第2話

文字数 1,815文字




それから、しばらくして――。
九月も半ばに差し掛かった頃、留美は一人であの海にまた来ていた。

(確かこれくらいの時間だったはず……)

あの日、女と会った朝の時間と同じくらいの時間に、そっと海辺に降り立ち、辺りをジッと見回す。
会えるかは分からない。そもそも別に無理して会う必要もない。

ただ、もう少しだけ留美は女と話してみたかった。
そんな微かな期待を込めて歩いていると、何十メートルか先の方に、あの日と同じように波打ち際に座り込んで佇んでいる女の姿が見えた。

(いた……っ)

思わず逸る歩調を落ち着かせ、驚かせないようにそっと女に近づいていく。

女は今日も長い黒髪をダラリと垂らして下を向いて座り、赤ん坊も前回同様、抱きかかえられずに地べたで小波に濡れ揺られていた。

「おはようございます」

留美がボソッと挨拶する。
しかし、女は無反応で、二人の間に赤ん坊のぐずる声と波音だけが響きわたる。

「お隣、失礼しますね」

今度は返事も待たずに“よいしょ”と女の隣に腰を下ろす留美。汚れてもいいズボンで来て良かったと微かに口元を緩ませると、女の目玉がギョロリと動いて口が開く。

「……何の用」
「あ……。特に用事は無いんですけど……。ちょっと話がしたくて」
無反応の長期戦になると覚悟していた留美の気持ちは良い意味で裏切られ、肩の力が少し抜ける。

「あの~……、単刀直入に聞いちゃいますけど、何で赤ちゃん、そんな波打ち際に直接置いてるんですか?」
留美の質問に、ピクリと女の体が反応する。
「……また説教して奪い取る気?」
前回の事件が二人の脳内で同時再現され、留美は慌ててブンブンと大きく横に手を数度振る。
「あ~、いや、全然全然。普通に私の疑問で。そこに置いてたら、多分、波とか砂に溺れて死んじゃうんじゃないかな~って。その赤ちゃん」
「……」
「それで大丈夫でも、体が冷えて後で病気で死ぬとか?」
留美は座ったまま、ピッと指先だけで赤ん坊を指し示すだけで、女同様、抱きかかえることはしない。

「……そうかもしれないわね」
「ぶっちゃっけ、死んでほしいですか?生きてほしいですか?」
「あなたっ……」
「すみません!ただ知りたくて……」
留美の度重なる不躾な問いかけに、ようやく女が顔を上げて留美を見る。
冷やかし目的なら以前のように叫んで逃げてやろうと考えていた女であったが、留美の目にその思惑は感じ取れず、女は諦めと面倒臭さから重い口を開いた。

「……私はね、分からないの。この子に死んでほしいのか、生きてほしいのか……」
「望んで生まれた子じゃないってことですか?」
「いや、ちゃんと望んで産んだ子よ。

彼の心も離れずにいてくれると思ったの」
「……でも離れた?」
「……そうね」
ふむ、と留美が唸るように頷く。

「だから、もういらないような気がして。……だから、波打ち際に置いといて、波がもし持っていったなら、この子はそこまでの命なんだなって思えるというか……」
「賭けてるんですね、どっちに転ぶか」
「そんなっ……」
女は否定しようと目を丸くしたが、すぐさまそれは出来ないと気づき、小さく大人しくなる。

「いいじゃないですか、綺麗事は無しで。その考え方、私は好きですよ」
にこりと微笑み、肯定する留美の目に光は無い。

「あなた……、どうしてこんなこと聞いたの?」
今度は女が留美に問いかけると、留美は少し間を空けてから、海をまっすぐ見つめて口を開いた。

「この前の男。あれ、私の彼氏なんですけど、やたら私に子供産ませたがるんですよね。私は子供が好きじゃないから欲しくないって言ってたんですけど、行為中にわざとゴム外したりして。……で、“生理がそういえば最近来てないな~”って悩んでた時に、ちょうど、あなたをここで見かけて興味が湧いて……」
「そう……」
「はい」
「調べたの?子供は……」
「はい。出来てました、やっぱり」
ふふっと笑いながら留美は中腰になると、自分のお尻についた泥砂を叩き落とす。
それは風に乗って女の赤ん坊の顔の上に掛かるが、留美に気にする様子はない。

「どうするの……?産むの?」
「え?あ~、ん~……、わかりません。私とあいつの子ですよ?」
“やれやれ”と、あまりにも軽い口調で言う留美の言葉は物事の深刻性をあやふやにさせる。

「とりあえず、お話聞けて良かったです、ありがとうございました」
「……えぇ」
留美はぺこりと一礼し、地面に置かれた赤ん坊を数秒見下すように眺めた後、足早に来た道を戻っていった。




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