文字数 848文字

 今度は頭の上で羽音が聞こえた。見上げると、ヤニで汚れた天井に、一つのシミのように羽虫がいた。これなら手を伸ばせば届きそうだ。
「こいつめ、見てろよ」
 背伸びをし、つま先立ちで下から叩こうとしたが、バランスを崩し、よろめいて何かを蹴飛ばした。パック入りの日本酒だった。倒れた日本酒から、とくとくと中身が流れ出しているではないか。キャップがきちんと閉まっていなかったのだ。慌てて持ち上げた日本酒は軽かった。もうほとんど、床へ流れ出てしまったらしい。自宅に残っている最後の酒だった。むせかえるほどの酒の匂いだけが、怨めしく残った。
 誠司はコップに水を入れ、テーブルに置き、うなだれながら腰を下ろした。水を一口飲み、深呼吸をした。たかが羽虫一匹に、何をそんなムキになってるんだ俺は。放っておけばいいじゃないか。そのうちどっかへ飛んでいくさ。無視だ、無視。
 テーブルの上のスマホに手を伸ばそうとしたとき、何かがスマホの上を這っているのに気付いた──羽虫だ。飴色の羽を、微小に震わせている。こいつ、どこまで俺をコケにすれば気が済むんだ。
「逃がすか!」
 手を振り上げた瞬間、羽虫は誠司の顔目がけて突進して来た。振り払おうと反射的に手を横に振った。その手が水の入ったコップに当たり、倒れた。よりによって、スマホのほうに。カバーをしていない誠司のスマホは、一瞬にして水浸しになった。すぐにティッシュで拭き取ったが、水の入りどころが悪かったのか、息を吹き返すことはなかった。スマホに残していた、元恋人との温泉旅行の思い出も、これで完全に消えるだろう。バックアップは取っていなかった。
 タバコも日本酒も、スマホも今となっては残骸でしかなかった。一匹の羽虫に、全て奪われたような気分だったが、不思議と怒りは感じなかった。誠司はただただ、虚しかったのだ。
 薄い陽の光が、カーテン越しに差し込んでいる。気だるい足取りで洗面台に向かい、鏡を見た。
「なんて顔してやがる」
 誠司は鼻で笑うと、ずっと剃っていなかった髭を剃り始めた。
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