その言葉は自分の声で、自分の口から発せられた。
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