第1話

文字数 17,771文字

 1

 室田進がステージ四の膵臓がんを宣告されたのは、外資系医療機器メーカー・M社を六十歳の定年で退職してから七年が経っていた。行く末が断たれると、人の想いは過去に向かうのだと知った。
 毎年、真面目に受診していた人間ドックの問診で、背中の鈍痛を訴えたところ、念のためにと受けた超音波検査で膵臓に異常が見つかった。すぐに血液検査と造影剤を用いたCT検査が行なわれた。
「検査結果の説明は、できればご家族とご一緒に――」
 翌週、進は妻の良子と待合室の長椅子で待った。思えば現役時代は、無理難題に歯を食いしばる毎日だった。骨身に地雷が一つや二つ埋め込まれたとしても不思議はない。覚悟は決めていた。けれども一方では、これまでも切り抜けてきた幸運という奇跡を信じていた。わきにいる妻も、おそらく同じ心境に違いない。
「すい臓がんが転移しています。他の臓器とリンパ節への転移が認められます。残念ながら手術は不可能です」
 息を呑む妻の鼓動が伝わってきた。火を見るよりも明らかな医者の引導は、進の脳裏に映るものの全てから、ゆっくりと色彩を奪っていった。医者が続けた。 
「余命はあくまでも目安です。前向きに頑張ってみましょう」
 青ざめる妻と、逃げるように外に出る。駐車場わきの木立に木漏れ日が影を落とし、草木が生命の輝きを競い始めていた。だが進には、全ての光景が、今は淡い墨絵のように流れていく。
 帰りの電車は空いていた。まばらな客のねっとりとした視線に、心の中が見透かされるようで怖かった。
 車両の端に、妻と並んでかけた。車窓を流れて行くビルの谷間を見ていると、進は急に腹の底から可笑しくなってきた。
 客の何人かが、進の含み笑いに、何か恐ろしいものを見るように顔を向けた。だが、あれほど周りの目を気にしながら生きてきたことが嘘のように、進は、腹の底から湧き上がる笑いを止めようともせず、心のよどみを吐き出し続けた。
 妻が、押し殺した声で何かを叫ぶと、進の体を包み込むように覆いかぶさってきた。進はくぐもる笑いの中で、自分だけが無傷で迎えた定年退職の日を思い出していた。
 栄光の階段を踏み外した者、心を病み生きた屍となった者、喰い込むロープの軋みを耳元で聴いた者、自分にしても、重篤な肺炎を隠し通した多忙の日々。人間ハードルの障害物レースで、奇跡的にゴールにたどり着いたのは自分一人だけだった。

 堪えても、堪えても出てくる血の滲むような笑いは、進に憑依して嘲笑う彼らの怨念のようにも思えた。
 温かい雫が進の髪を濡らし始めた。妻が、まるで幼い子共の傷を癒すように泣いている。進の笑いもやがて、底の見えない悲しみへと変わっていった。
 社会を震撼させる事件が起きたのはそんな時だった。秋葉原で、多くの人が凶器の犠牲となった。事件の背景には、犯人と親との確執があり、一歩間違えれば我が身にも無縁のものではなかった。この事件は進に、死を率直に受け容れる覚悟をもたらした。
 今から二十二年前、息子が大学に入ったころのことだ。
 荒れ出した息子の部屋に足を踏み入れ、進は言葉を失った。床が一面黒く染まっている。気が狂ったように抜いたのか、今にも動き出しそうな髪の毛が、痛々しく重なり合っている。その一本一本が、息子の心の叫びと気がついた時は遅かった。息子は大学を中退し、手の届かない世界に行ってしまった。妻に残された無数の痣は、紛れもない自分への爪痕だった。
 その息子も、自分の居場所を求めた放浪の果てに、今はマニラのスラム街で、それなりの所帯を持っている。異国の女性と心を分かち合い、ささやかな糧に喜びを見出す生き方に、今は心から幸せを祈っている。

 妻は、最初は容態を心配していたが、一人残される不安にとらわれ、突然沈み込むことが多くなった。このままだとすぐに後を追うか、あるいは自分より先に逝ってしまうのではないかと、むしろそちらのほうが心配な日々が続いた。
 進は以前、明日死ぬとわかったら何がしたいかをテーマにしたバラエティ番組を見たことがある。本当に人生の幕が閉じられようとした時は、やり残したこととか、何かしてみたいということは、何も浮んでこないことがわかった。
 それは人間の行動はすべて、その後につながる希望が前提になっているからかもしれない。食べるものも、あれほど好きだったカツ丼や天丼にさえ何も興味が湧かなくなった。これも、明日も元気に働こうという希望があってこその好物だったのだろう。
 日に日に骨の形が露になるのとは裏腹に、記憶が薄れていく毎日を刻んでいる時、やっと自分を取り戻したように見える妻が、様々な雑誌を買ってきてくれた。
 その中には、進が若いころ汗を流した剣道の雑誌や、趣味を越えて夢中になった渓流釣りの本もあった。
 現役のころは、あれほど胸をわくわくさせながらページをめくった武道や釣りの世界も、体力の温存だけが日々の課題となった今は、遠い記憶の世界となった。
 ふと、一冊の雑誌が目に留まった。紅葉の里山と田園風景が広がる「田舎暮らし」という表紙が、何の希望もないはずの進の胸に、仄かに血が騒ぐ感動をもたらした。
 進は、これまで置き忘れてきたその風景を、もう一度この目で見たいと思った。歴史遺産でもなければ景勝地でもない、人間の繁栄や活動とは無縁な、心の故郷のような情景が今の自分を救ってくれるような気がした。進は、そのことを妻に話してみた。
「良子、もう一度どこか田舎の風景を見てみたいんだけどね……」
 進の目がいつになく輝いていたのか、妻は驚きながら同意した。
「そう、それはいいわね。山の温泉場に泊まりながら、一週間ほど旅行してみましょうか。明日、病院に行った時に先生に聞いてみましょう」
 お風呂は家族風呂で、ハンドルは握らないという条件で医者の許可が下りた。妻は早速、思い出の場所もアレンジしたという、信州の田舎巡りの旅行コースを予約してくれた。
 進はベッドの中で、妻が手書きで作った日程表を見ながら、取り寄せた旅館のパンフレットを眺めた。最終日が、懐かしいあの上高地だった。少年のころ、胸を膨らませて眠りについた修学旅行の前夜を思い出した。不思議だった。その後につづく希望など何もないはずなのに……。

 2

 思えば現役のころは、出張で国内、海外と飛び回っていたものだが、妻とは海外どころか、国内の旅行もままならない毎日だった。そんな進もたった一度、妻の誘いに乗って旅支度に心を躍らせたことがある。それは十七年ほど前、進が部長に昇進した時だった。
 進はいつのころからか、部長昇格という悲願に取り憑かれていた。それは、権力や報酬という仕事の成果ではなく、「万年課長の社畜が偉そうなことを言うな!」と言って出て行った息子が、少しは見直してくれるのではないかという儚い夢だった。
 だが達成の裏には、想像を超える難問が待ち受けていた。会議が倍に増え、部門を背負うという重圧が圧し掛かかってきた。夢にまで現われる人間の葛藤、土石流のように押し寄せる業務の山。自分のあるべき姿に背いた、当然の報いだった。
 そんな進の内心を察してか、妻が綺麗な旅行パンフレットを片手に話しかけてきた。
「部長昇進おめでとう! これまでお疲れさま。ここらで一息つくのはどうかしら。前から一緒に行きたいと思っていたところがあるの。どう? ここ、あなたの好きな渓流もあるわよ」
 妻が開いたパンフレットを覗くと、きらきらと光る梓川に架かる河童橋の向こうに、上高地の雄大な山々を望む風景が目に飛び込んできた。進の心が動いた。 
 実際に見る上高地の美しさは写真をはるかに超え、この世のものとは思えない、渓流と山岳が織り成す崇高な芸術だった。
 二人は、新緑の山々を背に、梓川の岸辺に建つログハウス調のホテルに投宿した。
「あら! 綺麗なハーブ園ね」
 妻は、ホテルの周辺に広がる柔らかな緑に感動していた。
 屋内は、素朴なインテリアと自然な風合いに包まれている。見るものすべてが、進が日々脂汗を滲ませるオフィスとはまるで違う。徐々に、全身に絡みついた緊張がほぐれていった。
 食堂には、南に面した広い出窓に趣味のいい白焼きのテラコッタが並び、様々なハーブの緑が日差しに輝いていた。
 妻は少女のころに帰ったようにはしゃぎ、その一つ一つに顔を近づけ香りに浸っていた。
 夕食は、メインにほどよい大きさのフィレステーキが運ばれ、地元のものと思われる新鮮な野菜が添えられていた。デザートは、この地の名物であるらしいアップルパイが出され、香り立つコーヒーを妻と一緒に味わった。
「あなた、よかったわね、ここに来て」
「ああ、すっかりリフレッシュできた。また帰ったら頑張らなくっちゃな」
「そうね、でもあまり無理しないでね。明日は白馬の景色を見ながら帰りましょう」
 二人は、笑顔を交わし立ち上がった。
 入り口に向おうとした時だった。丁寧にお辞儀をするカウンターのマスターと目が合った。仕事以外では、親しく人と目を合わせることがなくなった自分を恥じた。同じような世代に見えるが、その柔らかな表情と透明感の漂う目には、明らかに自分の知らない世界が映っていた。進はなぜか素朴な親しみを覚え、目礼をしてから、ドアに向った。
 帰りの車内、妻は満足そうに白馬のなだらかな風景を眺めている。自分も、随分遠くへ来たものだと、あの時の決断を思い出した。

 3

 進は四十歳の時、東京・立川市の地元企業で築き上げたキャリアを捨て、郊外の工業団地に進出してきた外資系企業の工場に転職した。同じ総務課長のポストだった。高卒の英語力がどこまで通じるかが不安だったが、息子を大学に行かせてやりたいという一心の、一か八かの賭けだった。
 六ヶ月のアメリカ親会社での研修は夢のように過ぎた。家族を大切にし、義理人情を重んずる文化は、逆にこの国で脈打っていた。
 だが日本のオフィスに戻り、途方も無い虚無感に襲われる。
 トップが海の向こうの傀儡経営組織は、管理者集団の顔もまた見えない。大きな楕円型テーブルを囲むマネジメントチームは、まるで能面の品評会のようだ。成熟したアメリカの文化と、泥臭い日本の風土の狭間に落ちる、特殊な世界だった。
 だが、古巣に帰ることもできず、進はこれまでの生き方を大きく変えようと決心した。
 地場産業でも報酬としてのお金は重要な役割を持つが、それだけで人は動かなかった。けれどもこの組織は、お金が行動原理のすべてであり、それ以外のものは飾りに過ぎなかった。撒き餌のようにばらまく報酬やポストに、全国から外資系流れ者と囁かれる兵士たちが群がってきた。もちろん自分もその一人には違いない。
 英語劇の舞台裏で、進にもいつの間にか仮面が貼りついた。だが意外にも、地場企業での泥臭い経験が役に立った。総務部門の仕事は他部門間の調整と社員の活性化にある。進のコミュニケーション力が功を奏し、十年後には総務部長に抜擢された。
 世界の頂点を目指す多国籍企業は、その内部もまたトップを目指す人間がしのぎを削る。総務部門は、組織のあらゆる漂流物の終着地点だ。清濁併せ飲む度量が必要とされる。進は組織の最高ではなく、最強を目指した。
 争うように蛭が這い上がってくるヘドロの中に、ずぶずぶと腕を沈め、二十ドル札を手探りするような毎日が続いた。
 一方ではこの環境が、後戻りを許さないほどの魔力を持っていたことも確かだった。ある日、妻と買い物をしていたショッピングセンターでのことだ。図らずも仮面が剥がされる事態に遭遇した。
「あら、室田さーん、こんにちは!」
 数人の女子社員が、手の平を小刻みに振りながら通り過ぎて行く。特に珍しいことではない。だが、妻の驚きは尋常ではなかった。
「あなた、会社の顔はまるで違うのね――信じられない」
 進は言葉を失った。確かに自分は、武道に身を置き、硬派で通してきた。妻もそういう自分に好感を持ったのだろう。
 進は仮面を得ることにより、報酬だけではなく、演劇舞台を自由自在に飛び回ることができるようになっていた。

 そんな時、ヘッドハンターの紹介で、黒沼が購買部長として入社してきた。後にこの人間が、想像もできない壁となって立ち塞がるとは、その時は思いもしなかった。
 進は、ねっとりとした舞台化粧を削ぎ落し、素の自分に戻れる渓流釣りを愛した。渓谷の遡上は時として命がけとなるが、大自然には善意もなければ悪意もなかった。
 進は、いつもの釣り場としている、大菩薩嶺を望む多摩川の源流小菅川を目指した。 
 渓流釣りは、毒蛇や熊の生息地帯に深く分け入り、源流に棲むヤマメや岩魚を追う。激流を渡り、岩を越え、ひたすら遡上しながら竿を振る。自らが渓谷に生きる獣と化せば、足元に這う蛇は逃げることもなく、目の前のカモシカは水浴びを始める。夏でも手が痺れるように冷たい源流は、魂を浄化すると同時に、死と背中合わせの世界でもある。
 青梅に出て、国道四百十一号線に入り小菅村を目指す。コバルトブルーに光る奥多摩湖を左に見ながら、山梨県境を越えると大菩薩嶺へと連なる深い山々が見えてくる。
 進は、釣果の予感に胸を躍らせ、渓谷の鬱蒼と茂る木々の斜面に足を踏み入れた。木漏れ日が落ちる原生林を、草木を掻き分けながら降りていく。鎧を脱ぎ、獣たちの棲息する領域に踏み込む時、無機質な世界で削がれた野生が、沸々と蘇る。
 深い樹林を抜けると急に視界が開け、勢いよく水が走る音が聞こえてきた。渓谷の透明な日差しが、岩間で跳ねる真っ白い水しぶきに反射していた。
 進は毛ばり釣りを得意とする。川面を虫が飛び交う季節は水中から岩魚がそれを狙っている。最初に一番大きなのが飛びついてくるのは、人間の世界と同じかもしれない。
 餌釣りは当たりに合わせるが、毛ばりは当たりに反応した時では遅い。岩魚が疑似餌を見分け吐き出す時間はコンマ二秒、意識を超えるタイミング。正に毛ばり釣りは、無の境地への挑戦だ。
 ある時から、進の心を支配し始めたのは、幻と言われる巨大な岩魚との遭遇だ。伝説とは言え、代々伝わる山奥の湯宿には、瀬頭で沢蟹獲りに夢中の子熊が、背後から近づいた巨大な岩魚に滝壺に引きずり込まれていくのを見たという話が残っている。
 大きな魚を釣り上げたいのではない。いかなる釣り師も手に掛けることができない渓谷の主を、この目で見たかった。
 豹が獲物を狙う時のように、岩の陰をつたい、流れに近づいた。切り立った崖を左に曲がると、砕け散る水の音とともに高さ二十メートルほどの滝が見えてきた。見上げる滝口は眼下に迫る水量を湛え、その流れは一直線に滝壺へと落下している。滝壺は相当深いらしく、白い泡立ちの周りは暗く淀み、深淵の凄みを見せていた。
 すばやく竿を取り出し、毛ばりが結ばれたテーパーラインを穂先に取りつける。
 滝壺の底から湧き上がる水流が、対岸の岩の連なりで作る、深い渦を凝視した。その渦を中心に、川面の白い泡もゆっくりと回転している。
 進はその泡を狙い、アンダーハンドで毛ばりを打った。毛ばりは水面と垂れ下がる木の葉のわずかな空間を走り、まるで生きた羽虫のように舞いながら、泡の中心に着水した。
 と、数秒の間があったか、それまでは気配さえ見せなかった水面下で、ゆらりと反転した大きな魚体が、  残像を残し毛ばりに向かった。反射的に竿を合わせる。ガツンという重い衝撃が走り、竿が弓なりになった。一瞬全貌を見せた魚影は本能的に滝壺へと向かう。弓なりの竿が左右にきしむ。手首に野生の咆哮が伝わってくる。格闘の末に手にしたのは尺を超える岩魚だった。
 釣果には必ず、しめるという行為が伴う。進は左手で暴れる魚体を押さえつけ、傍らの石で頭部を狙った。血に染まった岩魚はぶるぶると痙攣し、やがて動かなくなった。
 釣りは残酷な一面を持つが、進はその全てを食べることによって、殺生の罪を贖ってきた。一方では、自らが手を汚し、生命の鼓動を直に聴くことができる釣りは、進にとって、人間を人間たらしめる最後の手段だったのかもしれない。
 その日は、進が追い求める本当の川の主は、姿を現さなかった。

 職場のパワーバランスは、劇的に変わった。
 惨めな鼓動を押し殺し、取締役工場長室の鉛のようなドアを開ける。革張りの椅子、黒沼がメガネの奥から、動きのない冷酷な目で進を見据えている。進はまるで、蛇に睨まれた蛙のように、針のむしろを進む。
「シニアキャリアプランなど、糞食らえだ!」
 飛び散る唾が、頬を伝う。
「予算会議は通っております。どうか、サインだけでも――」
 進は、自らを下僕に貶めた従順な眼差しで、腰を直角に曲げる。
「こんなものにサインできるかよ! もう一度書き直せ!」
 労苦の重みが、紙飛行機のようにひらひらと舞っていく。進は亀のように床を這い、それを追う。いつものパターンだ。
 黒沼の、両の眼を親指でじわじわと押し潰すようないじめは、進の精神に確実にダメージを与えていった。
 進は、黒沼がなぜこれほど酷い仕打ちをし続けるのか、確かなことはわからなかった。
 購買部長として入社してきた黒沼は、偶然にも同じ歳だった。
「室田さん、僕はこの会社で工場長を目指しますので――」
 入社その日に行われた歓迎会の席で、かたわらに寄ってきた黒沼が、独酌で杯を傾けながら口を開いた。 
部長がトップを目指すのは当たり前だ。だが、入社早々あからさまに宣言する人はいない。もし現実に工場長戦というレースがあるとしたら、このとき既に勝敗がついていたのだと、後になってから思った。というよりも、工場全域に目を配ろうと奔走する進には、組織を垂直に駆け上がろうとする思考は、頭の片隅にもなかった。
 その後、二人の進路は大きく開いていく。進は、工場規模の拡大に合わせ、現場の安全衛生管理と社員の福利厚生システムの整備に全力を尽くした。一方黒沼は、購買部長の椅子が温まる間もなく、いくつかの核となる部門を乗り換え、その後、自ら希望を出し、アメリカ本社に移籍した。医療機器に関する親会社のライセンスと、自社開発製品の間に生まれる軋轢の解消に一役買い、帰国した。黒沼には元々日本のトップを目指す戦略があったのだ。
 工場内では圧倒的な調整力を持つ進に比べ、黒沼は権力を確立したが、人望を得ることはなかったようだ。徐々に黒沼の進に対する態度は、獣が獲物を追う目に変わっていった。
 初代工場長の退任が迫り、次期工場長の人選が始まった。東京本社の古い役員の中には、候補として進を押す流れもあったが、アメリカ本社勤務経験を持つ黒沼が予想どおり工場長に就任した。
 進は、全く悔しさを感じなかったといえば嘘になるが、最初から自分が目指したものではないと自らを納得させた。
 だが、それだけではすまなかった。社員の人事権は総務が持つが、総務部長の進退は工場長が握る。トップの補佐役という名の奴隷となった進は、全てのプライドを切り捨て、あらゆる屈辱に堪えながら、上司となった黒沼に仕えた。
 そんな黒沼が意外な一面を見せたことがある。
 建設がらみの話しは、クラブで行われることもある。ウエイターが床に片膝をつき、うやうやしくおしぼりを差し出してくる。さりげなく、それを黒沼の方に促す。
 艶やかな夜の世界も、隙を見せられない仕事の延長だ。
「室田さんは渓流釣りがお好きなそうで――」
 地元ゼネコンの社長が、進に水を向けた。
「実は僕も好きなんだよ――」
 黒沼が、進の返答を遮るように割り込んできた。それにしても初めて聞く話だ。人間関係好転の千載一遇のチャンスと思った。
「黒沼さん、今度、絶好のポイントにお連れしますよ――」
「ああ、私もぜひ」
 今度は、ゼネコン社長が割り込んだ。
「いいよ、僕は行こうとは思っていない」
 なぜか黒沼の表情に、不快感が走った。
「工場長、たまにはいいでしょう。温泉宿はこちらで手配します」
 工場増設を控え、ゼネコン社長の思惑が見え隠れする。
「だから行かないって言ってるだろ! 僕は蛇が嫌いなんだよ」
 黒沼が、珍しく取り乱し、声を荒げた。
 進は、まずかったと気づき、すぐに話題を変えた。
 後にも先にも、黒沼が人間らしい一面を曝した瞬間だった。
 その後も、黒沼のいじめはエスカレートしていった。
 ある年の新年会でのこと。進は畳に膝を擦りつけながら、黒沼が余裕のある笑みを浮かべている上座に近づいていった。
「黒沼さん、今年もよろしくお願いします」
 進は、うやうやしく黒沼に徳利を傾けた。顔には飼い犬の服従を張りつけながら。
「この前のスコアはさんざんだったよ」 
 黒沼は取り巻きとの談笑を継続したまま、杯だけを突き出してきた。進は、恭順の笑顔を絶やすことなく盃を満たす。
 その時、数人の女子社員が華やかな服装でお酌に現れた。進を見向きもしなかった黒沼が、彼女らに視線を移し、無造作に盃を逆さまにした。進は、残りの一滴を振り落とす黒沼の手を視界の端にとらえながら、静かに、引き下がった。
「あなた、どうしたの!」
 妻が、深夜に進の異様な呻き声で目を覚ましたらしく、心配そうに覗き込んでいる。
「ああ、だいじょうぶだ……」
 進は、未だ春先の寒い季節だというのに、全身汗まみれになった身体を起こし、妻にだけは話せない悪夢を思い出していた。
 不眠が続いている。このままでは危ない。このところしょっちゅう見る悪夢、原因はわかっていた。
「眠れそうにもない、リビングのソファで少し休んでみるよ」
 進は重くなった下着を着替え、よろよろと階段を降りていった。リビングに通じるホールの時計は三時を指していた。
 ソファでまどろんでいると、またあのおぞましい光景が現れた。邪悪な生き物が足元から這い上がり、次から次へと襲いかかってくる。必死に闘おうとするが手足が思うように動かない。内臓がずるずると引き千切られていく。ハッとして目を開ける。恐る恐る、びっしょりと濡れたシャツをめくり上げる。腹一面が蜂の巣になっている。ところどころの穴からはソファの生地が覗いている。これは夢ではない! だが、不思議なことに、血は一滴も流れていない。夢と現実が極限の中で交差する。身体の熱とは裏腹に、噴出す汗は冷たい。凍るような戦慄が襲ってくる。呼吸が苦しい。鼓動が緩慢になってきた。徐々に、自分が崩壊していく姿を俯瞰し始めた時だった。温かな感触に包まれた。気がつくと、妻の手が肩にあった。獣の断末魔のような声が聞こえたという。
「大丈夫? 会社、辞めたっていいのよ――」
「ああ、大丈夫だ。ちょっと疲れただけだ……」
 ありがたい言葉だった。妻はすべてを知っているのかもしれない。
 すでに家族のための闘いは終わっている。ではなぜ闘い続けるのか。人生は後戻りができない、というのもある意味真実だろう。だが極限を超えると、闘いは自分の中に萌芽し、敵は己となる。闘って、闘って、死んでいけるならば本望だと思った。十分に功成し遂げたボクサーが、死闘に終止符を打たないこともある。それは、そこに追い込まれた者だけが嵌まり込む、悪魔の迷路かもしれない。
 進は、心だけでも原点に帰ることができる渓流釣りにのめり込んだ。幻の大岩魚は、進の中で、益々大きな存在となっていった。
 渓谷は、至る所に蛇が生息している。進はそれほど気にならなかったが、黒沼が取り乱したのも分かるような気がする。それでも、毒蛇の脅威は、最後までつきまとった。
 大菩薩峠の山々が、人の侵入を拒むようにそびえている。稜線から湧き出した霧が、まるで滝のように、山肌をゆっくりと落ちていく。足元を覗き見ると、渓谷の底には龍の背のような川の筋が、岩間を縫うように蛇行している。
 秘湯へと向う小径のわきから、渓谷の底へと下りていった。山人が踏みつけた細い道が、鬱蒼とした樹林の斜面に延びている。昼なお暗い原生林を、木漏れ日を頼りに、足を進める。
 葦の茂みを抜けると、岩間を走る水のきらめきが飛び込んできた。
 落ち込みの下流から巻き返しにラインを流していた時だった。目の前の信じられないような光景に凍りついた。うねる尻尾、揺らめく波紋、その中心から不気味な模様の蛇が鎌首をもたげている。冷たく光る目が進を射抜く。人間に向う蛇はマムシに違いなかった。目線を外さず、川底の石を一歩一歩後退った。川岸にたどり着いた時は、全ての精気が吸い取られていた。
 だが進は、ひるまなかった。この川のどこかに、あの毒蛇をもひと呑みにする大岩魚が、必ず棲んでいる。
 魚止めの大滝があるという岩場の急流はあきらめ、毛ばりを打ちながら、下流へと向った。開放的な平瀬に魚影は薄く、当たりは嘘のようになかった。間もなく、砂防ダムの堰堤にせき止められた満々とした川面の広がりが見えてきた。
 岸辺に老人が一人、ゆったりと折りたたみ椅子に座っている。緊張感のない竿から釣り糸が垂れ、ただウキを眺めている。時おり老人は手を振りかぶり、川面に何かをばら撒く仕草を見せた。釣堀の鯉釣りと間違っているのだろうか。苦笑しながら近づいていった時だった。進の足が止まった。座ったままの老人が握る竿が弓なりになっている。老人は慌てるでもなく、水中を右往左往する黒い影を足元に引き寄せた。タモ網に掬い取られた魚は、二十センチを超える岩魚だった。なぜか鼓動が速くなる。老人は何事もなかったように、岩魚をわきの大きなアイスボックスに放り込んだ。老人はこちらを振り向きもせず、瓶からイクラを手の平に取り出すと、器用な手つきで川面にばら撒き、その一粒を針に通した。
 再び老人はウキを見つめる。待っていたかのようにウキが沈む。老人が竿を合わせる。岩魚は面白いように釣れてきた。鼓動は尚も速くなる。イクラの釣果は誰しもが認めるが、入れ食いのように釣れることが不思議だった。
 進はしゃがみ込み、老人と同じ目線で川面に目をやった。水面下に見えてきたのは、驚くべき光景だった。たくさんの赤い粒が水中を舞い、針を呑んだ一粒のイクラを見極めることはできない。その中で、数え切れないほどの魚影が狂ったように、紅い誘惑をむさぼり合っている。進は唖然となった。どこかで見た光景だ。
 その時、一瞬息を呑む。まるで川の底が動くような大きな影が現れた。仲間が落ちていく蟻地獄を一瞥するように、上流へと消えていった。あれは、もしかして――。
 家に帰り、妻に浮き釣りの老人の話しをした。
「あなたも還暦を過ぎたら、その釣り方にしてね。約束よ」
 職場の山岳クラブに所属していた妻は、渓谷の危険性を、身をもって知っているのだろう。

 4

 定年まで残すところ一年となったある月曜日のことだった。
 突然、品川本社から社長がやってきて、緊急会議が開かれた。なぜか黒沼の姿だけが見えない。
「皆様に重要なお話しがあります。黒沼さんが緊急手術のため入院しました。当面は各部門長による集団管理体制で運営してください」
 詳細は家族の希望で伏せられ、会議はわずか五分で終了した。
 その後、新たな体制の中で、黒沼は忘れられた存在となった。車椅子姿を見たという噂もあったが、進が定年退職するまで、確かな消息は伝わってこなかった。
 自説を曲げない黒沼は、役員会では一人浮いた存在だったらしい。そのストレスが病を誘発したとも考えられる。蛇が怖いと、弱点を曝け出した黒沼。たった一人黒沼だけが仮面をつけていなかったとしたら、彼だけが進の本性を見抜いていたのかもしれない。意外なことに、黒沼の失脚は、進に一ミリの安堵ももたらさなかった。仮面で切り抜けてきた自分とは違い、実は黒沼が最もピュアな人間だったのかもしれないと、ふと思った。

 定年後に訪れるという第二の人生は、幻想に過ぎなかった。
 ボランティアの日々はささやかな安らぎをもたらしたが、隙間風が吹き込む心の空洞を埋めることはできなかった。
 進はふと、忘れていた釣りを思い出した。
  白髪も増え、同輩の釣り人が激流に呑み込まれる事故が相次いでいた。あの安全な釣り方であればと、妻も賛成してくれ、懐かしい大菩薩嶺に出かけることにした。
 納戸の隅で埃をかぶった釣り竿を磨き上げ、釣具屋で釣堀用のウキとイクラの瓶詰めを求めた。
 記憶にある渓谷を、わきの木立につかまりながら一歩一歩下っていく。想像以上に脚力が衰え、あの時と同じ斜面とは思えないほどの苛酷な闘いとなった。
 背中の汗が冷え始めたころ、見覚えのある砂防ダムにたどり着いた。記憶の場所は相変わらず深く淀み、誰も見たことのない異界への入り口を彷彿とさせた。
 堰堤にせき止められた広々とした湖面に差し込む陽光も、鬱蒼と茂る木々のざわめきもあの日と同じだった。変わったのは釣り人が落す影だけなのだと思った。
 進は岸辺で、妻が買ってくれたアルミ製の折りたたみ椅子に座る。確かに、闘いが終わった兵士には、この釣り方が相応しいようだ。
 初めて試すウキ釣りの仕掛けを取り出す。瓶のイクラの半分ほどを、目の前の淀みに放った。川面に一瞬、朱の大輪が広がり、光が届かない世界にゆっくりと落ちていく。進はその中心に、針を呑んだイクラをぎこちなく放った。ウキが作る波紋が、傾きかけた太陽の光に輝いている。進はやっと、闘いは終わったのだという解放感に浸った。
 突然、穂先から魚信が伝わり、現実に引き戻された。ウキが水中を走り始めた。岩魚がかかったのだ。その時だった。
 水底から、ざわりとする気配が漂ってきた。川底を透かして見る。狂喜乱舞する夥しい数の魚影が目に飛び込んできた。わずかな報酬の多寡に我を忘れた日々が蘇る。封印したはずの忌まわしい記憶が、泥水をかぶるがごとく襲いかかってきた。
 進は立ち上がった。釣れた岩魚を放流し、イクラも、すべてを川面にぶちまけた。
 進は竿と毛ばりのラインだけをリュックに詰め、何かに急かされるように、魚止めの滝を目指した。渓谷が深くなるにつれ流れは速く、切り立った岩盤が行く手を阻む。装備が甘いのは承知の上だ。斜面に突き出た大きな岩に片足をかけた時だった。岩がゆっくりと沈み始めた。その下は激流だ。若いころにはあり得ないミスだった。進は渾身の力で岩を蹴った。岩は崩れ落ちたが、寸前のところで斜面の蔓を握った。
 向こう脛から生温かいものが滲んできた。裂けた手の平から血が滴る。だがあの時の、抉られても血の出ない傷よりは遥かにましだった。いや、戦場に送り出す妻のほうが、辛かったのかもしれない。進はとり憑かれたように遡上する。
 渓谷の落日は早い。岩を登る力は尽きた。背丈を超える藪をかき分け、毒蛇が潜む岩陰を迂回する。蜘蛛の巣が顔にかかり、何かが首筋を下りていく。脳裏に浮かんだ妻の顔が、もう止めてと叫んでいる。
 幻の大岩魚を追いかけながら仕事は終わった。だが進は、燃え尽きない何かを抱えてきた。進の中で、本当の闘いはまだ終わっていない。仕事は虚構のままで終わっても、せめてそれを支えた幻の大岩魚の存在を証明しない限り、自分の人生は虚構を嘘で塗り固めたようなものだ。
 あの幻の正体は何だったのか、今はおぼろげながらにわかる。仮面に隠れた自分が、本当はどれだけのものだったのか、どうしても知る必要があった。それは最強の岩魚と言われる主を、この目で確かめるしかない。
 必ずいる、渓流の主は必ずいるはずだ。撒き餌に目が眩む愚かな岩魚ではなく、あらゆる修羅場を潜り抜けた本物の主が。その主を見届けた時に初めて、自分の闘いが終わるのだと思った。
 辺りはすっかり暗くなった。頼りは川面に浮ぶ月明かり。ずぶ濡れの足は鉛のように重い。時おり岩魚が羽虫を捕らえる水音が響く。川の瀬は徐々に深くなり、腰まで浸かる流れが体温を奪っていく。ふと、川面を二匹のホタルが近づいてくる。あの揺らめきは、血の臭いを嗅ぎつけたいつかのマムシか。進の目をとらえ、語りかけてくる。「お前が求める川の主などはどこにもいない。この世はみな撒き餌に群がり、運がいい者だけが太っていく。お前もそれを貪った一人だ。大人しく餌を撒く側に回れば、こんな死の淵をさまようことはなかった。周りを見ろ。行き場のない怨霊たちが、お前が魚腹に葬られるのを待っている」進は瞳を凝らした。波間に見え隠れする見覚えのある顔が、空洞のような目で見つめている。ふと目を落とす。川面に揺れる能面のような顔。これが己の本性なのか。「違う! 俺は魂までは売っていない」進は叫ぶ。「お前の汚れ切った魂など、今さら誰が喰らうか」揺らめきがあざけりの牙をむく。「それは承知だ。報いを受ける覚悟はできている」「権力の道化師が偉そうなことを言うじゃないか」揺らめきが距離を縮める。「俺はもうあの時の俺ではない。川は俺の世界。立場は五分と五分。お前こそ、丸腰で闘う勇気はあるのか」――いつの間にか、揺らめきは消えていた。進は、胸まで押し寄せる流れに向った。いよいよ意識が朦朧としてきた時だった。肩に、華奢な手の感触を覚えた。振り向くと、背後の渦に、つるりとした頭部が笑っている。夢中で手を差し伸べる。流木が、何かを語りながら遠ざかっていく。「さあ、証明してみろよ。あんたが何者だったのかをさ」思わず叫んだ息子の名前が、流れにかき消されていった。
 精魂も尽きて、睡魔が襲い始めた時だった。闇を突き破るような滝の音が聞こえてきた。滝口は天に届き、岩に囲まれた滝壷に月光が落ちている。主も、闇を支配する月の光りを疑うことはない。必ず姿を見せる。進は千載一遇の瀬頭に立った。喰らいついた瞬間、狩りの立場は逆転する。それでもいい、あの虚構の日々に別れを告げることができるのであれば……。
 進は渾身の力を振り絞り、流芯を狙い、毛ばりを打った。ラインが月光を反射し、風のように伸びていく。微かに、着水する毛ばりが見えた。その時だった。
 闇に沈む漆黒の淵が盛り上がった。不気味な陰影が弧を描くように走り、一直線に毛ばりに向った。進は、残された最後の力で、川底の足場を固めた。一瞬の勝負。穂先が見る見る水中に引き込まれていく。想像を絶する力だ。川水をしたたか飲み、あわや滝壺に吸い込まれようとする寸前、主は、消えた。
 ずぶ濡れで帰ってきた進を見た妻が懇願した。
「もう釣りは止めて。あなたは十分頑張った。そのおかげで、今でも世界の子供たちの命が救われている」
 熱いものが込み上げてきた。世界に最高品質の医療機器を届けるという使命。それが内部の熾烈な競争を生み出すという宿命。忘れてきた大切なことを、妻が初めて気づかせてくれた。
 川面を境とした虚構と真実の世界。本当の主の姿はついに見ることができなかった。それで十分だと、自分を納得させた。
 川の主のことは、夢の中の記憶となった。

 5

「あなた、その最終日のホテル、覚えてる? もう一度一緒に行きたくて予約したのよ」
 進は妻の声に急速に現実に引き戻された。再びパンフレットに焦点を合わせる。見覚えのあるホテルだった。
「覚えているよ。確か部長になった時、おまえがお祝いだと言って、一緒に行ったところだね……」
 そこまで言って進は、初めて当時の妻の心境に触れたような気がした。長いサラリーマン生活の中で、たった一つの妻との思い出。
 男の戦場という舞台の裏で、妻は何を考え生きていたのだろうか。闘いの痛みに隠れ、自分から妻に優しい言葉をかけた記憶はない。妻は何を想い、日々何に喜びを見出していたのだろうか。今、死期を前にして、初めて思い至るとすれば、あまりにも悲しい。

 妻に旅のすべてを任せて旅に出た。
 稲刈りが終わったのどかな田園風景は、確かに進の心を和ませるに十分な温もりを持って迎えてくれた。
だが、昔は心を躍らせて眺めた川の流れや、それぞれの生活が粛々と営まれているに違いない茅葺屋根の連なりも、見れば見るほど自分にはその後につながる希望がないということを鮮明にさせるだけだった。それは覚悟の上だったとはいえ、見納めという言葉がどれほど残酷なものかを思い知らされた。ただ、薬のせいか、痛みが和らいでいることだけが、救いとなった。
 妻もそんな進の心を察してか、いつもは率直に驚きや感動の言葉を発するのだが、穏やかな顔の中にも言葉は少なかった。
 紫色に霞む稜線がわずかに朱に染まり、梓川の川面がきらきらと輝くころ、二人は最後のホテルに着いた。ログハウス調のホテルは、全体の彩りは時の移ろいを曝していたが、かえって温もりを増したように見える。
「あら、ハーブが以前より増えているみたい、良かった!」
 妻がハーブ園の変わらぬ姿に感動し、やっと元気な声を上げた。
 ロビーに入ると、コーナーにハーブの鉢植えが置かれており、優しい香りを紡ぎ出していた。
 正直なところ、進がハーブの香りに浸ったのはこれが初めてだった。急ぎすぎた人生だったのだろうか……。改めて見過ごしてきたものの重さに驚いた。
 夕食となり食堂に入ると、南に面した広い出窓があった。十七年前の記憶が蘇ってきた。様々なハーブが植えられたテラコッタが並び、まばらな客たちを歓迎していた。
「ここもあの時のままね、あなた覚えてます?」
「ああ、白焼きの鉢だけはね」
 進は小さな笑みを作り、正直に言った。
 妻はあの時と同じように、他の客に交じりハーブの香りを楽しんでいた。
 進はふと、隅に置かれた葉っぱが茶色に変色した鉢植えに目がいった。レモンバームと表示されている。すでに人を惹きつける香りがないからか、誰も近づく者はない。
 進はなぜか、今にも涸れ落ちそうなその姿から目を逸らすことができなかった。そっと、生命が昇華したように見える葉っぱに触れてみる。葉っぱは音もなく散り落ちた。
 その時、水差しを持った年配の女性が笑みを浮かべながら進のわきに立った。
「ああ、これ、可哀想ですけど、春にはまた芽を出し生い茂ってきます」
 女性は慈しむように、水を土に滲みこませた。
「そうですか、枯れてもまた生き返るのですね……」
「いいえ、これは枯れているのではないのです。ハーブは奥の深い植物です。長年育てていると、枯れるとか終わりという観念がなくなります。輪廻転生とでもいうのでしょうか、誰かが望む限りハーブは永遠に生き続けていくのです」
「あら、珍しいわね。花や植物になど興味を示さなかったあなたが、ハーブのお話に耳を傾けて――」
話が聞こえたのか、妻が近づいてきた。女性は小さな笑みを残し、去っていった。
 妻が進の目の前の、枯れ落ちようとするレモンバームを見つめている。無言で瞬きをする妻の目が、光っているように見えた。
 進は妻に何かを言おうとしたが、言葉が浮んでこなかった。
 その場を去ろうとした時、妻が驚いたように口を開いた。
「あの釣り竿、誰が使うのかしら?」
 妻の視線の先を見て、進も目を見開いた。使い込んだルアー竿が二本、壁に掛けてある。それは、封印をした記憶。進の鼓動が、わずかに速くなった。
「お客様、ラストオーダーの時間となりました。何かご希望のものがあれば」
 夕食が終わり、ウエイターが穏やかな笑みを浮かべ、テーブルのわきに立った。
「あなた、何にします。私、コーヒーをいただくわ」
「ああ、俺は十分いただいた。何もいらない」
 すでにコーヒーは受けつけなくなっていた。楽しい食事ではあったが、何かでラストを飾るという気持ちにまでは至らなかった。
「コーヒーをお一つですね。少々お待ちください」
 ほどなくしてウエイターが、トレイにコーヒーカップとそれより一回り小さなカップを載せて現われた。
「これはマスターからの気持ちです。レモンバームのハーブティーです。飲まれなくてもけっこうです。香りだけでも奥様とお楽しみください」
 小さな水色のカップが、テーブルの中ほどに置かれた。初めて出逢ったような香りが、柔らかく漂った。
 進はハッとしてカウンターを振り返った。最初に気づかなかったことを恥じた。抗がん剤で変わり果てた相貌、十七年の歳月を経てもなお、マスターは覚えていてくれた。
 マスターが一つうなずくと、爽やかな笑顔を送ってきた。美しくも力強く刻まれた皺が、彼の人生を物語っていた。
 黒々としたリーゼントは白髪に変わり、顎には品のいい髭が蓄えられていた。目の奥にあった鋭さは消え、すべてを包み込むような穏やかな光が湛えられている。
 ふいに、言葉が口をついた。
「あのルアー竿、あれはもしかして――」
「はい、私たちのものです。今はこの辺りは全面釣り禁止ですが、昔は私も、取り憑かれたように梓川の魔物を追いかけておりました」
「魔物……」
「まあ、仲間内の愛称ですけど、誰も姿は見たことがない。このホテルによく来ていた女性が川で水遊びをしていた時、熊に襲われました。脚に障害が残りましたが、奇跡的に命は助かりました。仲間の話では、何かが熊を淵に引きずり込んで行くのを、確かに見たと」
「何か、ですか……」
「川の主とでもいうのか――。もしかして、お客様も釣りを?」
「ああ、――はい」
「主人は、趣味を通り越して、まるで仕事に行くように――。一度は命を落としそうになって……」
 妻が、懐かしくも、寂しそうな表情を見せた。
「釣り師はみな同じですよ。釣りはロマンというより、見えないものとの闘いでしょうか。でも心のどこかで、川の主は誰の針にもかからないことを祈っている。もしかしたら、川の底で息を潜めているのは、何かを追い求める者が作り出した幻想なのかもしれません。実は、その女性は私の妻でした。余命を宣告された体で、最後まで一緒に、幻の怪魚を追い続けました」
「そうでしたか、それはお気の毒です……。それで、奥様は助けてくれた魚を釣り上げようと――」
 妻が、愁いの目のまま首をかしげた。
「ご主人なら分かっていただけると思いますが、主の本当の姿を見るには、残念ながら針にかけるという残酷な手段しかないのです」
「私も分かるような気がします。大切なものだからこそ自分の手にかけたい、という気持ちは、私も息子のことで何回か経験しました」
 妻が目を細め、静かにうなずいている。
「妻は足を引きずりながら、額に汗を浮かべ、渓谷を遡上しました。主に逢いたい、逢ってお礼がしたいという気持ちがそうさせたことは間違いありませんが、同時に、私と一緒に最後まで、一本の道を歩いて行きたいという希望があったのだろうと思います。けれども妻は、かけがえのないものに遭遇できないまま、旅立って行きました。でも妻は、あのロッドの中で生きております。何かを慈しむ心を忘れない限り、命は永遠なのです」
 マスターが、愛おしむように竿に目をやると、進に柔らかな笑みを向けた。
 ふいに進の脳裏に、月光の滝で遭遇した巨大な影が蘇ってきた。あれは夢ではない――。自分にはまだ、やり残したことがある。もう一度、あの滝に行ってみたい……妻と一緒に。主に遭遇することはもう無理かもしれない。それでもいい。せめて最後に、太陽の光の中で、自分が追い求めてきたものが棲む世界を一緒に見ることができれば。そして、息子にも伝えてもらいたい。自分も、偽りのない世界で、命を懸けようとしていたことを……。これでやっと、安らかに人生を終わらせることができると、進は思った。
 また明日から希望の日々が続くようなときめきが、進の胸を突き上げてきた。レモンバームの香りが、心地よく全身に染み込んでくる。進は心の中で、これまでの妻への感謝を噛み締めていた。
「あなた、よかったわね、ここに来て」
 良子がそっと、進の手の甲に手の平を添えた。
「ああ、すっかりリフレッシュできた。また明日から頑張らなくっちゃな」  
「ぇ、……そうね、明日は白馬の景色を見ながら帰りましょう」
 二人はあの日に戻ったように、笑顔を交わし、立ち上がった。

(了)
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