第1話

文字数 1,352文字

海で、その異様な親子を見たのは、八月も終わりに差し掛かった日の朝だった。
「おい、あれ……」
「え?」
散歩デート中、彼氏の憲吾に言われ、留美が顔を上げると、波打ち際には母親らしき女が地べたに座って赤ん坊と佇んでいた。単純にそれだけなら“微笑ましい”ものであったが、女は赤ん坊を抱きかかえていなかった。
つまり赤ん坊は地べたに直接置かれ、寄せては返す小さな波にその身体を揺さぶられ続けていた。

「バカか!あの女!」
「あっ……、憲吾……!」
憲吾は留美が制止するより前に勢いよく走り出した。
そうして、ものの数十秒で女の元に辿り着くと、急いで赤ん坊を抱き上げ、女の頭上からけたたましく怒号を飛ばした。

男の怒号と赤ん坊の泣き声。
朝に何て似つかわしくない声だろう、と思いながら、ようやく留美も現場に追いつく。
しかし、それでも女は長い黒髪が水面に着いてしまうほど下を向いて座ったままで微動だにしなかった。

「おいっ!聞いてんのかよ!バカ女!」
「ちょっ……、憲吾……!」
反応が無い女に更に苛立ちが積もったのか、憲吾が砂を蹴り上げて女にぶつけたため、留美は慌てて止めに入る。
「大丈夫ですか……?すみません、カッとなると聞かなくて……」
「何でお前が謝ってんだよっ!」
「ちょ……、いいから、もう!ちょっと離れてて!」
留美が女の髪についた砂を掃ってあげ、シッシッと手を振ると、盛大な舌打ちと共に憲吾が赤ん坊を抱いたまま、やっと少し後ろに下がる。

「体調とか悪い感じですか?」
「悪い……?」
背中を擦りながら、顔を覗き込んで聞くと、ようやく少し女が反応する。そうして見えた顔は頬がこけ、眼下の隈が目立っていた。
「はい。もし悪いんでしたら、近くの病院にでも……」
「病院……」
「はい、病院」
「……」
その言葉を聞いて、女はパチ、パチと二、三度、覚醒のような瞬きをした後、突然立ち上がり、奇声を上げて動き出した。

「んあああああああ!!
「えっ……、ちょ……!」

女は憲吾の方に向かう。
猪のように、ただ真っ直ぐ。

「憲吾っ!!
「あ?」
留美の声に振り返った時にはもう遅かった。
女は憲吾に飛びつくと、その髪の毛を束ごと毟り取ってしまうのではないかと思う程に乱暴に引き回し、憲吾の膝を地面につかせた。憲吾も反撃したい所であったが、赤ん坊を抱えて両手の自由が利かず、そうもいかない。
「おい!バカ、やめろ!クソ女っ!」
「憲吾っ、赤ちゃん……!離して!返してあげて!」
留美が叫ぶ。
その声に渋々従うように、憲吾がそっと赤ん坊を地面に下ろすと、女は急いで両手で赤ん坊を拾い上げ、先程の緩慢さが嘘のようなスピードで浜辺を走り抜けていった。

「だ、大丈夫?憲吾」
「これが大丈夫に見えるか?!……お前さぁ、ボーッと見てないで、さっさと助けろよ!バカッ!」
「……ごめん」
「本当、役立たねぇな」
頭部を擦りながら、憲吾は留美を睨み倒す。
「……どうする?追いかける?」
恐る恐る留美が聞くと、最早興味を失ったのか憲吾は唾でも吐きかけてきそうな冷たい態度で留美に言い放った。
「もういいだろ。人が親切で助けてやったのに頭狂ってんだ、あのバカ女。関わるな」
「……そう」
留美は女が走り去っていった方を少し眺めた後、不機嫌そうに砂を蹴るようにして歩く憲吾の後ろを、遅れぬように早足で追って付き従った。

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